第二百十九話~奇襲の顛末~
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第二百十九話~奇襲の顛末~
家臣に命を出した後、義頼自身も動く事も考えたが結局はこの場に留まっていた。
これはもう戦場と同じであると判断し、本陣とも言うべき場所を此処に敷いたのである。 その周囲には馬廻り衆や藍母衣衆が揃っており、尚更戦場の様であった。
そんな中、義頼の元へ情報が上がってくる。 その情報に対し、的確な対応をして行く。 しかしてその情報から、未だに襲撃が続いているのが分かる。 すると、それを証明するかの様にたまさか火柱が上がる。 しかし間隔が大分空き始めており、徐々にだが鎮圧されている事も推察できた。
その為か、この場に漂っていた緊張感も大分和らいでいる。 しかしその時、やや離れたところから、戦いの気配の様な物が感じられ始める。 そればかりか、微かに剣撃の様な音も聞こえ始めた。
「……高虎! 馬廻り衆を出して、様子を探らせろ」
「はっ!」
馬廻り衆筆頭の藤堂高虎は、旗下の馬廻り衆から半分を馬淵建綱の嫡子である馬淵宗綱に預けると、斥候を命じる。 そんな馬廻り衆を見送った後、義頼は泰然と構えていた。
それから暫し、異常が感じられた方角とは真逆の報告からも戦いの気配が感じられる。 そちらを警戒すると間もなく、幾人かが近づいてくるかの様な気配を義頼と藍母衣衆も感じる。 そこで直ぐ、藍母衣衆が動いた。
先ず義頼の近くに居た北畠具教が、刀を一閃する。 直後、地面に何かが転がる。 それは、北畠具教の手により両断された小柄であった。
同時に柳生宗厳が飛び出したかと思うと、少し離れた繁みに対して刀を一閃する。 その途端、繁みより血しぶきが吹き上げたかと思うと、両断された人体が零れ落ちたのである。 だがそれだけに留まらず、他にも数名が襲い掛ってきた。
しかし義頼の周りに居るのは、当代きっての豪傑ばかりである。 上記の二人の他に雲林院松軒に可児吉長、北畠具房などと言った者達。 更には、吉田重綱につい先ごろ藍母衣衆に加入した新免無二など錚々たる面子なのだ。 とてもではないが対抗などしきれるものではなく、襲撃者達は突破など出来ずに討ち取られていく。 その他に馬廻り衆もいるのだから、これ以上義頼へ近づくなど無理な話であった。
また、義頼自身もこの争いに参加している。 と言っても、別に接近して直接刃を交えている訳ではない。 襲撃者達の僅かな隙を見つけては弓に番えた矢を放ち、母衣衆や馬廻り衆の牽制を行っていたのだ。
そんな義頼の補助もあってか、敵の悉くが討ち取られてしまう。 馬廻り衆の一人、田原武久に討ち取られたのを最後に、襲撃がはたと止む。 どうやら凌いだと判断した義頼だったが、念の為と馬廻り衆に周囲の巡回を指示する。 その命を受けた藤堂高虎は、馬廻り衆を幾つかに分けて見回りを命じた
それから間もなくした頃、馬淵宗綱が戻ってくる。 否、彼ばかりではなく鵜飼孫六や鵜飼源八郎などの鵜飼一族も戻ってきた。 更に反対の方向から、藤林保豊などの忍びらも戻ってきた。
つまり最初に感じた戦いの気配は、鵜飼孫六らと敵との会合だったのである。 更に後で感じたもう一つの戦いの気配は、藤林保豊らが敵と相対した為に起こった物である。 最後に藍母衣衆によって討たれた若干数は、藤林保豊らを突破した者達であった。
「保豊、孫六。 敵と相対した様だが、正体は分かったか?」
「残念ながら殿。 身元が分かる様な物は、一切持ち合わせておりませなんだ」
「やはりか……予測はついているが、証拠がなくては追及もままならぬな」
義頼は前述した通り、今回の襲撃は毛利家の忍び衆である外聞衆であると判断している。 しかしながら、宇喜多直家の時の様な証拠となる物がなくては追及は難しいのだ。 それでも念の為にと、調べを継続させる命を出す。 だが、先ずは見つからないだろうとも判断していた。
ふと気付けば、何時の間にか火柱などは全く上がらなくなっている。 そればかりか、少しづつであるが静かになっている風にも感じられるので、襲撃そのものが収束に向かっていると義頼は判断する。 だが、このまま警戒を続けた方が良いと判断して夜が明けるまでの警戒を続けさせる。 同時に並行して、何か相手を特定させるものはないかとの調査も引き続いて命じたのであった。
明けて翌日、辛くも奇襲と襲撃と言う虎口より脱した義頼は、昨夜の損害についての報告を聞いていた。
結局、夜が明けても再度の襲撃はなかったので、警戒の度合いを下げると彼自身も一眠りしている。 二刻程眠ってから起きた義頼は、湯漬けを流し込んでから昨夜の報告を読み始めた。
その報告によれば、大砲のそれも口径の大きい砲ばかり狙われている。 だが幸いな事に、襲撃によって受けた損害は忍び衆の働きによってかなり抑えられていた。 特に、輜重には殆ど被害がない。 伊賀衆や甲賀衆らが、必死に義頼の命を遂行した賜物であった。
代わりに被害を被る事となったのが、口径の大きい砲と言う訳である。 ただ、新型である口径の小さい砲は見逃されたのか損傷はほぼない。 襲撃を受けた大砲が破壊されたあおりで壊れたぐらいであった。
ところで何ゆえに見逃されたのかと言うと、その理由は毛利勢が受けた被害の差であった。 何はともあれ、毛利勢が多大な被害を被ったのは大型の大砲である。 故にそちらが目標として優先された結果、新型でも口径が小さい砲は見逃されたと言う次第であったのだ。
「ふむ……輜重が無事だったのは何よりだが……大砲の損傷が痛い事に変わりはないか」
「申し訳ありません」
「何を言う。 甲賀衆も伊賀衆も良くやってくれた。 感謝しておるぞ」
『ははっ』
継戦能力を考えれば、輜重の重要度は高い。 ましてや西国は、まだまだ毛利家の影響力を侮る事など出来ないのだ。 警戒しすぎかもしれないが、つい近々まで敵地であった事を考えれば無駄とは思えない。 その点を鑑みても、輜重の確保は大事であったのだ。
だが、この襲撃によって一つ考慮せねばならない事が出来てしまっている。 それは、山陰への派兵であった。
そもそも義頼は、今回の備中高松城救援の後に旗下の軍勢を分けて山陽と山陰からの進撃を計画していたのである。 しかもこの計画は、東で起きた北條家と甲斐武田家と越後上杉家の挙兵がなければ当の昔に履行された筈の作戦なのだ。 その際、山陰へと向かう軍勢には新型の砲を持たせるつもりだったのである。 だが、手持ちの大砲に予想外の損傷が出てしまった事で、若干の懸念が生じたと言う訳なのだ。
そもそも、口径の大きい大砲は入れ替えを考えていた。 当初の予定では砲身の命数にまだ余裕があったので、もう少し後にするつもりだった。 だが、此度の襲撃とそれに伴い被った損傷で急遽前倒しをする形である。 既に使者を派遣しているので、そう遠くないうちに完成している物から順次送り出される予定であった。
だが、大砲が揃うまでにはいささかに時間が掛かるのもまた事実である。 その点も踏まえて、義頼は沼田祐光と小寺孝隆を呼び出して意見を聞く事にする。 ただ、自身の考えでは派兵は予定通りに行った方が良いと考えてはいたが。
何であれ二人を呼び出して意見を聞いたと言う訳だが、先ず沼田祐光の返答は大砲が揃うまで待つべきだと言う物である。 彼にしてみれば、万全の態勢で毛利と、ひいては小早川隆景と相対したいと考えている。 だからこそ、砲が揃うまでは自重するべきだとしたのだ。
そして小寺孝隆だが、彼は少し考えてから沼田祐光の意見に同意する。 その様子に、何か懸念があるのかと義頼が問い掛けると、少し逡巡してから言葉を返した。
「その……随分と直接的な気が致しまして」
「どういう事だ?」
「慎重居士とまでは言いませんが、小早川隆景は策を巡らせた上で事に当たります。 それに引き換え、先程の襲撃はあまりらしくないとそう感じたのです。 しかし、所詮は違和感程度でしたので、より確実と思える上野之助(沼田祐光)殿に賛同したのです」
「違和感……か」
小寺孝隆の物言いに、義頼も思案顔となる。 確かに言われてみれば、直接的すぎる様に思える。 これが吉川元春あたりであれば、不思議に思わないかも知れない。 しかし義頼は、明確な証拠がある訳でもないが、此度の襲撃を主導したのは、小早川隆景だと確信している。 その点を考慮してみると、あの毛利元就の薫陶を受けた男にしては短絡的な行動に見えてきたのだ。
それでなくても毛利家は、吉川元春を大将とした援軍を河野家に送っている。 本来ならば山陽は小早川隆景の領分なのだが、備中国で三村家に同心する国人の騒動が起きた事でそうも言ってられなかったのだ。
その様な事もあって、毛利家当主の毛利輝元が備中国まで出張ったのである。 また、備中国で騒動が起きた事で、備後国の鞆に居た足利義昭の要請もあったと言う。 なおその足利義昭だが、それまで在住していた備後国の鞆から長門国にある大寧寺へと移動していたのであった。
閑話休題
確かに、小早川隆景が行ったと思われる此度の襲撃をも考慮すれば、沼田祐光が言った通り砲が揃ってからの方が確実と言える。 先程も述べた様に、少し待てば義頼の軍勢に大砲は揃う。 ならば、多少は進撃を伸ばしたからと言って予定が変化するとは考えずらかった。
二人の意見を聞き、自身が考えていた予定通り山陰への進撃を行うと言う考えを翻そうとしたその時、義頼の元に新たな報せが届く。 それは、撤収した毛利勢の動向についてであった。 自身の知恵袋である沼田祐光と小寺孝隆が揃っているのだから丁度いいと義頼は、その報告を確認する。 二人にしても毛利勢の動きは気になるので、否はなかった。
こうして報告を受けた三名だったが、そこには備中高松城より兵を退いた毛利勢が備後国内で三つに分かれている事が記されていた。
先ず一隊だが、此方はどちらかと言えば小部隊であり、率いているのは毛利家当主である毛利輝元である。 彼は呉までは本隊として行動したが、そこで別れるとそのまま毛利家の居城となる吉田郡山城へと向かったと記されていた。
次の一隊だが、こちらは備後国の的場山城へ入っている。 彼らはこの城を本陣とし、大将となる福原貞俊が入城している。 更に、近隣の城に旗下の将兵や備後国の国人衆などを入れていた。
そして最後のもう一隊だが、こちらは小早川隆景が率いている。 彼らは呉にて毛利輝元と別れた後、僅かの間に船を手配する。 内訳は大型の船を主として揃えられているらしく、それは即ち四国への援軍に他ならなかった。
つまり小早川隆景は、義頼の軍勢に奇襲を掛けて大砲を潰して攻勢を弱めた上で、同時に備中国西部の国人や福原貞俊や備後国国人らを使って備中国と備後国にて二重の足止めを画策したのである。 その上で義頼にも手を伸ばす事で、あわよくば織田家の攻勢そのものを出来なくさせようとしたのだ。
そして本人は、その隙を突いて湯築城に籠城しながら吉川元春の支援を受けている河野家への更なる援軍をもって明智光秀と羽柴秀吉の軍勢による四国討伐をも頓挫させようと画策したと言うのが真相であった。
最もこれは次善の策であり、当初は備中高松城の攻防で義頼の軍勢を止めるつもりだったのである。 その様な事を知りはしないのだが、備中高松城での攻防をしつつもそれが敗れたら即座に次の策へと移行している小早川隆景と言う男に対して、義頼はある意味で感心していた。
「……なるほど。 あの毛利元就の息子、此処にありと言ったところか」
「確かに。 「この父ありて斯にこの子あり」とはよく言ったものです」
義頼に同意した沼田祐光の言葉に、小寺孝隆も頷いていた。
とは言え、何時までも感心などしていられない。 早急に、手を打つ必要があった。 だが、打てる手などそうはない。 このまま進撃すればいいのだが、それができる状況ではない。 正確に言えば、進撃したところで直ぐに影響が出る状況にならないのだ。
先ず、備中国をすぐに平定出来る訳ではない。 例え備中国を突破できても、備後国にも防衛戦が曳かれている。 この二つを、幾ら大砲があっても短期間で抜くなど至難の業と言えた。
「こうなっては、残る手は一つか」
「はい。 不本意ですが、山陰へ派兵せざるを得ません」
「で、あるな。 となると、官兵衛(小寺孝隆)にも行って貰うか」
「拙者に、ございますか?」
「うむ。 山陰も侮れぬしな」
「承知、致しました」
明けて翌日、義頼は参集が可能な全ての将を集めると、昨日に齎された毛利勢の動向を告げる。 その上で、山陰への派兵を通達した。 これには、六角家家臣や与力の将問わずにどよめきが起きる。 しかし一部の六角家家臣や与力の将からは、納得ずくの顔色が見て取れた。
そんな彼らに頷いた後、義頼は全員へ派兵を決意した経緯について説明をする。 すると訝し気な顔をしていた者達も、一様に納得した様な表情となっていた。
「……それで左衛門督(六角義頼)殿。 山陰へ派兵する面子だが、以前と変わらぬのであろうか?」
「うむ、兵部大輔(長岡藤孝)殿。 中務少輔(京極高吉)殿を大将とするのは変わらないし、他の面子も変わる訳ではない。 だが、副将として義定を入れる。 更には大砲を扱う者として、杉谷善住坊と彼の補佐で服部甚右衛門を加える。 それと、官兵衛もだ」
新型の口径が小さい大砲を扱う者として山陰へ派遣する部隊を統括させる為、杉谷善住坊と服部甚右衛門を同行させる決定をした。
六角家で大砲と鉄砲を扱う者全てを率いている杉谷善住坊を山陰へ派遣する部隊に付けたのは、義頼が家臣の中で大砲や鉄砲を扱う上で最も信頼する人物だからである。 そして大原義定を付けた理由だが、一つは大原義定が自由に動ける様にとなったからであった。
以前に山陰への派遣を画策した時は、そもそも彼が義頼の軍勢に同行していない。 義頼が命じられた安土城天主閣の建築と観音寺城の大改修を引き継いで安土に居たのだから、それも当然であった。
しかし、今は事情が違う。 大原義定が引き継いでいた義頼の仕事も終わっており、彼は義頼の軍勢に加わっている。 そもそも山陰への派兵は、尼子家の再興と言う側面も孕んでいる。 尼子衆が預けられている以上は、尼子家再興は義頼の仕事でもあった。
とは言え、今は毛利家の侵攻が中心である。 此方を放って、山陰へと言う訳にも行かない。 そこで言わば義頼の代わりとなっているのが、大原義定である。 そしてこれこそが、もう一つの理由であった
大原義定は義頼の甥であり、義頼が六角家当主となるまでは当主の座にあった人物である。 その点からも、義頼の代理としてこれ以上の人物はいなかった。
因みに同じ立場としては六角義治もいるが、彼は大原義定ほどには戦における信用がない。 更には、六角家当主時代の所業もあってその視点からも弟より信用度は落ちている。 ただ最近は、信用度が大分回復しているのがせめてもの救いであった。
「中務大輔(大原義定)に善住坊殿。 それから甚右衛門殿に官兵衛殿ですか」
「ああ。 この四名ならば、問題にはならぬであろうしな」
「まぁ、確かに」
「と言う訳だが、宜しいな中務少輔殿」
「異存はありませんな」
「では、急ぎ準備へと掛って貰いたい。 この派兵は、四国の行方にも関わりかねない。 重々承知の上で行動をして貰いたい」
『はっ』
六角家家臣、与力衆問わずに一斉に異口同音の返事が帰ってくる。 そんな彼らに数度義頼が頷くと、直ぐに軍議が開かれていた広間より将達が出て行く。 彼らは自陣へ戻ると、山陰へと向かう者は行軍の準備を始める。 そして山陽へ残る者もまた、準備を開始したのであった。
義頼が兵を分けて山陰方面へ兵を出したと小早川隆景が聞いたのは、四国へ上陸間近と言う時点であった。
その報を聞き、彼は苦虫を噛み潰したかの様な表情となる。 と言うのも、凡そ打って欲しくはない手段だったからだ。
この事態を避けると言う意味も含めた襲撃が、結果として功を成さなかったからである。 だからと言って、舳先を返すと言う訳にはいかなかった。
援軍については河野家にも話は通っており、此処で踵を返しては吉川勢はまだしも河野家は降伏と言う選択をしかねないのだ。 吉川元春と言う、手土産となる存在が居る事もそれに拍車を掛けている。 この事態を避ける為にも、一旦は合流を目指すべきであった。
「しかし……予想より少なかったと言え、相応に損傷を与えたのも事実。 それでも、義頼は動いたか」
「殿、如何されました?」
「景信。 これを見てみよ」
報告を重臣の桂景信へ見せる。 その内容に、彼は眉を寄せた。 桂景信は、小早川隆景が巡らした策を認識していたのである。 それだけに彼は、いわば事実上の不発と終ってしまった事を残念と感じていた。
因みに桂景信は、毛利元就の忠臣として活躍した桂元澄の四男に当たる人物であった。
何はともあれ、事態はいささか不味い状況下にあると言える。 何せ山陰には今、中心となる人物がいない。 吉川元春が四国で援軍をしているのだから、当然だった。
「如何なさいますか?」
「策を変えざるをえまい。 兄上に、山陰へ戻って貰うしかない」
「となりますると、四国はどうなりまするか?」
「我らが引き継ぐ事となろうな。 まぁ、兄上と話し合ってからだが……結局は、変わらんだろうな」
やがて四国に上陸した軍勢は、休む間を惜しみ進軍を開始する。 向かった先は、当然ながら湯築城であった。 まだこの辺りは河野家の領内であり、邪魔などが入る余地はない。 順調に進軍した小早川隆景は、湯築城近くで一旦駐屯した。
驚いたのは、湯築城を攻めていた明智光秀らである。 まさか、軍勢が現れるなど想定していなかったからだ。 だが、彼らも歴戦の将である。 直ぐに味方の動揺を抑えると、一先ず軍勢を下げる事にした。 今の状態では、敵か味方かも分からない。 その様な状況下では、湯築城攻略など無理であった。
先ずは、敵か味方の判別が先である。 明智光秀や羽柴秀吉は無論、長宗我部元親や三好義継らも忍びを放ったのである。 すると翌日には、軍勢を率いているのが小早川隆景なのが判明した。
しかしその事が、余計に混乱を助長する。 小早川隆景は義頼と干戈を交えている筈であり、その男が何ゆえに四国に居るのかが分からなかったからだ。
だがその疑問も、同日の夕刻には晴れる。 それは、義頼からの書状が届けられたからである。 そこには、小早川隆景が四国へ至った経緯が記されていた。
「……なるほど。 こういった理由か」
「手落ちと言う訳ではないが、此方としては想定外と言いますか」
「まぁ、そう言われるな紀伊守(羽柴秀吉)殿。 一応、対応の手は打っておるようだしのう」
「ふむ。 確かに、日向守(明智光秀)様の言われる通りですな」
羽柴秀吉の代わりにそう言ったのは、玄宥と言う名の僧侶である。 彼は根来寺の僧侶であるが、織田信長の紀州征伐後に紀州を領有した羽柴秀吉に陣僧として招かれていた。 実質は、竹中重治と並ぶいわば軍師であり、彼が羽柴秀吉の説得を受け入れて曲直瀬道三の下で病気療養に入った後は彼がその役を担っていたのである。 つまり、玄宥と言う存在があったから、竹中重治は羽柴秀吉の説得を受け入れ療養生活に入ったのであった。
「暫くは、様子見となろう。 連日の城攻めで将兵にも疲労がたまっているので、丁度いいだろう」
「……大将である日向守殿がそう言われるのならば、否はない」
「うむ。 宮内少輔(長宗我部元親)殿も左京大夫(三好義継)殿も宜しいな」
『承知した』
こうして、四国攻めも終盤に差し掛かっていた明智光秀らも一先ず軍勢を落ち着けたのであった。
戦場が入り乱れています。
ご一読いただき、ありがとうございました。




