第二百十七話~備中高松城~
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第二百十七話~備中高松城~
安土城より出た義頼は、そのまま浅小井城へと入った。
無論、軍勢と合流する為である。 しかしながら、それだけではない。 義頼は、浅小井城である人物と会合を果たしている。 その人物とは、伊賀国で三雲賢持と共に大砲などの改修や改良、更には新規の物を作り出している大窪善兵衛であった。
彼がわざわざ伊賀国を留守にしてまで浅小井城へと赴いたのには、勿論訳がある。 その理由こそが、彼の持参した物であった。 大窪善兵衛がわざわざ持参した物とは、新型の砲弾である。 その話は丁度、義頼が安土城と観音寺城のお披露目を兼ねて安土へと赴いた今年の初めにまで遡る。 新型砲弾である有翼砲弾のお披露目を行った際、義頼は三雲賢持と大窪善兵衛の二人へ火薬によって炸裂する新たな砲弾の構想を伝えていたのは前述の通りである。 その話を聞いた二人はその後、試行錯誤を繰り返してついに形へと仕上げたのだった。
ただ、北條家との戦に赴く為に安土を訪れた時は、最後の試験中であった為に義頼に同行した三雲賢持も報告を上げていなかったのだ。 しかしてその試験も終わりを迎え、いよいよ報告する段となった頃、義頼が東国での戦を終えて西国へ戻る手筈となったのである。 ならばとばかりに大窪善兵衛は、できうるだけこの新型の砲弾を作成するとこうして安土へと持参したのだった。
「……ふむ。 これらが新型の砲弾と言う訳だな。 して、使えるのであろうな」
「勿論にございます。 但し、確実に全て炸裂する訳ではありません。 残念にございますが」
「まぁ、それは仕方なかろう。 そもそも、俺が考え付く切っ掛けとなった新型の馬上筒でさえそうなのだ」
この炸裂する新型砲弾考案の切っ掛けが、火縄を使わずに発砲する馬上筒にある。 より詳しく言えば、馬上筒の発火方法であった。 そしてこの新型の馬上筒も、確実に発砲できる訳ではない。 低い確率ながらも、不発で弾丸が発射されない時があるのだ。 その為、馬上筒を扱う鉄砲騎馬隊は、必ず二丁以上携帯している。 そしてこの馬上筒の発火方法を基本に考案されたこの新型砲弾も、その宿命から逃れる事は不可能であった。
だがその点に目を瞑ってでも、被害をより広げると言う効果を齎すであろう新型の炸裂砲弾には意味がある。 まして、有翼砲弾と言う以前の丸い砲弾よりも命中精度の上がった新型砲弾もある。 この二つの新型砲弾が持つであろう相乗効果を考えれば、決して無視できない事象だったのだ。
だからこそ義頼も提案したのであるし、そして提案された三雲賢持も大窪善兵衛の二人も、己の持つ力を精一杯振り絞って開発に傾注したのだ。
「その馬上筒に関してですが、試行錯誤は続けているのですが……此方もなかなかうまくは行きませぬ」
「そうか。 それもまた仕方なかろうな。 焦るなとは言わぬし、無茶をするなとも言わぬ。 だが、無理はするな。 良いな」
「御意」
「…………ふむ。 それはそれとして、賢持に善兵衛。 その馬上筒の発火方法だが、大砲にも応用できぬか?」
「……ゑ? と、殿。 大砲にでございますか!?」
「ああ。 そうだ賢持。 まぁ、此方も無理にとは言わぬ。 一応、考えてみてくれ」
『は、はぁ……』
いきなりの提案にどう答えていいか分からず、かなり曖昧な返答を三雲賢持と大窪善兵衛が返した。
そんな彼らに笑みを浮かべながらも義頼は踵を返し、自らが率いる軍勢へと戻って行く。 何とも言えない表情を浮かべながら此処で義頼と別れた三雲賢持と大窪善兵衛は、主の率いる軍勢を見送る。 やがて義頼の軍勢が全て動き出して浅小井城から消えると、残された二人も城より出でて伊賀国へと戻って行く。 しかして彼らの表情はと言うと、はっきり言って思案に満ち満ちている。 間違いなく、義頼が大窪善兵衛より分かれる際に言った言葉によるものであった。
そんな三雲賢持と大窪善兵衛はさておき、浅小井城を出陣した軍勢は西を目指す。 途中の星ヶ崎城や浮気城、瀬田城などを経由した後に京近くにて駐屯する。 そこで軍勢を馬淵建綱に任せると、馬廻り衆や藍母衣衆や忍び衆を護衛に京の町中へと入る。 彼らが向かった先は、六角承禎が居を定めている六角屋敷であった。
義頼が兄の元へと足を向けた理由は、情報を得る為にある。 特にこれから向かう毛利の動向に対して、事前に判明してる情報は把握しておきたい。 最新の情報については備前国についてからでもいいとしても、その前に対応できるものはしておきたいとの考えに基づいていた。
「毛利輝元が?」
「うむ。 どうも、備中国まで出張ってきているらしい。 恐らくは、梃入れであろうな」
再会した後で、通り一遍の挨拶を行った後で六角承禎より情報が齎された訳だが、その冒頭で述べられたのが毛利輝元の動向だった。
何と、毛利家の当主が出張ってきているのだと言う。 確かに四国の伊予国へ援軍を送っている状態で、備中国における戦となっている。 この現状を考慮してとの動きであれば、それほど不思議でもない。 それに毛利家にとって幸いと言えるのは、九州の動向だった。
何せ九州では大友家と竜造寺家、それと島津家で鎬を削っている。 この状況で流石に彼らも、西に目を向ける余裕はなかった。 つまり毛利家は、後方に対して警戒をある程度は緩める事ができたのである。 この隙にその分だけ東へ傾注し、どちらかと言えば押されている織田家との戦を互角近くにまで持っておきたいと考えた結果が当主の出陣だった。
だがこれは、義頼にとっても好機である。 此処で討てれば最高の結果であるが、例え討てなくても毛利輝元を退かせるか何かにまで追い込めれば戦況が更に有利となる。 それは、四国における戦線にも影響を与えるだろう事は間違いないのだ。
「ふむ……これは、吉と出るか凶とでるか」
「それは、そなた次第だな」
「ええ」
六角承禎とて、嘗ては六角家当主だった男である。 故に義頼が考えた事は、彼にも想像は出来る。 だからこそ、その様に答えたのであった。
考え込む様な、それでいて不敵ともとれる様な表情を浮かべている年の離れた弟のそんな様子を見ると、六角承禎は偶に考える事がある。 それはもし嫡子の六角義治ではなく、こいつに家督を譲ったらどうなっていたかと言う物だ。
現状の様に織田家に仕える形ではなく、一己の大名として未だに六角家が残っている。 いや、それどころか今の織田家の位置にいるのではないかと言うある意味妄想に近い物ではあった。 だが、義頼が積み上げた実績を考えれば強ち夢想とは言えないかも知れないのも事実ではある。 とは言え、現状は織田家の一家臣であるのだから考えても仕方のない事でもあった。
そんな己の妄想を振り払うかの様に、六角承禎は頭を軽く振る。 そんな兄の様子に気付いた義頼は、不思議そうに首を傾げていた。
「如何なされた、兄上」
「何でもない。 益体もない事を考えていただけだ。 それよりも、直ぐに発つのか?」
「……いえ。 毛利の様子も気になりますが、出立は明日にします。 兵達も、休ませませねばなりませぬし」
「そうか。 まぁ、それもよかろう。 ならば今日は、酒でも飲むか」
「分かりました、兄上」
しかしてその結果は、言うまでもない事であった。
明けて翌日、自分なりに節制したつもりでも弟との酒という事もあってついつい飲んでしまい、宿酔の状態になってしまう。 痛む頭を抑えつつ見送りをする六角承禎に対し、爽やかとも言える笑顔で、見送りをしてくれる兄に対し礼を言いつつ屋敷より離れる義頼と言うのが実に対照的であった。
流石に護衛の任を帯びている同行の者達に、そんな様子は見えない。 そんな彼らと共に軍勢の駐屯場所へと戻た義頼たっだが、ある知らせを受けて驚きをあらわにした。 それと言うのもその知らせの内容が、何と徳川家康の死であったからだ。
彼は織田信長より送られた援軍を率いる北畠具豊との連合で北條家と相対し、そして敗れている。 だがその撤退時に負った怪我がもとで、浜松城へとたどり着いた直後に昏倒している。 しかして徳川家康は、その昏倒から目覚めないまま死亡したのだ。
基本、目覚めなかったのだから食事もとれない。 かろうじて流動食ならば口に流し込めたのだが、如何せんそれだけでは足りない。 結果、徳川家康は、憔悴そのまま命の灯を消してしまったと言う訳であった。
「そうか。 三河守(徳川家康)殿が……そなたはそのまま近江に向かい、上様(織田信長)へご報告に上がれ」
「御意」
報告を上げてきた忍びへ安土城へと向かう指示を出した義頼は、別の者にも命じ甲斐府中に居る織田信忠へも報せを走らせる。 恐らくは既に報告が行っている事が予想されたが、それでも織田家最大の同盟者である徳川家当主の死である。 情報が入った以上、報せを出さない訳にはいかなかった。
同時に、あくまで個人的と言う立場で弔問の使者を出す準備をさせる。 先ずは織田家が動く必要があるので、主家に先んじて使者を出す訳には行かない。 故に織田家の使者が出た後で出せる様にと、事前に手を打ったのだ。
それらの手筈を整え終えると、漸く義頼は京を出立して西へと進軍を再開した。 摂津国を抜け、播磨国へ入る。 街道を西進して、姫路城へと入城した。 現在この城は、改修中である。 戦線がより東に移り、しかも備前国を抑えた状態となっている。 そこで、元々が播磨国制圧の拠点であったこの姫路城を拡張し一大拠点としたのだ。
湊にも近く街道も走る姫路であるから、うってつけである。 城自体は、小寺孝隆の養父となる小寺職隆に任せてあるので裏切られる心配もあまりない。 しかし勿論、監視の網は掛けられてはいる。 その辺りに、抜かりはなかった。
その姫路城へしとしとと雨が降る中到着した義頼と軍勢は、城代職にある小寺職隆の出迎えを受ける。 その後、彼の案内で城に入り漸く人心地ついた。 それから一刻ほど休んでから、義頼は報告を読む。 すると、備中国での毛利家の動向に対する報告がある。 その内容はと言えば、どうやら毛利家は備中高松城に相対する様に何かを作っていると言ったものだった。
始め付城でも建ててるのかと推察した義頼だったが、報告を読む限りそうではない。 城壁と言うにはかなり大きいらしく、もしこれが城の壁ならば一年や二年で完成するような物ではないとあるからだ。 ならば何かと言えば、見当がつかない。 正直に言えば、不気味とも言える報告だった。
訝し気に眉を寄せながらも義頼は、追加の調査を命じる。 どうにも、こう胸騒ぎと言うか嫌な感じがするのだ。 毛利家当主の毛利輝元がでてきているが、実質の兵権は『毛利両川』の片割れとなる小早川隆景が握っているのは間違いない。 その彼が指導して造成している何かであり、とても普通な物とは思えなかったのだ。
とは言え、これに関しては追加の情報が入るか、若しくは現地に到着するしかない。 焦りがないとは言わないが、此ればかりは仕方がなかった。
取り敢えずその一件は棚上げにし、他の書類を処理していく。 何とか夜食をとの声が掛かる前に目途が立った義頼は、そこで仕事を切り上げる。 凝り固まった体を伸ばしつつ庭に面する障子を開けると、雨が止んでいる。 若干曇は残っているようだが、星が見える範囲の方が多かった。 どうやら明日は晴れるななどと考えつつ、義頼は障子を閉める。 そのまま着替えると、眠りについたのだった。
それから数日、姫路城にあって仕事をこなしてから、備前国へと向かう。 やがて石山城へと到着した義頼は、久方振りに甥の大原義定を筆頭とした者達と面会した。 そうは言うが、実際はそこまで長期間離れていた訳ではない。 だが三河国を皮切りに、遠江国に駿河国。 果ては甲斐国と上野国国境と転々と戦場を渡り歩いた結果、かなり離れていた心持となったのである。 その為、義頼は久しぶりの様な気がしていたのだ。
ある種、感慨の様な物を抱いた訳だが、それも僅かな間である。 直ぐに気持ちを切り替えたかと思うと、石山城で面会したのだった。
「義定をはじめ、留守役大儀であった」
『はっ』
「して毛利だが、如何なのだ? 輝元が来た事や何やらをしているについてはある程度聞いてはいるが」
義頼がそう水を向けると、大原義定から視線の促しを受けた沼田祐光が口を開いた。
話は、毛利輝元が備中国へ現れる少し前まで遡る。 実はこの時点で、毛利家は備中高松城を攻めあぐねていた。 そもそも備中高松城は、周りを低湿地で取り囲まれており守りに堅く攻めるに難しい城である。 その様な備中高松城に三村元親が豊富な兵糧と共に入城していた事もあり、士気が異様なまでに高かったのだ。
三村元親や清水宗治と清水宗知の兄弟らは毛利勢に比べて寡兵ながらもよく守り、完全に毛利の軍勢を足止めしたのである。 そうして彼らは、いずれ来る義頼が到着するのを待っていた。 東での戦が終われば、必ず義頼が備中国に攻め寄せる。 その侵攻に足並みを揃えて、反撃に移る腹積もりだったのだ。
そしてこの考えは、毛利家としても予想がつく。 そこで小早川隆景は、一気に決着をつけるべく毛利輝元に出陣を促した。 それに答え、毛利輝元は軍勢と共に吉田郡山城を出陣する。 同時に小早川隆景は、備中高松城より少し距離を置いた辺りで何か工事の様な物を始めたのだった。
「……堤だと?」
「はい。 始めは付城でも建築しているのかとも思ったのですが、あれはどう見ても堤だと報告が」
「堤……堤のう。 何でそんなものを」
「分かりませぬ」
「だろうな。 よし! 此処でどうこう言っていても仕方がない。 現地に向かうぞ」
「御意」
今日は休み、明日出陣する旨を告げ軍議を終了させた。
しかし、翌日の出陣は叶わなかったのである。 その理由は、豪雨であった。 激しい雨である事もさりながら、風も中々に強い。 当然道はぬかるんでしまい、大砲と言う重量物を持つ義頼としては出陣の決断は出来なかったのだ。
この風雨が原因となり、出陣できたのは十日後である。 雨が断続的に降った事もあったが、何より道のぬかるみが行軍を妨げてしまっている。 その為、道が乾くまで余計に時間が掛かってしまったのだ。
漸く通行可能となった事もあり、石山城を出陣した義頼は先ず富山城に入る。 そこで一日兵を休ませた後で、越境して備中国へと進撃した。 斥候として忍び衆を展開させ、毛利家の軍勢や毛利に付いた備中国国人らが居ないことを確認しながら兵を進ませる。 やがて到着した備中高松城の近郊にある鴨庄城であったが、そこから見た景色に流石の義頼も度肝を抜かれた。
そこには備中高松城を塞ぐ様に、堤が築かれていたからである。 高さは四尺から五尺ほどであり、横は一里ほどある堤であった。 しかも報告によれば堤の内側には水が蓄えられており、備中高松城は完全に水没していると言う。 しかも城を囲む様に、高台に毛利勢が布陣している。 これにより、備中高松城に籠る三村元親らは二進も三進も行かなくなっていた。
「…………とんでもない事を考え、そして実行したな」
「恐らく、小早川隆景の策でしょう」
「だろうな祐光。 流石はあの毛利元就の子、と言ったところか。 さて、どうしたものか」
鴨庄城からでは、堤が見えるだけである。 これでは、堤の内側がどのような塩梅となっているかが分からない。 そこで義頼は鴨庄城主の生石中務少輔案内の下で、護衛の者や沼田祐光らと共に辺りが一望できる場所へと向かった。
その後、城主の案内で彼らは、あまり高くない山を訪れる。 その場所は日差山と言い、そこには日差寺と言う寺もある。 その様な場所から眺めると、備中高松城及びその周辺が一望できた。
果たしてそこには、水没している備中高松城が見える。 そして城からやや離れた高台には、毛利勢の陣がいくつも見えていた。
そんな景色を眺めつつ、義頼はじっと堤の方を見つめる。 まるでそうすれば「堤が壊れる」と言わんばかりである。 時折、備中国へ先行して潜入していた忍び衆作成の備中高松城周辺の地図を見やる。 実際の地形と地図の地形を等分に見比べていたが、それだけでは足りないと感じたのかやがて義頼は実際に潜入していた忍びからより正確な情報を得ていった。
それから暫くして、そろそろ戻ろうかとしていた矢先、周囲を警戒させていた忍び衆より急報が入る。 それによれば、此方へと向かってくる毛利勢の一隊があるとの事であった。 その知らせを聞いた直後、義頼は直ぐに撤収する様にと言う。 その命に従い、やはり生石中務少輔が先導して鴨庄城へと戻って行った。
それから暫く後、毛利勢の一隊が現れるが、標的の筈の義頼は尻に帆を掛けてさっさと退去している。 彼らが見つけたのは、もぬけの殻のこの場所と複数の者達が居た痕跡だけであったと言う。
この様に毛利勢から逃れ鴨庄城へと戻った義頼は、日差山の山頂より見た景色を頭に思い浮かべながら地図をじっと見つめ続ける。 その周りには、大原義定や馬淵建綱、沼田祐光などと言った六角家の重鎮が雁首を揃えていた。
彼らは義頼を憚ってか、敢えて口を開こうとしない。 そのうち、義頼が視線を地図より外したので、代表する様な形で大原義定が声を掛けていた。
「して殿、如何なさいますか」
「そうだな…………取り敢えず、堤を壊す」
『はぁっ?』
まるで隣にでも行くかの様な気軽さで言葉を返され、彼らは異口同音に驚きを表す。 その直後、訪ねてくる彼ら家臣に対して義頼は、己の頭の中で考えた事を披露したのであった。
備中高松城近くに存在する高台の一つ、そこに毛利輝元は本陣を構えていた。 その本陣に、軍師宜しく小早川隆景が居る。 いや彼ばかりではなく、毛利家の重臣も雁首揃えていた。
そんな彼らが要る毛利勢本陣からは、まるで湖の様になっている堤の内側が見て取れる。 そしてその中心付近には、完全水没している備中高松城がまるで水面に浮かぶ船の様に鎮座していた。
そんな彼らの表情を見れば、笑みが浮かんでいるのが分かる。 その表情から、もう勝利は決定したと言わんばかりであった。 そんな中、小早川隆景の元にある知らせが届く。 その報告には、義頼を取り逃がしたとあった。
実は先程、義頼に迫った毛利勢を送り出したのは小早川隆景だったのである。 それは、義頼が鴨庄城へと入って間もない頃の事であった。 「織田勢来る!」の報せを受けて警戒を密にした小早川隆景だったのだが、その警戒網に義頼の行動が偶々捉えらえたのである。 すると、すぐさま小早川隆景は部隊を一隊派遣した。 その様な部隊が、日差山近くまで来た頃に警戒中だった義頼の忍びの網に掛ったのである。 しかして結果は、前述の通りであった。
その様な報告を受け、毛利輝元らは各々残念そうな仕草をする。 その中にあって、小早川隆景は平然としていた。 それもその筈で、彼自身捕らえられるとは思っていなかったからである。 その前に、味方の軍勢が発見されると踏んでいたのだ。 しかして、その通りである。 だからこそ、小早川隆景は驚きもしなかったと言う訳であった。
さて残念と言えば残念だった訳だが、今更どうこう言っても始まらない。 何より幾ら義頼とて、この現状にはどうする事も出来ないと言う思いもあり、その一件はそれ以上追及されなかった。
寧ろ、これからどうするかの方が大事である。 言うなれば、備中高松城に籠っている嘗ての三村家の者達を全員人質としているような現状である。 これを手札にして如何なる譲歩を義頼、ひいては織田家から引き出そうかと思案を再開していた。
そんな中にあって、小早川隆景は言い様のない何かに囚われている。 相手は、今まで散々に毛利家を苦しめた義頼率いる軍勢である。 このまま、座して静観するとも思えないからだ。 とは言え、現状で何か有効な手があるとは思えない。 「いささか気にしすぎか」と考え、彼は話し合いに集中するのだった。
一方で義頼はと言うと、早々に動きを見せる。 旗下の軍勢と共に近くの川を越えると、そこに陣を張る。 因みにこの川は、堤の内側に水を流れ込ませた川である。 義頼らが渡河した場所より上流で水を引き入れた為か、水位が下がっており容易に渡河できたのだ。
それはそれとして川を渡り陣を張った義頼は、大砲部隊を展開させる。 以前より使用している大砲を主軸に、その周りを北條家や甲斐武田家との戦で使用した従来の物より口径の小さい新型の砲で固める。 更には鉄砲衆や弓衆、槍衆などを配置して迎撃の態勢を整えさせ様としていた。
当然だが、この様な動きに毛利勢が気付かぬ筈もない。 早速、此方も動きを見せた。 毛利勢が取った手立ては二つであり、一つは軍使の派遣である。 そしてもう一つは、軍勢の移動であった。 義頼が何を目的に動いたのかまでは分からないにしても、敵に対して対応する手筈は整えておかねばならない。 今のままでは素早く動くには、いささか難しいのだ。
それと言うのも毛利勢は、高台に陣を点在させている。 これでは備中高松城に対しては兎も角、義頼の軍勢に対しては不利は否めない。 そこで、ある程度の数を集中させ様と言う意図があった。
そんな両陣営が動きを見せる中、毛利家の派遣した軍使が訪問する。 丁寧に迎えた後、義頼は毛利家の軍使と対面した。 軍使の任を担っていたのは、僧侶である。 そのいでたちと毛利家本隊が出張ってきている事から鑑み、安国寺恵瓊だと推察する。 しかして義頼の考えは、正鵠を射ていた。
「お初にお目に掛ります。 拙僧は安国寺住職、瑶甫恵瓊と申します」
「なるほどな。 貴僧が、安国寺恵瓊殿か。 して某は、六角左衛門督義頼だ。 それで、使者殿のご用向きを聞こうか」
「では、これを」
そう言いつつ差し出したのは書状であり、義頼は広げで内容を確認する。 そこに記されていたのは、講和の条件であった。 主に記されてたのは現状を領国の境とする事と、因幡国に伯耆国は毛利家に従属しているので両国も毛利家の影響下に残す事となっている。 それと現在係争中の備中国は、西側三分の二を毛利家が領有するとも記されていた。
これらが認められれば、備中高松城を解放するとも記されている。 しかし当然だが、その様な条件など飲める筈もなかった。
最も、毛利家としてもこれが全て飲まれるとは思っていない。 最低の線と言うのは存在しており、後はどれだけ譲歩を引き出せるかであった。
その様な毛利家の思惑だが、義頼以下諸将も読んではいる。 だが、受け入れられないという事には変わりはない。 何より目途が立っている状況であり、現時点で受け入れる理由はなかった。
書状全てに目を通し、味方の将達にも開示した後で書状を終わせる。 そして義頼の返答だが、当然だが「否」の一文字であった。
考慮など全く見せないその態度に、安国寺恵瓊は一瞬だけ眉を寄せる。 だが次の瞬間、その様な表情も消えている。 その辺りは外交僧として、幾度と経験した結果であろう。 直ぐに彼は、己の弁舌を持って義頼らを説得に入る。 だが、幾ら懇切に時には脅しの様な言葉を含めてもその態度が微塵も変わる様子はなかった。
そうなると、今度は安国寺恵瓊の方が内心で疑心暗鬼となる。 もしかして「内通者がいるのでは?」と言う思いであった。 何せ義頼は、名門佐々木家の後継家である六角家の当代である。 佐々木源氏こと近江源氏は、それこそ全国に分家や流れを汲むとされる家が存在する一族だ。
実際毛利家中にも、近江源氏の流れを汲んでいる家臣はいる。 元尼子家家臣しかりであるし、元尼子家臣ではない者しかりである。 故にその者らが内通すると言う可能性は、どうしても否定できないのである。 また、そればかりではない。 今の織田家は、一向宗をも膝下に与している。 現在、その様な動きはないが一向宗の門徒となっている家臣領民が動かないとは限らないのだ。
するとその様な内心を読んだのか、それとも偶然か。 直後、義頼が返書を認める故、一先ず帰る様にと促す。 言われた安国寺恵瓊としても、この会談だけで結果が得られるとは思っていない。 無論得られれば最高なのだが、流石にそれは高望みすぎると言う物だ。
取り敢えずお互いに、此度は顔見世だけでもよしとして、安国寺恵瓊は義頼直筆の書状を持って毛利本陣へ戻る事にした。
「それで、宜しいのですか? 左衛門督(六角義頼)様」
「構わん。 どの道、ぶつかる。 戦などない方が良いが、我らの思惑に敵が乗る理由もない。 ならば備中高松城に籠る三村の者達の為にも、早急に蹴りを付けた方が良い。 山陰へ兵を向ける為にもな」
安国寺恵瓊が立ち去った後、見送りかそれとも別の理由からか分からないがじっと備中高松城の方向を見やる義頼。 そんな彼に問い掛けてきた小寺孝隆へ、そう返答する。 それには彼も納得であり、頭を下げてその言を肯定する。 その様な仕草を一瞥した義頼は、再び備中高松城の方向……いやその前に鎮座する堤をじっと眺めたのであった。
備中国での戦となります。
初っ端から大きい戦ですが。
ご一読いただき、ありがとうございます。




