第二百十三話~武田の脱出と要害山城陥落~
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第二百十三話~武田の脱出と要害山城陥落~
小宮山友晴が文字通り命を懸けた奮闘をしていた頃、その戦場を少し離れたところに数人の者達が佇んでいた。
彼らは何をするでもなくひたすらにじっと見詰めていたのであるが、小幡信貞と春日虎綱と山県昌景らに率いられた武田勢が躑躅ヶ崎館に向けて撤退しているのを認めると互いに頷き合う。 すると、彼らの中でもひときわ大きい体格をしたものが小さく口を開いた。
「どうやら、武田は敗れた様だな」
『はっ』
「では、俺は報告に向かうとする。 そなたらは、残り行く末を確かめよ」
『御意』
ほぼ間違いなく彼らを率いているだろう体格のいい男がそう言い動き始めると、他の者達も動き始める。 彼らは、そのまま二つに分かれ、大柄の男について行く者達は南東へと向かい、残りの者はこの地に残る事になる。 そして南東に向かった者達が向かった先、それは小田原城であった。
彼らの正体だが、北條氏政の命により派遣された風魔衆である。 その役目は、武田家が敗れた際に武田信勝の継室となっている北條氏政の妹を助け出す為だった。 戦に敗れた際、女が敵兵にどの様な扱いを受けるかなど周知の事実である。 その様な目に妹を合わせない為に、北條氏政は風魔衆に救出を命じたのだ。
織田家ではそのような乱暴狼藉は許されてはいないとは聞いていたが、所詮敵の話である。 何処まで本当だか、知れたものではない。 それ故の、派遣であったのだ。
しかし武田家が先手を打つ形で女子供を移動させていた為にその心配も今のところは杞憂に終わっている。 そこで取り敢えずは、戦の報告も兼ねて戻る事にしたのである。 だからと言って、北條氏政の妹の行方も確かめない訳にも行かない。 だからこそ彼らは、二手に分かれたのであった。
そして武田勢だが、柴田勝直によって攻められ被害の出ている躑躅ヶ崎館へと入っていた。
その後、小幡信貞と春日虎綱と山県昌景の三人は、武田信勝に面会を申し出る。 直ぐに許可が下り面会する事が叶ったのだが、その場には共に曽根昌世が居た。 何故に彼が居るのかと訝しんだ三人であったが、その曽根昌世より上野国への撤収する旨を聞くと納得する。 そして同時に彼ら三人へ向けて、撤退の為の手筈が説明された。
そして撤退の手順だが、この躑躅ヶ崎館に入る事が先ず第一の目的である。 しかしてそれは既に成功裡を収めているので、策は次の段階へと移行する事になる。 それはこの躑躅ヶ崎館を捨て、全軍で詰めの城である要害山城へと入る事だった。 だがこれは籠城の為ではなく、敵の目を欺くのが目的となる。 真の目的は要害山城に入った後にあり、その日の夜に闇に紛れて城を抜け出す事だった。
だがいきなり消えては、追撃を掛けられてしまう。 そこで追撃を躱す為の囮が、影武者を買って出た武田信友と言う訳であった。
要は彼が囮として要害山城に残り、さも籠城している雰囲気を醸し出して織田勢を引き付けられるだけ引き付ける役目を担うのである。 その隙に要害山城より抜け出した軍勢は、そのまま上野国へひた走ると言うのが策の骨子であった。
武田一門の武田信友を囮とするなどとの反対も出たが、では対案がと言われては詰まってしまう。 つまり、対案がない以上はどうしようもない。 何より武田信勝も、そして武田信友も了承している以上は、従うより他はなかった。
その頃、織田勢はと言うと兵の再編作業に入っている。 それが終われば、躑躅ヶ崎館を攻めるべく布陣する手筈となっていた。 その合間を縫って、織田信忠は犬山鉄斎と面会を果たしていた。
従叔父となる人物だが、両者が顔を合わせるのは初めてとなる。 これは、織田信忠が生まれて間もない頃に父親の織田信長とまだ織田信清と名乗っていた犬山鉄斎が対立した事が原因である。 しかも最終的には敗れ尾張国から追放されたので、顔を合わす機会など生まれる筈がなかったのだ。
そんな両者の対面だが、元は一門とは言え今は明確に立場が違う。 織田信忠は織田家の現当主であり、犬山鉄斎は追放された後に今は亡き武田信玄を頼っているのだからそれも当然であろう。 しかも、手引きを約束しながらも躑躅ヶ崎館は健在なのだから恐縮しているのも仕方がなかった。
とは言え、犬山鉄斎のお陰で躑躅ヶ崎館が陥落寸前まで行っていたのは事実である。 武田勢の抵抗が大きかったのと、躑躅ヶ崎館が城に準ずる様な予想外の防御力を持っていたのが原因であり、その点において責める程の物ではなかった。 それ故であろう、織田信忠は責める様な事はしていない。 寧ろ手引きを成功させた事を、控えめながらも褒めていた。
この反応により、犬山鉄斎は許されたと言っていい。 まだ織田信長の反応は分からないが、今更彼ぐらいに拘るとは思えないので此方も問題はないだろうと言うのが織田信忠や池田恒興の判断だった。
こうして犬山鉄斎との面会を終えてそう時間が経たないうちに、何と躑躅ヶ崎館へと入った武田勢が動きを見せた。 彼らは館に火を放つと、要害山城へと移動したのである。 彼の城が躑躅ヶ崎館の詰めの城である事は、織田家に降伏した一部の甲斐国人より聞き及んでいる。 だから織田勢からすれば、その武田勢の動き自体は何ら不思議な事ではなかった。
だが、ここからは別である。 その日の夜、武田勢は武田信友と彼に従う一部の兵を要害山城に残すと上野国の箕輪城目掛けて撤退を開始したのだ。 無論、直ぐには察知されない様に手筈を整えている。 いわゆる案山子や幟などを立てて、さも兵が居るように仕向けたのだ。
そしてこの武田勢の動きは、織田信忠に取って完全に虚を突かれた形となる。 しかしながら、一概には織田家を責められないだろう。 籠城すると見せたその夜に城を捨てて撤退するなど、夢にも思わないからだ。 そしてこれは、義頼や柴田勝家も同じであり、彼らの知恵袋たる者達も裏をかかれた形となっている。 つまりは、それぐらい鮮やかと言っていい動きだったのだ。
なお、この撤退だが意外なところで露呈してしまう。 それは、未だに街道を警戒していた伊賀衆のお陰である。 本多正信の命によりやや距離を置いた状態で街道を監視していた彼らの警戒網に、上野国へと向かっている武田信勝率いる軍勢が引っ掛かったのだ。
始めは逃げた者達かと思ったが、それにしては数が異様に多い。 しかもその中に、春日虎綱や山県昌景などの武田家重臣が居るとなれば話は別である。 伊賀衆を率いていた百地清右衛門は、急ぎ義頼と本多正信へ報せたのであった。
報告を受けた二人が驚くのも無理はない。 すると義頼は、書状に起こしてから織田信忠の元へと向かった。 まだ朝早い時間であるが、内容が内容であり構ってなど居られなかったのである。 そして朝早く訪問を受けた織田信忠はと言うと、不機嫌ではあっても会わないと言う選択はしなかった。
その理由は、意外なところに父親である。 織田信長より、何度か義頼が時間考えずに報告に来ることがあると苦笑交じりに伝えられた事が幾度かあったからだ。 もしかして今回もそれではないかと考えたが故に、会う事を決めたのである。 果たしてそれは、正解であったと言えるだろう。 織田家にとってもそして策を仕掛けた武田家にとっても、予想外に早い策の露呈となったのだからだ。
「朝早くに申し訳ありません、殿」
「良い。 して、義頼。 用件は何だ?」
「はっ。 先ずは、此方をお読みください」
そう言って差し出したのは、つい先ほど書状に起こした百地清右衛門からの報告である。 手出された書状に目を通した織田信忠の顔付が、みるみる変わって行く。 やがて最後まで目を通すと、溜息をついた。 だが、その気持ちも分からないではない。 義頼も織田信忠も、策に嵌められたのだからだ。
しかももし伊賀衆の監視と言う、ある意味での偶然が作用しなかった場合、敵の策の露呈はかなり遅くなったかも知れないのである。 それを考えれば、溜息の一つぐらい出てもおかしくはなかった。
しかしながら、溜息などついていても仕方がない。 早急に、手を打つ必要があるのは明白だった。 先ずは急いで、追撃の兵を派遣する必要がある。 そこで織田信忠が選んだのは、義頼だった。 これには訳があり、これ以上の手柄を与えない為の物である。
それでなくても、東海にて北條家の軍勢を押し返しているのである。 既に手柄を手にしているのに更なる大手柄を得る機会を、偶発的に発生した事象ならばまだしも与える訳にはいかないと言う思惑が絡んでいた。
そもそも武田攻めは柴田勝家の領分であり、今回の織田家包囲網と言える状況が発生しなければ義頼と織田信忠が出張る筈もなかった案件である。 しかも今回の追撃に関しては完全に出遅れた感があり、追い付けるとは思えなかったからだ。
そしてこの決定には、義頼も内心で安堵する。 戦が変わるならばまだしも、一連の流れの中にある戦でこれ以上の大きな手柄を得ては妬みを生みかねない。 何より、義頼の主戦場は西の毛利家である。 何時までも東の戦に関わって、手伝いを行う訳にはいかないのだ。
こうしたそれぞれの思惑があり、義頼の派兵が急遽決まった訳である。 命を受けた義頼は、兵馬と兵糧等を揃えると武田信勝の後を追う様に出陣する。 だが追撃には制限を掛けられ、国境までとしていた。
これは下手に上野国まで踏み込むと武田勢に逆襲される可能性があると言うのが理由にあるが、それとは別にもう一つ奇妙な状況が発生している事にある。 と言うのも武田家と北條家の領地の境近辺に、北條家の兵が集められているらしいとの報が届いたのだ。 出陣する直前に齎された報に、義頼は眉を顰める。 だが、報告としては無視できなかった。
何せ北條家は、ほんの少し前まで干戈を交えていた相手である。 その北條家の兵が集められているのだから、当然と言えば当然と言える。 そこで義頼は、織田信忠に報告した。
「ふむ。 北條の兵がか……義頼、その方の考えを聞こうか」
「はっ。 恐らくですが、我らを警戒してではないでしょうか」
「まぁ、そうであろうな。 つい最近までそなたと刃を交えていたのだから、仕様がないか」
「はい。 ですが、他の考えもあります」
「ほう。 それは、気になるな。 述べてみよ」
そう促された義頼は、別の考えを述べた。
その考えとは、北條の兵が集められた目的が侵攻にあると言う物である。 そう言ったのは、義頼の知恵袋である本多正信と三雲賢持である。 彼らがそう進言した根拠だが、北條家の目指す関八州の領有にあった。
そして上野国を領有している武田家が織田家に敗れた事を奇貨と捉えて、北條家は同国を掠め取ってしまおうとしていると言うのだ。 とは言え、進言した二人も北條家が侵攻する確率は低いと見ている。 ただ可能性として捨てきれない為、進言したのだった。
因みに義頼が確率を尋ねたところ、一割か二割ぐらいだと答えている。 この時点で織田家に喧嘩を売る可能性もある上野国の侵攻などほぼあり得ないのだが、不測の事態と言うのは常にあり得る為に余地を残していたのだ。 何せ先に述べた様に、関八州の領有と言う目的が存在する。 それだけに、暴走するかもしれないからだった。
「なるほど。 確率は低いが、暴走はあり得るか……分かった。 その辺りは、臨機応変に対応しろ。 如何なる結果であっても、文句は言わん」
「承知致しました」
後になって変な横やりを入れないと言う言質を取れた義頼は、粛々と了承した。
勿論、場合によってはその先の進軍もあり得るので中々に酷な命だとも言えるのだが、幸か不幸か義頼の場合にはあまり当てはまらない。 何せ義頼が率いる六角家家臣だけの軍勢だけでも、今や大名に匹敵する軍勢を抱えている。 純粋に二国の領地を得ている家と言うのは、伊達ではない。 その上、大和国人を兵力にできるのだから大概であった。
何であれその後、義頼は兵馬と物資も整えると出陣する。 そして、甲斐国に残った織田信忠と柴田勝家はと言うと、此方はこちらで要害山城の攻略に入る事となった。
武田勢の主力は上野国へと向かったと思われる訳だが、要害山城には武田家の本陣旗が翻っている。 他にも風林火山の旗や武田信勝がまだ武田家を継いでいない頃に武田信玄より渡されたとされる「大」の一文字が描かれている旗がはためいており、此方も放っておく訳にはいかなかった。
普通に考えれば主力が移動した以上、大将が残っているとは考えずらい。 だがそうであったとしても、前述の旗が翻っている以上は確認を行わない訳にはいかないのだ。 しかも数は別にして、要害山城にも兵が存在しているのは間違いない。 今後、甲斐国と信濃国を織田の領地とするべく兵を送る以上、いらぬ要素は排除しておく必要がある。 その意味でも、確認と攻略は行っておく必要があったのだ。 だが要害山城は堅城であり、我攻めは要らぬ犠牲を生みかねない。 そこで先ずは、降伏を呼びかける事にした。 軍使は別喜の姓を与えられ旧姓の梁田から改姓した別喜広正が務める。 彼を正使として派遣された軍使は首尾よく入城は出来たが、城主となる筈の武田信勝の身代わりを務めている武田信友には会えず仕舞いだった。
これは怪我を負っていると言うのが理由だったが、少なくとも戦で武田信勝が怪我を負ったと言う報告はない。 会わないための方便だという事は軍使を務める別喜正広は看破したが、彼はあくまで使者である。 強硬に出る訳にはいかず、近いうちに返書を認めると言う確約を得ただけであった。
戻った別喜広正より報告を受けた織田信忠も、方便なのは理解する。 しかし、返書の確約は得ているのでこれ以上は待つしかない。 だが何時でも動ける様に、準備は怠らなかった。
それから三日後、武田家の軍使が織田信忠の本陣を訪れる。 そこで返書を渡したが、記されていた内容はいい度胸としか言えなかった。 無条件の包囲の解除、甲斐国と上野国の武田家領有を認める事なのである。 あまりの内容に織田信忠は、怒るよりも呆れてしまった。
現状を正しく認識すれば、この要求が如何に荒唐無稽な物なのかなど論じるまでもない。 しかし、武田信勝の影武者として要害山城に籠っている武田信友からすれば、寧ろ城を攻めさせたいのである。 此処で踏ん張れば踏ん張るほど、甥の生存が現実味を帯びてくるのだからだ。
彼の不幸は、既に策が織田家側に見破られているのを知らなかった事であろう。 だが、それも籠城している宿命とも言える。 何せ城に籠っているのだから、外界からの情報は入りづらくなる。 しかも敵である織田勢に取り囲まれているのだから、それはより強固であった。
何より、武田信友も要害山城に籠っている武田勢も此処を死に場所と考えている。 既に死を覚悟している者達だからこそ、怖い物などない。 故に武田信友は、軍使に持たせた様な内容を記した返書を認める事が出来たと言えた。
何であれ、この内容では考慮には値しない。 礼儀上、返書を受け取り軍使を返した織田信忠だったが、もう躊躇う気はない。 柴田勝家に命じて、明日にでも城攻めを開始するのだった。
そして明けた翌日、城攻めが行われる。 しかしてその城攻めだが、慎重を期して行われた。 先程も述べた甲斐国と信濃国の鎮定の為に使われる兵の確保の為にも、無駄な被害を避けたいからである。 そこで使用されたのが、義頼の持ってきていた大砲群であった。
追撃に入る為、義頼は移動の枷となる大砲を全て織田信忠に預けたのである。 そこには、行われるであろう要害山城攻略の為と言う側面もあった。 せっかくの武器があるのだから、使わないなどもったいない。 そこで織田信忠は、大砲群と共に残された六角家の鉄砲奉行である杉谷善住坊と鉄砲奉行補佐の地位にある柘植清広に砲撃を命じた。
彼らは、その命に従い大砲を撃っていく。 如何に堅城の要害山城とは言え、大砲に対する備えなど有る筈もない。 その為、砲撃音がする度に大手門や城壁などが破壊されていく。 しかし、要害山城に籠る武田勢に有効な手は打てなかった。
そもそも兵数が違う事もあるが、何より大砲に対抗できる武器など要害山城に存在しないからである。 まだ相手が火縄銃であれば上から狙うと言う優位さを考慮して弓でも対抗できるが、相手が大砲では射程が違いすぎる。 どうやっても届く筈もなく、城に籠る城兵が出来る事と言えばただ耐えるだけであった。
やがて大手門が完全に破壊されると、織田信忠は満を持して総攻撃を命じる。 その命に従い、美濃衆が城へと攻めかかる。 時を同じくして、搦め手より柴田勝家旗下の兵もまた攻め上がって行く。 こと此処に至り漸く反撃の機会を得た武田信友であったが、大砲により攻撃で少なからず被害が出ている為か散発的な物となってしまう。 これでは有効な反撃など無理であり、必死の防衛も空しく要害山城はその日のうちに本丸を除く曲輪が占領されてしまった。
本丸だけは何とか死守したとも言えるが、攻勢が止んだ理由は日暮れが近いからである。 流石に日が暮れた後まで、戦闘を継続させる気など無い。 織田信忠は夜襲を警戒させつつも、落とした曲輪にて翌日を待つ事にした。
そして本丸に追い詰められた武田信友はと言うと、夜襲など計画していない。 それどころか、僅かに残っている兵糧全てを用いて宴会を行っていた。 当然ながら、そんな武田勢の様子は織田勢からも見て取れる。 最後の晩餐と言っていい宴であり、その事を認めた織田信忠は池田恒興にある物を用意する様にと命を出す。 主からの命を履行した彼は、息子の池田元助や数名の者達と共にそのある物をもって要害山城の本丸へと赴いた。
そこには、かろうじて残っている本丸入り口の門が申し訳程度に佇んでいる。 その門を前に、取次ぎを願うとやがてきしみながらも門は開いていく。 するとそこには、武田の兵と共に一人の武将が居た。 彼の名は市川家光と言い、嘗ては武田信玄の側近も務めた男である。 そして彼は、此度の戦が最後のご奉公とばかりに要害山城に残った家臣であった。
「拙者は池田恒興なり! 主の命を受けて、届け物を持参致した!!」
「……これは感謝致す」
「それと、今夜は一切邪魔はせぬしさせもせぬ。 とのお言葉にございます故、御心配はなきよう」
「かたじけない。 そうお伝え下され」
池田恒興は、そう口上してからそこに現れた市川家光に、持参した物を渡した。
それは、酒や食物である。 つまり織田信忠は、今生の別れと言っていい宴を開いている武田勢にせめての物として葬送品代わりの品を用意させたのだ。
そして市川家光だが、彼は織田信忠が用意させた酒や食物を黙って受け入れる。 そのまま会場に運び込まれ、宴はますます盛り上がって行った。
明けて翌日、要害山城本丸の門が開いていく。 するとそこには、本丸に籠っていた武田勢が勢ぞろいしていた。 そしてそれを迎え撃つは、搦め手より攻め込んだ後に織田信忠の軍勢と合流を果たした柴田勝家旗下の軍勢である。 彼らは黙って勢ぞろいしていたが、やがて武田勢を率いる武田信友の軍配が振るわれる。 それを機に、一斉に兵が吶喊を行う。 そして武田信友も、軍配を放り出すと刀を抜き振りかざす。 そのまま彼も、織田勢へと攻勢を仕掛けた。
一方で柴田勝家も、万全の態勢で要害山城に残った武田勢最期の吶喊を受け止める。 これが、死出への旅へと赴く武田勢に対する織田勢最期の手向けであった。
一人また一人と討たれていく武田勢だったが、誰一人として逃げ出そうとする者はいない。 愚直にただただ前へと突き進んでいくが、やがて限界を迎えた。 武田信友も市川家光も討たれ、武田勢で誰一人生き残らないと言う一方的な戦であった。
全ての兵を討ち取った織田信忠は、首実験を行う。 そこで漸く、既に武田信勝がいないことが確認される。 しかしある程度は予想されていた事もあって、それほど大きな衝撃とはならなかった。
首実験を終えた織田信忠は、ご丁寧にも武田信友と市川家光の首を戻しわざわざ縫い付ける。 この様に遺骸を完全な状態へと戻した後、彼は武田家の菩提寺について尋ねる。 それに答えたのは、義頼が残していった渡辺守であった。
武田信勝の追撃に際し、義頼は降伏した甲斐国人らを織田信忠に預けている。 要害山城攻略後、甲斐国を抑える必要がある以上は繋ぎとなる人物が必要となる。 その繋ぎ役として、期待された故であった。
話を戻して、尋ねられた渡辺守は恵林寺と住職の快川紹喜の存在を告げる。 彼は土岐氏の流れを汲んでおり、武田信玄によって招かれた人物である。 その血筋から、武田家と美濃斎藤家との外交僧も務めた事もあった。
「では守。 この二人の供養だが、その住職殿に頼むよう繋ぎを取ってくれ」
「御意」
その後、快川紹喜は承諾する。 やがて二人の遺骸の他にも、武田家の兵は快川紹喜によって供養が行われた。 ただ数が多い故に、運ぶのには時間が掛かりすぎるとして大胆にも快川紹喜は要害山城を訪れたいと告げる。 これには織田信忠を驚いたが、その後、大いに笑うとこれを承諾した。
するとわざわざ彼は、恵林寺に氏家行広を派遣して道中を護衛させると言った好待遇を行っている。 そして快川紹喜も堂々としたもので、臆する事なく彼らと同行し要害山城へと現れた。 そして、要害山城の本丸にて経を唱え全員が討ち死にした武田兵を弔う。 だがそれで終わらず、快川紹喜は鎮魂の碑を建てる許可を願い出た。
この申し出には、織田勢の将より不満が漏れだす。 しかし織田信忠は、その申し出を許した。 どうも理由は分からないが、彼は快川紹喜を気に入ったらしい。 そしてそれは快川紹喜も同じらしく、穏やかな笑みを浮かべながら織田信忠へ礼を述べたのであった。
なお、戦後に要害山城は破棄されるが、本丸のあった場所には規模は大きくないながらも寺が建立される。 その寺は恵林寺の別院であり、管理は恵林寺に任される事になるがそれは後の話であった。
事実上、武田家最後の抵抗です。
時間稼ぎの捨て駒と相成りました。
ご一読いただき、ありがとうございました。




