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第二百八話~最後の幕開け~

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第二百八話~最後の幕開け~



 話は、義頼が本栖城へ進軍中の頃にまで遡る。

 義頼が軍を率いて江尻城を出陣する前に派遣した使者が、安土城へと到着した。

 鵜飼孫六うかいまごろくによって届けられた書状に目を通した織田信長おだのぶながは、取り次いだ側近の万見重元まんみしげもとへ返信の書状を渡す。 程なくして書状を受け取った鵜飼孫六は、義頼の元へ舞い戻って行った。

 それから間もなく、信長の元へ重元が戻ってくる。 書状を渡した事を報告してから彼は、主へ書状の内容について尋ねたかった。 何ゆえに尋ねたかったのかと言うと、そこに掛かれていた文言が文言だからである。 書状には北條家との協定についても、甲斐国への進軍についても書かれていない。 ただ一言、「で、あるか」とだけ記載されていただけであったからだ。

  

「分からぬか、仙千代(万見重元)」

「……はい。 不勉強にして」

「そうか。 努力致せ」


 重元へそう答えると、信長は天主閣より琵琶湖を眺めた。

 正直に言うと、同盟に関しては重要視していない。 何れは北條にも兵を向けるなりするつもりだが、今である必要がないからである。 それよりもこの機会に、織田領により近い甲斐武田家と越後上杉家に対して一定の成果を上げる方が喫緊の課題だからだ。

 せいぜい、時間稼ぎに丁度いいぐらいにしか思っていない。 その意味でも、義頼が北上するのも北條家と休戦を結んだのも都合がよかったぐらいだった。 とは言え、その様な事をまだ重元が推し量るなど難しい。 かと言って、信長手ずからの書状について問うなど不遜に思えてしまい聞くに聞けない。 そこで重元は、信長が認めた返信の意味を真剣に考えてたのであった。





 安土城で重元が頭を捻っている頃、信濃国の高遠城でも事態が動き始める。 切っ掛けは、春日虎綱かすがとらつなが派遣した危急の使者が到着した事であった。

 何ゆえに此処で使者が登場するのかと言うと、彼は海津城を出発すると時を同じくし高遠城へ早馬を派遣していたからである。 使者は碌に休憩も取らずに馬を走らせたから疲労困憊であったが、それでも到着した使者は書状を渡す。 そして受け取ったのを目の当たりにすると、安心した様に気絶したのだ。

 武田家重臣として越後上杉家と接する北の守りを任されている虎綱からの使者という事もあって、書状は直ぐに武田信勝たけだのぶかつの元へと届けられる。 程なくして虎綱からの書状に信勝は、急ぎ家臣を集めると軍議に諮った。 もし、書状に掛かれている通りだとすれば武田家存亡の危機と言っていいからである。 躑躅ヶ崎館は抑えられ、妻も嫡子も捕らえられてしまいかねない事態となるからだ。

 虎綱が独断で海津城より兵を率いて入っていると記されているが、それも本当かは分からない。 万が一、書状の内容通りに躑躅ヶ崎へ入っていたとしても、その兵で敵が抑えられるわけがないのが容易に想像できた。

 とは言え、書状の内容は虎綱の予測に基づいているのも問題である。 軍議に参加している者らも嘘だとは考えていないが、軍議の行く末を決める決定力があるかと言えば首を傾げざるを得ない。 あと一つ、駿河国内の情勢也や義頼の動きなりが見えてこなければ虎綱からの情報だけで迂闊に陣を払うなど出来はしなかった。

 限られた情報の中で、更に取捨選択をしなければならない。 分かってはいても、結論はそう易々と出る物ではなかった。 そんな中、武藤昌幸むとうまさゆき曽根昌世そねまさただが主の命を受けて駿河国方面へ放っていた三ツ者が高遠城へと戻ってくる。 結論が簡単に出そうもない軍議を曽根昌世に任せて抜け出した信勝と昌幸は、揃って報告を聞いた。

 それによると、既に織田軍勢によって駿河国内は抑えられている。 そればかりか、事実上の大将となっている義頼が軍勢を率いて甲駿街道(中道往還)を北進している。 となればこの状況は、想定された最悪に等しいと言ってよかった。

 彼らはその報告書をもって、急ぎ軍議を行っている筈の広間へと戻る。 そこでは引き続いて、話し合いが行われていた。 その様な軍議の場所へ戻った信勝は、昌幸に届いた書状の内容を告げる様に言う。 了承した彼は、一言一句たがえる事なく軍議参加者全員へ告げていた。

 黙って聞いていた彼らであったが、報告が終わると一気に場の流れが決まる。 何せ放っておけば、前述した通り躑躅ヶ崎館どころか甲斐府中が抑えられ信勝の妻子は元より自分らの妻子も確保されてしまう。 その前に、急ぎ戻らなければならないのだ。

 最早、形振りなど構ってはいられない。 早々に軍議を終わらせ、撤退の準備を始めなければならない。 しかし、だからといって殿しんがりは置いて行かない訳にも行かない。 そこで信勝は、秋山虎繁あきやまとらしげに任せる事にした。

 「武田の猛牛」ともあだ名される虎繁だが、彼自身は知勇兼備の将と言っていい。 戦だけでなく織田家などとの折衝を行い、そればかりか武田当主の名代として相手国へ赴き取り纏めてくるぐらい戦にまつりごとにと活躍した人物なのだ。

 そんな虎繁であれば、敵兵の数が勝ろうとも役目を果たせると考えたが故である。 そしてこの人事には、誰からも文句は出なかった。 反対して殿しんがりの役目が自分へ降りかかってきては堪らないと言う思いもあるが、何より虎繁ならば大丈夫だと言う味方からの信頼が大きかったのである。 反対がなく、しかも本人がすぐに了承したので、虎繁へ殿しんがりの任を与えた。

 しかしながら、この武田信勝率いる武田勢の動きは織田信忠おだのぶただ柴田勝家しばたかついえには筒抜けだったのである。 彼らが武田勢の動きを察知したのは、義頼からの書状によってであった。

 駿河国を落とした義頼から報せにより、すぐに軍勢を整えて甲斐国へと進軍すると知らされたからである。 その知らせを受けた信忠であったが、彼は無理に攻めへは転じず今まで通りとしていたのだ。

 そう。

 信忠は、何れ訪れるであろう武田勢の撤退を待っていた。 そしていよいよ、武田勢が撤退する兆候が見え始める。 その途端、信忠は満を持して動いて見せた。

 春日城への対応だが、此方は柴田勝家に任せる。 そして信忠自身は、己が率いていた兵の半数をもって諏訪方面に移動を開始したのである。 彼は先ず、諏訪湖周辺、および諏訪大社を抑える事にしたのだ。 しかしながらこの動きに武田信勝や秋山虎繁が気付かない筈はなかったが、今は躑躅ヶ崎館へ戻る方が重要である。 大事の前の小事と無視し、ひたすらに撤退に集中したのであった。

 その一方で殿しんがりとして残された秋山虎繁だったが、織田信忠が諏訪方面へ侵攻したと聞き焦りを覚える。 もし諏訪を抑えた後で信忠に甲斐府中へ進軍されると、撤退すら出来なくなるからだ。 さりとて正面に陣取るは、鬼柴田こと柴田勝家である。簡単に撤退できるとは思えなかった。

 しかしながら、手を拱いても居られない。 先ずはと、春日昌吉かすがまさよし旗下の軍勢を繰り出させる。 そこで彼は、息子の春日昌義かすがまさよしに兵を預けて出陣させている。 程なく相対する柴田勝家とぶつかったが、鬼柴田相手では彼には荷が勝ちすぎた。

 鎧袖一触がいしゅういっしょくとまでは行かなくとも、軽くあしらわれてしまい春日昌義は這う這うの体で城まで戻って行く。 するとその隙を突かれ、春日城近くにまで進撃されてしまった。 だが、相手は秋山虎繁である。 彼は城内から雨の様に矢を浴びせる事で、勝家の軍勢を止めて見せる。 流石に一気呵成いっきかせいは無理と感じた勝家は、距離を取って陣を敷き城と相対した。

 こうして一旦、膠着状態を作り上げる事には成功したが以前に戻っただけとも言う。 次は如何にするかと考えていた矢先、虎繁は城主の春日昌吉から進言を受ける。 何かと思い聞くと、その内容は驚きに満ちていた。 何せ虎繁に対して、撤収を促していたからである。 無論、ただ促している訳ではない。 昌吉が、その任を引き継ぐと言う物であった。

 その物言いを聞き虎繁が訝し気に眉を寄せながら続きを促すと、昌吉は言葉を続けた。

 彼曰く、幸いにも武田信勝は撤収に成功している。 既に諏訪と甲斐府中を繋ぐ街道を、躑躅ヶ崎へ向けて移動しているのだ。 しかし、信忠が諏訪方面に侵攻した事で追撃を受けるかもしれない。 それを防ぐ為にも虎繁は退き、本隊の後詰となるべきだと主張した。

 昌吉の言葉にも一理ある。 そう簡単に追いつけるとは思えないが、追撃が絶対ないとは言いきれないのもまた事実である。 ならば昌吉の言った通り、退くのも一つの手立てと言えた。


「だが、それでは貴殿が」

「伯耆守(秋山虎繁)様。 拙者は最悪、降伏してしまえばいいのですからお気になされますな」

「……すまぬ」


 万感の思いを込めて一言返すと、虎繁も武田信勝を追い撤退に入る。 その軍勢を、昌吉はじっと見送った。

 暫く見続けていたが、視線を切ると息子の昌義を伴って城内を移動して織田勢と陣の方へと向かう。 そこでやはり彼は、じっと見続けていた。

 少なくとも数日は、抵抗する必要がある。 その後は、降伏するしかないだろう。 そもそもが兵数に違いがあるので、それ以上は持たないと言う実情もあったからだ。   

 何であれ昌吉は、虎繁が無事に諏訪と甲斐府中を結ぶ街道に出るまで勝家の軍勢を釘付けにする。 その後は、降伏したのであった。





 さて話を義頼へと戻す。

 本栖城に籠っていた渡辺守わたなべまもる以下九一色衆くいしきしゅうを降伏させ、また本栖城をも開城させた義頼は、九一色衆に同地の守りを任せている。 そして、渡辺守に道案内させて甲斐府中に存在する武田家の居城である躑躅ヶ崎館へ向けて進軍を再開した。 そんな頃、鵜飼孫六が義頼のもとへ戻ってくる。 そして渡された書状を見ると、小さく笑みを浮かべた。

 書状には前述した通り、「で、あるか」だけが記載されている。 他には一切なく、指示も命もない。 詰まるところ信長は、義頼の行動を追認し許可したのである。 それが分かったから、彼は笑みを浮かべたのだ。 これにより義頼の進軍が信長により承認され、正当化されたのだった。

 その進軍だが、やはり道案内があると速度は上がる。 とは言え、敵地である事には変わりがない。 しかも、武田家の本拠地へと近づいている。 義頼は斥候を欠かす事はなく、慎重に進軍を行っていた。 

 幸いにして九一色衆へ行った対応と道案内とした渡辺守の存在が、甲斐国人の態度を軟化させる。 更に言うと兵数の差がある為に抵抗らしい抵抗はなかったのであるが、それでも不承不承な態度よりもましであった。 やがて義頼の軍勢は、右左口うばぐち峠を越えると勝山城を占拠した。

 この城は武田信勝の曽祖父に当たる武田信縄たけだのぶつなと武田家の家督を巡って争った異母弟となる油川信恵あぶらかわのぶよしの居城である。 この頃の甲斐国内は武田宗家の内訌もあって、騒乱状態となっていた。

 だが甲斐国の騒乱自体は、武田信縄の嫡子である武田信虎たけだのぶとらによって鎮定され終結を見る。 しかし、甲斐国人の大井信達おおいのぶさとが信虎に反旗を翻すと、協力要請を受けた今川氏親いまがわうじちかが介入し甲斐国へ侵攻し勝山城を占拠する。 しかしながらこの騒動も信虎が今川家と和睦を結んだことで終結し、勝山城に入っていた今川勢も撤退したのであった。

 その様な経緯を持つ勝山城に入った義頼は、そこを本陣として躑躅ヶ崎館を伺う。 何ゆえに躑躅ヶ崎を攻めなかったのかと言うと、武田信勝が入城したからである。 義頼が右左口峠を抜け甲斐府中へ入った頃、ひたすらに急いだ信勝が何とか躑躅ヶ崎館へと到着したのだ。

 寸でのところで間に合った訳だが、旗下の兵に疲労の色が濃い。 信勝としては休ませたかったが、躑躅ヶ崎館の目と鼻の先とも言える勝山城に敵勢が入っているのでそれもままならなかった。

 更には妹達を躑躅ヶ崎館より妻の実家である北條家へ逃がしたかったが、流石に無理である。 せいぜい、戦火を逃れる為にと武田家菩提寺となる恵林寺へ移動させるのが精一杯であった。 

 そして義頼はと言うと、最前線の勝山城から武田信勝に睨みをきかせつつ、甲斐国と駿河国の間に領地を持つ甲斐国人の調略に入っている。 何せ駿河国が織田家側となり、義頼率いる軍勢が勝山城へと入った状態である。 これによりここでも「前門の虎、後門の狼」と言える状況が発生しており、甲斐国人としては選択の余地がなかった。

 ただ流石に降伏の判断をした家はそう多くなく、大半は中立を保つと約定する。 だがこれにより、高天神城や諏訪原城の補給が途絶える事になる。 直ぐには影響は出ないが、もし織田家と武田家の戦が長期化すれば間違いなく両城にとって危機的な状況が生まれてしまったのだった。

 最も、初めから意図していた訳ではない。 後方の憂いを少しでも断つ為に行った行動が、徳川家に有利な状況を生んだと言う結果を齎したのであった。 

 それはそれとして義頼は、再度織田信忠へ書状を出していた。  

 使者として赴いた甲賀衆の多羅尾光太たらおみつともより書状を渡され甲斐府中の詳細を知った信忠は、更に進軍を急がせる。 やがて軍勢は、躑躅ヶ崎館の南を守る一条小山城と義頼のいる勝山城のほぼ中間にある義清神社に到達した。

 義清神社とは、甲斐武田氏の祖とされる源義光みなもとのよしみつの三男で武田冠者とも呼ばれた源義清みなもとのよしきよを祭っている神社である。 彼は元々常陸国の武田郷の領主であったが、土地境で争いを起こし破れてしまい甲斐国へと流されてしまった人物であった。

 その義清が晩年を過ごした館があったのが、この地であるとされている。 その義清神社に到着した信忠に合わせる様に、義頼も勝山城を出陣している。 僅かの間でも味方とした甲斐国人をも加え、彼は義清神社に駐屯した信忠と合流した。


「お久しぶりにございます、殿」

「うむ。 播磨以来だから約一年……いやもう少し短いか」

「はっ」


 両者の会合は、今は亡き宇喜多直家うきたなおいえの仕向けた暗殺者が義頼を襲った以来である。 あの後、播磨国は信忠が大将を務めた駒山城の攻防戦を最後に落とされている。 殆ど形だけのものだが、それでも事実は事実である。 その後は信忠も兵を退き、岐阜城へと戻っていた。 

 その時以来となり、信忠が言った通り一年に少し届かない。 およそ、十ヵ月振りとなる会合であった。 と言っても義頼は、まだ信忠付きと言う訳ではないのである意味では当然と言える。 何れはそうなる事がほぼ決まっているが、未だになっていないのはまだ天下の情勢が完全に定まっていないからだ。

 信長が足利義昭あしかがよしあきの追放後に己が生涯を掛けて行うと宣言した天下統一が成されるか、若しくは先が見えるまでは現状のままであろう。 そしてその頃には織田重臣の世代交代もなされているだろうから、年齢的にも経験的にも義頼が筆頭家老となるのはまず間違いなかった。


「時に義頼。 そこに控えているのが、書状にあった渡辺守か?」

「はっ」

「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じます。 本栖城城主、渡辺因獄佑わたなべひとやのすけ守と申します」

「うむ。 道案内、大義であった」

「ぎ、御意!」


 義頼に促されて自己紹介した渡辺守であったが、信忠より褒めの言葉を貰うと喜色を表す。 これにより、よほどの事でもない限り彼と彼の同僚である九一色衆の安全は保障されたと言ってよかった為であった。 何せ彼の上に居るのは、父親の信長ぐらいである。 その信長も甲斐国へは来ていない以上、覆される可能性はほぼないに等しいからだった。

 その後、渡辺守を下がらせた信忠は、義頼を交えて躑躅ヶ崎館攻めの話し合いを行う。 この場には信忠に勝家と副将扱いの池田恒興いけだつねおき、更には義頼までいるのだから丁度良かったからだ。

 先ず、義頼からの情報が三人に齎される。 元々戦線が違っていた事もあるし、何より先に甲斐国へと進行している。 躑躅ヶ崎館へと退却する追い掛け進軍した信忠と恒興、そして勝家の軍勢よりは遥かに近々の情報を持っていると思われたからだ。

 だが、時間的にはそう差がある訳ではない。 いささかは甲斐国人を味方につけていたのでましとは言えるのだろうが、それだけとも言える。 多少はましであると言う情報しかもっていなかった。

 それでも、全くないよりはましである。 信忠らも武田勢を追撃する事に傾注していた事もあって、それはより顕著であった。


「なるほど。 となると問題は、穴山と小山田か」

「はい。 流石に現状では、一先ず中立とさせるしかありませんでした」

「ま、それも仕方がない。 両家の当主が、武田勢に従軍しているのだろう? 寧ろ、よく中立を引き出した」

「はっ」


 躑躅ヶ崎館よりも北に関しても義頼は一応書状を出してはいるが、此方に関しては期待していない。 武田家が滅んだ訳でも降伏した訳でもない現状において、織田家に靡くとは思っていないからだ。 そして案の定、誰一人として返信や使者が勝山城に訪れてはいない。 彼らにしてみれば勝つ方に付きたいのだから、分からないでもない。 最もそんな彼らの態度が、後に彼らへ影響を与えるのかそれとも与えないのか、そちらも現状では分からない事であった。


「まあ良い。 そちらは戦が終わってからだな。 そんな先よりも、今は武田家よ。 どうした物か」

『殿……』


 織田信忠が、愁いを帯びつつそう漏らす。 その言葉が示す意味が分かるゆえに、義頼も勝家も恒興もいささか同情を帯びた顔つきとなった。

 彼らがその様な雰囲気となるのは、勿論理由がある。 その理由とは、信忠の正室問題であった。 彼には既に子供はいるが、全部側室の子である。 そして未だに、正室は空席となっている。 そして信忠は、その正室には嘗て婚約者であった武田信玄たけだしんげんの六女、松姫を据えると未だに言い続けていたのだ。

 流石に信長も諫めていたのだが、彼にしては珍しく頑として聞かない。 そればかりか、敵味方に分かれている現状においても手紙のやり取りを続けている。 これには信長も諦め、最早何も言わなくなっていた。 そして家中では、一定の身分以上の者であれば噂ぐらいには聞いている。 ましてや織田家重臣となる義頼や勝家や恒興であれば、知らない筈のない事象であった。 

 戦国の世にしては珍しいとも言える話だが、それだけにややこしくもある。 ましてや信忠は信長の後継者であり、彼の意向である以上はできるだけ叶えるべきと家臣も考えていたのだ。

 それに信忠自身、武田家を屈服させたいとは思っていても滅ぼしたいとまでは思っていない。 やはり正室にと望んでいる松姫の実家であるので、できうるならば従属大名か最悪家臣としたいと思っていた。 その意味でも、武田家の扱いはいささかに難しい。 できるなら降伏してくれと言うのが、家臣三名のいつわらざる心境であった。


「どの道、決着は付けねばならないか。 それで義頼、躑躅ヶ崎館の近くにある一条小山城(甲府城)と湯村山城だったか? そこには誰が入っている」

「一条小山城には、剃髪して梅雪ばいせつと号した穴山信君あなやまのぶただ。 そして湯村山城には、原重胤はらしげたねはいっております」


 原重胤とは、【設楽ヶ原の戦い】で死亡した原昌胤はらまさたねとは別の一族である。 昌胤が美濃土岐氏の流れであるのに対し、重胤は千葉氏の庶流となる白井原氏の流れを汲んでいる原虎胤はらとらたねの三男である。 その虎胤だが、彼は鬼美濃と称された今は亡き馬場信春ばばのぶはるが鬼美濃を名乗る前に鬼美濃と称されていた人物であり、甲斐国きっての武人であった。

 一説には信春が鬼美濃の名を継いだのは、「虎胤の武勇にあやかって」と言う意味もあったとされているぐらいの人物である。 彼の病死後は嫡子として原盛胤はらもりたねが家督を継いでいたが、盛胤も実は【設楽ヶ原の戦い】で死亡している。 しかし彼の嫡子は幼かったので、代わりに盛胤の弟である重胤が家督を受け継いだのだ。

 当時、義頼も知らない話である。 そこで急ぎ渡辺守に聞いた結果、漸く判明した人物であった。


「……原昌胤の名は俺も知っていたが、なるほどのう。 まさか別系統の原氏も居たとはな。 ま、それはいい。 誰か分かっただけでも、十分だ。 それはそれとして勝家、それと義頼」

『はっ』

「勝家は湯村山城を、義頼は一条小山城を攻めよ」

『御意』


 今いる義清神社を本陣として、勝山城を後陣として兵を展開する。 本陣に陣取るは、当然織田信忠であった。 そして一条小山城には義頼の軍勢が展開し、湯村山城には勝家の軍勢が展開したのである。 実はこの配置、義頼が携帯しているある武器が関係している。 その武器とは、大砲であった。

 義頼が今回持参している大砲は、新式とは言え大砲である。 軽量化を主眼に改良されたものであるから、口径は小さく今までの大砲と比較して移が容易いのだがそれでも大砲に変わりはない。 そこで、小高い丘の上に建築されている平山城の一条小山城に回されたのだ。

 その一方で勝家が攻める湯村山城だが、此方は完全に山城である。 此度の侵攻で信濃国が山がちという事もあり大砲を持参せずにいた勝家が担当という事となったのだ。

 さてこの両城だが、実は躑躅ヶ崎館を守るための出城でもある。 武田信勝の祖父となる武田信虎が甲斐府中へ武田家の拠点を移した際に、合わせて建築されていた。 戦時は詰めの城となる要害山城と合わせ、躑躅ヶ崎館をそして甲斐府中を守る役目を担っている。 つまり躑躅ヶ崎館を落とすには、詰めの城でもある要害山城は別にしてこの一条小山城と湯村山城と言う二つの城を排除する必要があった。

 義頼と勝家の軍勢が展開し終わると、その日はそこで終わりを迎える。 そして翌日、いよいよ織田勢と武田勢の甲斐府中での戦が幕を開けたのであった。

織田家と武田家、最後の戦役がいよいよ始まります。

すんなりと終るか、それとも意地を見せるのでしょうか。


それはそれとして、ご一読いただきありがとうございました。

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