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第二百七話~駿河国進攻、後に甲斐国へ~

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第二百七話~駿河国進攻、後に甲斐国へ~



 掛川城を出陣した義頼率いる軍勢は、今川氏真いまがわうじざねを先鋒に撤退中である北條勢を追う形を取った。 高天神城や諏訪原城の包囲牽制は徳川信康とくがわのぶやす率いる徳川勢に任せると、義頼は小山城へと向かう。 彼の城は、高天神城や諏訪原城と並ぶ武田勢の重要拠点である。 それ故、小山城は武田家の重臣である大熊朝秀おおくまともひでに任されていた。

 彼は元々、上杉謙信うえすぎけんしんの家臣であったが、彼の出家騒動の際に武田家に内通して越後上杉家に反旗を翻している。 この謀反に際して朝秀は武田家と同盟関係にあった蘆名盛氏あしなもりうじと共闘したが破れてしまい、一旦越中国へ逃れたところで武田信玄たけだしんげんの招聘を受けて武田家へ仕官する。 当初は山県昌景やまがたまさかげの与力であったが、程なくして直臣に取り立てられたのだった。  

 その後、朝秀は上野国の長野業盛ながのなりもり攻めに参戦する。 その戦の最中で彼は、上泉信綱かみいずみのぶつながまだ大胡の姓を名乗り長野家に仕えていた頃に彼と一騎打ちをして無傷で信玄の元へと戻ったとされている。 また外交にも才を見せており、越後上杉家との外交を一手に引き受けていたぐらいであった。

 その彼が任されている小山城を、囲んだのである。 しかし義頼は、そこで城攻めを行わなかった。 小山城の包囲を副将の馬淵建綱まぶちたてつなに任せると、北畠具豊きたばたけともとよ今川氏真いまがわうじざねを伴って進軍したのである。 その過程で義頼は、駿河の国人達へ今川氏真の名で書状を出させている。 その内容は、武田家からの離反であった。

 そもそも駿河国は、今川家の本拠地があった場所である。 当然ながら、国人達も今川家に仕えていた。 しかし彼らは武田家の駿河進攻によって、今川家より離反して武田家に鞍替えする。 お家大事の国人達に取り、勝てる方に味方するのは当然の行動だったからだ。

 とは言え、嘗ては今川家に仕えていた者達でもある。 そこで義頼は、その様な国人達を味方に付けようとした。 何せ今川氏真は、武田家よりはるかに強大となっている織田家の軍勢と共に駿河国へ戻ってきたのである。 その後ろ盾があるならば、今一度今川家につくのもやぶさかではなかろうと考えての事だった。

 果たしてその目論見は的中する事となるのだが、今は置いておく。 その様な策も講じながら、義頼は素早く軍勢を移動させていた。 程なくして軍勢は、田中城へと到達する。 この城は山県昌景の二男となる山県昌満やまがたまさみつに任されており、駿河西部の要と言える城であった。

 しかし彼はまだ若くしかも元服間もなかった為、実際は小菅忠元こすげただもとが実質取り纏めている。 彼は山県昌景のいとこにあたり、それ故に昌満へ付けられたのだ。

 その様な田中城だが、北畠具豊に包囲を任せる事にする。 そこで一応義頼は、無謀な戦を行わない様にと釘を刺している。 更には北畠具豊率いる軍勢の軍監を務めている林秀貞はやしひでさだに秘かに面会すると、北畠具豊の手助けをお願いし頭を下げていた。

 それは具豊が下手にやる気を起こし、城攻めを始めてしまう事を恐れてである。 その辺りについては秀貞も分かっているらしく、二つ返事で了承している。 その後、彼は、時には宥め時にはすかすなどして具豊が城攻めを行わない様に上手く手綱を握ったのだった。



 それは後の事として、話を戻す。

 田中城での攻囲についての手当てを行い終えると、義頼は更に進軍する。 軍勢の行先はと言うと、山県昌景の嫡子となる山県昌次やまがたまさつぐが居る江尻城であった。 彼は、父親が戦に出ている事で代理として駿河国を抑えている。 つまり江尻城が開城するか落城すれば、駿河国は織田勢によって抑える事が出来る筈なのだ。

 だからこそ義頼は、素早い進軍を行ったのである。 信濃国で柴田勝家しばたかついえ織田信忠おだのぶただと対峙している武田信勝へ、東海での戦の結果が届く前に決着をつけるつもりだったのだ。

 今川氏真と共に江尻城を包囲した義頼は、山県昌次に対して降伏勧告を行う。 できれば、被害なく落としたいためである。 彼は父には劣るが中々の者であり、ならば情勢を考慮すれば降伏も難しくはないのではと考えたからだった。

 最も、引き伸ばし工作などをしたら応じるつもりはない。 その時は、力攻めも辞さないつもりであった。


「……相手は、本気か」

「如何なさいます? 甚太郎(山県昌次)様」

「又右衛門か。 無論、降伏などせん。 籠城致す」


 昌次は問い掛けてきた又右衛門こと志村光家しむらみついえに対して、即座に籠城すると返答した。 すると、小さく笑みを浮かべながら彼は頷く。 確かに電撃的とも言える進軍を許したが、まだ反撃の手立てはある。 駿河国人衆の動きが整えば、それも可能だからだ。

 しかしながら前述した今川氏真の書状が、ここにきて有効に働く。 今川家に取り嘗ての仇敵だった、今となっては日の本一の大大名となった織田家の後ろ盾を得て現れた今川氏真に対し、続々と旧今川家臣である駿河国人衆が馳せ参じたのである。 面子としては朝比奈信置あさひなのぶおきや息子の朝比奈信良あさひなのぶよしら朝比奈一族、他にも岡部元綱おかべもとつなや掛川城開城後は各地を流浪していた安部元真あんべもとざねと言った者達が集まってくる。 すると義頼は、永原重虎ながはらしげとらを大将とした軍勢を久能山城へ派遣した。

 この久能山城であるが、江尻城と並ぶ重要拠点である。 その為、武田家臣の今福長閑斎いまふくちょうかんさいと今福家当代の今福虎孝いまふくとらたか)が入り防衛していた。 その久能山城へまでも兵が派遣されたと知り、江尻城の山県昌次は顔色を悪くした。

 何せあてにしていた駿河国人衆が義頼の軍勢に合流し、江尻城を取り囲んでいるのだからそれも致し方ないと言えるだろう。 これでは籠城などしたところで、反撃など難しいと言うか無理な話であった。 他にあてとなるのは、田中城に居る弟の山県昌満や小山城に居る大熊朝秀である。 しかし戦が起きたと言った話もない状況から考えるに、何らかの手当されて動けないと考えた方が無難であった。

 そうなると、もはや打つ手などない。 それでなくても父親の山県昌景が主力を率いて武田信勝の元へ出陣しているのだ。 田中城や小山城が押さえられていては、援軍のあてもできない。 しかも、敵の一部の兵が南に向かったとの報告もある。 恐らく久能山城へ派遣したと考えた方が無難であり、それはこちらからも援軍は期待できないという事であった。


「意気込んでは見た物の、打つ手なしとはな……何とも情けない話よ」

「そうですな、甚太郎様。 ところで改めて尋ねますが、如何なさいます?」

「これではどうにもなるまい。 それに、意地を張り兵を犠牲にするのも忍びない」

「では、降伏なさいますか?」

「ああ。 口惜しいし、父上や御屋形様には申し訳ないがな。 ついては又右衛門(志村光家)、軍使として敵陣へ行ってきてくれ」

「御意」


 こうして、江尻城より軍使が派遣される。 義頼と面会した光家は、手にした書状を渡す。 そこには、昌次の降伏と城の明け渡しが記されていた。 あと一日、連絡が来なかったら一方的に通告した後、城を攻撃する手筈となっていたので寸でのところで間に合ったと言える。 書状を渡した際に何げなく告げられた光家は安堵したとされていた。

 因みにもし攻めた場合、持ってきている大砲の半分で大手門あたりを纏めて破壊。 残りの大砲で城内へ砲弾を撃ち込んだ後、城攻めを行う手筈であった。

 既に大砲近くには砲弾も運ばれていた状態であった為、命があれば何時でも砲撃できる用意は整えられていたのである。

 何であれ九死に一生を得た昌次らであったが、降伏後は別の任が与えられる。 その任とは、馬淵建綱が包囲している小川城の大熊朝秀や北畠具豊が包囲している田中城の山県昌満、そして久能山城の今福長感斎と今福虎高と言った武田家臣の説得であった。

 困難が予想されるが、もし手こずれば攻め滅ぼされかねない事態となる。 何としてもそれは避けたかった昌次は、義頼から命じられる事に不満を持ちながらも粛々と説得を行っていた。

 すると最初に応じたのは、田中城を任されていた弟の山県昌満と彼を補佐する小菅忠元である。 彼らは、山県昌次の説得に応じで降伏したのであった。 次に小川城の大熊朝秀であるが、彼は城の明け渡しに応じている。 そして、二日後には城を明け渡す旨を約束していた。

 しかしてその夜、朝秀は秘かに小川城を抜け出すと甲斐国へと向かっている。 だが、馬淵建綱が念の為にと敷いていた警戒網に掛かり、あえなく捕らえられてしまった。

 最後に久能山城の今福長閑斎と今福虎高の親子はと言うと、即座に降伏勧告を蹴っている。 そればかりか、使者として城を訪れた昌次を早々に追い出していた。 その様な態度から彼ら親子は降伏などしないだろと判断した義頼は、大砲部隊を移動させる。 やがて包囲した久能山城へ、江尻城攻めにと考えていた作戦をそのまま流用した。

 その攻撃で大手門は見る影もなくなり、易々と敵の侵攻を許してしまう。 また搦め手より侵入した甲賀衆の一団が、城内を混乱させていた。 これでは、組織だった反撃など無理である。 その上、大砲の音に武田兵が恐縮してしまっているので尚更城攻めはたやすくあった。 

 その間隙をついて本丸へと侵入を果たした永原重虎旗下の兵により、今福長閑斎と今福虎高の親子は捕らえられてしまう。 彼らを捕らえたのは、渋谷重次しぶやしげつぐ渋谷吉弘しぶやよしひろの兄弟である。 彼らは甲賀出身であるが、忍び働きより槍働きなどの方を得意とした兄弟であった。

 こうなると、日和見ひよりみしていた駿河国人までもが続々と江尻城へと現れ始める。 此処に戦の趨勢は決まり、駿河国は織田家勢力下に組み込まれてしまった。

 いわば報告書を使者に託した義頼だったが、その返事が来る前に彼は行動を起こしている。 事実上陥落させたに等しい駿河国内は今川氏真と北畠具豊、そして久能山城攻めを行わせた永原重虎らに駿河国の治安を任せると、彼自身は次の手を打つ。 果たしてその内容だが、北条家と織田・今川家との一年限定となる休戦協定であった。

 武田信勝率いる武田勢と相対している織田信忠と柴田勝家の側面援護をと考えている義頼に取り、駿河国の安定は欠かせない。 国内は先程挙げた者達で大丈夫としても、国外からの干渉は無視する訳にはいかなかった。 その為にも、北條家には大人しくしていてもらう必要がある。 そこで持ち出したのが、休戦の申し出と言う訳であった。

 本音を言えば数年としたいが、そうなると足元を見られる可能性がある。 故に義頼は、単年だけとした。 その間に、駿河国内への梃入れを織田家主導で行う。 今の織田家であれば、一年あれば十分なのだ。

 しかも後方には、徳川家がいる。 未だに目覚めない徳川家康とくがわいえやすが懸念材料と言えば懸念材料だが、逆に言えばそれだけでしかないのだ。 潜在していた家中の不安も、義頼が介入した事で一応取り除かれている。 その上、高天神城などの武田勢についても最早風前の灯火であると言っていい。 何せ義頼が甲斐国へ侵攻した後、織田信忠らと合流してから武田家自体を滅ぼすなり降伏するなりさせれば彼らも降伏せざるを得なくなる。 その様な事情を考慮しての、一年限定の休戦協定と言う訳であった。

 その後、程なくして義頼は、和田信維わだのぶただを軍使として山中城へ派遣する。 書状を受け取った北條氏繁ほうじょううじしげは、一先ず多目元忠ためもとただの意見を聞く。 すると彼は、即座に受けるべきと返答した。 一年あれば北條家としての体制を整えられるのは、実は北條家も同じなのである。 流石に拠点は難しいかもしれないが、将兵などを配置し直すには充分な時間であったからだ。 

 とは言え、独断でとなるとやはり無理がある。 そこで元忠の意見込みで、氏繁は小田原の北條氏政ほうじょううじまさの元へ早馬を出した。 その日のうちに到着した使者より書状を受け取った氏政は、緊急に家臣を集め軍議に諮る。 すると大して荒れもせず、織田家と休戦が了承された。

 先述した通り織田家に対する体制を整えるには十分であるし、その先についても改めて行えばいい。 織田家と和戦何れになるのかは分からないが、それはこれからである。 今は何より、時を必要としていたからだ。 此処に義頼と北條家の思惑が合致し、一年限定の休戦が結ばれたのであった。

 こうして駿河国が事実上、織田家の影響下に落ちると義頼は織田信長おだのぶながへ報告を行う。 そこには安土城を出てから駿河国を陥落させるまでの経緯と北條家との休戦協定、そしてこれから甲斐国へ北進する旨についてが記されていた。

 更に書状だが、他にも送られている。 それは、織田信忠の元へだ。 何ゆえに彼に書状を送ったのかと言うと、それは今後の義頼の動きと関連しているからであった。 

 




 さてこの北條勢が遠江国から撤退した件については、高遠城に本陣を構えつつ秋山虎繁あきやまとらしげと山県昌景を春日城へ派遣して城主の春日昌吉かすがまさよしと共に織田信忠と柴田勝家の軍勢と渡り合っていた武田信勝の元へ報告が齎された。

 それでなくても情勢を総じてみれば一進一退となっており、中々高遠城から進軍が出来ていない。 それ故、信勝の胸中に苛つきが燻ぶり始めていたのだが、そこに嬉しくない情報が齎される。 それが、北條勢の撤退であった。

 この報告を曽根昌世そねまさただから聞いた信勝は、顔色が悪くなる。 しかしそれも、当然であろう。 万が一にでも北條勢が撤退すれば、後を追って義頼の軍勢が追撃するのはほぼ必至である。 そうなれば、駿河国からも兵を引き抜いている状況では陥落はまず間違いないと言えた。

 だが、それからが分からない。 そのまま北條家領内へ攻め込むのか、それとも駿河国で留まるのか。 この情報だけでは、流石に読み切れなかった。 そこで信勝は、報告をしてきた曽根昌世の他に武藤昌幸むとうまさゆきも呼んだ上で彼らに尋ねる。 すると両名から帰ってきた言葉は、信勝が考えたどちらでもない。 何と、甲斐国への侵攻であった。

 それは信勝に取り想定外であり、一瞬だが呆気に取られてしまう。 しかし素早く首を振って意識を取り戻すと、確認する様に再度問い掛ける。 しかして両名からの返答は、変わらずであった。

 そうなると、これは容易ならざる問題となる。 何せ武田家の主力は、ほぼ全てこの地に集結させているのだ。 勿論、武田領内に兵は残しているが、あくまで治安維持を目的としている。 とてもではないが、侵攻を食い止める程の兵数は残していなかったのだ。

 詰まるところこのまま放置すれば、躑躅ヶ崎館が落とされてしまう。 そうなれば、まさに「前門の虎、後門の狼」となる。 挟撃されて、打ち負かされるのは明白だった。

 流石にこれは知らせない訳にはいかないと考え、信勝は家臣を集める。 本陣を置いている高遠城に居る将は勿論、春日城にて織田勢と相対している秋山虎繁と山県昌景をも呼び北條勢の撤退が伝えられた。

 そしてまだ憶測の段階だがと前置きされた状態ながらも、義頼率いる織田勢の駿河国への侵攻の可能性も伝えられる。 これに驚いたのが、他でもない山県昌景である。 彼は事実上、駿河国を任されていたからだ。  


「殿! 駿河国への進攻とは、誠ですか!?」

「確証はない。 ただ……あり得る話ではあろう?」

「う……それは確かに……」


 信勝の言葉に、昌景も同意せざるを得ない。 何せ現在、場所が違えども織田家と武田家は干戈を交えているのだ。 ならば、駿河国を見逃すとは到底考えられない。 しかも駿河国と言うか東海へ攻め行った軍勢の総大将は、あの義頼なのだ。

 武田信玄たけだしんげんが健在の頃にすら、武田家の軍勢相手に一歩も退かなかった男である。 その様な男が、機会を見出した時にそれを見逃すなどとは思えなかった。

 かと言って、駿河国への救援はいささか難しい。 何せ織田家屈指の猛将とされている柴田勝家と、現織田家当主である織田信忠の軍勢と矛を交えている。 此処であからさまな撤退などを行えば、手痛い損害を受けるのは間違いないのだ。

 だからと言って、救援の軍勢を送らないと言う選択肢もできない。 その様な事をすれば、たちまち駿河国人にそっぽを向かれてしまう。 もしそんな事態になってしまえば、例え駿河国を織田勢に抑えられていなかったとしても今後の運営が非常に難しくなってしまうのは必定だった。

 と、そこまで考えた時、昌景ははたと思いつく。 現時点では、駿河国へ侵攻がされたかどうかも分からない。 もしされていなければ、そもそも援軍など必要ないのだ。

 とどのつまり、駿河国の情勢が判明しなければそちらへの動きは取らない。 となると、このまま戦を続行するしかないと言うのが実情であった。 無論、駿河国の情勢が分かればその限りではない。 そうなれば、後は臨機応変に対応していくしかなかった。


「昌景、駿河国へ三ツ者を派遣し様と思っている。 おっつけ、情報が齎されよう」

「ですな」

「だがな、皆。 一応、覚悟しておけ。 最悪、躑躅ヶ崎まで撤退する事を」

「ど、どういう事ですかな!?」


 信勝の言葉に対し、今度は小山田信茂おやまだのぶしげが慌てた様に問い返した。 すると、まじめな表情のまま武藤昌幸と曽根昌世が進言した駿河国が落ちた場合に起きる事態についての言葉を伝える。 この言葉を聞き、一同は絶句した。

 もし、その通りならば事態はひっ迫している。 此処での戦を捨ててでも、戻る必要があった。 だがそれは、あくまで可能性の一つでしかない。 起こり得る事象の一つを心配して高遠城を捨てるなど、無理であった。 この城を捨てれば、下手をすれば信濃の西半国が落ちかねない。 それだけの損害を甘受するだけの明確な理由は、今の武田勢にないのだ。

 結局のところ、義頼率いる軍勢の動向が分からなければ打つ手がないと言うのが本音であった。


「殿。 今は情報を共有した事で良しとしましょう」

「むぅ。 歯痒いな、昌幸」

「致し方ありませぬ。 今は一刻も早く、駿河国の情報を手に入れる事が肝要かと」

「そうだな。 先ずはそちらか……皆もよいな」

『はっ』


 一先ず、駿河国での情報を手に入れてからという事で急遽開かれた軍議は終わる。 情報が乏しいゆえに、致し方なかったと言えるだろう。 しかしながらその一方で義頼はと言えば、既に進軍を開始していたからである。 彼は時間が惜しかったので、信長からの返信が届く前に行動を起こしていたのだ。

 さて義頼が甲斐国への進撃する道として選んだのは、甲駿街道(中道往還)である。 何ゆえにこの街道を選んだのかと言うと、最も最短で躑躅ヶ崎のある甲斐府中までたどり着ける道だからだ。

 途中幾つかの砦などがあるが、殆どが狼煙台程度のものでしかない。 念の為にと忍び衆を先行的に派遣しているのだが、大抵はもぬけの殻であった。 武田家の主力が出陣している事に加え、義頼が率いる軍勢の兵数に驚き、彼らが我先と逃げ出した為である。 拍子抜けだとも言えるが、余計な戦などが起きないのだから良しとしていた。

 戦どころかあっても小競り合い程度では、義頼の軍勢を抑えるなど出来やしない。 ほとんど邪魔される事なく、街道を北上したのである。 だがその順調な行軍も、流石に本栖湖までであった。

 本栖湖の東岸にまで街道が到達すると、そこで道が二つに分かれる。 片方は西に向かい、富士川方面へと進む。 そしてもう一方の道筋は、北にある精進湖へ向かう事になる。 その様に二俣に分かれる街道を監視する様に、城が一つ建立されているからだ。

 そしてこの城は、本栖城と呼ばれている。 国境にも近く甲斐国と駿河国を結ぶ街道も通っている要衝にある事から、本栖城は武田家より重要視されていた。 その城を守っているのが、渡辺守わたなべまもると言う人物である。 彼は、この地を守る九一色衆くいしきしゅうの一人である。 ただ本来であれば兄が城を守っているのだが、彼は病床の身でありしかもかなり重篤であった。 そこで家督を弟の守に譲り、兄は渡辺氏の居館にて静養していたのである。 しかしその渡辺氏居館も、既に抑えられてしまっていた。

 流石に哀れと思ったのか、義頼は病の床に伏せる渡辺守の兄を近くの寺に移動した上で静養させている。 その後、主のいない居館を本陣としていた。

 その後、義頼は渡辺守に対して使者を出す。 軍使となったのは、赤田姓あかたかばねであった。 彼は元々浅井家に属していた国人だが、織田信長の上洛以前に義頼と浅井長政あざいながまさが最後に干戈を交えた高野瀬城を巡る戦の終結後に、六角家からの調略に応じて六角家に鞍替えした人物だ。

 彼が調略に応じた理由に、長政が義頼に対して事実上の連敗中であった事に由来している。 しかし、赤田姓が六角家に属した後に信長が上洛した際に起きた六角家の内訌の際に織田家へ降伏して今度は織田家直臣となった。

 後に、義頼が手柄を立て六角家としての力を回復し始めると、織田家より離れ六角家へ属している。 だが、初めから六角家に戻ろうと思っていた訳ではない。 赤田姓は当初、浅井家に帰参しようと考えていたのだが、丁度織田家の【朝倉攻め】の時だった為、結果として織田家を裏切った浅井家ではなく六角家に属すると決断したのだ。

 そんな彼の素性だが、本栖城を守る渡辺守と同じく嵯峨源氏の出である渡辺綱わたなべのつなの子孫に当たる。彼らが同族である事を利用し、少しでも面会が叶う様にと考えたのである。 そのお陰もあり命を受けた赤田姓は、本栖城に籠る渡辺守と面会する事が出来た。


「赤田信濃守姓と申します」

「渡辺因獄佑守である。 して、ご用件を聞こうか」

「我が主からの書状にございます。 お確かめ下され」


 渡辺守は書状を受け取ると、中身を確認する。 認められていたのは、予想通り降伏を促すものであった。 最後まで目を通した後、彼は書状を丁寧に畳む。 その上で渡辺守は、協議をするので猶予をいただきたいと返答した。

 この返事は義頼も予想しており、明後日までであれば許すと赤田姓に伝えている。 その言葉通り、赤田姓は二日後の日付が変わるまでならばと返答した。 それを過ぎれば、如何なる理由があろうとも容赦はしないとも付け加えられている。 その言葉に一瞬唾をのんだ渡辺守であったが、頷き了承した。

 一先ず話は済んだとしてそこで一礼すると、赤田姓ら軍使の一行は立ち上がる。 そして、取り次いだ者に案内されて本栖城から出て行く。 そんな軍使の背を、渡辺守はじっと見詰めていた。 やがて視線を切ると、ある方向へ目を向けたのである。


「弾正様、ご指示通り時を稼ぎましたぞ。 後は、書状に記されていた通り好きにさせていただきます」


 誰にでも言うでもなく、渡辺守はごちた。

 彼が返答までの時間を伸ばしたのは、ある者からの指示によっている。 それは、春日虎綱かすがとらつなからの物であった。 実のところ、彼は高遠城へ出陣していない。 以前から引き続き、越後上杉家への抑えとして海津城に配されていたのである。 幾ら同盟関係になったとはいえ、散々敵対してきた上杉家を武田家もそこまで信じきれなかったのだ。

 だがこの判断が、武田家に幸運を齎す事となる。 如何に隠そうとしても、軍勢を動かせばどうしても隠し切れない部分が出てくる。 そしてこの隠し切れない部分をいち早く察したのが、春日虎綱であった。

 彼は海津城に残りながらも、主力が不在の武田領内外に何があってもいい様にと人を派遣していたのである。 しかも敵味方に警戒されない様に、忍びなどではなく武士を送り込んでいた。 その臨時的な監視網に、駿河国の事が引っ掛かったのである。

 そこで彼は最悪を想定し、本栖城など甲斐国境の要衝を抑える者に一日でも時間を稼ぐ様にと指示を出したと言う訳である。 その上で虎綱は、騎馬だけを率いて躑躅ヶ崎へ急行していた。 無論、後追いで歩兵等も移動している。 しかし速度においては、騎馬に叶う筈もない。 結果として、騎馬隊だけが先行している状態となってしまったのだ。

 さて話を戻し本栖城であるが、本当に協議を行っている。 その面子は、九一色衆の者達であった。 彼らの話し合いはただ一点、降伏するか否かについてである。 何せ攻め寄せてきている義頼の軍勢とでは、桁が一つ違っている。 この状況下で武田家に対して忠節を守って抵抗するか、それとも降伏して家を守るかの選択をしなければならないのだ。

 しかしながら、結論は割と早く出る。 その結果は、降伏であった。 抵抗しても、よくて数日持てばいいだろう。 そして結末は、恐らく全滅である。 それならばお家を大事に、降伏すると言うのが利巧と言えたからだ。

 だが彼らも、すぐには返答しない。 返答の時間が迫る直前まで使者を立てず、期限切れとなる少し前に降伏の書状を持たせた軍使を派遣する。 それは、海津城より急行した虎綱が躑躅ヶ崎館へ到着した数日後であった。

一応、東海地域の決着がつきました。

引き続いて、甲信越です。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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