第二百五話~地黄八幡の最期~
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第二百五話~地黄八幡の最期~
押し気味であった織田・徳川の連合勢にどうして兵の乱れが生じたのか、その理由は北條氏繁の送り出した別動隊に答えを見出す事ができた。
北條勢本隊より分かれた道感率いる少数精鋭の別動隊は、主戦場を迂回しながら敵勢を撹乱するべくある個所へ向かっている。敵の動きを最も乱せる場所、そこは言うまでもなく敵本陣であろう。道感らは敵の動きを阻害し、かつ耳目を集める為に義頼がいるであろう本陣へ攻勢を仕掛けるつもりだった。
「良いか! 我らはこのまま進軍する。何としても、味方を支援するのだ!!」
『はっ』
道感の発破に、小さくそして鋭く旗下の兵達が答えた。
彼らにも分かっている。そもそも道感率いる兵は決死隊と言って良く、いわば戦の流れを変える為に派遣された部隊であった。元々、彼らは敵に奇襲を仕掛け、敵本陣と敵の軍勢を分断して一時的にでも混乱させる事を目的としている。そこでどうせならば敵大将の首でも獲れればなお良しと考えた道感が、敵本陣への奇襲を決断したのだ。
幸いにして風魔衆の二曲輪猪助からの報告により、敵本陣の位置について凡そ把握しているので奇襲自体は難しくはない。あとはどれだけ、敵に見つからず接する事ができるかに掛かっていた。
そこで風魔衆に先行させて、敵の撹乱をさせたのである。命を受けた二曲輪猪助は、鳶沢甚内らを引き連れて敵勢の撹乱を行い始めた。
しかしてその策だが、図に当たらなかった。それと言うのも、風魔衆が敵勢を撹乱させるかさせないかといったあたりで、邪魔が入ったからである。その邪魔をしたのは、甲賀衆であった。
風魔衆は偵察や後方の撹乱を得意としていたが、実は甲賀衆もそれは同じである。鈎の陣に代表される様な後方撹乱や少数精鋭による敵襲は、六角家や甲賀衆も得意としていた戦法だからだ。
それは奇しくも敵が最も得意とする戦法を、行ってしまった事を意味する。それであったからこそ、風魔衆の攻めがあまり功を成さなかったのだ。しかしながら、全てが無駄であった訳ではない。 風魔衆の仕掛けによって、僅かにでも敵の守りに綻びが生じたからだ。
それはさほど大きくない隙であったが、道感が率いているのは精鋭である。その隙だけでも、彼らが綻びと見るには十分だった。当然ながら道感らはその隙を見逃さず、錐で穴をあける様に切り込ん行く。少数ながらも精鋭で構成されている彼らは、幾許かの犠牲を払いつつも敵本陣へと迫って行ったのであった。
味方本陣にて指揮をとっていた義頼は、前線にて北条康種が討たれたとの報告を受けた。すると彼は、北畠具豊へ追撃する好機だと助言する。その言葉にはっとなった彼は、即座に家老の沢井吉長へ追撃の命を出す。これが前線において、北畠具豊が率いていた伊勢衆が攻勢に転じた理由だった。
やがてその命が届いたらしく、遠めに見ても明らかに味方が押し出し始めている。その様子にどうやら趨勢は決まったかと思ったその瞬間、そんな彼を予感と言うか悪寒と言うか言い様のない何かが襲ってきた。
次の瞬間、義頼の雰囲気が変わる。その劇的な変化は、近くに居た馬淵建綱や北畠具豊が思わず振り返っていたぐらいであった。そんな周りの様子など気にもせず義頼は、己が手にしていた配をいきなり建綱へと放った。
慌てて受け取った建綱は問おうとしたが、主から放たれるある種殺伐とした雰囲気に気圧されたのか声が出なかった。
さて義頼が、何ゆえに此処まで雰囲気が変わったのか。それは、自身が感じた何かが原因であった。過去にもこの説明しずらい感覚に襲われた時は何度かあるが、何れも大抵碌な事しか起きた試しがない。果たしてそれは、此度も同じである。それは視界の端に、数こそ多くはないが近づく集団が見えたからだ。
「嫌な予感が当たったか……建綱、指揮は任せる」
「は、ははっ」
「それから侍従(北畠具豊)様、後方へお下がり下さい。この場は某が受け持ちます」
そう言うと義頼は、幾度となく戦場を共にした獲物である打根を構えた。
そして彼の周辺には、藍母衣衆と馬廻り衆が展開する。そんな義頼が起こしたいきなりの事にいささかうろたえた北畠具豊であったが、何とか気を落ち着けると義頼の言った通り後方へと下がって行った。
やがて彼が本陣から消えると間もなく、道感率いる北條の精鋭が敵本陣へと殺到する。彼らは一様に義頼を目指したが、周囲を守る馬廻り衆や何より藍母衣衆に阻まれ、中々近づけなかった。しかしその時、僅かな隙でも突いたのかそれとも偶然だったのか包囲を抜けた者が居る。彼はそのまま、義頼へと肉薄したかと思うと馬から飛び降りつつ手にした得物で突きを放っていた。
確かな手ごたえを感じつつ放たれた突きであったが、何とその突きを義頼は打根で滑らせつつ受け流してしまう。しかし相手の勢いを、完全には受け流しきれない。そこで義頼は、その場から一歩分だけ後ろに足を下げる事でかろうじて避けて見せた。
この動きに突きを放った者、即ち道感は驚き僅かだが動きが止まる。それを好機と見た義頼は、手元で打根を回すと強かに相手を打ち据えるべく打根を振るう。だが道感は筈かに体をずらし鎧の胴で受けたので、それほど深刻な損傷とはなっていなかった。
すると両者共に、場違いなほどに清々しい笑みを浮かべる。とは言えそれは僅かな時間であり、両者はいきなり接敵していた。しかしながら、槍を持つ道感の方が間合いは広い。ゆえに先に攻勢を掛けたのは、道感であった。
彼は間合いに踏み込むと同時にすかさず突きを放つ。すると義頼は、体を開き避けて見せると間髪入れずに槍へ得物の打根を強かに打ち据えていた。それは丁度道感の体が伸びたところであり、避ける事も出来ない。まともに喰らい、槍の穂先は地面へと打ち付けられていた。
直後、義頼は体を回転させながら打根を横薙ぎに払う。決まるかと思われた一撃だが、道感は超人的ともいえる反応で自身の体をのけぞらせる。それと同時に彼は、片腕だけ槍より手放していた。
しかしてその義頼が放った攻撃を回避したが、予想したよりも上の鋭い一撃であった為に道感の兜の前立てが当たってしまう。次の瞬間、兜を止めている紐が切れると同時に兜が吹き飛ばされてしまった。
だが道感も、ただではやられない。攻撃によって地面へ穂先を打ち据えられた己の槍を、片腕一本で持ち上げつつ垂直に切り上げていた。ほぼ真下からの一撃に、義頼の反応が一瞬遅れる。その様子に「貰った!」と思った道感だったが、そうは問屋が卸さなかった。
義頼は自身に槍が当たる直前に後ろへ倒れ込む事で、その攻撃を避けて見せる。しかし完全には避けられず、槍の穂先は彼が身に着けている鎧の表面に一筋の傷跡を残していた。
幾ら無理な体勢からの切り上げだったとは言え己の一撃を紙一重だとは言え避けられた事に、驚きの表情を道感が浮かべる。その為か、隙とも言えない僅かな隙を生んでしまった。すると義頼は、受け身を取って何とか立ち上がる。そのまま懐に手をやると、打矢を放っていた。
道感の顔目掛けて投げられた打矢は、真っ直ぐに突き進む。だが一筋縄ではいかない相手であり、寸でのところで避けるとその攻撃を凌いでいた。
「やるな若造」
「そなたこそ、老躯」
お互いの攻防中で僅かに生まれる齟齬を突くかの様な鬩ぎあいをしているにも拘らず、両者は不敵な笑みをも浮かべている。だが次の瞬間には、その笑みはなりを潜めた……かと思うと攻防が再開される。またしても先手を取ったのは、間合いが遠い道感であった。
しかし先程の様な鋭く、かつ狙ったかの様な攻撃ではない。手にした得物の槍を縦横無尽に振るい、嵐の様な乱撃を繰り出していく。そして受け手となってしまった義頼だったが、この男も尋常ではない。まるで小枝でも振り回しているかの様な道感の攻勢を前にして、その悉くを食らっていなかったのだ。
彼は時には避け、またある時は受け流し、ある時は受け止める。しかも僅かな隙をつく様に、打矢すら放って反撃をしていた。しかしながら、押しているのが道感なのは明白である。少なくとも傍目からは、そう見えていた。
そんな様子に、道感と共に義頼の本陣へ奇襲を掛けた北條の精鋭の気勢は上がる。しかし、気勢が上がっているのは義頼率いる軍勢も同じであった。
奇襲を掛けられた為に、一時的に命令系統の乱れが生じそれが前線の乱れとなり、ひいては北條氏繁の命による攻勢を産んでしまったのだが、義頼より配を預けられた馬淵建綱が、見事な采配で命令系統の乱れを収めてしまった。
それにより氏繁の采配でいささか北條勢が持ち直したどころか僅かながらも押し気味にまで推移したかに思えた前線であったが、再び織田・徳川連合勢へ傾き掛けたのである。その事を敏感に感じた北條氏繁は、大胆にも本陣の兵を幾許か裂き増援とした。
いささか危険な手であったが、ここで押し返されるよりはましだと判断したのである。いわば窮余の策であったのだが意外にも図に当たった様で、前線は一進一退の様相を呈し始めていた。
さてその様な前線は一先ずおいて置き義頼と道感であるが、見た目には変わっていない。相も変わらず道感が押し、義頼が凌ぐという構図に変化はなかった。だがしかし、よく見れば違いと言う物が現れ始めていた。
それは、両者の呼吸。これだけ激しい攻防をしているのだから、両者ともに息が乱れるのは当然である。しかしその度合いに明らかな違いが存在し、義頼に比べると道感の方が大きく息をしているのだ。
それは当事者である二人にも分かっており、道感は微かに顔を歪めている。 そして義頼は、訪れた反撃の機会に内心でほくそ笑んでいたのだった。
そう。
義頼は、意図してこの構図に持って行ったのである。勿論相手は道感であり、そう易々とできるとは思っていなかった。だが義頼は、徹底して防御や回避に専念する事で何とか意図した状況へと導いたのだ。
彼は自身と同等……いや経験を加味すればそれ以上かもしれない道感に対して細心の注意を払い、防御を行う。時には苦しくもあったが、何とか打矢による反撃なども交えて自身の考えが悟られない様にした。
ことここに至り漸く義頼の意図が見えたからこそ道感は、内心で舌打ちをしたのである。流石に当初は分からなかったが、自身の状態と相手の状態が把握できれば自ずと狙い目が見えてくるからだ。 しかし、だからと言って手を緩める訳にも行かない。相手の意図があったとはいえ、今は押しているからこそ防御に徹しさせているのだ。ここで攻め手を緩めれば、すかさず反撃し攻勢に転じるだろう。だからこそ、攻め手を緩める訳にはいかなかったのだ。
道感は疲れを感じる自身の体を叱咤しつつ、怒涛とも言える攻撃を続ける。これには流石の義頼とて、全てを避け防御するのは難しかった。実際、幾つかは槍の穂先が鎧をかすめているし小さな傷も幾つか負っているし、時には槍の薙ぎ払いによって間合いを開けられたりしている。それでも義頼は、致命傷に繋がる様な傷は負わずに道感の攻撃を凌ぎ避け続けていた。
その攻防は両者に取り、一瞬とも長き時を掛けたとも感じらていたであろう。しかし、ついにその均衡を崩す事態が訪れる。それは、道感の放った渾身の一撃だった。
自身の体力がそう長くは持たないと判断した道感は、捨て身に近い攻撃を行ったのである。そろそろ反撃をと考えていた義頼にとって、それは虚を突かれた形となる。回避も防御も間に合わないと判断した義頼は、あろう事か打根を手放したのであった。
「驚くあまり得物を手放すかっ!」
驚きやらあざけりやらを含ませつつ声を上げた道感だったが、そこで攻撃を止める様な事はしない。いささかの落胆を込めつつも、そのまま突きを放っていた。彼の持つ槍の穂先はそのまま義頼を貫くかと思われたが、しかし義頼は凡そ一歩分だけ体をずらす。そして何と、槍を脇に抱える事でその一撃を受け止めて見せたのだ。
だが、無傷とはいかない。道感の槍は鎧を切り裂き、義頼の体に傷を付けていた。しかしながら、大きな傷にまでは至っていない事は手応えで分かる。その為、すぐに槍を引こうとしたが、それは叶わなかった。
義頼ががっちりと槍を掴んでおり、びくともしないからである。押しても引いても動かない自身の得物に、道感は苦虫を噛み潰した様になる。仕方なく彼は、槍を手放そうと判断した。
だがそこで、義頼から腹から力を籠めた様な声が上がる。いきなりの声に虚を突かれた道感は、槍から手を放す機会を失ってしまう。次の瞬間、義頼は思いっきり踏ん張ると道感ごと脇に抱えた槍を振り回した。完全な想定外の事態に、如何な道感とて咄嗟に行動はできない。彼はそのまま、振り飛ばされてしまった。
それでも咄嗟に槍を手放したので事なきを得たが、それで終わる訳ではない。すかさず槍を手放した義頼に、間合いを詰められてしまう。慌てて身構え様とした道感であったが、間に合う筈もなかった。
槍を手放すと同時に接敵した義頼は、立ち上がり身構えようとしている道感の背後に回る。そのまま片腕で相手の腰を抱え、もう片方の腕を脇下から通して鎧の襟に当たる部分を掴むとそのまま投げを放った。
いわゆる、裏投げである。慌てて何とか受け身を取った道感であったが、不十分な態勢であった為に肩から落ちて痛めてしまった。
そして義頼だが、そのまま流れる様に道感の上に馬乗りになると脇差を抜いた。そもそもが、大柄な義頼である。彼に乗られては、道感と言えど身動きが取れない。それでも彼は、何とか逃れ様としたが上手くはいかなかった。
そんな道感の様子は、周りに居る北條兵からも見て取れる。何とか救出に向かいたいが、藍母衣衆や馬廻り衆と言った者達に阻まれ向かう事はできない。彼らにできるのは、逃れる様にと声を掛ける事ぐらいであった。
その様な北條兵の声を背に聞きつつ、義頼は脇差を相手の首に添える。それでも諦めずに体を動かしていた道感だったが、流石に動きを止めてしまった。それでなくても完全に圧し掛かられ、身動きもままならない。そこにきて、首には脇差を突き付けられている。これでは上に居る相手が誰であっても動きようがなく、完全に死に体と言ってよかった。
「まさか、此処で組討に持っていかれるとは。弓が得手と聞き、油断したか」
「降伏なされよ」
「……そうよな……とはいかぬわっ!」
一瞬同意したかのように見せてからためを作ると、道感は腹筋の力で馬乗りになっている義頼から逃げようと再度試みる。すると虚を突かれた形であった為、僅かに馬乗りによる拘束が緩んでしまった。
その隙をついて道感はするりと拘束から抜けると、転がって距離を取ってから立ち上がる。しかし次の瞬間、水月に衝撃を受けて道感は息が吸えなくなった。その理由は、言うまでもなく義頼である。不覚にも脱出させられてしまったが、彼は直ぐに行動を起こしていた。
そのまま、立ち上がろうとしている道感へ肩から突進したのだ。それがちょうど、立ち上がり正面を向いた道感の水月へと突き刺さったのである。義頼はそのまま雄たけびと共に持ち上げると、相手を回転させる様に投げ放った。
受け身もままならず背中から落ちた道感へ、今一度義頼が圧し掛かる。そして今度は、警告などはしなかった。
「覚悟っ!」
「……ぐっ……はっ!!」
『道感様ー!』
道感に脱出させられても離さなかった脇差を逆手に構えると、間髪入れずに首へ突き立てる。脇差は完全に首を貫き、切っ先は地面にまで達していた。それぐらい思いっきり突き刺された以上、誰が見ても完全な致命傷である。それゆえに、義頼と道感の戦いの結末を偶々見てしまった幾人かの北條兵から悲痛とも取れる様な叫び声が上がっていた。
脇差をそのままに、彼はゆっくりと立ち上がる。それから母衣衆や馬廻り衆へ、改めて北條兵を討ち取る様に命じた。一様に返事がある先から、次々と北條兵が討たれていく。中には義頼目掛けてこようとする北條兵もいたが、到達する前に次々討たれていった。
あらかた片付いたと思い、義頼は脇差を抜き納刀すると己の得物である打根を拾おうとする。その時、視界の端に何かが光ったと思ったその時、背筋を悪寒が走り抜ける。すると義頼は、そのまま前に転がっていた。
次の瞬間、彼に対して何かが飛翔する。それは苦無であり、義頼の鎧に傷を付けたがそれだけである。攻撃された事だけを理解しつつ立ち上がった義頼だったが、すぐに視線を向けるとそこには片腕を力なく垂らした忍びらしき者が居た。
そこで義頼は、咄嗟に手首を返して紐を引く。すると紐によって繋がっている打根が、己の手に戻ってきた。愛用の武器の持ちなれた重さに安心しつつ、義頼は構える。そしてもう一方の手は懐に忍ばせた打矢へ伸びていた。
さて義頼と対峙している忍びはと言うと、風魔衆の二曲輪猪助である。彼は対峙していた甲賀衆の上山新八郎を己が腕の怪我と引き換えに倒すと、道感を追ったのである。そして今先ほど、義頼が脇差を納刀した直後にこの場へ現れたのだ。
状況は判別できなかったが、地面に倒れている道感と彼の首についた傷から討たれた事が分かる。 ならばせめて首だけでも持っていこうと考え、丁度屈んでいた義頼へ飛苦無を投げつけたのだ。
本来ならば手傷を負わせその隙に首を持っていこうと考えたのだが、避けられた事でその目論見が崩れてしまう。まさか奇襲を避けられるとは思ってもみなかったが、事実は変わらない。しかも構えられては、本来の目的だった道感の首すら持ち帰ることは不可能である。ならばと二曲輪猪助は、即座に踵を返した。
その理由は、言うまでもなく北條氏繁への報告である。道感は既に討たれ、彼が率いた別動隊も壊滅。おそらく生き残っているのは、風魔衆ぐらいである。であるならば、一刻も早く戻り策が失敗した事を道感の討ち死にも含めて報告する必要があるからだった。
走り去っていく二曲輪猪助を、義頼はじっと見つめていた。
討とうと思えば討てるだろうが、ここは敢えて見逃している。それは道感の死亡を、敵へ齎すためだった。本来であれば噂として流すつもりだったが、幸か不幸か二曲輪猪助が現れている。ならばその情報を持って行かせた方が、確実だと考えたのだ。
それは十中八九、彼の者が北條勢だと当たりを付けたからである。味方ならばすぐ声を掛ければいいだけであり、飛苦無を投げしかも対峙までしたのだからその判断は当然だった。
「宜しいので?」
「構わん宗厳。これで敵味方問わず、道感の死亡の報が駆け巡るだろう」
「まぁ、確かに」
「であろう? だから、あの者に任せる。それはそうと道感の処置、任せていいか?」
「はっ」
その後、義頼は馬淵建綱から配を受け取ると、再び軍の指揮をとり始めた。彼は援軍として前線に兵を送る。この増援によって、前線の趨勢は少しづつ義頼率いる軍勢へと傾いていく。そして道感の処置を頼まれた柳生宗厳はと言うと、命通り首を討ち取ったのであった。
一方で走り去った二曲輪猪助は、途中で風魔衆と合流する。やはり幾人かは討たれていたが、全滅とはなっていなかった。こうして風魔衆と合流を果たすと、彼は北條勢の本陣へと向かう。そこで彼は、策の失敗と道感の死を伝えたのであった。
「そ、そんな馬鹿な事があってたまるかっ!」
「しかし、確認致しました。あれは間違いなく、致命傷にございました」
「そ……そんな……ち、父上が……な、亡くなっただと!?」
「御意」
「……いかがなさいますか? 左衛門大夫(北條氏繁)様」
衝撃を受けている氏繁に対し、多目元忠が声を掛けた。
いささか冷たいともとれる対応だが、それも仕方がない。奇襲も失敗し道感も死亡とあっては、味方に与える衝撃が大きすぎる。その衝撃が軍全体へと広がる前に、手を打たねばならないからだ。
それを行うにあたっては、大将である氏繁がしっかりとしている必要がある。ゆえに氏繁へ対し、冷淡とも取れる態度と声を掛けたのであった。
そんな多目元忠の言動に怒りを覚えたのか、氏繁は乱暴に元忠の胸ぐらを掴むと睨みつける。しかし彼の目に悲しみの色が見えた時、急速に沸騰した頭が冷めてくる。そうなると、元忠が敢えてその様に言ったのだと判断できた。
よく考えれば、父親との将としての付き合いは元忠の方が氏繁よりも上である。それであるにも拘らず、冷酷とも取れる様な言葉を発した。そこに込められた意図を完全ではなくとも理解した氏繁は、胸倉から手を離す。それから一度、義頼がいると思われる敵本陣の方へと視線を向ける。それから間もなく視線を戻すと、全軍撤収の命を出した。
その上、彼は自身が殿となるつもりであった。
ここで敵を食い止め、いささかでも負け戦の損害を減らそうと考えてである。だが、その意見に即刻否を口にする男がいる。聞き覚えのある声に誰かと思い視線を向けると、そこに居たのは沼田康元だった。
彼は上野国沼田氏の姓を名乗っているが、氏繁の弟に当たる人物である。その沼田康元の進言には、多目元忠も賛成した。彼は北條一門であり、かつ道感の息子である。大将たる北条氏繁の代理としては、充分な人選だからだ。
「……父上に続き、お前までもか」
「兄上。 分かっておいでなのでしょう? これが最善だと」
「それは、そうだが……」
「北條左衛門大夫氏繁! そなたは大将であろう、これ以上は言わせるなっ!!」
諫めているのか、それとも叱咤激励なのか。
何であれ弟の言葉で、氏繁の腹が決まる。彼は一切の表情を浮かべる事なく、弟へ殿の命を出す。康元はしっかりと返事をすると、踵を返したのであった。
地黄八幡との決着です。
ご一読いただき、ありがとうございました。




