第二百四話~北条康種の死~
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第二百四話~北条康種の死~
いきなり前方で紅い華が咲き、勘とも悪寒ともいえない何かに従い体を捻る。 その途端、肩の辺りに異常なまでの強い衝撃があったかと思った次の瞬間には馬上より叩き落されたのである。 これには北條康種も、何が何なのか訳が分からなかった。
しかしそれは、馬上から叩き落された事による衝撃で僅かの間でも意識が飛んだ事にも原因がある。 つまり意識の混濁があったせいで、記憶の前後で繋がりを失ったせいであったのだ。
しかしそんな事は、突如に襲ってきた痛みによって雲散霧消する。 痛みが感じるままにその場所を確認すると、己の肩か腕かと言う境界辺りに一本の矢が突き立っていた。 それも、ただ刺さっているのではない。 鎧の袖を貫通し、その上で前述した微妙な辺りに突き立っている。 いや、それどころの話ではない。 よく見れば矢は上腕を貫き、鎧下に着込んでいる鎖帷子をも抜き体へと刺さっているではないか。
その威力を目の当たりにし、まさかとの思いを強くしていた。
しかもその矢は全くをもって見覚えのない代物であり、それは味方の誤射によるものではないと言う証左であると言える。 であるならば答えは一つしかなく、敵によって撃たれたという事実だけであった。
更に言えば、撃たれる前に起きた現象から推察するに、偶然などではなく狙われたのはほぼ間違いがない。 この敵味方が入り乱れる戦場で、狙いを違う事なく弓で狙うなど尋常ではない腕である。 その上、康種の前に一人貫かれている。 自身が矢を喰らう直前に広がった紅い華、即ち飛び散った血こそが正に証であった。
「……ね! 康種!! 大丈夫か!?」
「…………え? あ、ああ。 もんだ……いはないです叔父上」
「拙者の目には、そうとは映らぬが。 兎に角、矢を処理するぞ」
「え……ええ。 頼みます」
副将として従軍していた叔父の高橋氏高が駆け寄り声を掛けたが、その体に突き立つ矢に眉を顰めた。
その様な表情をしているとは気づかずには態勢を直そうとした康種であったが、その途端に腕よりも体の方から痛みが走る。 しかも矢が刺さっている脇辺りからの痛みが特に酷く、体を動かす度に痛みが走るのだ。 しかしながら、鎧が邪魔でどれだけの傷なのかを確認する事ができない。 だがそこは、己が体に起きている事である。 凡そであるが、把握していた。
痛みの度合いから、深手であるのは間違いない。 しかも、行動を阻害しているときている。 更に言えば、何故か息苦しさと動悸を感じるだけでなく、若干だが咳も出ていた。
敵味方が入り乱れている戦場において、この状態は非常に不味い。 思うように動かせぬとなれば、足手纏いになりかねないのだ。 何より、今まで自身が行っていた混乱した先鋒の鎮撫に齟齬が出始めている。 詰まるところ、戦場の空気が再び織田勢へ押されている様な雰囲気となっていたのだ。
そこで康種は、少し咳き込みながらも体を支える叔父へ己が役目の代行をする様にと命じる。 叔父の氏高も康種の父親である北條綱高には落ちるが歴戦の将であり、その名をもってすれば康種の代理は十分に務まるのだ。
とは言え、それは怪我人である甥を置いて行く事に他ならない。 しかしながら、康種の言い分も分かる。 仕方なく氏高は数名を残すと、馬を駆って行った。
そんな叔父の背を見送った後、康種は一先ず移動をする為にと家臣の力を借りて何とか立ち上がる。 しかし相も変わらず痛みや息苦しさにさいなまれた状態であり、行動が阻害されてしまう。 これでは馬に乗って移動どころか、馬に跨る事も叶わない。 そこで家臣達は、康種を静かに移動させ様とした。
その時、周りを警戒していた者が突然倒れる。 何事かと見れば、何処から飛んできたのか分からない矢が突き立っていた。 どうも刺さっていた方向から考えるに、味方の誤射か流れ矢らしい。 どうやら相当に混乱をきたしている様子であり、彼らは一刻も早く康種を担ぎながら移動を開始したのであった。
すると幸いと言っていいのか、相も変わらず周囲の混乱が完全に収まっていないこの状況が吉となる。 皮肉な事に、混乱しているが故に、誰もまだ康種らの行動に注意出来ていなかったのだ。
これならば脱出もできる可能性もあろうと、更に気を付けて静かに移動を始める。 少しずつであるが主戦場から離れていき、これで漸く一息付けようかと思われた矢先、突然康種が咳き込む。 彼は、数度むせたかと思うと、咳と共に血をも吐き始めた。
こうなってしまっては移動も難しく、先ずは安静にさせようと地面に横たえる。 それから来ている鎧の紐を緩め、いささかでも楽にさせた。 それで少しは楽になったのか、咳も止む。 しかし呼吸は苦しいらしく、喘鳴音が聞こえていた。
「殿……」
「何とするならば、介錯が必要ですか」
突然降って湧いたかの様な声に、康種を運んでいた者達が一斉に得物を手にする。 しかしてその行動は、既に遅い。 何時の間にか、周りを兵に囲まれていたからだ。
その上、敵とも味方とも分かりかねない状況であり、気が抜ける状況ではない。 そんな周りの状況には流石に気付けたらしく、康種はさいなまれる辛さからか瞑っていた眼を開いた。 それから周囲をゆっくりと見止めた後、自分の正面に居る将と思わしき者へと。 そこに佇むのは、若い人物であった。
康種とてまだ三十半ばぐらいの年齢だが、そこに居る男はさらに若い。 年の頃ならば二十半ばになるかならないか、それぐらいの年齢であると思われる。 その様な若い男が、敵とも味方とも分からない手勢を率いているのだ。
しかも康種には、その将に見覚えがない。 その事実が導き出す答え、それは正面に居る将もそして取り囲んでいる兵も味方である可能性が極めて低いという事であった。 ならばと康種は、息苦しさの中で何とか言葉を紡ぎ誰何する。
すると、男は軽く笑みを浮かべてか礼節を弁えながら名乗りを上げる。 その名前に康種は無論の事、彼の周りに居る者達も呆気に取られてしまう。 その反応に聞こえなかったのかと、男は今一度名を告げていた。
「拙者の名は、井伊次郎頼直。 我が義父、六角左衛門督義頼が命によりこの地へ推参した」
『ば、馬鹿な……』
驚愕の表情と共に漏れた異口同音に、彼らの気持ちが如実に現れていた。
そもそも井伊頼直が、何ゆえにこの場までこれたのか。 その理由は、いささか時を戻す事で判明する。 それは、狙撃された康種を一先ず避難させようとした時点での話だった。 そこで、北條の兵が矢を受けて一人倒れている。 体に突き立った矢の方向から、誤射か味方の流れ矢かと思われたのだが実はその男、矢が刺さっていた訳ではなかった。
であるならば何ゆえに矢が突き立ったかの様になっていたのかと言うと、それは彼が北條の兵ではなく義頼が北條勢に対して忍ばせた忍びの一人であったからだ。
そう。
ここで倒れる事で、義頼へ康種の所在を報告しようとしたのである。 そしてその試みは功を奏し、彼は康種らが退いた方向を確認すると、急ぎ戦場より離脱している。 間もなく黒川久内と合流したかと思うと、彼に報告した。
報せを受けた黒川久内はと言うと、直ぐに康種の行方について義頼へ報告している。 その報を聞くと、暫く考えてから義息の井伊頼直を呼び出すと、彼に北條康種の捕縛か若しくは討伐を命じた。
本来であれば混乱の中奮闘する北條一門の者に対する礼儀として、自身が向かいたいと言う思いがある。 しかし今は、総大将として相対しているのでそう言う訳にもいかない。 そこでせめてもと思い、義息である井伊頼直に命じたのであった。
彼は八介の一家である名門井伊家の嫡子であり、此度の戦が終われば井伊家の家督を譲る事でお圓の方(井伊直虎)とも話がついている。 その彼ならば、若くても代理として問題はないと判断したのだ。
しかし、危険な事に変わりはない。 そこで義頼は、頼直に旗下の井伊衆とは別に本陣へ詰める兵の一部を預ける事にし、更に藍母衣衆から北畠具房と可児吉長を同道させた。 その様な彼らと共に戦場に降り立つと、余計な戦闘を避けて黒川久内や彼の配下の者達の案内で康種の元へと向かう。 多少は迷ったり北條勢との小競り合いを行いながらも頼直は、彼らを見つけたのだった。
さて、話を戦場に戻す。
頼直率いる兵に囲まれている北条康種らだが、情勢は極めて悪い。 最早、半円に取り囲まれた状況である。 後方にはまだ逃げ道もあるが、康種自身の怪我が重く機敏に動けない時点であまり意味がない。 かと言って、周りは混乱の真っただ中であり助けを求めても答えが来るとは思えなかった。
しかも、この場に居る兵数でも完全に頼直率いる兵の方が上まわっている。 この状況でどうにかしろと言うのは、中々に厳しいものがあった。
「如何なされる?」
「……腹を切るだけが武士ではないわっ!!」
先ほどまで目を瞑り苦し気にしていた男とは思えない程の気勢が、康種より放たれる。 声こそ大きかった訳ではないが、北條一門に名を連ねる一人の武士としての姿がそこにはあった。 その様な気勢を当てられた為か、頼直の乗る馬が恐れた様に慌て始める。 しかし彼は、巧みな手綱捌きで落ち着かせていた。 流石は六角家に来て以来、義頼の義息としてそして弟子として馬術についても教えを請うた頼直であると言えた。
彼が馬を落ち着かせた頃、康種と彼と共に戦場から離脱しようとした北條の者達も己の得物を構えている。 その姿に康種の答えを見た頼直は、静かに刀を抜きそのまま腕を振り上げる。 そして、一声と共に腕を振り下ろした。
「掛かれっ!」
『応っ』
「返り討ちにしてくれるっ!! 行くぞっ!」
「はっ」
怪我からと思われる息苦しさなど全く見せず、康種は頼直の声に返答する。 そしてそれが自身に対する叱咤であったかの様に、彼は兵と共に突撃を掛けていた。
彼らが標的としたのは頼直であるが、どれだけ意気込もうとそして死兵の覚悟があろうと数の差は非常である。 一人、また一人と討たれていく。 しかしそれは、突撃を命じた康種としても織り込み済みであり、彼の歩みは全く緩むことを知らない。 いくつかの傷を負いながら、それでも康種は頼直を目掛けて突き進んだ。
その時、感じていた敵の重囲がふと軽くなったかの様に感じる。 見れば前には敵兵の姿はなく、視線の先には馬に跨っている頼直の姿が見えるだけである。 起死回生の好機と捉えた康種は、もはや歩いているのかそれとも走っているのか分からない自身の足に最後の力を込めた。
すると次の瞬間、一気に距離が縮まる。 殺ったと思えたその時、その直前で刀が止まる。 いや、正確には一人の男に止められていたのである。 康種の放った一撃を止めたのは、頼直につけられた藍母衣衆の一人、北畠具房であった。
嘗て北畠家の当主であった頃には太り御所とまで揶揄された人物だが、彼の父親の北畠具教と共に六角家に仕官して以降は徹底的に鍛えなおされている。 その結果、具教からも藍母衣衆に推薦されるぐらいまでの腕の持ち主へと生まれ変わっていた。
その具房が、康種渾身の一撃を防いだのである。 まさか止められると思っていなかっただけに、彼が受けた衝撃は大きい。 例え一瞬だけでも動揺してしまい、そしてそれは今まで気力で抑えていた体の症状が噴出するに十分な理由となり得たのだ。
その直後、咳き込んだかと思うと大量の血を口から吐き出す。 吐血は止まらず、咳をする度に口から流れ出る。 その吐き出された血の量に比例するかの様に、康種の体から力が抜けていった。 もう、立っている事も叶わないぐらい力が抜けている。 それでも康種は、震える足を踏ん張って立ち続けていた。
その姿は、ある意味で美しいとも取れる。 己が吐き出した血に塗れていながらも、康種は具房に一種の感動すら与えていた。 だがそれは命が尽きる寸前の灯であったらしく、遂には力も入らなくなった康種はもたれ掛かる様に具房に体を預けてしまう。 咄嗟に受け止めたが、少し困ったかの様な表情をしつつ一先ず地面へ横たえた。
「……どうやらここまでか……貴公、名は?」
「北畠近衛中将具房にて」
「何と! そなたがあの……」
「何があのかは知りませぬが、恐らくはその具房にて」
想像はついているのだろう。
具房は、少しだけだが面白くなさそうな顔をしながらも問いには律義に答えていた。
何せ嘗ての彼を知る者は、大抵驚きをあらわにする。 以前の「太り御所」の片鱗などまるで見いだせない今の状況なので、ある意味で仕方がないのかも知れなかった。
それが分かっているので、気分をいささか悪くしても具房は何か文句を言うことなどしない。現在がどうであれ、彼は「太り御所」と揶揄されるぐらいだったのだ。
過去は消えないし、なかった事にもできないのだから。
兎にも角にも、やや不機嫌になりながらも答えた具房に対し康種は、未だに握っている柄ら指を解くとゆっくりとした動きで鞘にしまう。 そしてその刀を、具房に差し出していた。
「これは、いかなる仕儀か?」
「……この刀は、先代様より与えられた……地蔵行平……最後にして我が最高の一撃を……止めたその方に……くれて……やろう……」
その言葉を最後に、康種はこと切れた。
こうして奇しくも最期をみとる事となった北畠具房は、未だ康種の手にある刀を受け取った。 そこで改めて横たわる彼を見やると、体のあちこちが切りつけられているのが分かる。 だが出血があまりないところを見ると、恐らく鎧が傷ついているだけだと思われた。
その中にあって、異質と思われる傷がある。 それは、康種の上腕にある何かが貫いた様な傷だ。 しかもその傷は、康種の体を深く傷付けている雰囲気があった。
その様子から、矢による傷であろうと察しが付く。 しかし、腕だけばかりか鎧の袖についている貫通跡から鎧も貫通している。 鎧の袖と腕を貫通しただけでは物足りなく、更にそのまま胴体にまで到達し深手を負わせる矢傷など尋常な物ではない。 だが、一つだけ心当たりがある。 それは戦か始まって暫くした頃に放った、義頼の矢である。 しかもその時、記憶が確かならば一人敵を貫通している筈であった。
「……あのお方は、こと弓に関しては神の加護でもあるのでしょうか」
「全くだな、左中将(北畠具房)殿」
独り言の様に呟いた具房の声に反応したのは、頼直である。 だが二人がそう思っても、不思議はないだけの実績を上げていた。
割と多芸な義頼だが、その中にあっても弓は別格である。 元からの「弓術天下無双」や「今李広」、最近では「今与一」などともあだ名されているとは言えである。 具房にしろ頼直にしろ、弓は扱う。 しかしながら、義頼に弓で叶うとは思っていない。 それだけ義頼の弓の腕は、敵味方問わずに知れ渡っていた。
だが、彼らも武士である。 今は叶わないからと腐る気などはない、寧ろいい目標があるぐらいに思っているのだから彼らも大概だと言えた。
義頼の事は取り合えずおいて置き、先ずは戦の趨勢である。 混乱した北條勢先鋒の援軍を率いる大将を討ち取った事が分かれば、恐らく決着はつくと思われる。 そこで頼直は義頼へ報告させると共に、首を討つ様に命じる。 その命を受けて具房は、兵に亡くなった康種の体を支えさせると鯉口を切ると、次の瞬間には首を討っていた。
しかも首が飛ばない様に皮一枚は残しているあたり、流石は北畠具教の息子と言った風情であった。 具房は納刀すると康種の首を頼直に差し出したが、頼直は首を振る。 彼にはそもそも、例え直属ではなくとも部下の手柄を己が物とする気はないのである。 この辺りに関しては、義頼の薫陶を受けた結果と言えた。
それならば仕方がないと具房は、戦場に響けとばかりに声を張り上げて戦果を高らかに謳った。
「北條康種が首、北畠左中将具房が討ち取ったりっ!」
その声は、不思議なぐらい戦場へと浸透する。 それでなくても乱戦で混乱していた戦場であったところに出たその言葉は、味方たる織田勢には勢いを生み、敵である北條勢にはある意味で止めとなった。
攻勢を掛けている織田勢に押される様に、一人また一人とまるで櫛の歯が抜けて行くかの如く北條勢が逃げ出していく。 危うさの中にかろうじて保たれていた士気が、康種の死と言う言葉によって崩された瞬間だった。
こうなれば最早どうしようもない、雪崩を打ったかの様に兵がてんでばらばらに逃げ出していく。 これでは如何なる名将と言えど兵を押し止める手はなく、逆に逃走に巻き込まれてしまい完全に軍の体はなしていない。 その状況は、攻め手となっている織田勢に取って、追撃の好機である。 それから間もなく、家老で傅役でもあった沢井吉長に具豊が命を出し、その命を受けて伊勢衆ら彼の家臣と兵が追撃に入ったのだ。
とは言えやや遅れた感が無きにしも非ずとも思えたが、それほど致命的とも思えない。 彼らは当たると幸いに、逃げ惑う北條勢を次々と討ち取って行った。
当然だがこの様子は、北條勢の本陣からも伺える。 徳川信康や今川氏真らが率いる兵に奇襲されたとは言っても、そこは北條勢の本隊である。 多少は崩されたとは言え、本陣までの突破は許していなかった。
実際、信康や氏真は攻めあぐねていたのである。 奇襲部隊と敵本隊と言う兵数の違いがあったにしても、流石は関東に覇を唱えんとする北條の精鋭と言えた。 しかしその精鋭にも、徐々にだが動揺が広がり始めている。 それは康種が向かった筈の先鋒が、敵兵によって崩されて行っているのが見えているからだ。
今はまだ補っているが、それも何時まで持つか分からない。 とは言え、このまま座している訳にはいかない。 此処は、早急に手を打つ必要があった。
その手とは、味方に傷が広がらないうちに撤退に移るのである。 同時にそれは、父親を含めて先鋒を見捨てるに他ならない。 だがこのまま手を拱いていれば、先鋒を打ち破った敵兵が勢いのまま雪崩れ込んでくるのは必至である。 しかも敵勢が到達する前に、大砲が撃ち込まれるかもしれない。 そうなれば、飛躍的に被害は増える事になる。 それだけは総大将として、受け入れる訳にはいかなかった。
「左衛門大夫(北條氏繁)様。 此処は、撤退すべきと存じます」
その時、まるで氏繁の心のうちを見透かしたかの様に進言してきた者がいる。 誰かと視線を巡らせれば、それは多目元忠であった。 彼は北條家当代となる北条氏政の父親に当たり、今は亡き北條氏康に仕えた幕僚で、一説には彼の三人いた軍師のうちの一人とも目されている人物である。 その元忠だが、氏政に命じられてこの軍勢に同行していたのだ。 そして彼こそが、前述した北條勢でただ一人徳川信康や今川氏真らの奇襲を見破った人物でもあった。
その彼からの進言であり、今度も無碍にできない。 しかもその進言は、今まさに氏繁の脳裏によぎった撤退の二文字と同じなのである。 これでまたしても進言を取り上げねば、己は愚将であると自ら宣言している様な物であった。
だがそれは、乱れているとは言えまだ存命の先鋒とそして今は別動隊を率いている父親の道感を見捨てるに他ならない決断となる。 内心忸怩たる思いであるが、この場に居ないとはいえ退き時を間違えるなどと言う醜態をあの父親の前で晒す訳にはいかない。 氏繁は額に皴を寄せながらも、頷く事で元忠の言葉を肯定していた。
「分かっている。 後方より、順次撤退させよ。 それと、師岡将景。 そなたに兵を預けるので、小癪にも横腹へ奇襲を仕掛けてきた煩わしい敵兵を抑えてくるのだ」
「はっ」
氏繁が奇襲を仕掛けてきた敵勢をいささかうっとおしそうな表情をしつつ睨みながらも将景に命を与える。 すると、その命に従い師岡将景が北へと向かった。 そんな彼の役目だが、奇襲を仕掛けてきた徳川信康や今川氏真への対処である。 今のまま退去しても兵数の差からそう問題が起きるとも思えなかったが、できるならば危険は減らしておきたい。 ましてや撤退となれば、それは尚更であった。
その後、氏繁は急ぎ撤退の準備を始める。 機を見て、一気に兵を返すつもりだった。
しかしながらその時、前線で不可解な動きが発生する。 基本押し気味であった敵勢に、乱れが生じたのだ。 理由は何であれ、敵の動きに乱れが生じたのは事実である。 ならば此処がある種の潮目かと考えた氏繁は、撤退の準備を急がせつつも前線の動きを注視するであった。
北條勢、押されてます。
井伊頼直と北畠具房が頑張った……う、ん頑張った筈だ。
そして、義頼は一言もなし。 姿は登場してますけどね。
ご一読いただき、ありがとうございました。




