第二百二話~遠江国へ~
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第二百二話~遠江国へ~
義頼が安土を出陣した頃、久野城にいる徳川家康の元に三河国で起きた松平忠正蜂起の報せが忍びにより届けられていた。
その報告を聞き、少なからず動揺してしまう。 何と言っても三河国は、徳川家のお膝元である。 過去には松平家間の確執があったとはいえ、今は徳川家の旗の元に纏まっている……いや纏まっている筈であった。
少なくとも家康は、そう思っていたのである。 しかし、現実では三河国で挙兵騒動が起きている。 しかもこの蜂起によって、織田と徳川家の連合勢は敵に挟まれた格好となってしまったのだ。
「ま、正成っ! これは誠なのか!! 誠に三河で反乱が起きたと言うのかっ!」
「御意」
報告を持ってきた服部正成の口から洩れた肯定の言葉に、詰め寄っていた家康から力が抜ける。 するとまるで腰砕けの様に、床へ座り込んでしまった。
家康がその様な態度を取ってしまうぐらい、それだけ衝撃が大きかったと言える。 その後、少し呆けてしまったが、頭を振って意識を戻す。 それから正成へ、石川数正を呼んでくるようにと命じた。
一つ頭を下げてから部屋を出ていく正成の背を見つつ、内心で信康が浜松城に居る事に安心していた。 少なくとも徳川家の嫡子である息子が、松平忠正の蜂起に巻き込まれなかったからである。 唯一つ心配なのは、二男の於義丸の行方であった。
何せ武田家との戦で暇がなく、まだ顔を合わせていないだけに心配は大きかったと言える。 とは言え、今は無事を祈るしかないのが歯痒かった。
一方、部屋から出ていった正成は、程なくして見つけた数正に家康が呼んでいる事を伝える。 そして共に主の元へ向かう際中、三河国で起きた反乱騒動について話をした。 その話に驚きを見せたが、一先ず主の元へ向かうべきだと促されてそのまま家康の元へ向かう。 程なくして到着した部屋に入ると、挨拶もそこそこに事の真偽を確認した。
「殿っ! その騒動、誠にござますか」
「少なくともこの報告ではな」
「では、半蔵(服部正成)。 嘘ではないのだな」
「天地神明に誓って」
正成が此処まで言うのならば、嘘ではないのだろう。 そう結論付けた数正は、直ぐに家康へ今後の事について話し掛ける。 問われた家康は腕を組んで暫く考えた後で立ち上がると、数正へ北畠具豊に先ず話をしてくると伝えた。
どうせ同じ城内に居るので、伝えるのは直ぐである。 また伝令の者でもいいのにあえて家康が赴くのは、同盟関係にある織田家に対する礼儀の様な物であった。 何せ具豊は、信長の実子である。 しかも現織田家当主である織田信忠の同腹弟であり、礼儀を失する訳にはいかない存在でもあったからだ。
その具豊なのだが、彼は現在意気込んでいる。 その理由は、久方ぶりの戦であったからだ。 戦場である以上そこは手柄を立てる場であり、父親や兄へいいところを見せ様と張り切っていたのだ。 そこにきて、唐突な家康からの訪問である。 内心で何かあったのかと考えつつも具豊は、直ぐに通す様にと訪問の取次ぎをした小姓へ伝えていた。
それから間もなく、小姓に案内された家康が現れる。 するとかなり焦り気味であり、どうしたのかと訝しんでしまう。 そんな具豊の態度に全く頓着せず、ともすれば乱れそうになる言葉を家康はもどかしく思いながら三河国で起きた騒動について知らせる。 同時に、正成の齎した報告も提出していた。
「……こ、これは……誠ですかな? 三河守(徳川家康)殿」
「む、無論にございます。 酔狂で、この様な事を侍従(北畠具豊)殿へ申す訳ありませぬ」
「し、しかし……これは、どうすればよいのだ?」
狼狽え、部屋の中を歩き始める具豊の様子を見てさもありなんとも思う。 だが、一刻も早く対応を考えねば徳川の軍勢も織田の軍勢も北條家の軍勢に蹂躙されかねない。 一先ずはこの地を放棄しても、浜松城の信康と合流するべきだと考えていた。
家康からその旨を伝えられた具豊だが、彼も不承不承ながらも同意する。 本音を言えば、手柄を立てたいと言う気持ちが変わらずあるからだ。 しかしながら、今は後方を敵に遮られた形となっている。 幾ら戦にそれほど出ていない具豊であっても、今の状況が危急の時である事ぐらいは判別できたのだ。
こうして織田家の軍勢の大将である北畠具豊と徳川家の軍勢の大将である徳川家康との間で撤収の合意がなされた訳だが、それで終わりではない。 可及的速やかに、軍勢を引かねばならなかった。 そこで白羽の矢が立てられたのは、佐久間信栄である。 彼は父親の佐久間信盛の隠居に伴い、佐久間家の家督を継いでいる。 その信栄だが、彼も父親の信盛ほどではないにしても撤退戦を得意としていた。
更に、徳川家からも人員を出している。 家康が指名したのは、他でもない久野城主の久野宗能であった。 そして久野宗能の嫡子に当たる久野宗朝も、殿として残る事となる。 彼らはこの久野城に北條勢を引き付け、頃合いを見て先に軍を退いた織田・徳川の軍勢を追う腹積もりなのだ。
しかし、そうは問屋が卸してはくれなかったのである。 それは、北條勢がいきなり進軍速度を速めたからだ。 彼らは高天神城に籠る武田勢の抑えとなっている掛川城の石川家成と石川康通親子に対して軍勢の一部を回し動けないようにした上で、久野城近辺まで進軍したのだ。
これにより、北畠具豊率いる織田勢と徳川家康率いる徳川勢は、撤退の時期を失ってしまう。 こうなっては是非もなく、織田・徳川勢は久野城を出て北條勢を迎え撃ったのであった。
先鋒は徳川家の植村家存が務めていたが、先頭きって突撃してきた道感自らの手により打ち取られてしまう。 あまりにも早く先鋒が突破されてしまい、軍勢に動揺が広がる。 その変化を読んだのか、道感は「勝った、勝った!」と連呼しながら敵勢を切り開いていった。
それから間もなく、家康や具豊の元に家存の死亡が通達される。 続いて、怒涛の進撃を見せる北條勢の動きについても舞い込んできた。 その勢いは留まる事を知らず、織田・徳川の隔てなく突き進んでいる。 何れは、本陣へも到達できそうであった。
「……侍従殿。 援軍を送りましょう」
「え、ああ。 そうですな。 そうしましょう」
家康は榊原康政を、具豊は小川正吉を送り込む。 しかし北條勢は、笠原照重と北條康種当てて二人の相手をさせて、榊原康政と小川正吉の足止めをさせつつそのまま突き進んだ。
やがて、織田・徳川の本陣が見えてくる。 すると道感は、息子の北條氏繁に声を掛けた。
「このまま突き進む! 続けっ!!」
「はいっ、父上!」
この声はよく通り、織田・徳川の本陣にも聞こえてくる。 すると家康は、北畠具豊へ退く様に言う。 その言葉に首を何度も縦に動かして頷くと、彼は慌てて撤退に入っていった。
そして家康だが、彼は逆に軍勢と共に道感を迎え撃つべく出陣する。 今のままで撤退しては、追撃を受けてしまう。 敵からの追撃を回避する為に、勢いを削ぐ必要があったのだ。
「地黄八幡の首、貰い受けるぞ!」
『おうっ!!』
家臣からの力強い返答を聞きつつ、家康は刀を抜く。 そしてその刀を振り降ろすと、呼応したかの様に徳川勢が北條勢へ突貫した。 するとこの突撃からやや遅れてであるが、北畠具豊の軍勢からも突撃を開始した者がいる。 それは、織田忠寛である。 彼は、独断で家康に続く形で北條勢へ攻撃を行ったのだった。
その一方で安土を出陣した義頼と彼の軍勢だが、こちらは既に決着がついていた。
その経緯だが、話は少し戻る事となる。 具体的には久野城にて徳川家康と北畠具豊が話し合い、彼らが一先ず浜松城へ軍勢を退く決定をした頃の事であった。 彼は安土を出陣した後は鈴鹿峠に向かわず、そのまま琵琶湖沿いを進軍している。 やがて到達した関が原を抜け不破の地に差し掛かると、そこで尾張国へ進路を変えた。
程なくして尾張国へ入ると、途中で梶原義景などと言った尾張国人達と合流しつつ岩崎城へ向かっている。 やがて岩崎城近くに差し掛かると、そこで居城の岩崎城より出陣した丹羽氏勝とも合流を果たす。 その彼だが、義頼の軍勢と共に三河国へ向かう事を命じられた最後の尾張衆であった。
こうして丹羽氏勝の軍勢をも旗下に組み入れた義頼は、そのまま進軍して三河国との国境を越え岡崎城を目指す。 この素早い進軍に驚いたのは、松平忠正と大賀弥四郎らであった。
彼らの思惑では、先ず浜松城を攻めて徳川信康を討つ。 その後に、無事ならば恐らく撤退してくるであろう徳川家康と北畠具豊を蹴散らし、あわよくば彼らを討ち取ったであろう北條家の軍勢と共に信長が差し向けた軍勢を迎撃すると見当をつけていた。
しかし、早くもその前提が崩れてしまっている以上は、先ず織田信長が派遣した軍勢を討たねばならない。 しかる後、返す刀で遠江国へ侵攻する。 つまり、前後を入れ替えたのだ。
彼らは岡崎城に幾何かの兵を残して出陣すると、鴛鴨城跡に陣を敷く。 鴛鴨城は嘗て西福釜松平家の居城であったが、居城を現当主に当たる人物が移したので廃城となっている。 その城跡を利用して、迎撃するつもりであった。
この動きだが、当然ながら義頼も把握している。 既に三河国へ入っている忍びより情報が入ると、直ぐに軍勢を率いて鴛鴨城跡へ向けて進軍した。 程なくして鴛鴨城跡近辺に到着した義頼の軍勢と、城に籠る松平忠正らの軍勢が睨み合う。 すると義頼は、陣を張りつつも警戒を密にする様に通達する。 特に夜襲には気を付ける様にと、厳命していた。
しかしてその命は、無駄にならない。 義頼が警戒した通り、松平忠正は夜襲を仕掛けてきたのだ。 味方の方が敵よりも軍勢が少ないので、機先を制する為に到着したその夜を狙ったのである。 だが義頼の厳命により、夜襲には特に気を付けていた相手では話が違ってくる。 首尾よく夜襲を成功させるつもりの奇襲部隊であったが、攻撃を仕掛ける前に敵へ気取られてしまった。
夜陰に乗じた松平忠正が仕向けた奇襲部隊であったが、気付かれてしまっては元も子もない。 奇襲どころか反撃を浴びせられ、全滅してしまう。 その報告を聞いた義頼は、警戒は続ける様に重ねて命を出した。
流石に続いての夜襲はないだろうと思っていたのだが、本多正信より警戒は続けるべきだとの進言を受けたのである。 その言葉に義頼は、前述の命を出したのだった。
果たして続いての夜襲はなく、翌日の日の出を迎える。 結果的には警戒が無駄になった訳だが、油断するよりはましである。 そのお陰もあってか、特段何も言わずに朝餉を迎えていた。
その後、展開するが相手は城跡に籠っている。 そこで、安土によった際に受け取った新式の砲を試す事にする。 元は中国地方へ送られる筈だったのだが、義頼が急遽東海へ向かう事となったので安土で受け渡しする様に手筈を整えたのである。 そして指導という意味もあって、三雲賢持も合流していた。
こうして賢持指導の下、新式の砲が急ぎ組み立てられる。 まだ慣れていないという事もあって多少は時間が掛かっていたが、それでも無事に組み上がっていた。
組み上がった大砲に、これまた実戦では初めてとなる有翼弾を装填する。 まだ義頼の提案した炸裂する段階までは至っていない砲弾だが、使用自体には何の問題もないので実戦投入の運びとなったのだ。 装填が終わると、有翼弾を発射する。 風などの影響を受け少し流れているが、それでも命中精度は以前よりましであった。
放たれた有翼弾は、急遽修復された鴛鴨城跡の土塁や急ぎ作られた物見櫓等に当たり破壊を撒き散らす。 これには松平忠正や大賀弥四郎らは、驚愕する。 幾ら廃棄されていたと言っても、城砦に違いはない。 当然だが、防御拠点としての役目を期待されていた。 だが、それも大砲によってあまり意味をなしていない。 土塁越しに直接城内を攻撃されているし、土塁も吹き飛ばされている。 崩壊までは至っていないが、それでも同じところにもし何発も喰らえばどうなるかわからない。 何より城内の施設を直接攻撃されて被害をこうむれば、例え土塁が持ったとしても意味などないのだ。
大砲が多数と言った状況にはないようだが、それも現状では慰めぐらいでしかない。 彼らが半ば呆気にとられていると、ひと際大きな音が響いてきた。 慌ててそちらを見ると、大手門が崩壊している。 それと同時に、敵勢から鬨の声が響いてきた。 考えるまでもない、敵勢が攻め寄せてきたのである。 その声で我に返った大賀弥四郎は、急いで行動を起こす。 大手門が崩壊している以上、敵の軍勢を押し止めるなど無理である。 ならば敵が押し寄せてくる前に、急ぎ脱出する必要があったからだ。
この行動で我に返った他の者達も、大賀弥四郎と同様に落ち延びるべく行動を開始する。 しかしそれは、遅きに失していた。 彼らの行動を、義頼らが予測しない訳がない。 可能性を考慮して兵の一部を既に後方へと回し、岡崎城との連絡を遮断していたのだ。
これにより、彼らはことごとく捕らえられてしまう。 松平忠正も大賀弥四郎も、逃げること能わず連れて来られてしまった。
その結果、兵を挙げた主だった者が、義頼の前で雁首を揃えている。 そんな彼らに対し、義頼は兵を挙げた理由を問い掛けた。 しかし、彼らからの返答はない。 悉くが真一文字に口を閉ざしており、一向に返事がなかった。
「……敗将は黙して語らず、か」
『…………』
「まあ良い。 閉じ込めておけ」
「御意」
義頼の命によって、松平忠正らは捕らえられた。
この三河国は徳川家の所領であり、この反乱騒動も本来は徳川家の問題である。 しかし掛かる事情が事情であるので、信長の命により徳川家に成り代わって反乱騒動を収めたのだ。 その為、捕らえられた彼らの処遇は徳川家にある。 徳川当主の家康が存命である以上、実情は何であれ同盟相手の家臣を勝手に裁く事は出来なかった。
これが戦の最中であれば討つ事も可能であったが、彼らは不利を悟ると岡崎城めがけて撤退をしてしまっている。 そんな彼らを生け捕ったのである以上、先ずは家康の反応を確認しない訳にはいかなかったのだ。
兎にも角にも、三河国で徳川家に対して反乱を起こした者達の主力を打ち破った義頼は、一先ず進軍を止める。 その上で、岡崎城へ軍使を派遣する。 この軍使だが、岡崎城の城代として残っている山田重秀の顔見知りを差し向ける。 その者は、伊奈忠家であった。
そもそも伊奈氏は家康の父親である松平広忠の頃より徳川家に仕えた家であり、そして伊奈忠家も嘗ては家康に仕えていた。 しかし三河一向一揆の際に彼は息子の伊奈忠次と共に一向宗へ味方しており、その経緯から徳川家を出奔していたのだ。
その後は各地を放浪し、ついには六角家に仕えていた本多正信と岸教明の伝で仕官したという経緯を持っている。 つまり彼は三河国人であり、徳川家がまだ松平の姓を名乗っていた頃の家臣であった。
そして山田重秀も、忠家の事は見知っている。 嘗て同じ主君に仕えた家臣というぐらいの関係だが、全く知らない者よりはいいだろうと任じられたのだ。 軍使として岡崎城に到着した忠家は、すぐに通される。 やがて城の広間で面会が叶うと、義頼の書状を差し出した。
そこには松平忠正らが既に敗れている事、更には降伏を促す文が記されている。 その書状を山田重秀は、狼狽える事なく読み終えた。 なぜ彼が取り乱さなかったのかというと、既に知っていたからである。 確かに義頼の軍勢を迎え撃った軍勢は敗れ捕らえられたが、全員が捕らえられた訳ではない。 中には逃げおおせた者もおり、その者から聞き及んでいたからだ。
一方的に敗れたという知らせに始め訝しんだ重秀だったが、こうして敵の軍勢に取り囲まれている事を考えれば疑う余地などない。 報告に合った通り、敗れたと考えるのが自然であった。
「……事は逸した……そう言う事ですか」
「そうだ、八蔵(山田重秀)殿。 ここで岡崎城に籠ったところで、後などないわ」
「でしょうな…………分かりました仁兵衛(伊奈忠家)殿、降伏致します」
いくら城に籠っているとは言え、彼我の兵力差では如何ともしがたい。 しかも逃げてきた兵の報告では、土塁越しに攻撃されている。 これでは抵抗したところで、結末は目に見えていた。
それに、書状によれば松平忠正や大賀弥四郎らも捕らえられている。 なれば兵を起こした者として、最後まで彼らに付き合うのもまた一興というものであった。
此処に山田重秀も降伏し、三河国で起きた反乱騒動も決着を見る。 後の事は、三河国人に任せるより外はない。 何せ彼には、早々に遠江国へ進軍して北畠具豊らを助けてそして北條勢を押さえあわよくば押し返すと言う任がある。 何時までも、この反乱騒動にかかずらわっている暇などないのだ。
一先ず、城内を探索した上で岡崎城へ入った義頼はこの反乱騒動に加担しなかった徳川家臣たる三河国人の登城を求める。 すると、程なくして徳川信康の重臣である天野康景と共に本多重次の兄、本多重富が登城してくる。 しかも彼らは、一人の子供を伴っていた。
その子供は、何と於義丸であった。
「おおっ! 無事であったのか」
「左衛門督(六角義頼)様は、於義丸様をご存じなのですか」
「話だけは聞いている」
「そう……でしたか」
於義丸の存在だが、実はあまり知られていなかった。
前述した様に徳川家が武田攻めに忙しく家康が於義丸との面会を果たせずにいる関係から、家中においても知る者があまりいないからである。 しかし義頼は、忍び衆からの報告で徳川家に於義丸という名の二男が居る事だけは知っていたのだ。
最も、今回の騒動で岡崎城が落とされていたから死んだだろうと思い気に止めていなかったのだが、此処にきて於義丸が生きていた事は義頼にとってありがたい報告であった。
於義丸が幼いとは言え、徳川家康の息子である。 名目上であろうが、三河国を任せるのにこれ以上の大義名分はない。 言わば神輿だが、数えで三才でしかない於義丸である。 神輿とする以外には、どうしようもないのだ。
そこで義頼は、同行してきた二人へ三河国を任せる。 於義丸という存在もあるので、徳川信康の重臣である二人が中心となれば抑えるのもそうは難しくないと思えたからだ。
その一方で、天野康景だが彼は驚きを隠せない。 徳川家中でもあまり知られていない於義丸を、他家の一家臣でしかない義頼が把握している。 確かに彼が忍び衆を用いているのは知っていたが、如何にそうであったとしてもこの情報収集能力はそら恐ろしいものがあった。
しかし今は味方であり、かつこの三河国で起きた反乱を僅かの間に鎮圧した立役者である。 敵に回す様な言動は避けるべきだと、康景は心に決めた。
「承知致しました左衛門督様。 殿(徳川家康)と若殿(徳川信康)をお願い致します」
「うむ」
僥倖にも三河国を任せる手はずを整えることができた義頼は、天野康景と本多重富に託すと早々に浜松城へ向けて進軍を再開した。
しかしてその浜松城だが、混乱状態である。 三河国で起きた反乱もさる事なのだが、北畠具豊が撤退してきた事で更に輪をかけていた。 しかしながら北畠具豊とて、混乱を起こしたかった訳ではない。 彼も彼なりに、何とか旗下の兵を抑えていた。 そのお陰もあり、徐々に混乱が収まっていく。 その事に安堵した徳川信康と北畠具豊であったが、そこに舞い込んだある事実が再び混乱の坩堝へと浜松城を落とし込んだ。
その事実とは、家康の負傷である。 北畠具豊を撤退させたうえで北條勢を迎え撃った徳川家康であったが、相手は老いたとは言え名にし負う道感(北條綱成)である。 彼が率いた北條勢は差し向けた徳川勢を破ると、家康のいる本陣へと切り込んだのだ。
道感は相対する徳川の兵を切り捨てつつ家康に迫ったが、寸でのところで一人の徳川の将に邪魔をされる。 彼をして押し止めたのは、本多忠勝であった。 その武勇から、嘗て武田信玄の側近である小杉左近から「家康には過ぎたるモノ」と称された彼は、その名に恥じぬ活躍で「地黄八幡」を押し止めたのだ。
しかし、北條勢には彼だけではない。 彼の息子である北條氏繁もいる。 氏繁は相対した織田忠寛を討ち彼の軍勢を蹴散らすと、やや遅れて徳川家の本陣へと雪崩れ込む。 それは丁度、本多忠勝の活躍でわずかに一時を得た家康が撤退に入ろうとしたまさにその時であった。
徳川家康にとっては最も嫌な時に、そして北條氏繁にとっては最もいい時に二人は対峙する。 一瞬だけ見合うと、先ず氏繁が動く。 彼は手にした槍を用いて、電光石火の一撃を放った。 咄嗟に得物で払おうとしたが、思いの他その突きが鋭い。 完全にいなす事はできず、その一撃を肩に貰ってしまった。
但しこれは、別段家康が弱いと言う訳ではない。 氏繁の突きが素晴らしかった事と、いささか家康が動揺していた事によるものである。 だが一撃は一撃であり、しかもその傷は決して浅くはない。 家康が万全の状態でならばまだしも、現状では相当に不味い状況と言えた。
思いもかけない好条件であり、氏繁にとっては千載一遇と言える。 この好機を逃がすつもりなど、彼にはなかった。 氏繁は、矢継ぎ早に攻勢をかける。 家康は必死に防戦するが、そもそも片手が使えない状況ではいなす事も反らす事もままならない。 少しずづではあるが、傷を増やしていった。
それに伴い、当然血も流れる。 出血の量が増えるほど、反比例して動きが鈍くなる。 遂に家康は、横薙ぎの一撃を頭部に貰ってしまった。 しかしてその一撃だが、兜のおかげか一撃死とはなっていない。 だが兜に付いていた飾りは吹き飛び、兜も多少変形していた。
それぐらいの一撃を貰った家康の意識は、半ば飛んでいる。 次に一撃を加えられれば、避けるなどまず無理な状況であった。 氏繁は不敵な笑みを浮かべつつ、止めとなる一撃を家康に向けて放つ。 しかしながらその一撃は、僅かの差で届く事はなかった。
「殿を討ち取らせるわけには参らぬ!」
「誰だ!!」
「我が名は、渡辺半蔵守綱なり!」
「ちっ! 槍半蔵か!!」
そう。
槍半蔵こと渡辺守綱が、危機一髪のところで家康を救ったのである。 彼は家康の旗本足軽大将として幾多の戦に参加し、数多くの勲功を上げてきた。 武勇も並外れたものがあり、槍を得意とするところから槍半蔵のあだ名をつけられていた男であった。
武勇という意味では氏繁も負けないが、流石に守綱の相手をしつつ家康を討ち取るなど無理である。 それどころか全力で当たらねば、逆に討ち取られかねない。 氏繁は忸怩たる思いを抱えながら、守綱に視線を合わせた。
「殿! 拙者が相手をしているうちにお退きなされ!」
「…………あ?……あ、後を頼むぞ」
「はっ」
守綱の声でようやく意識がはっきりとしたのだが、怪我もあって状況を飲み込むまでに少し時間が掛かってしまう。 それでも現状をどうにか把握した家康は、血が流れる頭を抑えつつ何とか撤退に入る。 その行動を見逃さるを得ない氏繁は、せめてもの思いを込めて鋭く睨みつけるのであった。
なお、二人の戦いだが決着がつく事なく終わっている。 守綱にしてみれば足止めすればいいだけであり、無理に倒す必要もない。 氏繁にしても守綱を討てばそれなりの手柄だが、家康を逃がしてしまった現状ではその手柄を求める必要があるとまでは言い切れない。 それに敵となる織田・徳川連合勢は打ち破った格好なので、そもそもの目的を達した以上は無理してまで倒す状況ではなかったからだ。
これは、道感と本多忠勝の戦いも同じである。 こちらの戦いも、決着がつくことなく双方共に退いたのであった。
守綱と忠勝という二人の猛将のお陰でどうにか戦場を脱した家康はと言うと、這う這うの体で浜松城まで帰還する。 しかし九死に一生を得た安堵と頭部への一撃が糸を引いているらしく、城に到着するなり昏倒してしまった。
それは浜松城に起きていた混乱から立ち直りかけた直後であり、再び城内に動揺が広がっていく。 しかも家康が倒れた事で、北條勢と三河国で起きている反乱に徳川信康と北畠具豊の二人で対処しなければならないのだ。
徳川家にしろ北畠家にしろ家臣の粒は揃っており、必ずしも現状が最悪と言うものではない。 しかし、徳川信康も北畠具豊もある経験が足りない。 それは、戦における場数であった。
これは、二人が無能であるというものではない。 だが、今の様な状況下においては最も必要なものであろう。 だからと言って今すぐどうにかなると言うものでもなく、両者が地道に重ねていかねばならないモノなのだ。
しかも敵勢は、その場数を数多く経験している道感が率いている。 老いたとは言え未だ彼が健在なのは先の戦が示した通りであり、今の徳川信康と北畠具豊では格が違うと言わざるを得なかった。
これから迎撃の戦が始まるだろうと言う前からそんな不穏な空気が流れる浜松城であったが、その空気を払拭するであろう知らせが齎されたのである。
「そ、それは誠か! 正成!!」
「はっ。 たった今知らせが入り、三河国の反乱は鎮められたそうにございます」
「して誰だ! その殊勲者はっ!」
「その、若殿。 残念ながら、家中の者ではございません。 織田家家臣、六角左衛門督義頼様にございます」
「何っ! 左衛門督が鎮めたのか」
「はい、侍従様。 しかも左衛門督様は既に岡崎城を発ち、この浜松城へと向かっている由にございます」
軍神とあだ名される上杉謙信をまがいなりにも破り、かつ武田信玄も討ったに等しい男であり、そして毛利両川も向こうに回しても戦功を重ねている義頼が援軍として現れる。 この報せに、意気消沈仕掛けていた浜松城内の空気は一気に高揚した。
それに義頼であれば、場数でも経験でも道感に引けは取らない。 元服こそ当時の六角家の事情で少し遅かったが、元服後は幾多の戦を経験している。 それこそ、味方の兵が少ない戦から数万を数える様な大戦まで経験したのだ。
こと此処に至り「地黄八幡」の異名をとる道感こと北條綱成と「今李広」や「今与一」の異名をとる義頼が相対する。 実績でも異名でもほぼ互角と言っていい二人であり、その結果が如何な物になるのかこの時点では誰にも予測できなかったのであった。
織田・徳川連合vs北條の第一戦と三河国蜂起の結末です。
ご一読いただき、ありがとうございました。




