第二百一話~三河国蜂起~
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第二百一話~三河国蜂起~
京にいる織田信長は、六角承禎より齎された情報を基にして手を打った。
先ずは、信濃へ侵攻している柴田勝家に対してである。息子の織田信忠に美濃衆を率いさせて、岩村城へ出陣させたのだ。その後は、木曽福島城へ向かう手筈である。本来ならば東へ関わらせる気はなかったのだが、事情が事情でありそんな事も言っていられない。打てる手は、打っておかねばならないからだ。
そして父親より命じられた信忠だが、彼も動きは速く即座に美濃衆を集める。程なくして軍勢と兵糧が揃うと、岐阜城を出陣して岩村城へと向かった。
次に東海道に対してだが、こちらには息子の北畠具豊が大将となる。彼は伊勢衆と、進軍の途中で尾張衆の一部を組み込んだ上で三河国へ向かう事となった。そして副将だが、具豊が北畠家に養子として出されて以来永らく補佐している織田忠寛と織田信包がその任に当たる。同時にこの軍勢は、北條家と相対する事になる徳川家康への援軍でもあった。
実のところ徳川家の武田攻めは、ある程度の成果を上げていたが傑出しているとまでは言えない状態であった。
【設楽ヶ原の戦い】以降、武田家への攻勢を強めた家康は二俣城など幾つか城を落とす事には成功している。しかし、武田家の重要な拠点となっている高天神城や諏訪原城などはまだ落とせていない。その為か、両家の争いは事実上の膠着状態に陥っていた。
そんな中にあって、北條家が参戦してきたのである。しかも彼の家は、北條氏繁を大将に任じる事で既に隠居していた道感こと北条綱成を引っ張り出してきたのだ。地黄八幡とすらあだ名された猛将であり、老いたとは言え決して侮れない男である。その他にも、伊豆衆の笠原照重や北條康種らが同道していた。
事ここに至って徳川家は、武田家だけを相手にしている訳にはいかない。武田家より先ず北條家を押し留めねば、滅ばされかねないのだ。だが幸いな事かは分からないが、武田家としても信濃国への派兵に集中したいと言う思惑がある。此処に両家の思惑が合致し、武田家と徳川家は自然と休戦状態となっていた。
この状況を利用して家康は、北條家の軍勢を迎え撃つ準備を始める。彼は掛川城を守っている石川家成と石川康通親子に追加として幾許かの兵を預けて高天神城の抑えとすると、主力を率いて移動を開始する。向かったのは久野宗能の居城である久野城で、この城を後陣として家康は北條勢を迎え撃つ腹でいる。そんな家康の元へ、北畠具豊は軍勢と共に向かう手筈となっていた。
最後に北陸道への対応だが、こちらは丹羽長秀が命を受けている。そして副将には、別喜広正と平手汎秀が任じられた。更に長秀の軍勢には、四国への出兵と同様に織田家従属大名が協力する事となる。その大名は浅井長政率いる浅井家と、年明けと同時に数えながらも弱冠六歳で元服を迎えた畠山春王丸こと畠山慶綱率いる能登畠山家であった。
彼の元服名は、能登畠山家の家祖に当たる畠山満慶から慶の一字を。そして、祖父にして後見人である畠山義綱から綱の一字を拝領したものだ。そこには、家祖から名を拝借する事で能登畠山家の中興を願う思いが込められている。同時に、満慶の様な立派な人物になって欲しいと言う祖父の願いも込められていた。
それは、この満慶と言う人物が能登畠山家の家祖となった背景に理由がある。と言うのも、彼は二男でありながら一度畠山宗家の家督を継いでいるのだ。当時彼の兄であった畠山満家が、室町三代将軍であった足利義満から勘気を蒙り疎まれてしまっていた。そこで、満家と満慶の父親となる畠山基国が死亡した際、家督を継ぐ満家に対して義満は妨害工作を行ったのである。その為、家督は弟であった満慶が継ぐ事になってしまったのだ。
なお彼が畠山宗家の当主であった期間は、義満が死亡するまでである。いよいよ義満が死亡してしまうと、満慶は家督を本来の後継者であった兄の畠山満家に譲ったのだ。当時この行為は「天下の美挙」として、称賛されている。そして満家もそれに答え、領国のうちから能登国を弟に譲り渡したのであった。
さて話を戻して畠山慶綱であるが、流石に彼自身は出陣しない。幾ら元服しているとは言え、数えでも六歳にしかならない慶綱を戦場に出す訳には行かない。かと言って、後見人である祖父の畠山義綱が向かうと言うのも難しい。そこで能登畠山家を率いるのは、筆頭家臣である長続連の息子である長綱連と弟の孝恩寺宗先であった。
更に、滝川一益も控えている。戦の状況如何では、彼も軍勢に参加する手筈であった。
そして義頼だが、彼に命じられたのは東海への進軍である。正確に言えば、織田信忠や滝川一益と同じく後詰であった。
普通であれば、毛利家と干戈を交えている義頼を引き抜きなどしないのだが、丁度上手い具合に今現在、織田家側と毛利家側の間で線引きされた状態にある。内実的には色々と互いに手は伸びているので平穏など程遠いのだが、表面化はしていないので沈静化している様な状態となっている。信長はこの様な状況であれば問題はないと判断すると、義頼を一時的に中国から引き抜く事にしたのだ。
「殿。上様からの書状にはなんと?」
「毛利家の対応は、一時的に義定に預けろと。そして俺は、六角家の兵を率いて尾張に向かえだそうだ」
「なるほど。中務大輔 (大原義定)様ですが……となりますると山陰へはこのまま、手を出さない方が宜しいですな」
「ふむ。正信。そこよな、問題は」
義頼が悩むのも無理はない。彼が率いる六角家の大半の兵が抜ける事で軍勢は勿論減るが、それでも丹後・備前・播磨・但馬・美作の計五ヵ国の軍勢が残るからだ。
但し、敵は毛利家であり、そして毛利両川となる。例え五ヵ国の軍勢があったとしても、侮るなどもっての外な相手であった。
暫く考えた義頼だったが、やがて頭を振って打ち消す。東の情勢がどうなるか分からない状況で、下手に戦線を増やす事をよしとしなかったのだ。むしろここは毛利家に対して圧力を掛けて行動を阻害し、四国に対する間接的な支援を行うべきだと判断したのである。その旨を、目の前にいる本多正信に話すと彼も同意する。備前国と備中国の国境に兵を集めるだけで、牽制となる。そうなれば、いかな毛利家と言えどもおいそれとは動けなくなるのは必定だった。
「下手に手を出すよりは、宜しいかと。さすれば、四国征伐を続けている日向守(明智光秀)様や紀伊守(羽柴秀吉)様への支援にもなりましょう」
「そうだな。そうするか」
その後、義頼は主だった者全員を集めると信長からの命を伝える。尼子勝久率いる尼子衆や、三村元親らは悔しそうに表情を歪める。しかし彼らが、反対してくる事はなかった。
本音を言えば、彼らは一刻も早く再興を果たしたい。これは尼子家にしても、そして三村家にしても同じである。だが、現状において行動を起こすのが難しいと言うのも理解できるのだ。今織田家が相手にするのは、毛利家であり越後上杉家であり甲斐武田家であり、そして北條家なのだ。
このうちの一家だけでも十分手強いのに、それが四家ほぼ同時に織田家に攻め込むのである。この状況で更に戦線を広げても、碌な事にならないのは自明の理だった。それに何より、彼らの悲願は御家の再興に他ならない。無理をして頓挫しては、それこそ本末転倒なのだ。
「両者とも済まぬな」
「いえ。機会はまだあります故」
「孫四郎(尼子勝久)殿の言われる通りにございます」
「忝い。それと義定、そなたには俺の代理を頼むぞ」
「御意にございます、殿」
大原義定に後を任せた義頼は、軍勢と共に石山城より出陣した。
その直後、後を任された大原義定は三村元親を大将とした部隊を備中国国境へと派遣する。彼は富山城に入り一部の兵をその先にある西辛川城に兵を置くと、国境での緊張感を高めていくのであった。
さて山陽道を東に向かった義頼は、やがて播磨国を抜けて摂津国へと入る。するとそこで、荒木村重の出迎えを受けた。と言うのも彼は、信長から義頼の軍勢に加わる様にとの命を受けていたのだ。
村重の居城となる有岡城にて一泊した軍勢は、村重の軍勢を加えた状態で出立する。その後、義頼の命に従い丹波国から赤井直正率いる丹波国留守部隊とも合流した。
それから京の山城国を掠め近江国へ入ると、そのまま京より急遽安土城へと戻った信長と面会する。正直に言って、数か月で戻ってくるとは思っていなかったがこれもまた事実である。義頼は、与力となる大和衆を率いる松永久通と筒井順慶、そして荒木村重を伴い登城すると信長と面会した。
「……来たか」
「遅くなり、申し訳ございません」
「そなたらは、数日中に安土を発ち岩崎城へ行け。氏勝には話を通してある、そこで待機しておれ」
「はっ」
岩崎城は、丹羽氏勝が城主を務めている。彼は丹羽を名乗っているが、丹羽長秀とは関係がない。それと言うのも、氏勝の家系は一色氏の流れだからだ。
一色家の六代目当主に、一色詮範と言う者が居る。その彼が尾張守護となった際、彼と共に尾張国へ移住した同族に一色氏明と言う者がおり、彼が丹羽庄を領有した際に姓を丹羽に改めたのが最初であった。
因みに丹羽長秀の丹羽氏だが、こちらは良岑氏の流れを汲む一族であった。
「それと、義頼。案内代わりに、一人連れて行け」
「案内、にございますか?」
義頼らは、思わず顔を見合わせる。そんな彼らに頓着せず、信長はその者を呼び出した。
待つ事暫し、程なく入ってきた者の顔を見て義頼は驚きの表情を浮かべた。その者とは、今川氏真に他ならなかったからだ。
今川家が武田家と徳川家によって攻められた後、氏真は正室の伝を頼って北條家に身を寄せている。しかし北條氏康が亡くなると、北條家は方針転換をして武田家と誼を通じている。その際に氏真は北條家を出て、家康の庇護下に入ったのだ。
世話になる事から家康に協力していたのだが、【設楽ヶ原の戦い】から一年ぐらいした頃に上洛すると、その後は在京していた。しかし此度の戦が勃発すると、信長に対して援軍の要請をしている。 元からそのつもりではあったし、丁度いいとばかりに駿河国までの案内役も兼ねて義頼の軍勢に同道させる事にしたのだ。
そして言い渡された義頼だが、三河国や遠江国までならばまだしも駿河国までとなるといささか不案内になる。その点、駿河国を本拠とした今川家の現当主の氏真やその家臣ならば十分に資格を有していると言えた。
「承知致しました」
「うむ」
「治部大輔(今川氏真)殿、よろしくお頼みします」
「お任せください、左衛門督(六角義頼)殿」
こうして氏真も軍勢に加えた義頼だが、流石にその日は出発できない。どの道、翌日に出発するつもりであったので、今日のところは安土城本丸の裏手にある屋敷へと戻った。すると急遽戻ってきた義頼に対し、嫡子の鶴松丸と長女の結姫は嬉しそうに抱きつく。数えで六歳と三歳であり、父親の不在が寂しかった事を鑑みればそれも当然であった。
二人の子供に出迎えられた義頼は、微笑みながら二人を抱き上げる。すると、鶴松丸も結姫も更に嬉しそうに声を上げた。そんな兄と姉の声に刺激されたのか、乳母に抱かれた二男の寿亀丸が目一杯手を伸ばす。そのしぐさに気付いた義頼は、長男の鶴松丸を下ろして言い聞かせてから寿亀丸を片腕に抱いた。
途端に、とても嬉しそうに笑う。その笑顔に、義頼も姉となる結姫も思わず笑みをこぼしている。いや、この場にいる三人の妻も赤子の笑みにつられる様に笑みを零していた。
それから場所を移し、義頼は二人の子を渡してから着替える。再び戻ってくると、鶴松丸と結姫が甘えてきた。直ぐに答えてやると、楽しそうに笑いながら押してくる。わざと後ろに倒れると、二人は楽し気に義頼の体の上に乗ってきた。
「これ! お父様は、疲れているのです」
「よいよい、お犬。気にするな」
注意をしたお犬の方の言葉を遮ってから、そのまま鶴松丸と結姫の相手をする。家を出ていることが多い義頼だからこそ、鶴松丸と結姫はここぞとばかりに甘えている。そんな子供の気持ちが分かっているので、存分に相手をしていた。
程なく甘えた後、子供の二人は満足したかの様に轟沈する。よく見れば寝ており、鶴松丸と結姫が義頼に全力で甘え遊んだのが分かる状態であった。
そんな子供たちの様子に笑みを浮かべると、寝室へ連れて行く様に乳母などに指示をする。彼らが消えると部屋にいるのは義頼と彼の三人と妻、即ちお犬の方とお圓の方、そしてお月の方だけであった。
「さて、俺は数日のうちに出陣する」
『はい』
「それにあたって、伝えておきたい事がある」
そう前置きしてから義頼は、三人へ話を始めた。
その話とは、京で兄の六角承禎に言われた養子の件と庭田重保より伝えられた婚儀の話である。しかしどちらも未定の話でしかなく、子が出来たらと言う事で話はついていると告げた。
すると三人が三人、揃って驚きの表情をする。そんな態度に眉を寄せつつ尋ねると、驚きの答えが返ってきた。何と、三人が揃って妊娠したと言う。予想外の言葉に思わず義頼が問い返すと、三人の妻が一様に頷く。その仕草から本当だと判断した義頼は、喜びの表情を浮かべた。
しかしながら、それは兄である承禎と公家の庭田重保からの頼まれ事が具体化すると言う事に他ならない。そこで義頼はこれも頃合いかと考え、一つ咳払いすると彼女達へ話し始めた。
「実はな、兄上から養子の話が来ておる。そして権大納言(庭田重保)殿からは、婚儀の話が持ち上がっている。とは言え、まだ話だけだがな」
「養子と婚儀ですか……どなたを?」
「話が出た時、該当する子などは居なかった。だから、子が出来たらと言う話となっているのだ」
養子と婚儀とは予想していなかったお犬の方達であるが、悪い話ではない事に安心した。
承禎は兎も角、庭田家への婚儀話は信長の許可を得なければならないかも知れないが、逆に言えばそれだけでしかないのだ。
それより何より、六角家にもそして庭田家にもまだ婚儀の相手となる御人はいないのである。どちらの家にも子が出来ねば、そもそもこの婚儀話は立ち消えとなるのだ。
「まぁ取り合えず、婚儀や養子に関して気にする必要はない。丈夫な子を産んでくれればそれでいい。勿論、そなたらも体を厭うのだぞ」
『はいっ!』
こうして義頼が妻達から妊娠の報告を受けた丁度翌日、信長へ使者が現れる。その使者を出したのは、明智光秀である。その書状には、阿波国で起きていた三好家の騒動が終了した旨が記されていた。
さて、何ゆえに東で戦が起きたにも拘らず四国征伐が続けられていたのか。有体に言えば、最早止められる状況ではなかったからだ。
既に阿波三好家は、当主の三好長治が四国征伐の先鋒として侵攻した三好義継に降伏している。しかも彼らは、阿波三好家に反旗を翻していた細川真之を滅する為、共に動いているのだ。
その真之だが、あっという間に窮地に立たされてしまっていた。
元々、阿波三好家は本気で彼らを攻めていなかった。織田家による四国征伐の軍勢と共に攻める気であったからである。しかも、阿波三好家より密偵と言う立場で真之の軍勢に送り込まれていた新開道善が、統合された三好家の軍勢に攻め込まれる直前に離反したのだ。
彼は居城の牛岐城にて兵を挙げると、真之に対して昂然と反旗を翻す。これには、細川側も慌ててしまった。何せ牛岐城は、細川真之の居る茅ヶ岡城の東を守る城である。その城が敵の物となっては、横腹を突かれかねない。そこで真之は、福良連経の進言により、彼の居城である生夷城へと移動した。
道善は直ぐに嫡子の新開実成を派遣して、茅ヶ岡城を占拠する。これにより真之らは、南北より挟まれることとなる。こうなれば、最早遠慮はいらない。北からは、三好の軍勢が攻め下った。
三好義継と三好長治は軍勢を二つに分け、二人は本隊を率いて勝瑞城を出陣すると一宮城へと向かう。そしてもう一隊は、長治の実弟となる十河存保が率いて細川真之に同調した井沢城主の伊沢頼俊を攻める為に進軍する。彼には、矢野国村や武田信顕らが従っていた。
思いがけず三好勢の本隊に手取り囲まれた一宮城の小笠原成助だが、当初は城を枕に討ち死にする覚悟であったと言う。しかし兵の損耗を嫌がった三好義継が、軍使を派遣して降伏を促す行動に出た。白羽の矢が立てられたのが、義継と共に四国へと渡った咲岩(三好康長)である。彼は根気よく説得、ついには成助も折れて開城し降伏した。
その一方で伊沢城を責めた十河存保だが、彼は真逆に降伏など許さない。頼俊が派遣した降伏の使者を有無を言わさずに血祭りにあげると、力押しで攻め上がる。当たると幸いに悉く敵をなで斬りにすると、ついには頼俊の首を挙げたのであった。
そして新開道善はと言うと、彼は息子の実成と共に南から攻め上がり中津野城を攻略している。これにより真之の軍勢は、福良連経の生夷城へと追い込まれてしまっていた。
「最早、これまでだな……連経、俺は腹を切る」
「残念にございます、殿」
「全ては、俺の見る目のなさが原因だ。道善の正体を見破れなかったばかりに、そなたにまで迷惑をかけてしまった。だが、長治の奴めにだけは首を渡したくはない」
「殿……決して三好勢には渡しませぬ」
「頼むぞ」
「御意」
その後、真之は死に装束に着替えてから腹を切ると、連経自らが彼の首を討った。
その首を前に暫く涙を流した連経は、自らの城に火を掛ける。そして、城に残る兵と共に大手門より打って出ると真一文字に長治を目指したのだ。
彼らは全員、最早死兵である。傷を負うが構わず、唯ひたすらに突き進んでいく。とは言え多勢に無勢であり、一人、また一人と討たれていった。しかし彼の執念か、深手を負いながらも敵本陣へとたどり着く。そしてあわよくば討てるかと言う寸前、連経は二人の篠原によってその行動を阻まれそして討たれてしまった。
連経を押し留めたのは、篠原長房の嫡子で篠原家の現当主である篠原長重である。そしてもう一人は、篠原自遁の嫡子である篠原長秀であった。
自遁が起こした嘗ての騒動に、彼の息子二人は関わっていなかったので処罰を免れていたのである。そして自遁の家督も、長房の進言もあって無事に長秀へと継がれていた。そんな自遁の息子と長房の息子と言う二人の篠原の功により、連経は討たれたのだった。
ここまで事態が進んでおり、更には長宗我部元親も間もなく動く手筈となっている。彼は名目上の主で事実上の傀儡である土佐国司の一条内政を名目上の大将として、伊予国へと攻める。この状況下で、織田家が手を引くと言う訳にはいかなかったのだ。
それはそれとして光秀からの書状を読み終えた信長は、笑みを浮かべる。色々と急転直下な情勢が動いていた最中に齎された朗報である。多少なりとも機嫌がよくなっても、不思議ではなかった。
しかしその機嫌も、直ぐに悪くなってしまう。それが発生したのは、義頼が軍勢を率いて岩崎城へ出立する朝の事であった。それは、この戦に関連して東へ放った忍びからの報告である。その報告に目を通した義頼は、驚愕の表情をする。慌てて衣服を着替えると、そのまま信長の元へ向かった。
「何だ義頼。朝っぱらから。そもそもそなた、今日には出立する筈だろうが」
「分かっています。ですが上様、此方をお読みください」
義頼は、忍びからの報告を信長へ見せる。その報告を読んだ信長の表情も、驚きに彩られていく。だが、それはそうだろう。 三河国で反乱が起きたと言うのだから、致し方ないと言えた。
事の起こりは、今回の織田家包囲網と言える戦に端を発している。東海道を進軍してくる北條家に対して、北畠具豊を大将に軍勢を出した事は先述した通りである。するとそんな軍勢の後を追う様に、岡崎城の徳川信康も軍勢を率いて押し出していた。
その為、一時的に三河国の兵力が落ちたのである。その隙を狙って、徳川家家臣の大賀弥四郎らが反旗を翻したのだ。
彼らは以前より甲斐武田家と繋がっており、もし【設楽ヶ原の戦い】で織田・徳川の連合勢が負けていたら岡崎城を開城し差し出す手筈となっていたぐらいである。しかしながら、彼の戦において勝利したのは織田・徳川の連合勢であった為、その策はご破算となっていた。
だが、彼らと甲斐武田家と繋がりは切れていなかったのである。甲斐武田家からの意向のままに大賀弥四郎らは、【設楽ヶ原の戦い】以降も策を弄していた。そこで彼らが目につけたのが、桜井松平家当主の松平忠正である。弥四郎は、いざと言う時には彼を旗頭として徳川家を駆逐するつもりであった。
と言うのも、桜井松平家は徳川家の元となった安祥松平家と敵対していたからである。その話は、家康の曾祖父の代まで遡る。家康の曾祖父は松平信忠と言い、彼は松平宗家の家督を巡ってある人物と争った事がある。それが桜井松平家初代当主、松平信定であった。
紆余曲折の末に松平宗家当主の座は松平信忠が継承するが、松平信定としては面白い筈もない。形上は松平信忠に仕えたが、内心では虎視眈々と松平宗家当主の座を狙っていた。
そしていよいよ、その機会が訪れる。それは松平信忠の息子、松平清康が当主の時であった。彼は三河国の統一を事実上成し遂げた人物であったが、森山(守山)の地で、家臣に討たれてしまう。いわゆる【森山崩れ】なのだが、この時に松平信定は嫡子の松平清定と共に松平清康の居城であった岡崎城を奇襲した。
すると城の奪取には成功したが、嫡子の竹千代には逃げられてしまう。この事が、彼に取って痛恨の事態を引き起こした。伊勢国へと逃げた竹千代の一行は神戸の地に留まると、吉良持広の庇護を受ける。その地で竹千代は元服し、吉良持広より広の一字を拝領して松平広忠と名乗った。
その後は父の敵を討つべく力を蓄えたが、程なくして吉良持広が死去してしまう。すると近臣の阿部定吉らの働きで、松平広忠は今川義元の後ろ盾を得る事に成功する。こうして今川家の力を得た松平広忠は、三河国へと進軍した。
この侵攻に対して松平信定も戦を仕掛けるが、武運拙く破れてしまう。やはり、「海道一の弓取り」とまで言われた今川義元の力を得た事は大きかったのだ。すると、松平広忠に協力する三河国国人も現れ始める。更に致命的なのは、岡崎城の留守居役を任せていた三木松平家当主の松平信孝が離反し、松平広忠に鞍替えしてしまうと言う事態が発生したことだった。
此処に不利を悟った松平信定は降伏を選択し、松平宗家の家督を巡る争いは一先ず沈静した。
因みに松平広忠とは、徳川家康の父親である。
それは兎も角として、これで彼らが大人しくなったかと言えばそうでもない。松平信定は無論、息子の松平清定や孫の松平家次も安祥松平家には反発し、戦すら仕掛けたぐらいである。だが、松平家次の起こした【広畔畷の戦い】に敗れた後に許されると、表立った反発を控える様になった。
最も表面的であったらしく、【三河一向一揆】の際には家康に反発してか一向宗側に味方している。しかしその【三河一向一揆】の最中に松平家次は死亡し、桜井松平家の家督は嫡子の松平忠正が受け継いでいた。
その松平忠正だが、彼は父と共に一向宗に味方して一向一揆の一員となっていたのだが、一向一揆が終わると徳川家に降伏し、その後は家臣として家康に仕える。だが降伏後も、未だに松平宗家の地位を秘かに狙っていたのだ。
その様な経緯を持つ松平忠正であるから、大賀弥四郎からの話に乗らない筈はない。とは言え、早々に反旗を翻して曾祖父の轍を踏むわけにもいかない。彼は、臥薪嘗胆の心持で時節を待っていたのだ。そしてついに、その時が現れたと彼は思う。今こそと言う思いで、大賀弥四郎らと相談した。
こうして相談された彼らだが、実は丁度いいと言えた。それと言うのも、大賀弥四郎の元に甲斐武田家からの指示が届いていたからである。しかも今は徳川家の兵も減っており、かつ家康も嫡子の信康もいない。兵を挙げるには、まさに千載一遇の好機と言えた。
松平忠正と大賀弥四郎らは、先ず矛先を岡崎城へ向ける。留守居役として残っていた家康の従弟で徳川信康の家老を務める松平康忠を攻めて彼を討ち取り城に入ると、徳川家康と嫡子の徳川信康の追放を宣言する。その直後、浜松城に居る徳川信康を攻める為に遠江国への進軍を公表した。
また兵を起こす直前に大賀弥四郎は、甲斐武田家の武藤昌幸と北條家の軍勢の大将である北條康成と彼の父親である道感(北条綱成)へ密使を出して事の次第を告げていたのであった。
さて、話を安土城へと戻す。
義頼が信長へ報告した書状だが、大賀弥四郎と甲斐武田家の繋がりや彼の出した密使については流石に書かれていない。そして、徳川家と桜井松平家との確執も入っていなかった。
しかしながら三河国で起きた騒乱は事実であり、これを放っておく訳にもいかない。このまま手を拱いていては、徳川家の命運は勿論だが息子の北畠具豊の命すらも危うくなる。更に付け加えれば、此度の戦の決定的な事象にまでなりかねない出来事であったからだ。
「……義頼! 直ぐに出陣し、三河国を落とせ。徳川に配慮している暇などない!! その後は、そのまま進軍して北條と当たれ! それから、尾張に残っている者達も連れていけ」
「御意!!」
幸か不幸か、今日安土を発つつもりであった義頼である。直ぐに出立すると、三河国へ向けて進軍を開始した。同時に岩崎城の丹羽氏勝など尾張国守備の為に北畠具豊の軍勢に同行しなかった者達へ書状を出し、途中で合流する様に伝えている。
何はともあれこうして起きた三河国での騒乱により、情勢は一気に風雲急を告げる様な事態へと移行してしまったのであった。
色々と、同時進行で動いています。
纏めるのが、難しいよぅ(泣)
ご一読いただき、ありがとうございました。




