第二百話~【甲越相三国一和】と織田家包囲網~
お待たせしました。
そして、記念すべき実質二百話です。(喜)
第二百話~【甲越相三国一和】と織田家包囲網~
義頼が石山城より離れていた間、織田家と毛利家との間で戦らしい戦は起こらなかった。 それと言うのも、宇喜多直家の死が影響していたのだ。
実のところ毛利家は、備前国が危うくなるとある事を行おうとしていた節がある。 それは、備中国の引き締めであった。 三村元親を逃すと言う事態を招いていたからこそ、必要な措置なのである。 だからこそ毛利両川は、本人が望んだ事もあって毛利元就の四男である毛利元清を猿掛城へと配したのだ。
因みに彼はその後、猿掛城のある地名から穂井田の姓を名乗る。 しかし、義頼が仕掛けた宇喜多直家排除の策の一環で仁保家への養子縁組が行われた結果、本人が望む望まないに拘わらず備中国より離れざるを得なくなってしまっていた。
しかも、嵌められたとは言え吉川元春の息子の手によって宇喜多直家の死が履行された事で、毛利家に従う国人に対しても強く出られなくなってしまっている。 いや、出ようと思えば出られるのだが、そうなると国人らとの間に溝が生まれるのは必定となる。 織田家との戦を行っている毛利家としては、家中でこれ以上の不和を生む様な態度は出来れば取りたくなかった。
詰まるところ毛利家は、当初の予定を覆して不本意ながらも緩やかに備中国国人を懐柔しようとしていたのである。 しかしながら、その目論見は殆ど進展していない。 元から毛利家よりであった国人はまだいいのだが、【備中兵乱】の際に三村家に味方した国人の動向が非常に不鮮明だからだ。 しかも彼らは、毛利家に逆らう様な行動はとっていない。 【備中兵乱】時に毛利家側に付いた備中国人と、何ら変わらない様に感じられるからだ。
だが、諸手を挙げて味方だと言うには何処か憚られる。 何とも判断はつかないのだが、腹の中にしこりの様な物があると言う雰囲気が彼らから醸し出されている風に感じられるのだ。
それは吉川元春だけでなく、小早川隆景も感じている。 知将の彼にしては珍しいのだが、理論よりも勘の様なもので察していたのだった。
「やはり、義頼から手が伸びている。 そう考えた方が、無難なのでしょう」
「だろうな。 あれらから感じる物は、降伏し頭を垂れた者が放つ物ではない。 面従腹背と考えていた方が、間違いないだろう」
「とは言え、強硬に出れば何となるか……」
「ああ、全くだな。 あの、馬鹿息子が!」
なお、義頼の策に利用され宇喜多直家の首を挙げてしまったが為に元春より馬鹿息子呼ばわりされた吉川経言だが、現在は寺に蟄居中の身である。 その寺は長門国にあり、名を長福寺と言った。
この寺は、事実上周防大内氏最後の当主となった大内義長が切腹した寺でもある。 義長切腹後は衰退していたのだが、此度の経言蟄居の件である程度の復興がなされたのは皮肉な話であった。 どの道、強引な手を打ち難い状況である。 懐柔を、地道に行っていくしかなかった。
但し、義頼が見逃せばの話ではあるのだが。
「兄上、お平らに」
「ふんっ。 今更言っても詮無きか」
「ええ」
「まぁいい。 それはそれとしてだ、隆景。 東の方での策はどうなのだ?」
「そちらも、どうにかなりました。 ただ、あちらも雪の影響もあり、実質の動きはもう少し後になります」
「なるほどな……しかし、あの公方(足利義昭)様が、ここにきて役立つとは思わなかったぞ」
そもそも、この策は毛利輝元より全権を受けた隆景が主導で行っていた。
外交僧の安国寺恵瓊をわざわざ派遣してまで取り纏めたのであるが、その際に並んで役立ったのが義昭の御内書である。 京より追放されとは言えいまだに将軍の地位にある足利義昭の書状は、地方ではまだまだ効力を発したのだ。
安国寺恵瓊の外交僧としての手腕も光った事もあって、この策はついに成ったのである。 だが先ほども述べた様に雪の影響があるので、まだ実行には至らない。 しかし東国では、急ぎ策の履行する為の準備が粛々と行われいるのであった。
「この策の結果いかんで、先が決まります」
「上手くいけば、織田家を追い詰める。 何としても、策を成し備前に陣取る義頼も含めた織田勢に目にもの見せてやる」
「ええ。 誠に兄上」
そう静かに答える隆景の表情は、兄以上に引き締まっていた。
一方、戦が起きていなかった事に安堵した義頼だったが、その幸運に何時までも浸ってなどいられない。 石山城に入った彼は、一先ず将を集めていた。
彼が招集をかけたのは、京極高吉と京極長高の親子。 他に一色義俊と山名堯熙と山名豊国。 それから、尼子勝久と山中幸盛と立原久綱であった。
義頼が彼らを呼び出した理由は、他でもない別動隊を組織する為である。 いままで瀬戸内である山陽側一辺倒で中国地方に侵攻していたのだが、ついに兵を分けて山陽側と山陰側の両方から攻め立てるのだ。
方針としては、先ず因幡国を落とす。 落とした因幡国は山名豊国に任せ、その後は伯耆国を落としてから出雲国に至るのだ。 同時に義頼も備前国から備中国、そして備後国へと進撃する。 ゆくゆくは、毛利家を追い詰めて戦を手じまいとするつもりであった。
最も、この方針は毛利家へ攻め込む当初から決まっていた事である。 この時点で彼らを呼んだのは、言わば最終確認である。 これ以降、余程の事がなければこの方針通りに毛利家を追い詰める。 最終的に毛利家が降伏するか滅亡するかは分からないが、それはむしろ毛利家側の問題であった。
「さて、中務少輔(京極高吉)殿。 別動隊大将の件、お願い致すぞ」
「お任されあれ、左衛門督(六角義頼)殿。 必ずや、成功させますぞ」
「うむ。 それと……勝久、幸盛、久綱」
『はっ』
「この戦は、尼子家再興のいわば前哨戦でもある。 せいぜい、励め」
『御意!!』
彼ら尼子衆にとり、実に五年越しの悲願であった。
以前の尼子家再興戦において、今は亡き宗詮(山名祐豊)から援助を得ていたが時勢と味方の不和などにより、当初の優勢から一気に劣勢となり急遽織田家に助力を求めた。 しかし当時の織田家方針から、毛利家との直接的な対立は不味いと判断した織田信長は尼子衆に織田家庇護下に入る代わりに中国地方からの撤退を示唆したのだった。
どの道、このままでは滅亡を迎えかねなかった尼子衆はこの示唆を了承し、中国地方からの撤退を敢行する。 やはり山名家の助力を得て撤退に成功した尼子衆は、同じ佐々木家の流れと言う事から義頼に預けられたのだ。 それ以降、六角家預かりの軍勢として六角家の戦に従軍して時を待ち続けたのである。 そしてついに、この時を迎えたのだ。
嘗て助力を求めた時よりも強大になった織田家の後ろ盾としての、尼子家復興の戦である。 以前よりも高いであろう尼子家再興の時であり、義頼の言葉もあって尼子衆の代表として此処にいる彼ら三人は体を震わせていた。
これは喜びの震えであり、同時に武者震いでもある。 ただ一つ言えることは、三人とも今までにないくらいに高揚しているのだった。
何はともあれ、山陰側に出陣予定の別動隊……と言うか一軍団と言っていいぐらいの彼らは話が終わると揚々に部屋から出て行く。 この後は、行軍可能になり次第、因幡国へ攻め込む事となる。 そこで、武田就信の首級を挙げるなりする。 先ずはそこからであり、その後の戦の行く末の試金石ともなる大事な戦なのだ。 故に、何としてでも勝たねばならない。 その勝利をもぎ取る為にも、彼らは彼らで話し合いを行うのだ。
そんな彼らを見送った義頼だったが、その表情が晴れやかかと言われればそうではない。 一人になった彼は真面目な表情をしながら、眉を軽く寄せていたのだ。
彼がそんな表情をしているのは、やはり東の動きがどうにも気に掛かるからである。 未だ、京にいる六角承禎からの報告はない。 無沙汰は無事の便りとも言うが、そうは楽観視できない。 未だに義頼が覚える胸騒ぎが、まるで鈍い痛みの様に胸の内に存在し続けている。 この胸騒ぎの答えが出ねば、彼の表情が劇的に変わるとは思えなかった。
「鬼が出るか、はたまた蛇が出るか……どちらでも、ろくなものではないな」
少しうんざりした様な声色で、一言漏らしていたと言う。
それから一週間もした頃の事である、彼は長岡藤孝と飲んでいた。
別に義頼が、彼を誘った訳ではない。 誘ってきたのは、藤孝の方であった。 取り合えず一先ずの指示を出しているし、何より毛利家が攻めてきたなどとも聞かない。 義頼は誘いを受け、彼と杯を重ねていた。
「ところで、義頼殿。 林殿より古今伝授を受けたそうだが」
「もう聞かれましたか」
「ええ。 師より書状が届きましてな」
藤孝の歌の師となる人物は三条西実枝であり、彼は前述した通り宗祇より古今伝授を受けた人物である。 齢六十を超える人物だが、まだまだかくしゃくとしていた。 その三条西実枝であれば、知っていても不思議はない。 何と言っても彼と共に古今伝授を受けたのは肖柏であり、彼は林宗二の師に当たる人物なのだ。
「ああ、なるほど。 三条西殿か。 それならば、分かります。 最も、お陰で少しだけですが大和在住が伸びました。 天候もいささか不順だったので、丁度よかったとも言えますが」
「なるほど。 しかし、不思議なものだ。 京と南都(奈良)、二つの古今伝授者がこうして戦場にて酒を酌み交わしているとはな」
「縁は奇なり、なのでしょう。 某とて、藤孝殿と知り合った頃は、この様な事態になるとは思ってもみませんでしたぞ」
「それは確かに」
そういうと、藤孝は杯を掲げる。 義頼も倣い杯を掲げた後、二人は一気に杯をあおったのであった。
石山城にて義頼と藤孝が杯を重ねている頃、京では信長が上洛していた。
義頼の軍勢に援軍として向かわず近江国に残っていた近江衆を警護としての上洛である。 彼らは、蒲生賢秀が率いていた。 京に到着した信長は、その翌日に御所に向かい帝へ挨拶をする。 それから数日、挨拶に訪れる公家や町衆を相手にした後、彼は大坂へと向かった。
今は更地となっている嘗ての石山本願寺の跡地に到着すると、そこには軍勢が居る。 その正体は、四国へと向かう者達であった。
明智光秀を大将に、羽柴秀吉を副将とした彼ら四国征伐の軍勢が此処に揃っているのかと言うと、出陣を前にしての馬揃えである。 既に長宗我部家も、そして形の上では長宗我部家の主家となる土佐一条家も織田家の勢力下であり、しかも阿波三好家も非公式ながら織田家に従う旨を伝えていた。
実質の敵となるのは、今阿波三好家に反旗を翻している細川真之の軍勢と、毛利家に従属し伊予国東部を押さえる河野家と伊予国西部に勢力を張る西園寺氏ぐらいである。 勿論、毛利家の動きは警戒しているが、義頼の存在がある以上そう易々と毛利家が大量に兵を動かすのは難しい。 援軍はあるだろうが、それも大した数ではないと思われた
つまり、ほぼ四国の平定は既成事実である。 その既成事実をより彩る為に、信長は馬揃えを行ったのだ。 光秀や秀吉らもそれは十分に理解しており、やや派手とも言える馬揃えである。 そんな彼らを満足そうに見やっていた信長は、馬揃えが終わると上機嫌で彼らを誉めはやした。
その直後、四国討伐の軍勢は安宅水軍や和泉水軍の用意した船へと乗り込んでいく。 彼らの行先は淡路島であり、そして今淡路島を押さえている菅達長のいる岩屋城であった。
次々に出港していく船を見送った信長は、大坂より京へと戻る。 しかし、これから戻る京で驚きの報告があるなど流石に予想だしていなかった。
その彼を驚かす知らせだが、その知らせを最初に受けたのは六角承禎である。 年末以降、重点的に東へ忍びを派遣していた承禎の情報網によって毛利家が画策していた策が判明したのだ。 それは、毛利家主導による甲斐武田家と越後上杉家。 そして、北條家の和議であった。
鞆に居る足利義昭をも駆使して行われたその和議は、多少の温度の差はあれども三家に受け入れられる。 後に【甲越相三国一和】と呼ばれるこの和議によって、三家の対立は一先ずの終焉を迎えたのだ。
そしてこの和議は、同時に新たな策の開始の合図となる。 それは武田家と上杉家と北條家、そして毛利家による織田家攻め開始の合図でもあった。
上杉家は北陸道を武田家は東山道を、そして北條家は東海道を担当する。 次に毛利家は、山陽道を攻めるという織田家を東西から挟み込む壮大な策であった。 事の重大さを鑑みた承禎は、急ぎ義頼に知らせるべく使者を出す。 そして彼自身は、村井貞勝の元へ向かった。
急な承禎の訪問にも驚いた貞勝だったが、それ以上に齎された情報に驚愕を露にする。 思わず彼をして呆けてしまったぐらいだから、その驚きは相当なものであった。
承禎も貞勝の態度に「さもありなん」と内心思ったが、放っておくわけにはいかない。 ともあれ意識を取り戻させると、信長へ知らせるべきだと彼に伝えた。 それには貞勝も同意し、急ぎ屋敷を出る。 京における信長の屋敷に到着すると、直ぐに謁見を申し出た。
武家伝奏の地位にある六角承禎と京都所司代の地位にある村井貞勝が揃って現れると言う事態に、たまさか取り次いだ万見重元もただならぬ事態ではと推察して信長に取り次ぐ。 話を聞いた信長は、せっかくのいい気分を害されて眉を寄せた。
それと言うのも、四国征伐が思いのほか順調だからである。 淡路国へ侵攻した光秀や秀吉らは、物の数日で島全域を勢力下に組み込んだ。 岩屋城に籠っていた菅達長ら淡路国国人はと言うと、一戦も交える事無く揃って降伏している。 その理由は、落ち延びる先がなかったからだ。
阿波三好家は内訌の最中、畿内及び瀬戸内で畿内よりの地域は織田領である。 紀伊国も同様であり、長宗我部は織田家側に与しているのだ。 しかも、近隣の水軍は全て織田家影響下にある。 これでは、どこにも行けなかった。
要は彼らにとって、降伏以外の選択は全滅しかなかったのである。 菅達長や武田久忠らと言った国人衆は、岩屋城を囲まれると直具に使者を送り開城して四国征伐の軍勢を迎え入れたのであった。
この後、軍を再編すると光秀は第一陣として三好義継らを阿波国へ差し向ける。 彼らが四国へ上陸すると、阿波三好家は降伏する。 ここに三好義継と三好長治の二つに分かれていた三好家は、再度統合を果たしたのだ。
今は光秀も岩屋城を出て、阿波三好家の居城となる勝瑞城に達している。 その軍勢を後ろ盾として、三好義継の元に再統合した三好家は、細川真之を討つべく兵を押し出していた。
その様な四国の状況を光秀よりの報告で知ったからこそ、信長は気分が良かったのである。 だが六角承禎と村井貞勝の訪問は、彼の気分に水を差す。 それ故に、気分が害されたと感じたのだ。
しかしながら、二人が揃って顔を出すというのもかなり気になる。 結局、信長は不承不承ながらも目通りを許したのであった。
こうして目通りが叶うと、承禎より齎されたばかりの情報を伝える。 これには信長も、驚きを隠せなかった。 何と言っても武田も上杉も、信長をして梃子摺った相手である。 また、北條とは直接相対した訳ではないが、彼の家も武田や上杉を相手に一歩も引かなかった家である。 弱いとは、到底考えられなかった。
「むぅ……あい分かった。 承禎殿、情報感謝する。 それと、貞勝も下がれ」
「うむ」
「はっ」
承禎と貞勝を下がらせた信長は、如何に対処をするかについて深く考え始めていた。
その一方で承禎から義頼の元へ向かった急使は、街道を西へとひた走る。 驚く事に翌日には、石山城へ到達していた。 そんな使者を務めたのは誰かと言うと、山中長俊である。 彼は承禎が京在住する様になった頃から忍びとして彼と共にいた忍びの者であり、実質承禎付きの忍び衆を取り纏めている人物である。 そんな男が使者として現れたと聞いた義頼は、直ぐに連れて来る様にと命じた。
程なくして現れた長俊から渡された承禎の書状を目の当たりにした義頼は、額に手をして天を仰いでしまう。 最も室内なので、そこには天井があるだけであった。
何はともあれ、義頼は全力でここまで来たのだろう長俊を労うと下がらせて休ませる。 それから小姓に銘じて甥の大原義定と馬淵建綱と永原重虎、それから本多正信と沼田佑光を呼びに行かせた。
これは、一先ず六角家内で情報の共有をと考えてである。 程なくして呼び出した全員が揃うと、義頼は彼らに山中長俊が届けた承禎からの書状を見せる。 食い入る様に書状を見た後で、それぞれの態度を見せていた。
「……殿。 一先ず、山陰への兵の派遣は見送りましょう」
「正信、やはりか」
「はい。 これでは、如何なる情勢となるか読み切るのは難しいです。 その上、上様(織田信長)がこの事態に際しどの様な対応を取るかも分かりかねましょう」
「致し方ないか……はぁ。 中務少輔殿らにも、知らせるとしよう。 それはそれとして、我らはいつでも兵を動かせるようにしておくべきだろうな」
「はい。 先ほども述べました様に、上様の反応如何によるところが大きいので」
「全く。 面倒な事になった」
己の重臣と情報の共有を済ませた義頼は、長岡藤孝や京極高吉と言った六角家家臣以外でかつ中国攻めの中軸となる将らを呼び出す。 やがて彼らが一様に集まると、余すことなく手に入れた情報を伝えている。 その上で、山陰への派遣も一先ず取りやめる旨も伝達した。
寝耳に水とも言える情報を聞いた彼らの反応だが、実にさまざまである。 その中でも尼子衆の反応は、ひと際目立っていた。 しかし彼らが抱える事情を考えれば、それもやむなしと言える。
また、三村元親らの反応も大きい。 此方も、備中国への侵攻が間近であった事を鑑みれば仕方なかった。
こうして様々な反応を見せた彼らだが、それでも義頼が言った事も理解はできる。 あまりにも状況が流動的であり、見極めもせず勝手に動くのは藪蛇となりかねない。 彼らは不承不承と言った感じではあったが、それでも義頼の言った事に理解を見せていた。
同時に義頼は、兵を動かす準備だけは怠らない様にとの命を出す。 情勢次第では、どのような命が届くのか分からないからだ。 如何なる命が下ったとしても、即座に動ける準備はしておくべきである。 そう考えた義頼の命に基づいての動きである。 そして彼らもその点には理解を示し、義頼の言った通りいつでも動ける準備は整えておくのであった。
前書きでも述べましたが、実質の二百話へついに到達しました。
ああ、長くなったなぁ。(遠ひ目)
それはそれとして、史実では実現しなかった【甲相越一和】が実現しました。
それに伴い、事態は流動化します……する筈です!…………多分。
ご一読いただき、ありがとうございました。




