第百九十九話~領国漫遊(?)記~
お待たせしました。
どうにも最近、筆のノリが……乗るときは乗るんですけどねぇ。
第百九十九話~領国漫遊(?)記~
伊賀国を出た義頼は、大和国へと向かった。
思いの外雪が多かったので通常よりも倍近くの時間を掛けて進んだ一行は、やがて大和国へと到達する。 彼らの一行は秋山直国の居城となる秋山城にて一泊した後、翌日には出立して多聞山城へと到着する。 雪の影響をあまり受けず無事に此処までたどり着けた事に、義頼以下全員が安堵していた。
その多聞山城で出迎えたのは、北畠具教の三男、北畠親成である。 まだまだ若く父親の代わりをするには貫目が足りないが、それでも名門伊勢北畠家の者である。 その肩書だけでも、抑えとはなり得るのだ。
勿論、彼だけで大和国内を抑えている訳ではない。 彼には、具教の弟が力を貸していた。 北畠具教の父親となる北畠晴具の三男に当たる男であるが、彼は同時に興福寺東門院の院主でもある。 つまるところ義頼は、大和国内に隠然たる力を持つ興福寺と伊勢の名門たる北畠の名をもって押さえていたのだ。
こう考えると、やはり北畠具教と言う存在は大きいと言える。 特に大和国に対してあまり伝手の無い義頼であったから、既に伝手があった北畠家が六角家臣となった事にはとても助かっていた。
「殿。 ご無事の到着、胸を撫で下ろしました」
「ああ、親成。 何とか無事に到着できた」
「ははっ。 祝着至極に存じます。 それでは殿、こちらへ」
「うむ」
大和国内における義頼の居城となる多聞山城に到着した義頼は、城内の一室に案内される。 そこには火鉢などによって、十分に温められた部屋である。 寒風吹きすさぶ中やってきた義頼にとっては有難いものであり、芯まで冷え切った己が体を温めたのであった。
因みに火鉢は、陶製である。 この大和国においても焼き物があり、赤膚と呼ばれる地に良質な陶土が算出していた。 そこで義頼は、この大和でも陶器を奨励したのである。 幸い、義頼の領地には信楽焼や丹波焼と言った陶器の産出地が多い。 そこで陶工を幾人か選抜し、陶土が算出する赤膚に移動させて陶器の生産を行わさせたのだ。
元々、春日神社の祭事に使用する土器を作っていた事もあり素地もある。 そのお陰が、比較的短時間で新たな陶器の産地として確立したのだった。
なお焼き物のとしての名は、土が取れる場所より名を取って赤膚焼としていた。 作風としては朱が混じる焼き物であるが、灰釉が使われている為に白も多く明らかに信楽焼や丹波焼とは違っている。 更に陶工らは、義頼に進言して赤膚焼に彩色を行いたいと義頼に進言する。 彼らがこの様な事を言い出した理由は、絵仏師の存在があった。
と言うのも絵仏師らは己が手にしている業を用いて、お伽草子や古物語や謡曲などを題材とした絵本の挿絵を書くようになっていたからである。 朱み掛かった乳白色の焼き物となっているので、彩が生えるのではと考えたのだ。
進言された義頼も、信楽焼や丹波焼とはまた違う作風もいいだろうと考え了承したのである。 とは言え、普通に考えれば協力が得られるかは微妙なところであろう。 しかしながら前述した通り、興福寺に対して伝手がある。 その伝手を利用する事で、義頼は協力を可能とさせたのだ。
その赤膚焼の火鉢なのだが、やはり趣が違う。 素朴さとは違い、明るさを生み出している。 この様なものもまたいいものだと、冷えた体を温めながら義頼は漠然と考えていたのであった。
明けて翌日、義頼は北畠親成から報告を受ける。 こちらも、なかなかに順調であった。 収穫は無論だが、大和国内に存在する豊富な材木を利用しての名産づくりの進捗も悪くはない。 寺社仏閣が多い地であるが故に従来から生産があった樽や桶の他に、織田信長の許可を得た上で募った近江国内の木地師などの手による椀や木工細工などである。 更には指物などを行う者が出ている。 義頼が志野流免許皆伝の腕を持つことも相まってか、徐々にではあるが増えている。 これは完全に想定していなかった事であり、ある意味で嬉しい誤算でもあった。
「……ふむ。 従来の筆や表具だけでなく、新たに始めた事も思いのほか順調とは」
「はっ。 若干廃れ気味となっていた大和伝も急速に復興の兆しが見え始めています」
そもそも大和国は、平安の頃より武具を生み出す産地であった。
しかし、応仁の乱あたりから刀工の地方流出が起きたらしく武具の生産は衰退し始めたのである。 だが義頼は、その衰退し始めていた武具の生産に力を入れたのだ。 これには勿論、己の家の為という側面もある。 何と言っても戦の世であり、武器は幾らあっても足りないぐらいなのだ。
こうして世情と義頼の思惑、さらには元々の産地であった事も重なり急速に再興したのである。 すると、いわゆる名刀や名槍にもなるであろう武具が生まれ始める。 伝統と言うものは、馬鹿にできない事を彼らは目の当たりにしていたのだった。
「それで、上様(織田信長)や殿(織田信忠)に献上するような物も出来始めていると」
「はい」
「ならば、春になれば献上するか。 他にも、織田家に献上する物よりは若干落ちるぐらいの物も修理亮(柴田勝家)殿などと言った重臣の方々に送るとしておくか」
これは、いわば処世術であった。
年明けの褒美で、義頼は官位と実質の領地を賜っている。 確かに中国地方約三ヵ国の平定と安土城・観音寺城の完成に対する褒美であるが、かなりのものである事は間違いない。 幾ら普段から妬みなどを出来るだけ買わない様にと心掛けていると言っても、嫉妬や妬みは生まれるだろう。 その事を少しでも緩和する為に、義頼は自腹を切るつもりなのだ。
さりとて、主家である織田家と同等の物などを贈る訳にはいかない。 そこで多少は落ちるぐらいで、しかし十分に相手を満足、若しくはそれに近い状態にする為の武具を送る事にしたのだ。
幸いな事に義頼の家臣には、釣竿斎宗渭が居る。 彼は刀剣の鑑定と研磨と浄拭を家業とする本阿弥家の者より、直々に刀剣の鑑定について学んだ男だ。 義頼も弟子入りして学んだが、やはり宗渭の方が一日の長がある。 そんな彼の目に適う武具であれば、贈答品として何ら問題が起きるとは到底思えないのだ。
「殿がお選びになられますか?」
「まぁ俺でもいいだろうが、やはりここは宗渭に任せるとしよう」
「なるほど! あの方ならば、間違いはありません」
「うむ」
それから更に日数を掛けて大和国内に留まりつつも仕事をこなした義頼であったが、直ぐに出立とはならなかった。 と言うのも思いのほか天候が荒れ始め、天気が安定するまで暫しの逗留を余儀なくされたのである。 すると、そんな義頼の元に一人の男が訪問してくる。 誰であろうそれは、林宗二であった。
彼は古今伝授の一つ、奈良伝授の当代である。 また、饅頭も商っており、饅頭屋宗二とも言われている。 義頼も歌や漢詩などを嗜む事もあって、大和国に領地を持ってからは彼に対しても援助を行っていた。
元々、義頼の師は、今は亡き連歌師で古今伝授を東常縁から受けた宗祇の弟子にあたる宗碩の流れを汲む者である。 その理由は、義頼の傅役であった蒲生定秀の伝手にあった。
と言うのも、定秀の祖父に蒲生貞秀と言う人物がいる。 彼は武将としてもさりながら、歌人としても名を馳せた人物でもある。 その彼が生前、宗祇や彼の弟子となる三条西実隆や飛鳥井家の者達と交流を持っていたのだ。 その様な経緯を蒲生家が持っていたことから、定秀は義頼の歌の師としてその人物を招いたのである。
因みに宗祇が古今伝授をした人物だが、三条西実隆の他にもう一人いる。 それは肖柏と言い、何と林宗二に古今伝授を行った人物であった。 その林宗二を迎えた義頼だが、相手は年上であるしある意味では同門とも言えないこともない。 そんな事から、ある程度は敬う態度で接していた。
「これは宗二殿。 何用か?」
「はい。 実は右将……いえ、左衛門督(六角義頼)様に、お願いの儀がありまして参上致しました」
「某に願いだと? 何かな」
「実は……左衛門督様に伝授を行いたいと」
「…………ゑ?……え、と……伝授とはまさか、そなたが受けた古今伝授か?」
「御意」
先ほど述べた様に、義頼と宗二は宗祇の流れをそれぞれに継いでいるのである意味では同門と言える。 その為か、細かいところでの違いはあっても本質的なところでは両者は似ているところが多分にあった。 つまるところ、義頼には既に古今伝授の土台となるものができている。 後は、解釈等について伝えてしまえばそれで古今伝授が成されてしまうのだ。
それに、彼自身の問題もある。 林宗二は既に齢七十を優に超えており、若い者に伝授しておきたいという思いがある。 しかも彼が若い頃よりは落ち着いてきたとはいえ、まだまだ争いが尽きる様子は見えない。 自身がまだ教えられるうちに、一人でも多く教えておきたいという思いがあった。
「……分かりました。 古今伝授、受けましょう」
「おおっ! では、早速にでも」
「気が早いですな。 いいでしょう、宗二殿」
既に大和国の仕事もひと段落しており、今は天候待ちの状態にある。 しかも一から教える必要などなく、ある意味で恵まれた環境にあった為に話は円滑に進んでいった。
こうして林宗二より古今伝授を受けてから義頼は、多聞山城を出立したのである。 次の目的地は丹波国であるが、その前に彼はまたしても京へと向かう。 そこで兄である六角承禎と会うと、彼は忍び衆が集めている報告に目を通す。 しかしながら前回の訪問時よりあまり時も経っておらず、取り分けてこれと言った情報は届いていなかった。
それよりも義頼は、承禎より朝廷へ年始の贈り物として献上した中に紛れさせた布団の追加を頼まれてしまう。 お犬の方を筆頭とした奥の者は無論の事、安土へと戻って初めて使用した義頼も高評価をした様に朝廷でも評価を得たのである。 それにより、追加の要請という名の命令が承禎に齎されたのだ。
兄よりその話を聞いた義頼は、苦笑とともに了承する。 必ず追加の分は贈る旨を約束し、承禎の屋敷を出立し様としたがその前に止められた。 何用かと尋ねると、義頼に話があると言う人物がいるとの事である。 しかし彼に心当たりはなく、訝しげに眉を寄せた。
「兄上、どなたですか」
「まぁまて。 直ぐに来る」
「はぁ」
待つ事暫し、その人物が現れる。 誰かと思えば、庭田重保である。 しかしながら、尚更に用件と言うのが分からなかった。
義頼も重保も、初対面と言う訳ではない。 義頼が京に居て、かつ忙しくなければ挨拶を行うぐらいの関係は持っている。 と言うのも、庭田家は宇多源氏嫡流の流れを汲んでいるからだ。 宇多源氏の祖である源雅信の長子に源時中が居るのだが、彼の子孫が庭田家に繋がっているのだ。
そして六角家の祖となる佐々木氏は、源雅信の四男である源扶義の子孫となる。 その様な関係もあって、承禎も義頼も一応は庭田家を立てる形で訪問等をしていたのだった。
「それで権大納言(庭田重保)殿、某に用件とは何でしょうか」
「実は……何れ生まれる左衛門督殿のお子と息子の子とで夫婦としたいのだが」
「は? 某の子と、権中納言(庭田重具)殿のお子との間でですか?」
「うむ」
真剣に頷く重保に対し、義頼は首を傾げる。 婚儀を行う自体は吝かではないが、何故と言う思いがあるのだ。 そこで義頼が単刀直入に尋ねると、答えたのは承禎であった。
実は承禎も知らなかった話らしいのだが、その話によると重保は宇多源氏の血をひいてはいないらしい。 重保の父親である庭田重親は、彼の先代となる庭田重経が子のないままに三十代で亡くなってしまったが為に同じ羽林家の中山家より急遽庭田家に養子としてだされたらしい。 そして中山家は、藤原氏の流れを汲む家であった。
つまり重保は、今一度宇多源氏の血を庭田家に入れる為に義頼の子を欲してるのである。 何せ六角家……いや佐々木氏は一度も宇多源氏からの血を途絶える事なく今を迎えているのだ。
「……権大納言殿。 現時点では、庭田家にも六角家にも用件を満たせる子はいない。 この話は、子が出来たら何れと言う事で宜しいですか?」
「そう、ですか。 分かりました。 それで宜しいです」
その後、義頼と承禎は重保を細やかながらも歓待する。 婚儀話は兎も角、彼が客である事に変わりがないからであった。
明けて翌日、屋敷を出る際に義頼は、承禎に東の情勢は必ず念を入れて調査をする様にと重ねて頼み込む。 未だに嫌な予感は払拭しておらず、それの解消の為にも情報は必須だからだ。
そして改めて頼まれた承禎だが、彼とて十二分に理解している。 実際、彼の胸中にも胸騒ぎの様な物が蠢いているのだから当然だろう。 そんな胸騒ぎを打ち払う為にも、承禎としても情報は欲しい。 どうなるか予測がつかないだけに、尚更であると言えた。
何であれ胸の隅に嫌な予感を抱えつつも出立した義頼は、最後の訪問先である丹波国へと入る。 ここでの居城としている八木城に到着すると代理を任せている土岐頼次と、彼の補佐をしている弟の土岐頼元に面会する。 頼元は美濃斎藤家滅亡後に各地を放浪していたのだが、兄である頼次が六角家家臣となると兄弟という伝手を頼って仕官したのだ。
しかし兄である頼次の家臣としてであり、六角家に仕えた訳ではない。 そもそも頼次を丹波国における己の代理とした理由は、その身に流れる血ゆえである。 清和源氏の流れを汲む土岐氏であり、当時松永家に仕えていた頼次を引き抜いてまで丹波国における己の代理としたのであった。
さて前述した様に、何と言っても丹波国には清和源氏の流れを汲む国人が多い。 その清和源氏の流れを汲む土岐氏の人間が増えることは、今や丹波国を完全に領地とした義頼にとって有難い事だった。
「お早いおつき、何よりにございます」
「うむ。 頼次も頼元も出迎えご苦労」
『はっ』
「それと……数か月ぶりか悪右衛門ど……いや直正」
「はい。 お久しぶりにございます、殿」
今までと違い、丹波衆は完全に六角家家臣となった。
当然だがその旨は、赤井直正や波多野秀治ら丹波国人にも伝えられている。 元々その血筋から誇り高いとも言える彼らであったが、今は近江源氏宗家と言える六角家が上におり、彼の代理も清和源氏の一流を担う土岐氏であった。
だからこそ彼らは、織田家降伏後今に至るまで反抗などせず織田家にそして六角家に従っていたのである。 その六角家の家臣であるならば、たとえ誇り高い彼らであっても十分に受け入れられる命であった。
更に言えば、義頼自身が殆ど負け知らずの戦上手である。 義頼が持つ過去の戦績も、彼ら丹波衆が素直に命に服している理由でもあった。
「さて、と。 最早聞き及んでいるだろうが、丹波衆は全て俺の家臣となった。 そこで尋ねるが、異存はあるか?」
「いえ、ありません」
「そうか」
「それから殿、こちらをお納め下さい」
そう言って頼次が差し出したのは、丹波国人からの起請文であった。
流石に、義頼と共に遠征に出ている他の丹波衆の物はない。 しかし、毛利家が山陰側より攻め込んで来た場合の対応として丹波国内に残しておいた直正を含む一部の丹波国人は此度の命を聞くと直ぐに用意したのであった。
そんな国人たちを主導したのは、頼次であり頼元である。 そして彼らの動きを積極的に補佐したのが、他でもない直正本人であった。 赤井家は波多野家に続く丹波国人の家であり、そして現赤井家当主たる赤井忠家の後見人でもある直正の発言権は大きい。 その直正すらも動いた話であり、その意味でも彼ら国人に否などあろう筈がなかった。
こうして頼次より差し出された起請文を一通り目を通した義頼は、小姓の三雲賢春に文箱へ片付けさせる。 命じられた賢春は丁寧に起請文を運び、指示された文箱へ閉まっていた。
「ふむ……今更、丹波の国人を疑う気はないがな」
「それでも、やるべきことはやっておかねばなりません」
「ま、それもそうか」
「はい」
今まで織田家直臣であった丹波衆が、六角家家臣となるのだ。
馬淵健綱や永原重虎の様に、元は六角家家臣だった者が織田家直臣から再度六角家に戻ると言うのならばまだいい。 しかしそもそも六角家家臣でもなかった丹波衆が、織田家直臣から陪臣の身分となるとそこに付け込む者が敵味方問わず居ないとは限らないのだ。
それでなくても、毛利家と干戈を交えている義頼である。 これを好機と考えて、手出しされてしまっては堪らない。 信長や信忠の覚えめでたい義頼ならば、まだいいだろう。 しかし、そうとは必ずしも言えない丹波衆ではどうなるか分からない。 これ幸いにと、織田家主催による粛清などされては叶わないのだ。
その様な事を避ける為にも、起請文を改めて出しておく必要がある。 だからこそ直正は、積極的に土岐頼次や土岐頼元に協力したのだ。
また直正は、前線に赴いている赤井家現当主である忠家や波多野秀治などの丹波国人にも書状を出して起請文を出す様にと促している。 そして彼らもその辺りは弁えており、書状を貰うまでもなく起請文を揃えていた。
そちらについてはいずれ分かるとして、今は丹波国である。 こうして起請文を受け取った以上、その話は一先ず終わったと言っていい。 となれば、他に確認することがあった。
言うまでもなく、丹波国の収穫等である。 此方も、収穫に関しては悪くない。 米は無論だが、他にも大豆や小豆と言った元々丹波国で作られていた産品も同様だった。 特に丹波国産の大豆と小豆は品質が良く、人気も高い。 その様な高額産品となる大豆や小豆の生産が良いのだから、領主としても嬉しい話だった。
また、他にもある。 それは、茶であった。
そもそも丹波国では、古来より茶が生産されている。 実のところこれは近江国でも同じであり、朝廷に献じられていたぐらいである。 今となっては近江国での生産に簡単に口出すなど出来なくなっている義頼なので、代わりと言う訳ではないがこの丹波の地での生産を拡充させたのだ。
そして作らせた茶を、二つに分けさせている。 一つは、抹茶の元となる碾茶である。 この碾茶を石臼で挽けば、いわゆる抹茶となる。 義頼が志野流を嗜む事もあり、茶の生産は都合がよかったのだ。
もう一つだが、此方は煎茶用である。 これは元々の生産物であり、今更言う必要はなかった。
そんな煎茶を報告書を読む傍らで飲んでいる義頼だが、慣れ親しんだ近江産とはどこか違うように感じている。 別に口に合わないとかそう言ったものではなく、ただ単純に違うと感じているのだ。
ただ、慣れているかいないかの差でしかないだろうとも考えている。 不味い訳ではないので、殊更に何か言う気はなかった。
そんな茶を啜りながら読み進めるうちに、一つの報告が目に映る。 それは、硝子の生産だ。 此方に関してはまだまだであり、試行錯誤の域を出ていない。 やはり長い間に渡って衰退していた影響は小さくなく、中々に売り物となりそうな物はできない。 しかし徐々にではあっても品質は向上しており、そう遠くないうちには特産品と成りそうな気配であった。
別の報告もある。 それは、丹波焼だ。 しかし、此方に関しては特段話題にする必要はなかった。 元からの生産地であり、取り分けて指摘するような事象は起きていないのである。 このまま順調に生産を続けていってもらえば、それで十分な話なのだ。
強いてあげるとすれば、燃料となる薪であろう。 だが、この案件に関しては既に伊賀焼以降で行った様に植林をしていけばいい。 そして同じような場所からではなく、順繰りにしていけば良いという事も実証済みである。 後はその経験を踏まえて、同じ様にすればいいだけでだった。
因みに大和国では、余計な手間がいる。 と言うのも、大和国における義頼の領地は一郡しかないので、燃料となる薪を全て賄えるには足りない。 そこで、与力衆である大和衆より購入していた。 その際に植林も奨励させているので、いわゆる禿山にはならない筈であった。
こうして大体の報告に目を通した義頼は、ある人物を呼び出したうえで最後の報告に目を通し始める。 しかしながらどうしてその様な事をしたのかと言うと、少々特殊な報告となるからであった。 と言うのも、こちらは特産品などではない。 ならば何なのかと言えば、武家ならば大半の者が手に入れたがるであろう馬に関してなのだ。
何故に馬の話が出てくるのかと言うと、それは六角家に仕官する前の牢人時代、馬喰として生計を立てていた岸教明よりある話を聞いたからである。 それによれば、教明曰く両親に当たる馬の体つきが大きいと大きい子が出来るというのである。 言われてみれば、確かに覚えがある話でもあった。
ただ教明も、その理由は分からないとの事である。 それに、必ずしも大きめの馬が産まれると言う訳ではない。 だが、それでも子の馬の体格がよくなる傾向にあった。 それに義頼も他の者より体つきがいい為、馬を潰しかねないと言う現実的な理由がある。
それに何より、体つきのいい馬が産まれ易いとなれば、見栄え的にもそして戦における実情としても有難い。 それに、信長も馬好きである。 いい馬が産まれれば、織田家に献上してもいい。 その様な事情も相まって、教明は六角家の馬の飼育や研究に関しての一切を任されていたのだ。
「なるほど。 教明、やはりそなたの言った通りか」
「はい。 やはり体つきのいい両親から生まれた子馬は、他の子馬と比べても大きめになり易いようです」
「となると……もう少し揃えた方がいいか?」
「はい。 出来れば、お願い致します」
教明からの報告を読んだ上でそう判断した義頼だが、事はそう簡単にはいかない。 今更言うまでもない事だが、体つきのいい馬は基本的に高い。 それは、誰しもその様な馬を求めるからだ。
やはり、体つきのいい馬に乗れば目立つ。 そうなれば主君の目にも止まり易いだろうし、前述した様に見栄えもいい。 故に大型の馬の値段が高くなるのは、必然でもあった。
そして義頼も武士である以上、見栄えにも気をつける必要はある。 それでなくても体つきが人より大きい義頼なので、相応に大きい馬でないと見栄えが良くならないのだ。 それは、信長より褒美としていただいた今の愛馬が証明している。 客観的に見ても、疾風に乗った方が映えるのは言うまでもなかった。
「馬に関しては何とかしてみよう。 それと、引き続いて頼むぞ」
「お任せください」
教明の返事を聞いた義頼は、微笑みながら小さく頷くと彼を下げさせた。
その後、伊賀国や大和国と同様に仕事をこなすと、八木城を出立する。 そして播磨国を経由してから、義頼は石山城へと到着した。
するとその直後、義頼は信長からの援軍扱いであった近江衆を纏めている蒲生頼秀を呼び出すと、帰還を命じている。 そもそも彼らは、毛利攻めの直前に相対した上杉家との戦で消耗してしまった兵の補充と言う意味もあって毛利攻めに参加した者達である。 既に播磨衆と備前衆、更に織田家に降伏した美作衆をも旗下の兵とする事の許可を得ている義頼であり、その兵数は毛利攻めを始めた時よりも増えているのだ。
その様な状態なので、援軍としての近江衆は最早必要とはいえない状況にある。 何より近江衆は、信長の直兵と言う立場にある。 その意味でも、近江衆を信長の元へ帰す意味はあったのだ。
その帰還を命じられた蒲生頼秀だが、少し寂しそうな表情をしながらも了承した。
正直に言えば、兄とも慕う義頼の元へこのまま居たい。 しかしながら、近江衆筆頭代理となる蒲生賢秀の息子としては、何時までもこの地に留まると言う訳にはいかない事も理解できる。 だからこそ彼は了承し、そして翌日になると陣を払う準備を始めたのであった。
因みに近江衆筆頭だが、未だに近江国代官の職にある義頼となっている。 但し、彼は六角家当主として戦に出る事が多い為、蒲生賢秀が代理を務めているのだった。
また陣を払ったのは彼らだけではない、六角家の将兵や一部の与力衆も陣を払い始めている。 しかし、将兵の全てがと言う訳ではなく凡そ三分の一に当たる者達だけだった。 これは戦が起こりにくい冬のうちに、一旦家族の元へ彼らを返してやろうと言う義頼の考えから実行されたのである。 流石に、一気に返すわけにはいかない。 そこで六角家の将兵を三つに分け、短期間だが順繰りに戻そうとしたのだ。
幸い、丹後衆や播磨衆。 そして新たに加わっている備前衆や美作衆が居るので、六角家の兵が戦場より幾らかいなくなっても全体に及ぼす影響は少ない。 それに彼らは、たとえ収穫のためとはいえ一度郷里へ戻っている。 その間、戦線を支えたのは六角家の将兵や与力の者達である。 その事実がある以上、彼らも文句は言えなかったのだ。
その傍らで義頼は、新たに家臣入りを果たした元丹波衆の面々を集めている。 その席で、彼らに己の口から六角家の家臣になった旨を伝えた。 すると、波多野秀治がこの場にいる全ての元丹波衆が直筆で認めた起請文を差し出してくる。 その書状すべてに目を通すと、義頼は起請文を小姓に銘じて文箱にしまった。
「ではその方ら、これからもしっかりと頼むぞ!」
『御意!!』
間髪入れずに返ってきた了承の言葉を聞いた義頼は、微笑を浮かべながら頻りに頷くのであった。
まぁ、タイトル通りと言えばタイトル通りです。
領内で、色々あったりだったり。
ご一読いただき、ありがとうございました。




