第百九十七話~お披露目と褒美~
大変お待たせしました。
前回更新後、間もなくしてパソがクラッシュしてしまい更新どころの話ではなくなってしまいました。
ようやく修理が終わって返ってきたので更新です。
第百九十七話~お披露目と褒美~
安土城正面の石段を登り、織田信忠の屋敷の前を抜ける。 その後、表御門となる黒鉄門を抜ければ、本丸表御殿に到着する事となる。 この辺りの配置は、天主閣建築時に幾度となく通っているので義頼に限って間違い様がなかった。
その表御殿に到着する前に、彼は持参させた献上品を所定の場所へと置くように指示をする。 それから義頼は、静かに表御殿へと入って行った。 そのまま広間に向かうと、既に到着している織田家家臣もいる。 彼らに軽く会釈をしながら、義頼は己が座る位置へと向かった。
織田家重臣として名を連ねている義頼自身、織田家臣の中では上から数えた方が早い。 その為、彼が座るのは上座の間近であった。
それから暫くするうちに、少しづつ織田家臣が揃っていく。 やがてほぼ全ての家臣が集まると、間もなく堀秀政が織田信長と織田信忠の到着を告げる。 一同平伏して待っていると、やがて信長が信忠と共に現れたのであった。
広間に入った信長が上座に座り、そのすぐ右脇には信忠が座る。 そこで秀政が上げた声に従い、広間に居る織田家臣一同は頭を上げた。 すると織田家筆頭家老となる柴田勝家が音頭を取り、新年の挨拶を行う。 続いて、織田家家臣も同様に新年の挨拶行った。
その後は同屋敷内の別場所に移り、直臣が連れて来ていた陪臣などを含めた新年の宴が催される。 この席でも義頼は、挨拶回りを例年の如く行っている。 織田家内の序列が変わろうとも、この行いは変えていないし変える気もない。 これは重臣に列せられているとしても己が若いと言う事を配慮してでもあるが、それ以上に武将達から情報を得ると言う意味合いもあっての事であった。
情報自身に関しては送り込んだ忍びによって得られているが、実際に当人から聞けば違った意見がある事もある。 無論全部が本当だとは思ってはいないが、多角的に情報を得る事でその違いの真偽が分かるのだ。
また、情報を得るだけでなく、義頼も情報は無難に流している。 一方的に得るだけでは相手の機嫌を損ねる可能性があるので、その事を配慮する様にと傅役だった蒲生定秀などから諭された故であった。
先ず、織田家筆頭家臣となる勝家の元に向かう。 すると彼は、喜んで義頼を迎えていた。
「おお、右少将(六角義頼)殿。 祝いの品、嬉しかったぞ」
「何の。 権六(柴田勝家)殿とおつやの方様との間にお子が、しかも男が生まれたのですから当然です」
そう。
何と、勝家とおつやの方との間に子が生まれたのだ。
勝家は今は亡き側室との間に男子を二人ほど設けているが、どちらも庶子となる為に家督を継げる立場にはない。 しかし此度、正室として迎えた信長の叔母に当たるおつやの方が子を男子を生んだのだ。 彼の喜びは、相当な物であったと言う。 勝家は己の旗印にも使用されている雁から名を取り、於雁丸と名付けていた。
雁は、古来より幸せを呼ぶ鳥と言われている。 その故事に由来し、嫡子となる息子に幸をと言う願いを込めた名付であった。
話を戻し、義頼は勝家に子が生まれると祝いの品を送っている。 しかも、与力や家臣など柴田家に直接関係ある家以外では一番最初に祝いの品を送ってきたのである。 その事もあって、勝家は喜んで義頼を迎えたのであった。
その後は、他の織田家重臣などの元に現れた義頼だったが、一通り宴席を回ると後は己が家臣達のところに戻り彼らと酒を酌み交わし始める。 暫く彼らと楽しく飲んだ後は、織田家内の序列が自身より低いとみられている者達の元に現れては酒を勧めたりしていた。
初めの頃は恐縮されたりするが、そこは宴会の席である。 酒の力もあり徐々に硬さが解けた者達から、配を交わす様になっていた。
やがて酔いが回り潰れた者や、明智光秀の様に下戸でそもそも酒に弱い者達から宴席より退出していく。 そして意外だったのが、義頼の退席であった。 彼は織田家屈指とも言える酒豪であり、普段ならばほぼ最後まで残っている事が多い。 しかし、その義頼と家臣がいつの間にか消えていたのだ。
とは言え、別に義頼が酒に弱くなったとかではない。 最後まで居なかった理由は、近いうちに行われる安土城と観音寺城の竣工式に関してであった。
実は安土城の普請奉行であった丹羽長秀と会い、何度か話し合っている。 この後も、彼との話し合いを控えていたので節制したのだ。 何せ竣工式までは、凡そ半月ほどしかない。 ある程度は長秀が進めていてくれたので、それ程負担とはなっていない。 しかし安土城の天主閣や改修した観音寺城は義頼の管轄であり、此方には流石の長秀も手出しは出来なかった。
それでも道意や大原義定が動いてくれていたので、ある程度は段取りが整えられている。 義頼はそれを基礎にして、案内などを兼ねた竣工式の計画を練り上げていたのだ。
そしてこれには、助けられたと言っていい。 この元となる流れのお陰で、義頼にいささかの余裕が生まれたのだ。
それでもこうして宴会を途中で抜けなければならないのだから、忙しさも大概である。 この竣工式が無ければ、新年の挨拶後は領地の視察を行っていた筈なのだ。 彼の一行が帰り道で京にしかよらず、丹波国等を経由しなかった理由もそこにある。 最も、この竣工式がなければ戻れたかも分からないと言うのがもどかしいところでもあった。
何はともあれ本丸御殿を出た義頼の一行は、安土城の中腹に建てられた長秀の屋敷に向かう。 すると屋敷には、既に長秀が戻ってきている。 彼も宴席では付き合い程度しか酒を飲んでおらず、素面と言って良かった。
因みに何故に義頼の屋敷ではないのかと言うと、実は安土城のある安土山に彼の屋敷は存在していないからである。 観音寺城の六角館があるせいか、長秀の様に与えられていないのだ。 何れは与えるとは言われているが、未だにその命はない。 しかし住み慣れた六角館があるし、何より義頼は観音寺城の城代でもある。 そもそも今更屋敷が要るのかと言われれば、首を傾けるだろうと思われた。
「では、大体この線で行えればいいな」
「そうですね五郎左殿、後は細かいところを煮詰めて上様(織田信長)の許可が得られればと言ったところですか」
「まぁ、その細かいところも厄介だがな」
「確かに」
安土城の竣工式に関しては、織田家家臣だけでなく新年の挨拶に来ている従属大名などが参加する予定である。 流石に彼ら従属大名を引き連れて詰めの城となる観音寺城には向かわないが、それでも彼らに対応する為の計画などは中々に難しい物であった。
但しやりがいもあるので、必ずしも憂鬱と言う訳ではない。 その辺りは、僥倖であるとも言えた。
その後、更に数日掛けて煮詰めてから信長へ報告する。 いくつかの修正を指摘されたが、概ね問題はないと了承された。 許可を得られ一安心と言った次第だが、まだ終わるまで気を抜く訳には行かない。 長秀とは無論の事、関係者を集めて少しでも問題が起きない様にと手を尽くしていた。
用意も準備も、そして心構えも揃った頃にいよいよ竣工式が始まる。 どの道、新年の挨拶と称して安土へ来ている家が大半である。 信長が、敢えてこの時期に行った理由の一つもそこにある。 他には、冬は軍事行動が制限されるからと言った理由もあった。
例外が、安土に戻った義頼に代わり中国方面にて毛利家を押さえている長岡藤孝らである。 瀬戸内は、気候的に冬でも雪が少ない。 だからこそ義頼も、わざわざ藤孝を代理に任命してまで多数の兵を残したのである。 それ故の不参加だが、流石に致し方ない。 信長もその辺りは考慮していたのか、彼らが不参加である事に一切何も言って来なかった。
藤孝らの不参加事情は脇に起きて置き、竣工式は進んでいく。 いわばお披露目会でもあるこの竣工式であるからか、信長が自ら先導するような形で行われている。 勿論、総奉行として安土城築城における全体の指揮をした丹羽長秀や普請奉行であった義頼などといった者達の補佐も受けつつの案内である。 とは言え、先に住居に当たる南殿や江雲寺御殿などを作らせ早々に居を岐阜城から移しているので不案内と言った事はない。 しかし住まい以外の細かいところとなると、概略としては知っていても全て把握と言うのはやはり難しかったからだ。
その様に、多少は補佐を受けつつも信長は安土城をお披露目していく。 やがて本丸御殿をも案内した後は、いよいよ天主閣を含めた辺りへと差し掛かった。
最初は、やはり天主(天守)閣であろう。 この頃、多聞山城や光秀の居城である坂本城の様に天守閣がある城と言う物は存在している。 しかし、それらの天守閣と比べても安土城の天主閣は別物であった。
何と言っても、高さと規模が違う。 全体的な形としては、いわゆる望楼型と言われる物である。 そして階層は五重六階まで存在し、三階までは書院造となっている。 四階は大きい屋根裏となっており、五階は八角形をしている。 そして六階は、正方形となっていた。
そもそも、五層の天主閣など存在しない。 天主閣を建てる際の参考とした多聞山城や、他にも前述した坂本城や日本最初の天守閣があったとされる伊丹城があるが、それらでも最大で四層であったとされているのだ。 しかも安土城の天主閣には他の天守閣にはない機能がある。 それはこの天主閣で寝起きが出来ると言う物であった。
多聞山城にしろ伊丹城にしろ、天守閣は戦時における施設と言った性格の方が強い。 つまり、普段使用する事を目的として建てられた物ではないのだ。 翻って安土城の天主閣は普通に生活が可能な施設となっている。 実際、信長はこの天主閣がほぼ完成すると此方で寝起きしている。 それだけでも十分に、異端な建物であった。
更に、外観も派手である。 書院造となっている一階から三階、及び屋根裏となる四階までは黒漆を基調としており左程派手と言う訳ではない。 ところどころ金箔を使用しているが、それぐらいであろう。
しかしそれだけに、五階となる八角形の部位が異彩を放つ。 外壁は白を基調としつつも、極彩色豊かに彩られていた。
一階から三階までが黒を中心とした色合い的に抑えた形となっているので、五階より上が殊更に目立っている。 更に六階は、五階とは逆に黒色の外壁である。 そして見える柱には全て金箔が施されており、黒と金の対比で五階とは違った意味で目を引く階層となっている。 最後に純金で作られた鯱一対が最上階の屋根に鎮座し、煌びやかに陽光を反射していた。
順次屋敷等が完成し住居を移している織田家臣であっても、今まで足場等があったせいで天主閣全体をこれほど間近で見た者など殆どいない。 従属大名達にすればそれこそ尚更であり、実際に建築に携わった義頼や総奉行として建築過程を知っている長秀や関係者を除けば天主閣の大きさもと相まって織田家臣従属大名問わず皆圧倒されていた。
その反応に、信長は内心でほくそ笑んでいる。 竣工式を開く目的こそ、この様な反応をさせる為であったからだ。 従属大名は勿論、比較的天主閣に接している織田家臣ですらこの反応である。 織田家と誼を結ぼうとより遠方より現れる使者は勿論、未だ対立をしている家の者達にも影響を与える事は多少は別として間違いないと確信できたからだ。
これこそ、安土城を建築する事で信長が目的とした政治的な意味合いが発揮された形である。 そして、同じ目的をもって建築されたであろう観音寺城を居城としていた六角家の現当主である義頼に任せた意味が、正に現れたのであった。
その後は、信長が普段の政務などを行っている天主閣の社殿造の一階から三階の一部の部屋を幾つか案内する。 それらの部屋の襖や天井などには、狩野派などの絵師によって描かれた絵が出迎える。 それらの絵のすばらしさや豪奢さに、一行は感嘆の息を漏らしていた。
その後は、南殿や江雲寺御殿などを案内する。 此方は完全に織田家の奥向きとなるので、外から眺めるだけであった。 最後に天主閣のある本丸の裏手側に作られた曲輪を回ってから、再び本丸御殿に戻る。 そこから本丸から見て南西にある摠見寺にて一行に食事、いわゆる精進料理を出して歓待したところで竣工式を終わらせた。
流石に信長が大手門まで見送ると言った事はなかったが、代わりに義頼と長秀が従属大名を大手門まで案内して彼らを見送る。 方や近江源氏頭領、方や信長をして我が兄弟とまで言わしめた男の見送りでしかもどちらも織田家重臣となれば、失礼になど当たる筈もない。 織田家従属大名らは、二人に見送られつつ帰路なり宿とした寺などに向かうなりしたのであった。
安土城のお披露目も無事に終わった数日後、織田家臣でしかもそれなりに家中でも序列のある者達だけを引き連れて新しくなった観音寺城の案内が始まる。 無論、前述した通り従属大名などいない完全に内輪だけで参加する者は構成されていた。
彼らを案内するのは、万が一本当に使用する様になった場合を想定してである。 現在の状況では改修された観音寺城が使用される事態など先ず起こり得ないとは思われるが、それでも行っておいて損はない。 特に観音寺城は普段使う城でないだけに、いざという時の備えと言う側面もあった。
そして何より、観音寺城は元々広い。 元々、繖山全体に曲輪などの施設が作られている城である。 その城を更に改修、改築を行い、徹底的に本格的な城に作り替えている。 はっきり言えば、全体を把握している者など、義頼や大原義定や道意など数名しかいないのだ。
機密と言う意味ではいいのかも知れないが、もし使う事態となった際に効率よく使えなければそれこそ意味がない。 その様な事態を防ぐ為と言うのが、根底に存在していた。
さて案内であるが、当然だが義頼や義定が行う。 一先ず六角館にて集まった後で、案内を行う事となる。 新たな観音寺城は一城別郭の造りである。 元々の支城であった佐生城を、取り込む様な形で建築されていた。
同時に改修に当たって曲輪を連結などして減らしているが、それでも安土山より大きい繖山自体を範囲としている城である。 こと大きさと言う意味においては、安土城を凌駕していた。 また外観だが、全体的に黒を基調にしている事もあって安土城の様な派手さはあまり見受けられない。 代わりに質実剛健という言葉をそのまま当て嵌めたかの様な、強さと逞しさが如実に表れた城となっていた。
始まった案内は、佐生城から始まり再建された観音正寺に向かう。 その後は曲輪を幾つか回ってから、削りそして馴らしして広げた山頂部分にある本丸へと向かう。 そこには安土城天主閣よりは低いが、四層五階の天守閣が鎮座している。 その天守閣は、多聞櫓で連結された小天守と繋がっていた。
そこから一段下がった場所に、安土城にある南殿から比べれば小さいが屋敷もある。 この屋敷自体は、元から観音寺城に存在している。 普段使う麓の六角館とは別に、籠城時にはここが防衛拠点を兼ねた屋敷として機能する為であった。
この屋敷で休憩と軽い食事を挟んでから、残りを回っていく。 ほぼ丸一日かけて巡ると、再び六角館へと戻る。 そして、館で信長達を歓待した。 間もなく日暮れと言う事もあり、食事も兼ねている。 と言うか事実上、完成記念の宴の様相であった。
迎える立場となる義頼なので、宴であろうとあまり酒を飲むことはない。 途中で幾度か誘われても一杯、二杯程度でしかない。 この様に途中で勧められる酒を少量だが飲みつつも、義頼は無事に彼らを歓待していった。
「ふう。 どうにか、終わったか。 それと五郎左(丹羽長秀)殿も、ご苦労様でした」
「そうよな、右少将殿。 お互いに、お疲れさまだのう」
「真に」
そう言うと義頼は、傍らに置いていた白湯を飲む。 流石に酒を飲む気にはなれず、月を見ながら白湯を啜っていたのだ。 そして、長秀も同じである。 織田家重臣に名を連ねる二人が白湯で月見と洒落込む様はある意味で非現実的な光景であった。
暫く黙って月を見上げていた二人だったが、やがてどちらからともなく立ち上がる。 それからは義頼に案内され、長秀は眠りにつく。 彼が事実上最後まで起きていた織田家臣であり、その彼が眠った以上は義頼も眠れると言う物である。 その後、義頼も自分の寝室に向かうと床に就いたのであった。
それから数日したある日、信長の命で安土に居る織田家臣が招集された。
やがて本丸御殿に織田家臣が揃うとそれから間もなく、彼らを招集した信長が現れる。 家臣が平伏する中上座に座ると、側近の堀秀政が面を上げる様にと告げる。 その言に従い家臣一同が面を上げると、そこで今日の招集の内容が告げられて行く。 その内容とは、今年の方針と先年の働きに対する褒美であった。
此処で示された方針とは、新たな戦線に対する物である。 既に出兵が行われている中国地方と信濃地方に関しては今まで通りであるとし、追加された戦線とは事前から噂のあった通り四国への出兵であった。
こちらへの出兵で大将となるのは、明智光秀である。 そして副将には、紀伊国主の羽柴秀吉が任じられた。
そして四国への出陣の名目だが、これは三好義継を通して出された阿波三好家の救援とされている。 これは先年に勃発した阿波三好家の内訌に対する物であるが、所詮は名目でしかなかった。
そもそも論として、阿波三好家の内訌が年を越えてもまだ沈静していないのがおかしいのである。 しかし、事実として未だに内訌が続いていた。 だが、これには理由がある。 実のところ阿波三好家は、織田家による四国出兵に合わせる為に敢えて阿波三好家は内訌の終了を遅らせていたのだ。
また、この四国出兵には畿内の従属大名より幾つか与力として参戦する。 お題目となっている三好義継は勿論だが、他にも畿内に領地をもつ幾つかの者が四国へと向かう事になっていた。
更に、土佐国を統一したばかりの長宗我部家も加わる手筈となっている。 四国統一を目指していた長宗我部元親であったが、予想以上に速い織田家の伸長に彼は織田家従属大名への道に舵を切ったのである。 内心で家を残す為の忸怩たる決断であったが、これも時の流れとどこかで達観もしていた。
確かに、もう少し土佐国の統一が早ければ流れがどうなっていたか分からない。 もしかしたら四国も統一して播磨国や淡路国、はたまた畿内にまで進出できたかもしれない。 しかしそれはもしもの話でしかなく、今となっては意味のない仮定に過ぎなかった。
「よいな。 光秀、秀吉。 確りと励め」
『御意』
こうして正式に四国方面の出兵が決まると、残っているのは褒美についてである。 この場で評されたのは柴田勝家と義頼、それと織田信忠と丹羽長秀であった。
先ず勝家だが、彼は飛騨国平定すると飛騨国人で構成された飛騨衆も率いて木曽へと攻め入っている。 そして木曽を治めていた木曽家の軍勢を下すと、程なくして木曾家の居城であった木曽福島城を奪取した。
しかし木曽家当主の木曾義昌は、居城の落城寸前に忠臣の手引きで妻の真理姫や少数の家臣と共に辛くも木曽福島城からの脱出に成功していたのである。 その後、彼は武田信勝の命を受けて出陣した山県昌景と秋山虎繁に合流した。
その後は、織田家と武田家による木曽福島城を巡る攻防となる。 しかし相手が昌景と虎繁では、如何に勝家と言えども分が悪い。 それを証明する様に、幾度かは武田の軍勢に押し込まれていた。
だが防御施設たる城に入っているのが功を奏し、かろうじてであるが防衛には成功している。 やがて雪が降り始めた為、武田の軍勢と言えども攻め続けるのは難しくなってしまう。 そこで昌景と虎繁は、不承不承飯田城へ兵を退いていた。
これ以降は、事実上の睨み合いであり衝突らしい衝突は起きていない。 だからこそ勝家も、こうして安土城へ赴くことが出来たのであった。
その勝家への褒美だが、飛騨国主への就任である。 そして飛騨国主代理として、与力の姉小路頼綱が務める事となった。
次は、義頼である。 彼は中国地方へ進出して半年強で、播磨国と備前国を落としている。 そして美作国も大半は手にしており、事実上三ヵ国を落としたと言って良かった。
そんな彼の褒美だが、一つは丹波衆の六角家入りである。 今まで与力とされていた丹波国人の波多野家や赤井家などが、織田家直臣より六角家の家臣とされたのである。 これにより義頼は、伊賀国に続いて丹波国の二ヶ国を名実ともに国主として治める事となった。
そしてもう一つは、官位である。 前の昇叙から半年強ぐらいしか経っていないにも拘らず更なる昇進となったのには、褒美とは全く別の背景が存在していた。
切っ掛けは、朝廷である。 義頼の兄である六角承禎の昇叙や彼に任せられる新たな職に合わせる形で、よりにもよって朝廷から織田家に新たな官職の打診があったのだ。 話を聞いた信長は、始めはまたかと呆れてしまう。 何せ以前に山国荘の返却に続いて二度目であるから、彼の反応も理解できなくもない。 しかしこの時、信長はこれを利用して義頼への褒美にする事を思いついたのだ。
そこで、朝廷からの拝命ではなくあくまで織田家からの褒美としてならば受け入れると告げたのである。 だがこの提案には、朝廷が難色を示す。 彼らの思惑では、織田家中に力を持つ六角家を朝廷側に取りこむ為の物だったのだ。 しかし信長は退かず、更に言い募る。 こうなってしまうと、困るのは朝廷側である。 京を守っているのは、織田家に他ならないからだ。
既に有名無実化した上に備後国の鞆に居る足利将軍家など、当てになる筈もない。 今となっては、毛利家に匿ってもらっているに過ぎない存在でしかないからだ。 その毛利家も、織田家から押されているとの話が届いている。 さりとて昇叙を提案した朝廷が、理由なく取り下げると言う事もいささか難しい。 幾ら力を落とそうと、そこには面子と言う物が存在するからだ。
こうして織田家の実力と己の面子との間で板挟みとなった朝廷だったが、彼らは思いもかけない手を打ってきた。 信長からの提案は大人の対応と言う体で受け入れる代わりに、彼に対して従二位内大臣の官位を与えたのである。 形としては権大納言を返上した上で、その後に就任する。 しかし右近衛大将はそのままであり、天皇をひいては京を守る役目は織田家にある事を改めて表すという体を示したのだった。
勝ったのか負けたのかよく分からない形となった信長だったが、求めた要件は通ったのであまり頓着しなかった。 そして信長が朝廷に要望した義頼の官位だが、従四位下左衛門督である。 衛門府は和訓で「ゆげひのつかさ」といい、漢字にすると「靫負」となる。 この「靫」は「箙」とも言い、矢を入れる筒の事である。 日置流免許皆伝の腕を持ち、今李広の他に一部では今与一などとも呼ばれ始めている義頼に合う官位と言えた。
因みに左衛門督だが、現在空位となっている。 以前は朝倉義景や畠山昭高が就任していたが、義景は亡くなっているので当然その官職に無い。 また昭高も、足利義昭が信長に反旗を翻した際に負った怪我が元となって隠居したので、やはり官職は返上していたのだ。
なお昭高の隠居後、尾州畠山家の家督は彼の兄である畠山政尚が継承している。 昭高に子がいなかった為、致しかない処置であった。
因みにその畠山家も、四国へ向かう軍勢の与力として向かう事となっていた。
何はともあれ此処に義頼は、従四位下左衛門督の官位も褒美として信長からいただいたのであった。
その次に褒美を与えられたのが、丹羽長秀である。 彼には、従五位上と内匠頭が与えられた。 当初内々に聞かされた長秀は、始め位階は兎も角内匠頭への就任には難色を示す。 しかし信長の思惑もあり、最終的には受け入れていた。
この信長の思惑とは、義頼の官位就任を安土城と観音寺城の完成によるものとして紛れさせてしまう事にある。 これにより、義頼の官位に対する他者からの関心を抑えてしまおうと考えたのだ。
そして最後の一人が、織田信忠である。 これにはやはり、義頼の昇叙が関係していた。 実は此度の昇叙によって、信忠と義頼の位階が同列となってしまうのである。 そこで信長は、播磨国平定の褒美という形で官位を与えたい旨を朝廷へ上奏した。 朝廷側も織田家と少し不協和音が生じた事もあって、払拭の為にも受け入れる。 此処に信忠は、右近衛中将と兼任する形で参議の官職を与えられたのだった。
こうして信忠は、従四位から正四位へと位階が上がる。 これにより信長は、信忠と義頼の位階が同列になるという事態を回避したのであった。
今回の褒美で、義頼の実質領地が六角家滅亡直前とほぼ並びました。
でも、六角定頼には及びません。
あ、それと二百話行きました。 実質は、百九十七話目ですけど。
ご一読いただき、ありがとうございました。




