第百九十六話~毛利の影~
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第百九十六話~毛利の影~
石山城を出た義頼の一行は、陸路を東進した。
速度を考えれば、船の方が早い。 しかし塩飽水軍は降伏したばかりであり、此度は流石に利用しなかった。
因みに塩飽水軍に関してだが、義頼の添え書きも付けて詳細を織田信長と織田信忠へ報告している。 これにより塩飽水軍は、瀬戸内の備前国から石山までの運用を任される様になっていた。 とは言え、主に利用するのは義頼である。 兵糧等を輸送するのに、水軍は実に都合がいいからであった。
話を戻して陸路を行く義頼だが、途中で姫路城や八木城などにより休息や宿泊などを挟みつつ先ず京へと向かっている。 そこで兄である六角承禎から、情報を受け取るのだ。
何故その様な事をするのかと言うと、理由は義頼の毛利攻めにある。 幾ら何でも片手間に相手できる程、毛利家は甘い存在ではない。 実質の戦力は勿論、情報収集においてもより力を入れる必要があった。 しかし、だからと言って他方面の情報収集を疎かにする訳には行かない。 そこで主に畿内を中心とした情報収集を行っていた承禎に、肩代わりを頼んだのだ。
具体的には、兄の元により多くの忍び衆を送り込んだのである。 承禎もこれに応じ、情報収集の範囲を畿内から京より東側の地域へと拡大した。 嘗ては六角家当主でもあった承禎なので、さじ加減は完全に任せている。 彼もその辺りは心得ており、緊急を有するもの以外は定期的に送るに留めていた。
そして今回だが、どうせ安土に向かうのだから直接聞こうと考えたのである。 書状のやり取りで特に問題がある訳ではないのだが、やはり直に聞くのと文面の上とでは違いがある。 基本理性的なのだが何処か直感に頼るところがある義頼としては、生の情報と言う物が欲しかったからだ。
何はともあれ山陽道を進んでいる一行だが、周囲に対する警戒は怠らない。 何と言っても、数か月前に暗殺され掛けているのだから、如何に織田領へ向かっているとしても護衛をする者達からすれば当然の措置であった。
流石に過剰と言うまでは行っていないが、それにしても相当なものである。 護衛対象の義頼としても、苦笑を禁じ得なかった。
しかしてそのお陰か順調に一行は進み、やがて京の郊外へと到着する。 しかし兵の数は少ないとは言え、兵をそのまま京の町中へ引き連れて行く訳にもいかない。 彼らの取り纏めは、仁木政友に命じた。 彼は義頼から見て従兄弟となる仁木義政の孫に当たる人物であり、いわゆる従姪孫となる人物であった。
その政友へ兵の大半を預けた義頼は、藍母衣衆や馬廻り衆と共に承禎の屋敷へと向かう。 到着した屋敷で旅塵に塗れた体を整えてから、兄と面会した。
「久方ぶりであるな、義頼。 元気そうで何よりだ」
「兄上こそ、お元気そうで安心しました。 それから正四位上への昇叙、並びに参議への叙官おめでとうございます。 これで、晴れて公卿と言う訳ですな」
兵部卿でもある承禎が、何故に漸く公卿と呼ばれる立場となったのか。 それには、彼が兵部卿に任じられる経緯が従来とは違った為だ。 通常であれば、中務省や兵部省と言った八省の長となる卿の地位となる者は大体が公卿の地位にある。 しかし承禎は、兵部卿となった際に公卿とはなっていなかった。
そもそも彼が兵部卿となった背景に、たまさか軍勢を実際に率いた実績を持つ承禎を急遽抜擢したと言う事情がある。 丁度、足利義昭の蜂起があった頃の話であり、いわば特例として兵部卿への就任が決まったのだった。
その後、問題となった義昭の蜂起は大した混乱もなく終わりを迎えたのだが、この時に朝廷が受けた衝撃は大きい。 今まで例え名目上であったとしても京の守りを受け持っていた筈の足利将軍家の蜂起で起きた混乱であり、しかもその将軍家が追放されてしまった以上は最早当てにもできなくなってしまった。
勿論、足利将軍家に変わる存在として織田家が居る。 しかし朝廷としても、ある程度は自衛の力を持たねばならないと今更ながらに考えたのである。 そこでそのまま、承禎が兵部卿に留まり続けていたのだ。
それから二年強、承禎は京都所司代の村井貞勝ともよく話し合い、お互いの領分を浸食しない様にまた万が一の事態にも対応できる様にと少ないながらも兵を整えたのだった。
具体的には、嘗て御所を守っていた滝口武者や院を守った北面武士。 それから、廃止されていた西面武士を実質的な兵力として復活させたのである。 兵数はそれほど多くはないのだが、そこは京都所司代と連携するので一時的にでも凌げればいいとした朝廷側の思惑がある。 しかしながら最大の理由は、財政的に厳しいと言う刹那的な物であった。
なお余談だが、滝口武者を創設したのは宇多天皇の御代である。 その宇多天皇の子孫となる六角承禎が、事実上形骸化していた滝口武者を復活させたと言うのは不思議な縁でもあった。
「まぁ、そう言う事になるな。 ただ、此度の件は別の理由の方が大きいのだが」
「兄上、別の理由とは?」
「ふむ。 順を追って話そうか」
そう前置きしてから、承禎は公卿となるまでの経緯を話し始めた。
先ず、承禎にある打診がされる。 それは、武家故実の解任である。 と言っても、承禎に取り分けて手落ちがあった訳ではない。 武家故実を代々担ってきた京都小笠原氏の当代である小笠原清秀へ、武家故実の代替わりがなされたのである。 それに伴い、清秀と共に承禎の補佐をしていた吉田重勝も清秀の補佐となった。
こうして武家故実が彼の手から離れると、次の打診が来る。 それは、武家伝奏への就任であった。 折りしも先代の武家伝奏の地位にあった中山孝親から、武家伝奏の辞任が持ち掛けられていたのである。 そこで武家の事は武家に任せてしまえとばかりに、公家がひしめく朝廷の中にあって唯一の武家である承禎に白羽の矢が立ったのだ。
但し、問題がある。 今まで武家伝奏は、公卿の中から選ばれると言った慣例があったのだ。 しかし前述した様に、承禎はまだ公卿とはなっていない。 そこで参議に命じ、公卿とする事にしたのだ。
「武家伝奏……ですか」
「うむ。 そなたが織田家の重臣、と言う事もあるのだろうがな」
現在、朝廷を庇護する最大勢力は、前述の通り織田家である。 その織田家に義頼が重臣としているので、何かと朝廷側の意向を汲むのではとの判断がそこにはあったのだ。
実際、朝廷と織田家で話し合いがもたれるとすれば先ず京都所司代とであろう。 つまりもし武家伝奏となれば、六角承禎と村井貞勝との間で話し合いがもたれる。 そこである程度話を固めた後で、正式に織田家との間で取次ぎ等が行われるのだ。
「相変わらず、利用できるものは何でも利用しようとしますか」
「そこが、公家の公家たらんところなのだろうがな」
「魑魅魍魎が住まう伏魔殿……でしょうか」
「おい。 一応、わしもその一員なのだぞ」
「これは気が付きませんで、申し訳ありません兄上」
ややおどけた様に言う義頼を見て、承禎が笑い出す。 次いで、義頼もまた笑い出していた。
一頻り笑い合った兄弟だったが、やがて笑いが収まる。 そこで義頼は、笑いによって崩れた表情を引き締める。 すると承禎も、表情を引き締めたのであった。
「それはそうと、年明けの進物ですが何時もの様に送ります」
「すまぬな。 助かる」
此処の屋敷の維持は勿論、情報収集や羽林家としての活動など高家六角家の活動資金は大体が義頼からの提供である。 そのお陰で、承禎は進物にあまり欠く事はない。 余程特殊な物でもない限り、義頼が用立てするからだ。
六角家は、織田家家中でもかなりの領地を賜っている。 その上、近江代官としての給与や琵琶湖水運における堅田衆からの運上金。 更には特産品の売り上げなどなどがあり、領地だけでは表せない金子を義頼は得ている。 その収入の一部が、承禎に当てられていた。
故に、高家六角家は他の公家の様に困窮にあえでいると言う状態ではない。 余裕が出れば、幾許かは朝廷への進物としていたぐらいなのだ。
「そうそう兄上。 某も実物はまだ見ていませんが、珍しい物が送れると思います」
「ほう。 それは、楽しみに待つとしよう」
義頼の言った珍しい物、それは布団である。
実は毛利遠征中に、領地で布団を考案した者が居たのだ。 その者の名は、西川仁右衛門と言う近江商人である。 最も彼自身は、行商人ではなくれっきとした自前の店を持つ商人であった。
元々は蚊帳の販売を主力とする、若いながらも中々の商売人である。 それが隠居して間もない蒲生定秀の目に留まり、御用商人の候補として推挙したのだ。
面会した義頼は、ほぼ同年代の西川仁右衛門を気に入り蒲生定秀の言う通り六角家の御用商人とする。 既に角倉了以が事実上の御用商人だったが、付き合いのある商人が多いに越した事はない。 ましてや六角家の意向を重視してくれる商人であれば、尚更であった。
因みに角倉了以が、別に六角家をないがしろにするわけではない。 同じ佐々木の流れを汲む事もあって、寧ろ他の者より優遇してもらっている。 しかし既に大商人の角倉了以なので、六角家だけが商売相手ではない。 その為、時と場合によってはそちらを優先させる事もあるのだ。
その点、六角家が認定した商人ならばまず六角家を優先してくれる。 だからこそ、新たな御用商人として西川仁右衛門を採用したのだった。
彼も義頼の期待に答え、商人として中々の活躍を見せている。 そんな中で西川仁右衛門は、布団を考案したのだ。 とは言え厳密に彼の考案した物とは、敷布団と夜着である。 それまでは床や畳に直接寝て、着ていた衣服や筵を掛布団代わりとしていた。
しかし西川仁右衛門は、最近になって量産に成功した綿を詰め込んだ敷布団と敷布団と同じ様に綿を入れて暖かくした衣服の様な物を作り上げたのである。 前述した様に義頼は利用した事はないが、既に使用しているお犬の方などからの書状ではとても寝心地が良いと記してあったのだ。
そこで、送れるならば承禎に幾つか送ろうと考えたのである。 自身が利用していないので確実な事は言えないが、正室や側室からの感触は悪くないみたいなので、問題ないだろうと考えて承禎に伝えたのだった。
なおこの会談の後になるが、義頼は直ぐに書状を出して急遽布団を作る様にと指示を出す。 その要望に対し西川仁右衛門は、見栄えのいい柄の絹の中に綿を入れて布団一式を作るのであった。
話を戻して京の六角屋敷だが、承禎から一つ頼み事をされてしまう。 何かと思えば、それは養子縁組の話であった。 承禎を家祖として始まった高家六角家だが、今のままでは彼だけで終わりを迎えてしまう。 単純に、後継となる者が居ないからだ。
ならば同じ庭田家などから養子を迎えればいい話だが、承禎としては六角家から迎えたいと言う思いがある。 そこで、義頼に話を持ち掛けたのだった。
「何も今すぐと言う話ではない。 そなたの側室が生んだ子の中から、一人貰い受けたいのだ」
「……分かりました。 生まれたならば、考えましょう」
「頼むぞ」
義頼にとって完全に予想外の話である養子縁組であり、一先ず保留する。 そもそも承禎が対象としている子などまだ生まれてもいない状況なので、話を進めるのは実際に生まれてからと言う事にした。
そして次の話題は、いよいよ肝心要の話である。 勿論それは、承禎に任せていた京より東側の情報であった。 兄から齎された情報には、飛騨国を領国化した柴田勝家が木曽へ攻め入っているなどである。
「うーむ。 しかしながら兄上、これは真ですか?」
「確実と言う訳ではないらしいがな」
「そうですか」
義頼と承禎が頭を悩ませている情報だが、そこに書かれていたのは毛利の外交僧である安国寺恵瓊とよく似た人物を見掛けたというものなのである。 武田家と干戈を交えている柴田勝家や徳川家康、そして織田家と敵対している武田家や上杉家。 更には未だ動向がはっきりとしない北條家などを探っている最中に、偶然見掛けたと言う物であった。
しかし短時間であった為、確証までは得られていない。 それでも一応、報告を上げたというものであったのだ。
そして義頼としても、この話は意外であったと言える。 後に報告を受けた事で、阿波三好家の内訌騒動が始まった頃に安国寺恵瓊が四国を訪問していたのは知っている。 しかしその後は彼の存在を確認できずに居たので、義頼も毛利家に戻っている物だとばかり考えていた。
しかしながら、実は毛利に居たのではなく東に居たというのである。 普通ならば、何かの見間違いだろうと考えるところだ。 事実、承禎もそう考えて知らせていなかったのである。 だが、承禎の思いとは裏腹に義頼は眉を寄せて報告書をじっと睨んでいた。
「……どうした、義頼」
「え? あ、いや。 その、気になりまして」
「その、安国寺恵瓊らしき者が東に居ると言う話か?」
「はい。 僧侶である安国寺恵瓊ですから、もしかしたら報告にある様に見間違ったのかも知れない。 ですが引っ掛かりと言いますか、どうにも胸騒ぎがするのです」
真面目な引き締まった表情をしながら報告に対する見解を述べる義頼を見て、承禎も表情が厳しくなった。
義頼は、万が一本当に安国寺恵瓊であった場合について考えたのである。 外交僧として活躍している安国寺恵瓊であり、その彼が東に居るとなればやはり外交しかない。 なれば対象としてまず思いつくのが武田家、それから上杉家や北條家であった。
ともすれば、安国寺恵瓊の外交が何を目的としていたのかと言う問題に突き当たる。 普通に考えれば遠交近攻、即ち彼らの家との同盟を疑ってしかるべきである。 そしてもしこれが成れば、流石の織田家も厳しい状況となりかねなかった。
「……兄上! 織田家中に回している忍び衆を最小限まで絞り、代わりに武田、上杉、北條に回してください! どうにも、嫌な予感がします!!」
「ああ。 分かった。 任せておけ」
承禎から了承を得て、義頼の表情も少しは緩んだ。
それに如何に気になる事態であったとしても、確証が得られなければ動くに動けない。 ならば焦らず、先ずは情報を集める事に重点を置くしかないのだ。 不確定な情報で動き、藪蛇となってはそもそも本末転倒である。 先ずは情報を揃えた上で、内容如何では信長へ報告なりする必要を考慮するしかなかった。
その後、忍び衆へ指示を出すと、情報に関しては基本待ちとなる。 先程述べた様に、焦りなどもっての外であった。 何より焦ったからと言って、情報が揃う訳でもない。 ならば焦ったり慌てたりなど、無駄以外の何物でもなかった。
だからと言う訳ではないが、義頼と承禎は再会を祝して酒を汲み交わす。 そこには、義頼に同行した本多正信などの面子もあった。 その中には、蒲生頼秀の姿も見える。 彼もまた、義頼と同様に安土へと向かっているのだった。
彼らとも酒を酌み交わした義頼は、翌日には承禎の屋敷を出立する。 飲み過ぎたのか調子の悪そうな屋敷の主とは対照的に、彼以上に飲んだ筈の義頼は普段と変わらなかった。
調子の悪い兄に見送られながら出立した後、京の郊外で兵と合流する。 それから、安土へ向けて改めて出立した。 どの道、安土まではそれ程距離がある訳ではない。 それなりに人を連れている事から歩みは遅くなるが、明日か明後日には安土に到着できる筈であった。
取り分けて問題もなく、安土に着くと六角館に向かう。 館は義頼が居た頃の様な喧騒には包まれておらず、改修された観音寺城も静かに佇んでいた。
「お帰りなさいませ」
「おお。 息災そうで何よりだ」
出迎えたのは、お犬の方を筆頭に側室や子供達であった。
直ぐに嫡子の鶴松丸と娘の結姫が駆け寄って来る。 二人を一人ずつ腕に抱きかかえると、そのまま近づいた。 すると二男の寿亀丸も父親が分かるのか、しきりに腕を伸ばしている。 その姿に小さく笑みを浮かべた義頼は、抱えていた息子と娘を降ろしてから、寿亀丸を抱え上げた。
直後、満面の笑みを浮かべると楽し気に声を出しながらはしゃぐ。 小さなその手でぺしぺしと父親を叩きながら、体全体で喜びを表していた。
「ご機嫌だな、寿亀丸は」
「全くですな、兄上」
そう言って義頼を出迎えたのは、義頼の甥となる二人である。 無論、大原義定と六角義治であった。 それから二人の後を追う様に、老年の男が現れる。 それは、道意(松永久秀)であった。
既に六十はとうの昔に超えている筈の男だが、とてもそうは見えない。 足腰も確りしているし、凡そ医者は無縁と思える様子であった。
「殿。 ご帰還、おめでとうございます」
「年が明ければ、とんぼ返りだろうがな。 それはそれとして、大儀だった。 よくもここまで、観音寺城を生まれ変わらせてくれた」
義頼が対毛利戦に駆り出されて以来、事実上の総責任者として観音寺城の改修や安土城天主閣の建築に大原義定と共に活躍したのである。 そして如何に義定が義頼の構想をある程度引き継いでいたとは言え、道意の存在が無ければまだ暫く時が掛かっていたかも知れなかった。
なお、この改修や建築に関わた事で義治が意外にも城作りの才があるのが判明する。 正直に言えば想定外であり、道意も驚いた出来事であった。
「へぇ。 義治がな……うん、意外だ」
「おい。 酷いぞ、義頼」
「ははは。 済まぬ済まぬ。 それはそうと義治に義定、明日にも案内して欲しい」
『応っ!』
嘗ては六角家の居城であり、そして義頼の構想によって大幅に作り変えられた観音寺城である。 途中で改築から抜けた身としては、どの様に完成したのかを実際に見分したかったのだ。
そんな義頼の言葉に対して、義治と義定は即座に応じる。 流石に六十半ばの道意にまで案内を頼む気はなかったので、義頼も名をあげなかった。
その後、着替えた義頼は風呂に入り旅の汚れを落とす。 その日は夜食を取ると、早々に寝てしまっていた。 明けて翌日、何時もの様に鍛錬後に朝食を取った義頼は、少し休んでから新たに完成した観音寺城を見て回る。 やはり、細部などには違いが散見されている。 しかし大凡、義頼の構想からずれてはいない。 その意味では、十分に満足できる完成度であった。
因みに、観音寺城の案内には道意も同行している。 普通に若い義頼達に付いて行っている当たり、やはりとても年寄りには見えない男であった。 年齢を心配して案内の時に名をあげなかったのだが、どうやら余計なお世話であったらしい。 いささかの疲れはあるようだが、心配するほどではなかった様だ。
こうして新たな観音寺城に満足してから幾日か経つと、やがて新年を迎える。 すると義頼は、新年の進物と共に安土城へと向かうのであった。
毛利の動きについて、片鱗が見えました。
布団の原型がこの天正期にできたというのは、本当だそうです。
誰がと言うのは、分かりませんでしたが。
よって、布団関連のエピソードは拙作だけのことです。
ご一読いただき、ありがとうございました。




