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第百八十六話~毛利と宇喜多の動静~

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第百八十六話~毛利と宇喜多の動静~



 宇喜多家の居城たる石山城の一室、そこで宇喜多家当主の宇喜多直家うきたなおいえは義頼に討ち取られた浮田家久うきたいえひさの家族と面会していた。

 彼が家久の家族を呼び出した理由は、彼を暗殺者として送り出す際に約束を果たす為である。 そこで直家は家久と約束した通り、彼の二人の息子は直家の嫡子付きとした。

 更に家久の遺領だが、当主が亡くなった事で家督を継ぐ嫡子に与えられる事となる。 同時に浮田の姓も継承され、家久の嫡子は浮田秀俊うきたひでとしとなったのであった。

 また直家は、彼らだけではなく家久の兄に当たる遠藤秀信えんどうひでのぶを呼び出している。 すると彼に、今回家督を継いだ浮田秀俊を後見する様に命じている。 事は話は亡くなってしまった弟の家の事でもあるので、秀信は即座に了承したのであった。

 こうして家久との生前の約束を果たした直家は、彼らを下がらせると一人部屋に籠って地図を睨んでいる。 その地図とは、備前国と隣国の美作国の一部と播磨国の一部が描かれている。 つまりは、義頼が攻めて来る前の宇喜多家の所領が描かれた物であった。

 その地図には、色々と線や注釈が記されている。 見る者が見れば、地図に掛かれている線や文章などは、極最近の織田勢と宇喜多・毛利連合勢の推移である事は明白であった。


「播磨国での勢力減退、そして美作国の情勢不安定甚だし……か。 その上、忠家は亡くなり長船貞親おさふねさだちか岡剛介おかごうすけは敵の手に落ちた、と。 全く、上手くはいかぬものだ」


 それでなくても、播磨国と美作国の国境まで井伊頼直いいよりなおを大将とした軍勢が進軍している。 【佐用河原の戦い】の後で戦場より撤退した伊賀久隆いがひさたかを追ってであるが、国境まで進軍した頼直らはと言うと兵を退く事なく駐屯しているのだ。

 軍勢と言う目に見える実質的な圧力と本多正信ほんだまさのぶ沼田祐光ぬまたすけみつ小寺孝隆こでらよしたからによって撒かれた噂、この二つが美作国の国人達を揺さぶっている。 そもそも美作国自体は宇喜多家の所領と言った訳ではなかったが、嘗て美作国へ侵攻した三村家親みむらいえちかが暗殺された後は浦上宗景うらかみむねかげよって抑えられた形となっていた。

 しかしそれも表面上でしかなく、直家が宗景に反旗を翻すと美作国の情勢は不安定化してしまう。 やがて宗景が劣勢となり始めると、直家が並行して進めていた美作国国人の取り込み工作が功を奏し始める。 ついには天神山城にまで押し込まれると、宇喜多家よりではなかった美作国国人も態度を変えざるを得なくなった。

 そんな美作国へ、更なる勢力が介入する。 此処にきて、【備中兵乱】を乗り越えた毛利家も手を伸ばし始めたのだ。

 ついには浦上宗景も宇喜多直家に敗れ天神山城より何処ともなく逐電した訳だが、その頃の美作国は宇喜多家と毛利家の勢力が混沌とした状態になってしまう。 これは両家にとっても望んだ形ではなかった為、宇喜多家と毛利家は美作国を事実上の分割統治と言う形とする事になっていた。

 取り敢えずは安定したかに見えた美作国であったが、そこに義頼を大将とする織田勢の登場である。 とは言え彼らも播磨国へと入ったばかりでまだ隣接していなかった事もあり、大して問題とはならなかった。

 だが僅かの間に播磨国の大半を鎮定した義頼は、様々な伝手を使い美作国国人へと調略の腕を伸ばし始める。 やがて上月城の支城である浅瀬山城近辺で起きた【佐用河原の戦い】にて宇喜多家と毛利家の連合軍が敗れると、美作国国人達に動揺が見え始めた。

 そこにきて、今回の暗殺騒動と真しやかに流れた噂である。 事実暗殺未遂が起きており、状況的にも否定できる要素もあまりない。 ついには宇喜多家にて活躍し領土を得ていた新免氏当主の新免宗貫しんめんむねぬきなどと言った一部の美作国国人を除き、彼らは独自に動き始めた。

 その動きは、大きく分けて二つある。 一つは日和見、即ち様子を見ようと言う者達である。 その動きは、国人の中でも比較的に小さい領地を持つ者達に多かった。

 そしてもう一つは義頼、ひいては織田家に近づいた者達である。 此方は草刈氏や江見氏などであり、比較的勢力の大きい家が該当した。 

 つまり国人勢力的には、美作国は織田家側に靡いたと言っていい。 最大勢力が織田家であり、残りが宇喜多家と毛利家と日和見に走った者達であった。 更に一度は日和見に走った家も、勢力が固まり始めると、動きを決めている。 彼らが選んだ家で最も多かったのは、言うまでもなく織田家であった。

 

「美作は諦めざるを得ないな……下手に関わり続けると、備前国も危なくなる。 それでは、本末転倒と言う物だ。 それはさておき、こうなると宇喜多家存続の手を打たねばならぬ。 はてさて、どうした物か」


 そう口に出しながらも、直家は頭の中で策を立て始めていた。

 何と彼は、大胆にも暗殺者を仕向けた義頼へ接触をする選択すらも視野に入れているのだから大した者であろう。 しかし嫡子である八郎や、継室の連れ子である三浦桃寿丸みうらとうじゅまるの為にも簡単に家を滅ぼす訳には行かない。 特に嫡子の八郎には、己が経験した苦労を味わって欲しくはなかった。

 それと言うのも直家は、祖父の宇喜多能家うきたよしいえが攻められた後、父の宇喜多興家うきたおきいえと共に幼い身空で放浪している。 一時は、備後国にまで移動して親子共々潜伏していたぐらいなのだ。

 その後は、豪商である阿部善定あべぜんていの庇護を受け備前国へと戻ってきている。 そこで父親は善定の娘を妻としているが、彼女と直家はそりが合わなかった。 やがて父親が死去すると、彼は再び諸国を放浪している。 その間に研鑽を積みやがて成人すると、昔の誼で浦上宗景に仕官をする。 そこで直家は頭角をめきめきと現し、宗景の配下の中で家臣筆頭ともされるぐらいの力を持つまでに至った。

 正にその時、直家は下剋上に踏み切ったのである。 彼は当時の龍野赤松家当主であった赤松政秀あかまつまさひでと図り、宗景に反旗を翻している。 だがこの時、彼は運に恵まれなかった。

 よりにもよって手を組んだ政秀が、養父の小寺職隆こでらもとたかと共に出陣した小寺孝隆によって打ち負かされてしまったのである。 しかも政秀は、好機到来とばかりに侵攻した宗景の攻勢により降伏してしまう。 最大の協力者を失ってしまった直家は、時節にあらずとして降伏を決断した。

 その証として彼は、娘を宗景の嫡子である浦上宗辰うらがみむねときの嫁として差し出している。 すると宗景は、直家を許して浦上家への帰参を許したのだ。

 こうして命が助かった直家は、殊勝な態度で浦上家内に置いて仕事をこなしていく。 その一方で綿密な計画を立てつつ味方を増やしながら牙を研ぐと、再度下剋上を行ったのだ。

 先ず直家は、小寺家に居た宗景の大甥にあたる浦上久松丸うらがみひさまつまるを擁立する。 久松丸は浦上家嫡流の流れを汲んでいるので、彼を神輿として掲げたのだ。

 その効果は殊の外大きく、宗景の家臣から離反者が多く出てしまう。 その為、著しく力落としてしまう。 そこで宗景を一気に攻め天神山城にまで追い込み、やがて逐電させたと言うのが直家が備前国を得るまでの経緯であった。

 その戦の後、久松丸は備前福岡城に入っている。 元々この城は廃城であったが、直家が改修し譲渡したのだ。 その近くには、宇喜多家重臣長船氏の居城である長船城がある。 つまるところこの配置は、久松丸を監視するための物であった。

 何はともあれ直家は、幼き頃に味わった辛酸を息子と義息子には経験して欲しくはないと考えている。 それを回避する為ならば、それこそ何でもする気であった。  


「しかし、おいそれと降伏と言う訳にもいかぬ。 家臣の手前もあるしな。 だが、手は打っておくべきか」


 決断すると、直家は素早く動き始めた。

 先ず新免氏などの未だに宇喜多家側に立っている美作国の国人へ、宇喜多に遠慮せずおのが家の行く末を決めよと記した書状を送り付ける。 その傍らで、兵を整え始めた。 どの道、伊賀久隆いがひさたかが間もなく戻って来る。 そうすれば、兵数は揃うのだ。

 防衛線の縮小と兵力の集中という観点から美作国より退かせる兵と合わせれば、それなりの数にはなる。 無論、義頼と加えて織田信忠おだのぶただの兵に比べれば少ないが、それならば戦い方と言う物がある。 何よりまだ前線には吉川元春が居るのだから、そこまで慌てる必要もなかった。

 同時に直家は、降伏するかは兎も角として義頼へ繋ぎを取る動きを始める。 具体的には弟の宇喜多春家うきたはるいえを、密使として派遣するつもりなのだ。

 勿論、当初から上手くいくなど楽観的な考えなど持ってはいない。 行き成り会うのは難しいであろうが、可能性姓がないと言う訳ではない。 今は亡き祖父が残した、近江黒田家への伝手を利用するつもりなのだ。 即ち、小寺孝隆に仲介を頼むつもりなのである。

 こうして直家は、例え可能性が少ないと思われてもあらゆる手を使って宇喜多家存続の確立を上げる為に動くのであった。



 直家が宇喜多家の存続に動気を見せ始めたその頃、西方寺陣を出立した小早川隆景こばやかわたかかげは少数の護衛と共に片上湊に向かっていた。 

 ここには軍勢を維持する兵糧等を運びこむ為に、村上水軍の船が係留している筈だからである。 彼らは半ば馬を潰す覚悟で走らせると、やがて目的の湊へと到着した。 そこには考えていた通り、村上水軍の船が幾つも係留している。 そして停泊していたのは、村上吉充むらかみよしみつ率いる因島村上氏の水軍船であった。

 村上水軍の中でも因島村上氏は、小早川家や児島家と懇意にしている。 であれば、隆景の頼みならばまず断るとは思えなかった。 果たして因島村上水軍は、予想通り快く頼み事を引き受ける。 湊に停泊中の船に中で最も早い船に隆景一行を乗せると、瀬戸内海へと漕ぎ出した。

 潮の流れが速く難所の多い瀬戸内であるが、村上水軍にしてみれば勝手知ったる庭みたいな物である。 巧みな操船技術を披露しつつ船を進め、村上水軍と並ぶ瀬戸内の水軍である塩飽しわく)水軍の本拠地である塩飽諸島を抜ける。 やがて三原湊で船を降り陸の人となると、毛利家の居城である吉田郡山城までひた走った。

 こちらでも馬を潰すつもりの走りであったが、幸いな事に潰れる前に城へと到着する。 隆景は軽く身嗜みを整えると、輝元のところへ向かった。

 驚いたのは、輝元である。 毛利家のほぼ全力の兵を預けた毛利両川の片割れたる隆景が急遽戻ってくるなど、考えてもいなかったからだ。 これは、外聞衆の殆どを情報収集に充てている為に余剰人員が殆どいないからである。 残りも義頼配下の伊賀衆と甲賀衆、それから尼子衆の鉢屋衆に対応させている。 とてもではないが、忍び衆を先触れなどに使えないのだ。

 何であれ、隆景が面会を求めている以上は輝元に断る理由がない。 ましてや今は織田家との全面戦争に入っているのだら、尚更であった。

 

「叔父上。 随分と慌てているが、如何なされた」

「殿。 確認したき仕儀があります!」

「な、なんだ。 藪から棒に」

「此度の義頼暗殺未遂、殿の命ではありませぬな!」


 まるで詰問するかの様な叔父の言葉を聞いた輝元には、怒りよりも驚きの方が大きかった。

 確かに織田家侵攻軍の大将である義頼が暗殺され掛かったと報告は受けていたが、まさか自身が叔父より犯人として疑われるとは思ってもみなかったからである。 輝元は完全に呆気に取られてしまい、二の句が続けなかった。

 するとそんな甥の様子に、隆景も安心する。 まず犯人ではないだろうと判断していた事が、裏付けされと言えるからである。 これであれば毛利領内に対して、動きを取り易かった。 

 やがて驚きより脱した輝元であったが、それと共に眉を吊り上げて行く。 叔父である隆景から疑われた事に対して理解が追いつき、気分が害されたからである。 輝元は憮然とした表情をしながら、言葉を返したのであった。


「叔父上……いやさ隆景。 天地神明に誓って、俺は関与などしておらぬわっ!」

「ならば宜しいのです、殿。 ご無礼仕りました」

「ふん! もういいわ。 それよりも、叔父上。 これからどうするのだ?」

「はい。 拙者と殿の共同で、領内へ我ら毛利が暗殺に無関係であることを発します」

「分かった」


 それから数日も経ずして、毛利領内に向けて毛利輝元と小早川隆景の連名で異例の通達がされる。 すると領内において、反応が分かれた。

 石見国や備後国の様に前線から離れている国などでは、割と早く動揺が抑えられていく。 しかし前線に近い国では、そう言う訳には行かなかった。 特に因幡国は、山陰側の毛利家総大将である吉川元春が離れている事や因幡国人へ義頼からの接触もある事からか水面下での動きが激しい様子である。 そんな最中、毛利家にとって思いも掛けなかった事が起きた。

 輝元と隆景の通達から間もなく、毛利家の後援を受けて因幡国にての鎮定を進めていた武田高信たけだたかのぶが突如亡くなったのである。 理由は不明だが、以前から体を壊しがちであったので病と言うのが妥当なところであった。

 しかしながら不審な点もあり、織田家に通じようとした家臣や国人から強要されたか命を狙われた可能性も否定できなかった。

 何であれ、但馬国と隣接する因幡国を放っておく訳にもいかない。 そこで隆景は輝元に進言して、高信の息子へ家督を認める書状を発行させると、その書状を持って因幡国へと向かった。

 狙われる危険がない訳ではないが今は危急の時であり、稲葉国人や武田家中を抑える為にも隆景が向かう必要がある。 毛利両川の一人が態々書状を持ってまで訪れたと言う事は、毛利家は味方を見捨てないと言う証明にもなるからだ。 動揺が収まりきっていない因幡国であれば尚更であり、しかもこの行動は領内にいる国人達にも影響を見せる。 その意味からも隆景は、躊躇う事無く因幡国へと向かったのだ。

 無論、西方寺陣を出立した時の様な少数でと言う訳には行かない。 輝元は自らの馬廻り衆らを付けて、護衛とした。 最初は隆景も断ったが、彼は珍しく頑として聞かない。 ここで自らを支えている叔父の一人を失う訳には行かない事は、輝元自身も分かっている。 だから何としても、受け入れさせるつもりであったからだ。

 此処までされれば、隆景としても折れざるを得ない。 護衛の件を受け入れると、吉田郡山城を出立した。 隆景は備後国を抜けると、そのまま備中国へと入る。 三村氏の嘗ての居城であった備中松山城に入ると、そこで備中国人達と面会していた。 

 これは、ついでの行動と言っていい。 備中国は【備中兵乱】の後に併合した地域であり、領地になってからまだ一年どころか数か月しか経っていないのだ。 もし因幡国における高信の死が無ければ、隆景はいの一番でこの備中国へと向かった筈である。 しかし予想外の高信死亡に、優先順位を下げざるを得なかったのだ。

 だからこそ隆景は、先ず武田家家督の承認を輝元へ進言したのである。 そして輝元の許可を得ると、因幡国へ向かう道すがらに出立前に主要な国人へ通達しておいたのだ。 通達を受けた備中国人らも、断る様な事などせずに備中高松城へと向かっている。 そこで彼らは、隆景と面会した。

 今、備中国人を纏めているのは、三村家親みむらいえちかの四男に当たる三村忠秀みむらただひでである。 また彼を補佐する者として、常山城主の上野隆徳うえのたかのりがいた。 隆徳の妻は、家親の長女鶴姫つるひめである。 また上野氏自体も、先祖に足利家四代目当主の足利泰氏あしかがやすうじを持つとされる名門であった為に毛利家より選ばれたのであった。

 実はこの人事、当初の予定では家親の弟ながら今までの毛利家の付き合いを重視して三村元親みむらもとちかと袂を分かった三村親成みむらちかなりが予定されていたのである。 しかし元親が密に落ち延び義頼の庇護を受けた事で、この人事を進める事が難しくなってしまったのだ。

 もし当初の予定通りに親成を備中国に送り込むと、下手をすれば殺害されかねない可能性が出て来たのである。 そこで窮余の策として、忠秀と隆徳を備中国人の纏め役としたのであった。

 最も毛利家が警戒している備中国人だが、彼らは全くと言っていい程この時点においても動いてはいない。 それは彼らにとって、今は動く時ではないからだ。 嘗ての主君であった三村元親が戻って来ていない以上、時が満ちているとは言えないからである。 それまではひたすらに、「忍」の一文字を貫きき通すつもりなのであった。

 故に彼らは隆景を平然と受け入れ、ただ黙って口上を聞いている。 その言が終われば、神妙にも平伏したのである。 だからこそ隆景からすれば不気味なのだが、平穏であるならば如何こうする事など出来はしなかった。

 もし義頼が暗殺されていれば、また違った答えを備中国人は出していたかもしれない。 しかしてそれはもしの話であり、現実に討たれていない以上はあり得ない結末であった。

 心中に何とも言えないしこりの様な物を感じていたが、所詮は勘の様な物である。 本来の目的が因幡国にある以上、表面だった問題が全くと言っていい程起きていない備中国へ何時までも駐留する訳には行かなかった。

 後ろ髪をひかれつつも備中松山城を後にすると、一行は伯耆国へと向かう。 すると隆景は、羽衣石城に立ち寄った。 この城は南条家の居城であり、城主は現当主の南条元続なんじょうもとつぐである。 南条家は元続の先代に当たる南条宗勝なんじょうそうしょうが毛利家の後ろ盾を受けて勢力を伸ばした家であり、今や伯耆国東部最大の実力者となっていた。

 その宗勝だが、重い病に掛かっている。 因幡国へ向かう道すがらに羽衣石城があるので、見舞いも兼ねて立ち寄ったのである。 重篤の身でありながらも床を上げて隆景を迎えている父の姿を見つつ、元続は冷ややかな目で見ていた。

 と言うのも、元続は既に義頼と接触していたからである。 南条氏は、出雲源氏嫡流に当たる塩冶氏の流れを汲んでいる。 その経緯から義頼は、何れ始める山陰側からの侵攻に際して塩冶氏の分家筋に当たる但馬国人の塩冶高清えんやたかきよを通して味方となる様にと勧誘を仕掛けたのだ。

 近江源氏の嫡流となる六角家現当主の義頼からの勧誘であったが、当初はさほど興味を示さなかった。 だが昨今の織田家の伸長に加え、甲斐武田家と上杉家の撃破と一向宗降伏と言う事実に元続も色気を示したのである。 しかし現状では伯耆国どころか、隣国の因幡国にすら手を出していない。 この状況では、味方の確約は出来なかった。

 そこで元続は南条家が毛利家より離反するとしたら、最低でも織田家の軍勢が因幡国へ進出してからとの条件を示す。 義頼もその条件は了承し、此処に織田家と南条家の密約が結ばれたのである。 しかしこの密約だかは、程なく宗勝の知るところとなる。 元続は床に伏せる父親に呼び出されてこの話を聞かされたときは、思わず驚いたぐらいである。 同時にこれは始末をしなければならないのかと危惧したが、その父親からの言葉でさらに驚きを表したのであった。


「元続。 その話、お前の一存にて行え。 わしは止めぬ」

「ま、真か! 父上!!」

「うむ。 南条家の当代はお前だ、好きにすればいい……どうした?」

「……いや。 止められるのかと思っていたので、意外でした」


 嘗ては二十年近く放浪した後に毛利家の支援の下で旧領を取り戻したのが、父親の宗勝である。 だから毛利家と袂を別つ様な密約を結んでいる事を、窘めて来るかと思ったのだ。

 果たして実際は、好きにすればいいとの言葉である。 だからこそ先程の驚きなのだが、その言葉を聞いた宗勝は苦笑を浮かべていた。


「毛利より受けた恩は恩だが、第一は家の存続。 恩に拘り家を潰しては、それこそ意味がない。 そなたが何があってもいいようにと織田に通じている事を止めるなど、愚かでしかないな」

「そ、そうですか……」


 宗勝とて、伊達に戦国の世を何十年も生きてきた訳ではない。 ましてや一度は領国を追い出されながらも、長い時を掛けてまで取り戻したのだ。 それだけに、家に対する思いは強い。 再度家を滅ぼすのか、それとも恩を仇で返す様な行動に出るのかと言われれば後者を選ぶ事に左程躊躇いを覚えないのだ。

 今まで息子として傍にいた元続すら見た事のない父親の非情とも言える態度に、戸惑いを覚える。 そんな息子に対して、宗勝は更なる言葉を続けた。

 それは、山田一族に対する物である。 山田氏は南条家家臣の伯耆国人であるが、その忠節は南条家より寧ろ毛利家に向いている。 そもそも現当主の山田重直やまだしげなおは、南条家家臣入りに難色を示していたぐらいなのである。 その重直が元続の考えを知れば、毛利家に知らせる事は必至であった。


「だから、その前に山田を潰せ。 手段は問わん」

「承知致しました」

「良いな、元続。 これをわしの遺言と心得よ」

「はっ」


 その様な会話をしたのがつい数日前の話だったのだが、その後にまさか隆景が訪問してくるとは思わなかったのである。 まさか重直に通達されたのかと危惧したが、目的が因幡国の武田家家督に関する事であり羽衣石城には都合がいいとして寄っただけだと知り安心したぐらいであった。

 その後、宗勝の見舞いも無事に終えた隆景は元続から饗応の用意があると伝えられる。 しかし今は急ぐ必要があり、丁重に断るとその日のうちに羽衣石城から出立したのである。 その一行を城から見送った元続は、まだ疑いが向いていないと思われる今のうちの山田一族誅殺を考え始めたのであった。

 さて羽衣石城を出た隆景は、因幡武田家の居城である鳥取城へと急ぐ。 しかしその途中で、嫌な報告を受ける事となる。 その報告とは、播磨国西部の戦についてであった。

 

「それは、真か!」

「はっ。 治部少輔(吉川元春)様、大聖寺山城より撤退致しました。 今は三石城跡に駐留しています」


 そう前置きしてから、世鬼政矩せきまさのりは元春から託された書状を渡す。 そこには、撤退する仕儀となった経緯が記されていた。



 それは隆景が急遽吉田郡山城に戻り、その後に因幡国へ向けて出立してからの話であった。

 白旗城に居た義頼と織田信忠おだのぶただが、動いたのである。 両者が城を出てから向かったのは、大砲が据えてある法雲寺へと向かっていた。 

 但し、義頼が率いているのは六角家家臣と近江衆、それと苔縄城へ派遣された筒井順慶つついじゅんけいらである。 それ以外の将兵は、義頼の代理となった京極高吉きょうごくたかよしに率いられ、一色義俊いっしきよしとし山名堯熙やまなあきひろらと共に千種川沿いに展開していたのだ。

 何ゆえに義頼が率いていないのかと言うと、信忠が法雲寺へ向かった事が原因である。 実は信忠、戦場で大砲が使われたところを見た事がない。 そこで今回の駒山城攻めや大聖寺山城で使われると聞き、自身の目と耳で経験したいと言い出したからだ。

 そして何れは信忠も旗下に大砲を操る部隊を持つ事になる以上、此処で実態を知る事は有効となる。 そこで義頼も了解したのだが、幾ら軍勢を率いているとは言え信忠だけを法雲寺へ送る訳には行かない。 そこで旗下の軍勢に関しては毛利家侵攻の為に付けられた従属大名や六角家与力衆に任せ、信忠と共に法雲寺に駐屯したのであった。


「しかし間近で見るのは初めてだが義頼よ、大砲とは中々に迫力があるものだな」

「音も凄まじいですぞ」

「ふむ。 それで、馬から降ろしたのであったな」

「はい。 お話しした様に、馬が間違いなく恐慌状態となってしまいますので」

「で、あったな」


 そう信忠が納得したその時、全ての用意が整ったことが報告された。

 義頼は頷き視線を信忠へ向けると、頷き返しつつ耳を塞いる。 内心では最初ぐらいは直に聞いてみたいと思っていたのだが、義頼より重ねて忠告を受けたので彼も了承したのであった。

 また信忠の他にも彼について従軍してきた者達も、同様の仕草をしている。 その件を見届けてから義頼は、信忠へ頷いた。 すると信忠は、腕を振り上げる。 彼がいる以上は義頼ではなく信忠が大将となるので、戦の口火を切るのは当然であった。

 一拍置いた後、信忠は振り上げていた腕を振り下ろす。 此処に浅瀬山城に続いて、織田家と毛利家の戦の戦端が再び開かれたのであった。

 

義頼暗殺未遂に対する毛利家と宇喜多家の対応です。

上手く対応となっていればいいのですが……


ご一読いただき、ありがとうございました。



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