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第百七十八話~毛利両川の出陣~

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第百七十八話~毛利両川の出陣~



 織田信長おだのぶながの前に、一人の男が平伏していた。

 その男の名は、山名豊国やまなとよくにと言う。 彼は元々、山名氏宗家に当たる但馬山名氏の分家筋として因幡国に根を下ろした因幡山名氏の出であった。 豊国は二男であり、本来であれば家督を継ぐ立場にはない。 しかし、家督を継いだ兄の山名豊数やまなとよかずが家臣の一人であった武田高信たけだたかのぶの下剋上により命を落としてしまった。

 その為、不本意な形であるが彼は因幡山名家の家督を継いだのである。 すると当然の様に、弟である彼自身の命も狙われてしまう。 しかし、家臣達の尽力によりどうにか彼は僅かの近臣と共に隣国の但馬国へ落ち延びたのであった。

 その後、彼らは当時但馬山名氏の当代であった山名祐豊やまなすけとよ、後の山名宗詮やまなそうせんを頼って因幡国に戻るべく活動を行っている。 しかし諸々の理由が重なった二度による織田家侵攻により、彼は山名宗家の人質として信長の元へ移動している。 これも時世の流れかと、彼は再び因幡国守護の地位に就くことは半ば諦めていた。

 そんな中、突然信長に呼び出されたのである。 今となっては、思い当たる節がない彼としては正直に言って困惑してしまう。 とは言え、信長の呼び出しに応じない選択などない。 豊国は、早々に支度を整えると安土城へと登城した。

 因みに豊国であるが、彼が織田家の人質となった頃は山名元豊やまなもととよと名乗っている。 人質として信長の元へ送られて暫くしてから彼は、元豊から豊国へと名を変えたのだ。 その理由は、彼自身が語ろうとしないので家臣を含めてほとんどの者が知らない。 ただ、名を変えたのが人質となって暫くした頃であり、同時にその時期から豊国が妙に諦観していたとの話がある。 その為、名を変えたのは彼に心境の変化があったからだと密かに囁かれていた。

 話を戻して豊国だが、信長の前に出ると通り一遍の挨拶を告げている。 その後は、身動ぎするでもなく前述の通り平伏したままだった。 そんな豊国に対し、信長が近づく様に言う。 そこで顔を上げると、彼は言葉通り滲みよる。 そこで再度平伏しようとしたが、その前に信長が豊国へと声を掛けていた。


「その方、播磨へ行け」

「……播磨と言うと、右少将(六角義頼ろっかくよしより)殿が向かったあの播磨ですか?」

「当たり前だ。 他に播磨はなかろうが」

「えっと……理由を、お聞かせ願えますか?」

「義頼の依頼だ。 そなたを派遣してほしいとな、詳しい事は義頼に聞け」

「承知致しました。 では、これより支度をして向かいます」


 そこで豊国は立ち上がり、部屋から出て行こうとする。 だが彼が部屋から出る前に信長が思い出したかの様に言葉が続いたので、そこで腰を下ろして続きを聞いた。


「うむ……ああ、そうだ。 一つ忘れていた。 播磨には信忠も向かうから、共に行け」

「分かりま……はぁ!? 右中将(織田信忠おだのぶただ)様も、にございますか!」

「征西大将軍として、初の戦となろう」

「…………承知致しました、上様」


 さて征西大将軍とは本来、九州や四国を抑える為に送る軍勢を率いる将軍として設置された令外官りょうげのかんである。 この征西大将軍は、嘗て瀬戸内海において朝廷へ反旗を翻して四国や九州、そして中国地方にて暴れた藤原純友ふじわらのすみとも征伐の際にも藤原忠文ふじわらのただぶみが与えられた役職でもあった。

 要はこの藤原純友征伐を拡大解釈して、信忠を西国鎮定の総大将にする腹積もりなのである。 その様な経緯もあり、此度の信忠出陣はその先に控える四国や九州の平定を目的とした出陣の前哨戦と言う意味合いを持ち合わせていた。

 なお、信忠が率いる軍勢の主な面子だが、丹羽長秀にわながひで滝川一益たきがわかずます佐久間信栄さくまのぶひで蜂谷頼隆はちやよりたか荒木村重あらきむらしげである。 他に織田一門衆から北畠具豊きたばたけともとよ神戸信孝かんべのぶたか織田信治おだのぶはる織田信包おだのぶかねが同行していた。

 そして山名豊国もまた、この面子に名を連ねる事となる。 最も彼が率いる軍勢など殆どいない為、ぱっと見には陣借りの将かと思えてしまうのが少し悲しい。 嘗ては「六分の一殿」とまで呼ばれた山名家に連なる豊国をしてその様な状態であり、彼は時の流れと言う物を感じ取っていた。

 その様な豊国の心情は心情として信忠と共に西に向かう軍勢の規模であるが、義頼が率いた軍勢と十分に伍するかそれ以上の規模である。 それだけに、どうしても出陣までに時が掛かってしまうのは致し方ない事であった。

 その為、兵数が少ない豊国は早々に暇となってしまう。 だがそれはそれであり、左程気にする様な事ではない。 それに少数で播磨国へ向かうよりも、大軍勢の一人として向かう方が面子などの意味でも都合が良かった。

 因みに前述した通り豊国は半ば諦観しているが、因幡国守護に返り咲くと言う希望を完全に捨て去ったと言う訳でもない。 その事からも、征西大将軍たる信忠の軍勢と共に播磨国へと向かう意味を彼は見出していたのであった。





 征西大将軍として初めての出陣となる織田信忠や同行する織田家家臣が軍勢の用立てに心血を注いでいる頃、毛利家でも軍勢の編成が行われていた。

 既に宇喜多直家うきたなおいえから、龍野赤松家へ派遣した援軍が敗れて下土井城まで退いた事は知らされている。 だからと言って、毛利家が軍勢を派遣しない訳にもいかなかった。

 同盟相手の宇喜多家より要請されたから、と言うのは勿論ある。 しかしそれ以上に、織田家の軍勢である義頼の軍を放っておく訳にはいかないのである。 いや、寧ろ援軍の宇喜多勢が敗れたからこそ毛利家の軍勢が備前国へ向かわないという選択肢が存在しえないと言えた。

 しかし、これにより毛利領内で影響が出て来る地域が存在する。 それはどこかと言えば、備中国であった。 【備中兵乱】は、三村元親みむらもとちかが居城の備中松山城より脱出し義頼の元へ身を寄せた事で終結を見ている。 その際に三村家に属していた国人は、毛利家に降伏している。 その降伏は僅かな時間に行われており、中には元親の妹が嫁入りしている常山城主の上野隆徳うえのたかのりなども居た。

 彼ら三村家家臣や三村家に従っていた国人達が毛利家に抵抗らしき姿をあまり見せずに降伏した理由は、落ち延びた元親にある。 彼が何れは戻ってくると信じ、彼らは臥薪嘗胆、面従腹背の心持ちで毛利家へ降伏したのであった。

 とは言え、毛利家から疑われては意味がない。 故に元三村家家臣や三村家に従っていた国人達は、己の心を押し殺して毛利家へ協力をしていた。 皮肉にもその為、備中国は割と混乱なく治安を回復していく事になる。 すると毛利家は、備中国を抑える為に割いた兵力の削減を決めたのであった。

 これにより備中国鎮定がかなり緩やかとなったが、だからと言って降伏した備中国国人の動きがあまり変わる事はない。 彼らが動くのは、毛利家が織田家に徹底的に敗れた時か元親が備中国へと戻った時である。 それまで表面上は毛利家に、疑われる様な行動はしたくなかったのだ。  

 何であれ備中国は、戦乱が終わって間もない割にはあまり治安が悪くないという奇妙な状態となっている。 なお、本当の意味でそうかと言われれば違うのだが、毛利家としては悪い事ではない。 しかしだからこそ、不気味と言えば不気味とも言える摩訶不思議な状況でもあった。


「しかし……清水家や上野家、田中家と言い全く分からぬ。 隆景、お前はどう思う」

「正直、彼等の動きは不気味と言えます。 しかし、そのお陰で軍勢を整える期間を縮められると言う物です兄上」

「……まぁ、確かにな」


 弟の小早川隆景こばやかわたかかげの言葉に、兄である吉川元春きっかわもとはるが賛同した。

 確かに隆景が言った通り、備中国があまり混乱していないからこそ順調に兵数を整えられていると言っていい。 もし備中国内が平穏ならずの状態であったならば、更に兵馬を整える時間は掛かってしまうのは間違いない。 だがある意味不気味な程に荒れておらず、騒乱が終わって間もない国とは思えないぐらいであった。

 だからこそ油断できないのだが、何時までも備中国だけに関わっていられない状況でもある。 織田家の播磨国進出という現実的な問題がある以上、備中国は後回しにしてでも対応せざるを得ないのだ。 無論、隆景としても不本意であるが、それも致し方ないと言える。 そしてそれは、元春も同じであった。


「兄上。 外聞衆を動かし、監視の網は掛ける。 今はそれで、良しとしてくれ」

「それしかないか。 分かった、取り敢えず話は終わらす。 今は織田家の軍勢に、傾注するとしよう」

「そうしてくだされ。 相手は織田の今李広、六角義頼なのですから」

 

 隆景の言葉に、元春の肩が微かに動いた。

 そして彼の顔には、笑みの様な物が見えている。 武田信玄たけだしんげん上杉謙信うえすぎけんしん相手に戦果を挙げ、将としても赤備えを率いる山県昌景やまがたまさかげや鬼美濃と称された馬場信春ばばのぶはるが率いる兵を相手に一歩も引かず押し留め、そればかりか上杉家との戦では最終的に勝利を収めている。 その様な戦績を持つ相手の事を考えると、元春は畏れと喜びがないまぜとなった不思議な心持となっていたのだ。


「そう、だな。 相手に不足はない。 いや、心躍ると言う物だ」

「……はぁ。 兄上にも困ったものだ」

「何を言う。 武士もののふとして、よき相手は喜ばしいではないか」

「将としてはそうでしょうが、毛利家としては嬉しくありませんので」


 元春と同様に隆景も将だが、彼は兄と違い知将の類である。 ましてや彼は、まだまだ二十代前半の若き毛利家当主の毛利輝元もうりてるもとを補佐して政務にも腕を振るっているのだ。 その視点で考えると、敵は弱いほどいい。 だが義頼を含む織田家は弱者ではなく強者であり、相対する者としては喜ばしいとは言いづらかった。

 とは言え隆景も、元春程ではないにしても喜びを感じていない訳ではない。 義頼の周りには本多正信ほんだまさのぶ沼田祐光ぬまたすけみつ三雲賢持みくもかたもちと言った知恵者も存在している。 また、小寺孝隆こでらよしたかも中々の者と聞く。 その様な者達との知恵比べを想像すれば、武者震いの様な物も込み上げてくるのだ。

 しかし兵力的にも軍需的にも、そして経済的にも織田家との戦は負担が大きい。 その事が、政務にも携わっている者として心にのしかかって来るのだ。 そんな弟の言葉を聞くと、元春は笑い声を上げる。 隆景の態度を見ただけでも、相手が噂に違わぬ強者だと判断できたからだ。


「まぁ、そなたの気持ちは分からぬでもない。 だが、これも武家の習い。 許せ」

「……今更、兄上にどうこう言う気はありませんから」


 隆景の、若干皮肉がこもった返答を聞き、元春は再度笑い声を上げたのであった。



 それから少し時が経った頃、姫路城には続々と播磨国人達が集まっている。 何故かというと、義頼が彼らを参集したからだ。

 その理由は、今後の対毛利家に対する軍議である。 またこの軍議は、播磨国を手中に収めた事で改めて播磨国人に織田家への忠誠を誓わせる為でもあった。 いや、寧ろそちらの側面の方が近い。 そんな軍議の様子を、じっと見ている者がいる。 それは、別所長治べっしょながはるの補佐として義頼の軍勢に参画した別所吉親べっしょよしちかであった。

 彼は新興とされる織田家を嫌い、別所家の方針として親織田家となっても毛利家を頼みとするべきだと主張していた人物である。 だが義頼の播磨国派遣が決まると、それまでとは違ってあまり主張しなくなっていた。

 その理由は、正に義頼にある。 吉親だけと言う訳ではないが、総じて播磨国人は名門意識が高い。 それ故に、新興の観念を織田家に対して持っている者が多かった。

 しかし、六角家当主である義頼が派遣されてくるとなれば話は別である。 六角家は、佐々木家嫡流を受け継ぐ家である。 名門と言う意味では毛利家や赤松家などは無論の事、最早死に体と言ってもいいがそれでも幕府の将軍を代々務めた足利家すらも同等か下手をすれば上回りかねない名門なのだ。

 例え現時点において六角家が織田家家臣と言えども、名門意識の高い播磨国人には有効に働く。 ましてや義頼自身、将としてそして武人としても名声は高い。 その上、兄である六角承禎ろっかくしょうていは、兵部卿としてだけでなく武家のまま朝廷の命で高家を創設している。 しかも彼は、参議の兼任と正四位上への昇進が決まっているのだ。

 こうして兄弟揃って実績を上げているのが六角家であり、彼の家が古からの名門と言うだけではない事も証明している。 更に此度の播磨国における一連の動きについても、取り分けてつまずきがあったとは言えない。 とてもではないが、文句などを付けられる状況にはなかった。

 その様な吉親のすぐ前では、赤松宗家の当主である赤松則房あかまつのりふさに引き続いて甥であり現別所家当主の別所長治が織田家への協力と随身を口上している。 やがて彼は口上が終わると平伏したが、それに合わせて吉親もまた平伏していた。

 播磨守護の地位にある赤松則房だけでなく、今や播磨国人で最大の勢力を持つ別所家において親毛利を公言して憚らなかった別所吉親がその行動で織田家に付くという意思表示を示した事は非常に大きい。 播磨国人達は次々に改めて六角家、ひいては織田家への恭順を示したのであった。

 その後、軍議は毛利家との戦についての話に入る。 既に美作国攻略の為に尼子衆や播磨国人などを動かしているが、他にも因幡国などの山陰側へ手を伸ばしている事を告げた。

 今は山陽側に居る義頼だが、何れは山陰側にも手を伸ばす必要がある。 義頼が信長へ依頼した山名豊国の派遣も、その一環であった。

 その因幡国では、毛利家の後ろ盾を得た武田高信たけだたかのぶが事実上の下剋上を果たしている状態と言っていい。 しかしただ下剋上を果たしたと言うのでは外聞が悪いと考えた高信は、山名一族の山名豊弘やまなとよひろを神輿としていた。

 豊弘は今は亡き山名宗詮の弟であり、血筋としては山名宗家の血を引く者である。 だからこそ高信は、体裁を整える意味もあって彼を旗頭としたのだ。

 とは言え、傀儡かいらいである事に変わりはない。 因幡山名家に忠誠を誓う国人の一部などは、豊弘や高信に従うのを良しとせず未だ抵抗を続けている。 その為、高信は因幡国を完全に掌握したと言う訳ではない。 だが因幡国内の大半は、取り敢えず抑えていた。

 その様な因幡国への調略の意味合いもあって、豊国を派遣してもらうのである。 無論、義頼旗下の近江衆などにも動いてもらうつもりでいた。 そしてこの調略の進捗状況によっては、山陰側の侵攻が早まる可能性もある。 しかしそれはこれからの事であり、そこまで具体的にする必要はなかった。

 これら義頼から示された策であるが、やはり粗が目立つ感じはない。 むしろ正当と言っていい策であり、少なくとも現時点で問題がある様には感じられなかった。

 また、それだけではない。 信長の嫡子である信忠が、軍勢を率いて播磨国へ現れる事も播磨衆へ告げている。 これには一瞬ざわめきの様な物が流れたが、その後には概ね好意的と表面上は取れる反応がされた。

 普通に考えれば、それも当然であろう。 義頼の軍勢だけでも相当数であるのに、そこへ一時的か恒常的かは今から判断できないがそれでも信忠が軍勢と共に現れるのである。 少なくとも兵数だけならば間違いなく毛利家を凌駕しており、正直に言って負ける様な要素は見られないからだ。 

 それ故に播磨国人から反対などは出ず、彼等の総意として義頼から示された策は承認される。 こうして新参者として軍勢に参画した播磨衆とも意思の疎通を取った義頼は、先ずは中国地方の国人調略へ積極的に動き出した。

 その為、一時的に奇妙な静けさが中国地方を覆う事になる。 しかしその裏では、義頼や毛利家と宇喜多家からの密命を帯びた忍び衆や軍使による暗躍が行われていたのであった。 しかしてその静かな時期も、軍勢が整い始めると一気に戦の機運が湧き出し始めて来る。 しかも備前国で浦上宗景うらがみむねかげが宇喜多直家に敗れて逐電、行方知れずとなった事が更に助長した。

 先ず動いたのは、毛利家である。 彼の家は軍勢が整うと、すぐさま吉川元春を総大将に小早川隆景を副将とした軍勢を動かしている。 その兵数は、凡そ数万とされた。

 これは毛利家が、無理をしないで動かせる総兵力に近い。 それだけに、この戦に掛ける意気込みが見える様であった。 しかしながら義頼が率いる兵とて、数では引けを取っていない。 ましてや、毛利家の思惑を壊しかねない存在があるとなっては心中穏やかではなかった。 

 それは勿論、西へ軍勢の移動を開始した信忠である。 外聞衆から報告を聞いた吉川元春が、驚きの声を上げた事からも推察できた。 しかし彼の横では小早川隆景が、驚きと納得が混合された様な表情を浮かべているのが対照的である。 彼の表情を比率で言えば、驚き四割に納得六割と言うところであった。

 実は隆景、信忠の西進もあり得ると踏んでいたからである。 信忠を総大将とした軍勢が組織されている事は、隆景も元春も把握はしていた。 しかし兄弟の二人とも、軍勢が進む方向までは確信を持てなかったのである。 その理由は、織田家重臣の柴田勝家しばたかついえにあった。

 義頼に比べれば遅れたが、殆ど同時期に飛騨国へと兵を進めた勝家が同地を落とし織田家の版図に加えたからである。 しかしその後は、更に北へと向かうのかそれとも東進するのか分からない状況にあった。 北へ向かえば上杉家が出てくると思われるし、東へ向かえば武田家との戦となるからだ。

 この様に織田家は、東と西に戦線を抱えていたのである。 その為、信忠がどちらへ向かうのか判断しきれなかったのだ。 しかし信忠は、前述した通り征西大将軍の地位を得ている。 その事を考えれば、西に来る可能性の方がいささか大きいと隆景は判断していたのだ。

 なお元春だが、隆景ほどには信忠が西に来るとは考えていない。 それ故、弟以上に驚きを露わにしたのだ。 それでなくても義頼が率いている軍勢の兵数と元春が率いている軍勢を比べれば、兵力的にほぼ五分か若干義頼の方が多いと言う状態であった。

 その為か元春は、播磨国へ更なる援軍が到達するとは考えていなかった節がある。 それならば、むしろ上杉や武田と戦う事になるであろう勝家の援軍として東に向かうのではと想定していたのだ。

 

「しかし、何故に信忠が今更こちらに来るのだ?」

「……あくまで推測ですが兄上、二つほど考えられます。 先ず一つ目は、味方に対する顔見世かと。 信忠は、征西大将軍の地位を得ています。 それ故でありましょう」

「ふん! 京の西を抑える為の名目か」

「はい。 それと今一つですが、鞆におられる公方様に対する物とも考えられます。 嘗て幕府を開かれた等持院(足利尊氏あしかがたかうじ)様が九州へ落ちた際の追討の為に任命されたこともありますので、その故事に因んだとも取れます」

「……公方様か。 祟るのう」


 しみじみと言った元春の言葉に対して、隆景は合間に微笑むだけである。 内心では、正直に言えば賛同したい。 しかし、兄弟揃って足利義昭あしかがよしあきへの不満を漏らしたと知られれば問題が起きかねないのだ。

 幾ら実質の力がないとはいえ、彼は征夷大将軍なのである。 毛利家が庇護していると言う現実が存在する以上、家中にあらぬ不和が生じかねない事態は生み出すべきではない。 そこで隆景は、敢えて明確に言葉を返さなかったのだ。

 弟がその様に考えているとは露ほども知らない元春だったが、彼もそれ以上は口にしていない。 これは考えを汲んだと言う訳でなく、今は義昭の話題をしても仕方がないからだ。 それよりも義頼率いる軍勢と、追加された信忠の軍勢への対策を考えた方が建設的だからであった。


「まぁ、公方様の事はいい。 それよりも、どうする隆景。 機先を制する意味でも、一当てするか」

「ふむ、そうですな。 信忠の軍勢が到着する前に、出鼻をくじくと言うのも悪くはありません」

「具体的にはどこを狙う」

「…………この城は如何でしょう」


 隆景が指示したのは、上月城であった。

 この城は「西播磨殿」と称された赤松政範あかまつまさのりの居城であるが、それ以上に重要な場所に建つ城である。 上月城は、播磨国と美作国と備前国の三国の国境に近い位置にあるのだ。

 つまりこの城を落とせば、毛利家と宇喜多家の軍勢が播磨国へ進軍するにあたって拠点として都合がいいのである。 また上月城が落ちれば、今は織田家旗下となってしまった播磨衆を再び毛利家の旗の元へ集らせる事も可能となり得るのだ。


「上月城かっ! いいだろう、隆景。 彼の城へ向かうぞ」    

「ええ兄上。 行きましょう」


 こうして吉川元春率いる毛利勢は、上月城攻めを決めた。

 だが宇喜多家との連合である以上、宇喜多直家へ話を通さずに動くと言う訳にもいかない。 元春と隆景は、連名で天神山城に居る宇喜多直家に書状を送り参陣を促すのであった。


ついに、西国の雄である毛利家が動きました。

また、時を同じくして織田家にも動きが……どうなるんだろうこれ。(汗)


ご一読いただき、ありがとうございました。

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