第百七十七話~【飯盛山麓の戦い】~
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第百七十七話~【飯盛山麓の戦い】~
龍野城へと戻った内海範秀は、義頼から言われた文言を余す事無く赤松広貞へと告げた。 広貞は黙って最後まで聞くと、範秀に労いの言葉を掛ける。 その後、彼を下げさせると一人考えた。
今の状態は、ある意味で戦が始まる前に想定していた状況の一つになりつつある。 その為に弟である赤松広秀と赤松祐高を謹慎と称して龍野城より出し、才村則直の元へ平井貞利と島津忠之を付けて送り出したのだ。
義頼が、広秀と祐高へどの様な判断を下すのかは分からない。 しかし伝え聞く人となりでは、実際に干戈を交えた広貞達に対するような措置は取らないと思えた。
となれば、ここは相手の言う通りにするのも吝かではない。 無論死にたい訳ではないが、自分が死ぬことで家を存続できるのならばそれも一つの道と言えるからだ。 しかしそれでは、義頼が提示した降伏の条件とはならない。 彼の要求は、広貞を含めた龍野城に籠る赤松家主要な者の首だからだ。
広貞一人の命で済む話ならば、彼は義頼の言葉に従い腹を切ると言う選択肢も考慮している。 だが降伏の条件は、己を含めて龍野城に籠っている龍野家の者の命である。 この点については一人で判断する訳にもいかないと考え、義頼の返答前に広貞は家臣を集めた。
それから間もなく、範秀を先頭に主要な家臣が広間に入ってくる。 広間に集ったのは、龍野赤松家家老や家老に準ずる位を持つ者達であった。
どうやら範秀が事前に、主要な者達を集めていた様である。 時間をあまり掛けずに集まった彼らが揃うと、広貞は彼らに義頼が提示した降伏条件を伝えた。 その直後、怒号もかくやと言う声が広間にこだまする。 暗に死ねと言っているのだから、彼らの態度も当然とも言えた。
すると広貞は、静まる様にと言う。 主直々の言葉に、彼らは徐々に静まっていく。 ある程度静かになったところで、広貞は己の考えを彼らに伝えた。
「そなたたちの不満は分からないでもないが、この条件を受けようと思う」
『殿っ!』
「まぁ、聞け。 今の状況では、早晩のうちにどの様な結果が待っているかなど言うまでもないだろう。 ならばせめて、名誉ある死を望もうではないか」
だが、彼らの反応は今一つである。 広貞の判断に同意できない理由があるからであり、それは宇喜多直家の存在であった。
姫路城へ到着した義頼が軍勢を整えて出陣の用意をしていると聞き及んだ龍野赤松家は、宇喜多家に援軍の要請を行っている。 宇喜多家は浦上家当主の浦上宗景を天神山城に追い込んでいる関係で、直家が自ら赴くことはできない。 そこで、弟の宇喜多忠家を総大将に任じて援軍要請に答えている。 他にも、家老の長船貞親や近臣の岡剛介も龍野城へと派遣した。
同時に直家は、角南重義を毛利家に派遣して毛利家の出陣も要請している。 毛利家としても織田家の軍勢は許容できる範囲ではなく、何より同盟相手である宇喜多家からの出陣要請である。 毛利両川の吉家元春と小早川隆景、この二人の出陣を決めた。 しかし、直ぐに兵を動かせる訳ではない。 ましてや、後に【備中兵乱】と呼ばれる様になる戦が終わったばかりなのだ。 戦の後始末にも、力を尽くさねばならない。 この様な状況もあって、毛利家の動きは遅れる事となった。
さて話を戻して宇喜多勢であるが、宇喜多家の居城である石山城(岡山城)を出陣すると下土井城を経由して光明山城へと入っている。 光明山城は前述した通り内海範秀の居城なので、龍野赤松家の城である。 しかし同盟相手と言う事で、城に迎え入れられたのだ。
この宇喜多勢の動きは、当然だが龍野城へも届けられている。 その報告があった頃はまだ六角勢に包囲されてはいなかったので、連絡は比較的行いやすかったのだ。
そしてこの一件が、龍野赤松家重臣らをして広貞の言葉に従う事を躊躇わせたと言っていい。 これでは無理かと思っていた矢先、龍野城へと舞い込んできた報せに龍野赤松家重臣達の思惑は完璧に打ち砕かれたのであった。
龍野赤松家重臣達の思惑を打ち砕いた報せ、それは宇喜多勢撤退の報告であった。
光明山城に到着した忠家率いる宇喜多勢であるが、彼らは城で一日休みを入れている。 龍野城と光明山城は、それ程離れている訳ではない。 早ければその日のうちにも、出来うる限り遅くしても翌日には到着できる距離しかないのだ。
そして龍野城近辺まで到達すれば、義頼の軍勢と当たるのは必至である。 つまりその日ぐらいしか、休みを取れなかったと言える。 しかし、この一日が勝負の分かれ目となる。 その理由は、義頼の派遣した別動隊であった。
義頼の命により別動隊を率いた長岡藤孝は、柏原城で赤松政範と宇野祐清が率いる軍勢と合流する。 そこで軍勢を一端整えると、南にある城山城跡に向けて進軍した。
城山城は嘗て赤松氏が当時の将軍で比叡山延暦寺を最初に攻めた足利義教を暗殺した事に端を発する【嘉吉の乱】によって幕府の軍勢に攻められた際、当時の当主であった赤松満祐が一族と共に籠城しそして討ち果たされた城である。 その後は放置されていたが、満祐が打ち取られて後凡そ百年後に播磨国へと侵攻した尼子晴久が本陣として修築した城でもある。 しかし、晴久が兵を退いた後は、完全に打ち捨てられて廃城となっていた。
因みに赤松氏であるが、満祐から見て従孫に当たる赤松政則によって再興を果たしている。 しかし政則に庶子は居ても嫡子は居なかった為、分家筋から娘婿を迎えてその婿を当主としている。 その子孫が、当代の赤松則房であった。
それは兎も角として藤孝率いる別動隊であるが、その一度赤松氏が終焉を迎えた城山城跡まで進軍している。 そこで一日、休息を取っていた。
明けて翌日、藤孝は宇喜多家からの援軍が現れるであろうと予測されている龍野城の西方へ進軍を再開する。 やがて街道まで出ると、道を塞ぐ形で陣を敷き万全の態勢で宇喜多勢を待ち構えた。
その一方で石山城を出陣した忠家はと言うと、先述の通り一先ず光明山城に入っている。 そこで英気を養うと、城を出陣している。 それは丁度、藤孝達が街道に陣を敷いた翌日であった。
やがて忠家の軍勢は、程なく動きを止める事となる。 その理由は、言うまでもなく藤孝率いる別動隊によって敷かれた陣であった。
忠家は、「西播磨殿」とまで称された赤松政範の動きが不明であった事もあり、念の為に斥候を放ちつつ進軍している。 その斥候から、街道を遮る様に陣を敷く軍勢を見つけたとの報告を受けたのである。 そこが丁度、飯盛山の麓辺りであった。
またその斥候からの報告によれば、軍勢の旗印は「二つ引両」に二つの「三つ巴」である。 その旗印から味方とは到底考えられず、敵と考えるのが妥当であった。
まさか龍野城の西にまで敵勢が派兵されているとは想定外であった忠家らであったが、何時までも呆けている訳にはいかない。 早々に陣を敷くと、藤孝率いる軍勢と対峙した。 しかし、宇喜多勢の士気は上がらない。 その理由は二つあった。
一つは、完全に機先を制されてしまった事にある。 忠家の考えでは、城攻めに傾注していると思われる六角勢に攻勢を掛けるつもりだったのである。 だが既に手を打たれてしまっており、足止めを喰らっている状態だ。
その上、敵勢の方が遥かに多い。 ぱっと見であるが二倍以上の兵数、いや下手をすれば三倍は居そうな雰囲気であるのだ。
「……これでは、どうにもならぬか」
「確かにそうですな、土佐守(宇喜多忠家)様」
「ですが土佐守様、越中守(長船貞親)様。 我らは、援軍にございますれば一矢も報いずに引くというのは」
「しかしな清三郎(岡剛介)、孫氏曰く「十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍なれば即ちこれを分かち、敵すれば即ちよく闘い、少なければ即ちこれを逃れ、しかざれば即ちこれを避く。故に小敵の堅は大敵の檎なり」ともある。 血気に逸るは危険だ」
孫氏の兵法の中に、忠家が言った言葉が確かにあった。
要は「十倍兵数があれば敵を囲み、五倍であれば敵を攻め、二倍であれば分断した上で敵を攻め、同等ならば最善を尽くし、兵数が敵より少なければ逃げ、味方が少数なれば交戦自体を避けよ」という物である。 そしてこの兵法に当てはめれば、宇喜多勢は文末の逃げるか交戦自体を行わないという個所に該当すると言ってよかった。
となれば、早々に退くのが肝要であり最善である。 だが剛介の言った通り、一線も交えずに退くと言うのもいささかまずいのも事実である。 となれば残された手は、陣を固め幾度か小競り合いの末に撤退するというのが一番かと思われた。
しかしこれは、あくまで宇喜多勢の都合でしかない。 相手によっては、それすらも叶わないかもしれない。 取り敢えずは敵勢を率いる者達の確認と考えた忠家は、兄の直家よりつけられた忍び衆を使って敵勢を率いる者達の確認に努めた。
数日も経ずして、敵勢を率いている主要な人物の名が判明する。 その者達は大将格として長岡藤孝、そして与力として赤松政範と宇野祐清の名であった。
忠家と貞親は、三人の名に目を見張る。 藤孝は文化人として名を馳せている人物だが、将としてもそして武人としても名が知られている。 政範は「西播磨殿」とまで謡われた良将であり、祐清の宇野家も佐用赤松家と並び称される家である。 つまり揃いも揃って、侮れない者達なのであった。
しかも彼らは、別動隊に過ぎない。 となれば義頼が率いる本隊には、どれだけの者がいるのかなどあまり考えたくもなかった。
「ある意味、不幸中の幸いであったかも知れん。 このまま龍野城まで出向けば、どうなっていたか……」
「……それも、確かに」
忠家の言葉に、貞親が相槌を打った。
普通に考えれば、別動隊に相当すると思われる部隊がまず本隊より多いと言う事はない。 そして大将率いる本隊である以上、相手を威圧するという意味においても相当数の兵を抱えていると考えるのが妥当だった。
つまり、対峙している藤孝率いる兵よりも更に多い本隊が居ると言う事である。 となればその数は、藤孝の軍勢より二倍以上の兵が龍野城を囲んでいると考えて差支えがなかった。
そんな大軍勢が囲んでいる龍野城に万が一首尾良く到達できたとしても、当初考えていた龍野城の内と外からの挟撃など出来る筈もない。 いやそれ以前に、宇喜多家からの援軍を警戒して兵を配置している敵将相手に挟撃が出来る様な好条件が揃うとは到底思えなかった。
となれば、なおさらに此処より先に進むのは不味い。 鬼門に態々飛び込んで行く様な状況であり、忠家や貞親も自虐的とも取れる行為を履行するつもりは更々なかった。
このまま進めば石山城より率いて来た軍勢が全滅の憂き目を免れない事など、考えるまでもない。 まだ分からないという状況であるならばまだしも、予測できている時点で大将としてその様な事態に兵を晒すなど選択すべきではないのだ。
「ここは一つ、敵と当たり崩れた様に撤収するのが宜しいかと存じます。 真に、不本意ではありますが」
「で、あろうな。 越中守殿の言う通り、損害が大きくならないうちに引くとしようか」
「なればっ! せめて拙者に殿をっ!!」
流れ的に撤収という形がほぼ固まると、剛介が殿を名乗り出た。
直家のお気に入りでありかつ美男子でもある剛介だが、同時に将としても中々に有用な男である。 やや勝気に逸るきらいはあるが、猪突猛進と言う訳でもない。 退き時は読める男であり、殿を任せても差支えがある訳ではなかった。
懸念があるとすれば剛介が直家のお気に入りであると言う事だが、それも直家の弟である忠家と宇喜多三家老の一人に数えられる長船貞親に進言したのである。 万が一の事態にあったとしても自己責任であり、その事で二人が咎められるのは筋違いであった。
何より、本人が希望したのである。 彼自身にそして軍勢にも何か問題がない以上、立候補した者の意を汲んでやるのが良いと言えた。 そこで忠家と貞親は視線を交わし頷きあい、お互いの考えにずれがないかを確認する。 その上で、忠家は剛介に撤収時の殿を任せることにした。
そして退き方だが、取りあえずは戦を仕掛ける。 但し、殿となる剛介はその戦には参加しない。 兵を温存しておく必要があるからだ。 その後、適当なところで戦場より兵を退く。 その時点で剛介率いる兵が、戦場より退いてくる兵の最後尾辺りに合流して、そのまま敵を抑えながら宇喜多勢全体として領地である備前国まで撤収すると言う物であった。
「清三郎、そなたは殿として、多勢の敵を抑えなければならん。 大変危険が伴うことを覚悟せよ」
「無論にございます、土佐守様。 必ずや殿の役目を果たし、下土井城までたどり着いて見せまする」
「うむっ! その意気だ!!」
「はっ」
こうして策を立てた忠家は、貞親を先鋒に兵を進めたのであった。
宇喜多勢の動きは、即座に六角勢の別動隊にも報告された。
藤孝は、即座に赤松政範と宇野祐清に知らせた上で迎撃の態勢を整える。 既に陣を張った際に与力の両将とも打ち合わせは済ませており、彼らの動きに淀みなどなかった。
軍勢の並びとしては政範と祐清が並んで隊伍を整えており、その後ろに長岡藤孝の本陣が置かれている。 敵勢の兵数が少ない事を見込んで、先ずは攻勢を受け止めてしかる後に包囲するつもりであった。 但し藤孝は、完全に包囲する気はない。 敵勢の後方は、敢えて明けたままにするつもりである。 要は半包囲の状態に追い込み、敵を撤退させるつもりなのだ。
藤孝の役目は、援軍として最初に現れるであろう宇喜多勢を抑え龍野城救援をさせない事にある。 無理をして味方の被害を多くさせる気など、彼には全くない。 窮鼠猫を噛むなどとなっては本末転倒であり、その意味では龍野城陥落まで宇喜多勢が動かないでいてくれた方が良かったのだ。
しかし敵が動いてしまった以上は、対応せざるを得ない。 そこで、布陣の際に考えてあった迎撃を行う事にしたのであった。 それから間もなく、宇喜多勢が現れる。 先頭を行くのは、貞親の軍勢であった。 その事に、藤孝は不信感を覚える。 貞親と言えば、宇喜多家の屋台骨を支えていると言われる重臣の一人である。 その様な男が先鋒である事に藤孝は警戒心を抱き、彼はわざわざ政範と祐清に注意を促した程であった。
果たしてその気持ちは、警戒の連絡を受けた二人も同様である。 いや、中国地方の人間である二人の方がより警戒したと言っていいだろう。 何と言っても播磨国と備前国は隣国であり、貞親の人となりは藤孝より遥かに政範と祐清の方が知っている。 藤孝に警戒を促されるまでもなく、政範と祐清は慎重になっていた。
その様な政範と祐清の軍勢に、貞親の兵が攻勢を掛ける。 しかしそこには、勢いと言う物があまり感じられない。 その事が、直更に二人に警戒心を抱かせた。 政範と祐清は、敵先鋒を遥かに上回る兵を持ちつつまるで探るかのような慎重さで迎撃したのである。 その為、苛烈な動きと言う程ではない。 その事に今度は、貞親が警戒を覚えた。
彼は敵勢の動きに、もしかしたら懐深くまで誘引するつもりなのではと考えたのである。 味方の兵の方が少ない以上、誘引でもされてしまえば生き残るなど皆無に等しくなる。 その先に待っているのは、文字通りの全滅だ。 その様な事態など、あっていい筈もない。 そんな警戒心が、貞親に次の手を打つ切っ掛けを与えた。
言ってしまえば彼は、策の前倒しをしたのである。 事前の打ち合わせでは、今少し敵と当たるつもりであった。 だが、もし敵の懐にまで引きずり込まれては策も何もあったものではない。 己を含めた宇喜多家臣と率いる兵がより多く助かる為にと、臨機応変に決断を下したのだ。
貞親は即座に剛介と忠家へ伝令を走らせると間もなく、軍配を返す。 その動きに合わせて宇喜多勢は攻勢を止めると、後ろに退き始めた。 このあからさまな動きに、藤孝は策に対する警戒をより密にする。 何時も以上に辺りを警戒しながら、退き始めた敵勢をじりじりと追い始めた。
それから暫くした頃、退く宇喜多勢最後尾の横手辺りから軍勢が現れる。 辺りに味方となる勢力が居ない事は承知している藤孝らは、敵による伏兵と考えて軍勢を止めると迎撃の態勢を整えた。
そんな敵勢の動きに拍子抜けしたのは、剛介である。 生き残り下土井城まで戻ると約束した彼であるが、同時に兵力差から半ば討ち死に覚悟していたのも事実である。 しかし実際にふたを開けてみれば、小競り合いが少し大きくなったぐらいでしかない。 しかも敵勢は、警戒からかそれとも他の要素があってなのか追撃を止めて迎撃態勢を整えているのだ。
一体全体、何がどうしてこの様な事態となっているのか皆目見当がつかないのである。 剛介としては、何とも狐につままれた様な気分であった。 しかしこれは、兵を退くという今の状況において最も好機と言える。 剛介は攻勢を掛けるでもなく、また旗下の兵を退かせるでもなくじっと敵勢と対峙していた。
かと思った直後、剛介は脱兎の如く軍勢と共に退く。 この動きは完全に予想外であり、政範と祐清。 そして藤孝は、思わず呆気に取られてしまった。
その隙を突かんばかりに宇喜多勢の殿を務める剛介の軍勢は、下土井城目掛けて兵を退いていく。 慌てて追い掛けるが、動きに関しては宇喜多勢の方が早かった。 彼らは兵糧全てを打ち捨てており、その上軍勢が少ないのでそれなりに早く動ける。 しかし藤孝らの軍勢は、宇喜多勢の様に兵糧を捨てる訳にもいかない。 さらに兵数が多いゆえに、どうしても動きが遅くなってしまうのだ。
兎にも角にも身軽になり逃げを打つ宇喜多勢と、簡単には身軽になれない多数の軍勢では話にもならない。 追い付くどころかどんどんと離され、宇喜多勢に逃げられてしまった。
それでも藤孝は国境近くまで追ったが、備前国に入る前に来た道を引き返している。 そのまま別動隊は、龍野城まで戻るかと思われたがそうではなかった。
藤孝達は、途中まで街道を戻ると進路を変える。 そして彼らは、軍勢を持って光明山城を取り囲んだ。 この城は前述の通り、龍野赤松家重臣の内海範秀の居城である。 城主の範秀が大半の兵を率いて龍野城に居る以上、残りの兵など大した数は居ない。 とてもではないが対抗できるものではなく、光明山城は城門を開いて藤孝に降伏した。
彼は光明山城を手中にすると、義頼へ宇喜多勢の撤退と光明山城の陥落を伝達する。 その後は光明山城にあって、龍野城陥落まで備前国へと退いた宇喜多勢の監視。 そして光明山城の北に位置する宇喜多家の城である感状山城への警戒を行うのであった。
こうして藤孝より連絡を受けた義頼は、宇喜多勢撤退を喜ぶと同時にわざと龍野城に籠る龍野赤松家に援軍の宇喜多勢撤退の情報を流している。 それにより、敵に包囲されている龍野赤松家に情報が届いたのだ。
援軍の到着どころか撤退の情報が飛び込んできた事で、龍野赤松家家臣にあった希望は打ち砕かれる。 勿論、敵からの虚報を疑った者もいたが、そもそも優勢に事を進めている六角勢が劣勢の龍野赤松家に策を仕掛ける筈がないと否定されてしまった。
更に、援軍が到着しないという情報が龍野城内に広まってしまう。 せめて対応を決めるまで伏せておきたかった情報があっという間に城内に広まってしまった事で、龍野城は二進も三進もいかなくなってしまった。
なおこの情報は、本多正信らが忍び衆を使って広めさせたものである。 嘘どころか真実であるため、龍野赤松家家臣の対応も歯切れが悪くなってしまう。 その態度が、殊更に真実味を帯びてしまい、城兵の士気は回復できないところまで落ち込んでしまったのであった。
これでは当主の広貞であろうが、重臣の範秀であろうがどうしようもない。 最早、良い悪いに拘わらず、龍野赤松家は義頼からの提案を了承して降伏するより道はない。 他は全滅か、若しくは城兵に寝首を掻かれるぐらいの未来しか見えてこないのだ。
それならばまだ、名誉ある死を選んだ方がましと言う物である。 完全に選択肢を一つに絞られてしまった龍野赤松家は、広貞の言葉通り義頼への降伏を決断する。 衆議が決まると広貞は、自ら書状を認める。 その書状を持って、再度内海範秀が義頼を訪問した。
「……いいだろう。 約定通り下野守(赤松広貞)以下、重臣の命を持って龍野赤松家の降伏を認める」
「右少将(六角義頼)様。 感謝致します」
此処に播磨国で最後まで抵抗した龍野赤松家は、織田家に降伏。 広貞以下、範秀ら重臣全員が切腹する。 但し、武士の情けを持って首は晒さず、そして埋葬も龍野赤松家の菩提寺に許した。
また龍野赤松家の家督だが、密約通り赤松広秀が継ぐ事に決まる。 しかし広秀は家督を継ぐにあたって、けじめと称して義頼へ名を変える事を進言している。 だが、義頼は首を左右に振り許可しなかった。
「そなたはこれより、龍野赤松家の当主であろう」
「ですが、これはけじめとしてですな」
「けじめならば、そなたの兄や重臣たちが取っておる。 だから堂々と、そなたは龍野赤松家当主として赤松の姓を名乗るがいい」
「……ぎ、御意」
義頼の言葉に、広秀は平伏する。 これにより彼は、名を変えずに引き続いて赤松広秀を名乗る事となった。
その代わりと言う訳ではないが、弟の赤松祐高が姓を変えている。 彼は自分と兄が謹慎と言う名目で逗留した才構居の主である才村則直に因み、姓を斎村とする。 以降彼は、斎村祐高と名乗るのであった。
そして陥落した龍野城であるが、流石に広秀には与えられない。 その代わりに城主となったのは、尼子勝久であった。
こうして織田家と言う後ろ盾の元、地盤を得た勝久以下尼子衆は尼子一族と言う嘗ての影響力を行使して旧尼子領国人を取り込みに奔走する事となる。 彼らが最初に目を付けたのは、美作国であった。 美作国も亡き尼子晴久が尼子家当主であった頃は、尼子家の領地である。 その経緯もあって、先ずは近隣の国からという考えであった。
それに美作国国人が織田家に付けば、その先の備中国にも手を出すことができる。 三村元親に御家の再興を約束している以上、都合がいいと言えるからだ。
なおこの尼子衆を援護する形で、義頼は播磨衆などを動かしている。 美作国には、赤松家の庶流ともいえる家や播磨国人と同族とされる様な家が幾つか存在するからだ。 彼らを調略する際に、播磨衆などからも働き掛けた方がより確実となる為であった。
何はともあれ、僅かの間に播磨国を平定した義頼は、一度兵を姫路城へと戻す事にした。 やがて姫路城へ到着すると、信長へ書状を認める。 いわゆる報告書であり、そこには播磨国平定と今後の予定が、そして備中国人である三村家の保護が記されていた。
同様の書状は、軍監を務めている堀秀政からも信長へ届けられているので必要はないとも言える。 しかし報告は必要であり、その為の物でもあった。
更に義頼は書状の中で、信長にある人物の出陣を願い出ている。 それは、山陰地方にも兵を動かす際に当たって尼子衆と並んで必要とされる人物であった。
最後に光明山城に留まっている藤孝らだが、城には政範と祐清がそのまま残り宇喜多家との最前線を任される事となる。 そして藤孝はと言うと、彼は姫路城へ戻り義頼の軍勢と合流したのであった。
宇喜多家の出した援軍対策です。
兵数もあり、宇喜多勢はあまり活躍できませんでした(泣)
ご一読いただき、ありがとうございました。




