第百七十五話~佐用赤松家と赤松広秀の恭順~
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第百七十五話~佐用赤松家と赤松広秀の恭順~
京の都には、数多くの寺が存在する。 その中の一つに、龍宝山大徳寺があった。
臨済宗の寺である大徳寺は、鎌倉末期に宗峰妙超と言う僧によって開山している。 但し、当初は小さいお堂があるぐらいの寺であったが今はその様な事はない。
また大徳寺は、一休宗純などの名僧を幾人も輩出している古刹である。 しかしその一方で、【応仁の乱】による焼失と言う災難も受けている。 それでも大徳寺は公家や大名、商人や文化人などの協力者があり、寺としての体裁は整えていたのであった。
そんな大徳寺であるが、現在は臨済宗の寺でありつつも仮とは言え一向宗の寺ともなっている。 その理由は、石山本願寺を出た顕如ら一行が滞在しているからである。 彼らは石山本願寺に変わる新たな本願寺が建立するまでの間は、大徳寺に留まる事となっている。 これは、織田との講和条件の一つでもあったからだ。
なお新たな本願寺が建立される場所だが、一向宗開祖の親鸞の娘である覚信尼が父親の為に建立した大谷廟堂跡地となる。 同地は一向宗の実質的な開祖となる覚如が、最初の本願寺があった場所でもあった。
その最初の本願寺も、建立より約二百年後に起きた【寛正の法難】により焼失している。 それ以降は、一向宗のお堂があるだけの場所となっていた。
その様な場所に、都合四度目となる本願寺が建立されるのである。 寺の建築は織田家が行うのだが、顕如も設計等に関わるので、控えめに見てもみすぼらしいものにはならない事だけは明白であった。
さて話を戻して大徳寺を仮宿としている顕如だが、彼は己にあてがわれた部屋で三通の書状を認めている。 その宛先だが、宇野家領内の西光寺と三木家領内にあり英賀御坊ともされる本徳寺。 そして、播磨国人の三木通秋であった。
先ず西光寺と本徳寺宛の書状だが、これは義頼から織田信長を通して依頼された件によるものである。 それは、播磨国内の一向宗門徒に対し釘をさす事であった。 何と言っても両寺は播磨国内における一向宗の有力寺院であり、彼らの存在が三木領と宇野領に齎す影響は大きい。 義頼としてはその影響を削ぐ事で、三木家と宇野家が織田家に味方しやすい環境を整えたいのだ。
そんな依頼を信長より伝えられた顕如は、直ぐに書状を認め始めたのである。 先の教如の行動により、講和を結べたにも拘らず一向宗の立場は決して良いものではない。 だからこそ顕如は、信長からの通達に対してすぐに動いたのである。 これは織田家と一向宗は、決して悪くはない関係を築いていると証明する為でもあったからだ。
なおもう一通、三木家に対する書状だがこちらは顕如が独自に考えて認めたものである。 三木家は一向宗門徒として、織田家と石山本願寺が直接対立を始めた頃に三木家家臣と共に兵糧も石山本願寺に送り込んだ事もある。 それ故に顕如は、三木家にも書状を送り織田家へ恭順なり随身なりする様に諭すつもりであった。
やがて三通の書状を認め終えると、早速顕如は書状を西光寺と本徳寺と三木家へ送っている。 その顕如直筆の書状は、やがて無事にそれぞれの宛先へと届いたのであった。
それぞれに届いた書状には、当然ながら毛利家に協力して一揆などを起こさぬ事や織田家に協力する事が書き連ねてある。 そして逆らう様ならば、破門に処するとまで記されていた。
西光寺も本徳寺も、顕如直々の命に逆らう気など更々ない。 両寺とも一向宗門徒は集めず、また武装も行おうとはしなかった。 そればかりか西光寺の住職は宇野家を訪問して、当主の宇野祐清に会う。 その場で住職は、もし宇野家が織田家と戦う場合は西光寺は協力できない旨を伝えていた。
この言葉によって、宇野家の方針が決まる。 宇野家が織田家に対して積極的に味方になると言えなかったのは、西光寺と一向宗門徒の存在である。 その懸念材料が一篇に解消した以上、宇野家が織田家と対立する理由はなくなったと言えたからだ。
そして本徳寺の住職だが、彼は三木家を訪問している。 こちらも三木家当主の三木通秋と面会して、西光寺の住職と同じ内容の通達を行っていた。 その上、通秋には顕如からの書状も届いている。 彼はこの書状と一向宗門徒の協力が得られないと言う事実に、あっさりと織田家に対する矛を下げる決断を行っている。 結局、三木家が織田家に対して協力すると言う判断ができなかった理由は宇野家と同じであったのだ。
此処に播磨国の西側に勢力を持つ四家のうち、三家までが織田家の軍勢である六角勢を率いる義頼の元に集う決断を行っている。 詰まるところ播磨国内の国人で、宇喜多家の調略が浸透していた龍野赤松家以外は織田家の軍門に降る事を決めたのであった。
こうして佐用赤松家当主の赤松政範、三木家当主の三木通秋、宇野家当主の宇野祐清はそれぞれ、当主自らが姫路城へ向かい義頼と面会する事となったのであった。
顕如から西光寺と本徳寺、それから三木家に書状が送られた旨を記した書状が義頼の元へと届いた。
何故に依頼をしていない書状が三木家へ送られた事に眉を寄せたが、三木家は前述した通り一向宗門徒である。 その三木家に顕如からの書状が届いたとなれば、悪いようにはならないだろうと考え取りあえずそのまま流していた。
その後、義頼は本多正信と沼田祐光、北畠具教と北畠具房と小寺孝隆を集めると彼らに書状を見せたのであった。
「……これで良くも悪くも動きがありましょう」
「まぁ、そうだろうな孝隆。 だが数日待っても動きが無い場合は、具教や具房や孝隆には軍使としてまた三家を訪問してもらうぞ」
『御意』
義頼は、例えこの書状による策が成らなかったからと言ってそこで諦める気はなかった。
この手の策は、粘り強く行うことが肝要だと嘗ては兄の六角承禎や傅役で今は隠居した蒲生定秀から教わっている。 そして成人後に実践してから、実地で学び取っていたからだ。
その事に関しては、義頼だけではなくこの場にいる全ての者が認識している。 だからこそ具教達に命じても誰からも反対は出なかったし、命じられた三人も即座に了承したのだ。
そこで話を一度区切ると、義頼は龍野赤松家の動向について正信に尋ねる。 すると彼は、何とも言えない表情浮かべていた。 そんな正信の様子に、義頼は訝しげな顔をする。 そこで正信は、主を含めてこの場に居る者全てに対して聞こえるように説明を始めたのであった。
彼の言によると、龍野赤松家自体は割と当初から反織田家で固まっている。 これについては、宇喜多直家の策が功を奏した形であった。 直家は、龍野赤松家当主の赤松広貞と娘の婚儀話を持ち掛けている。 その為、龍野赤松家は毛利家と同盟を結んだ宇喜多家と足並みを揃えていたのだ。
しかしてその一方で、龍野赤松家当主である赤松広貞の弟二人が謹慎をさせられいる。 しかしその理由が、今一分からない。 だからこそ正信は、微妙な表情を浮かべたのであった。
彼が忍び衆を駆使して集めた情報によると、弟二人の謹慎の理由は当主である広貞の決定に逆らったからと言う事となっている。 しかも逆らった決定と言うのは、龍野赤松家が織田家に付くか毛利家に付くかの決定である。 しかし二人が当主の命に逆らって謹慎を命じられたのは、暫く後になってからであると言うのだ。
正信が説明を終えると、義頼はさらに訝しげな顔をする。 それは彼の頭の中で、どうにも話の前後が繋がらないからだ。
当主の弟である二人が、当主である兄の決定に反対している。 それ自体はあり得る話だが、龍野赤松家は当初から反織田で固まっていると言ったのは他でもない正信である。 初めから意見の統一が成されているのに、後になって反対したとは辻褄が合わないのだ。
「妙な話だな、辻褄が合わん。 しかし使えるな……具教。 そなたはすぐに発ち、広貞の弟やらに会って此方へ取り込め。 場所は把握しているのであろう正信」
「無論にございます。 才村にある才構居という屋敷に居るとの事」
「だそうだ。 頼むぞ」
「御意」
今回の軍使は、具教と孝隆の二人で才村へ向かう事となった。
何故かというと、何時佐用赤松家なり宇野家なり三木家なりから使者が訪れるか分からないからと言う理由が存在するからである。 せめて誰かは使者として向かった者が残っていた方がいいと、孝隆が進言したのだ。
そこで、具房が残る事となったのであった。
才村には居館が一つあった。
才構居と呼ばれる居館は、才村則直の館である。 則直は、赤松宗家先々代当主である赤松晴政の子であった。
嘗て晴政は、息子で先代赤松家当主の赤松義祐によって追放されている。 赤松家の家督を巡っての追放劇であったが、その際に則直は父親に付き従ったのだ。
晴政は追放後、当時龍野赤松家当主であった娘婿の赤松政秀を頼っている。 そして一方的とも言える義祐の父親追放を非難し、親子で相争ったのだ。 しかしその晴政も、やがて病没してしまう。 すると有耶無耶のうちに赤松家の内訌となっていた争いも収まり、赤松宗家の家督は義祐が継いだのであった。
さて則直であるが、彼は父親の晴政が病死すると龍野赤松家に家臣として仕える道を選んでいる。 その際に名を変えて才村の姓を名乗ったのであった。
その則直が住まう才構居に、謹慎の名目で入ったのが赤松広秀と赤松祐高の兄弟である。 そして二人が謹慎扱いとなった理由だが、預かる則直も知っていた。
彼ら兄弟は一応謹慎扱いなので、自由に屋敷から出る事は叶わない。 しかし屋敷から出なければ問題はないので、二人は書物を読んだり鍛錬に励んだりとしていた。
そんな二人の元に、具教と孝隆が訪問してきたのである。 広秀も祐高もこの謹慎が、龍野赤松家を救う名目上の扱いである事は兄の広貞から内情を聞いて知っている。 それであるからこそここで訪れた六角家からの使者に会うべきか、広秀は則直を含めた家臣と相談した。
「やはり、従っておくべきではないか? それに、六角家であれば恭順しても面目は立つ」
「拙者もそう思います」
会議の冒頭で、そう才村則直が口火を切った。
すると、赤松広貞より命じられて広秀と祐高に同行した平井貞利が同意する。 いや彼ばかりではない、彼の弟である平井利政。 それから、島津忠之も賛同の意を表していた。 はっきりと言ってしまえば、今この場に居る者で反対している存在など皆無なのである。 これでは、決まったも同然であった。
そんな様子に小さく苦笑を浮かべた広秀は、彼らと会う事が総意と受け取り了承する。 そのまま会議を終えると、貞利を伴って具教と孝隆に面会した。
それなりに待たされた具教と孝隆であったが、漸く叶った面会に小さく笑みを浮かべる。 それから表情を引き締めると、案内に従って着いた先の部屋に入る。 そこには、赤松広秀と才村則直の二名が座っていた。 そんな二人を見ながら部屋に入った具教と孝隆は、広秀と則直の対面に座る。 彼ら四人は、暫しの間黙ってお互いを見ていた。
しかしこれでは、何時までも話が始まらない。 そうすると具教は、一つ目を瞑る。 その直後に目を開くと、同時に口を開いていた。
「して弥三郎(赤松広秀)殿、返答は如何に」
「…………大納言(北畠具教)殿。 我らは右少将(六角義頼)様の申し出、謹んでお受け致します」
此処で義頼からの申し出を受けると言う事は、厳密に言えば兄の広貞の言葉に従わなかった事となる。 彼はあくまで弟二人と謹慎とする事で万が一の場合、家を救おうと考えていたのだ。 しかしまだ両家で戦が始まった訳でもないのに広秀達が義頼の誘いを受けたと言う事は、即ち家を分けるに等しい行為である。 これでは、広貞が謹慎理由としてでっち上げた広秀と祐高の罪状が本当の事となってしまうのだ。
だが広秀は、その危険を承知の上で義頼の申し出を受けたのである。 彼が決断した最大の理由は、兄弟で分かれても家を残す事であった。
もし義頼が接触してこなければ、彼がこの時点でこういった判断をする事はなかったであろう。 しかしそれは今更であり、事は決したのである。 ならば、彼も弟もそして則直や貞利らも邁進するだけであった。
そんな彼らの事情は事情として、広秀から了の返答を得られたのである。 具教も孝隆も、小さく喜びを表していた。 それから具教は、約定に嘘偽りがない事を証明させる為に広秀に誓詞を求める。 広秀は、特に忌避するでもなく誓詞を提出したのであった。
広秀からの誓詞を携えて才構居を発った具教と孝隆は、急ぎ姫路城へと戻っていく。 その姫路城には、一人の男が義頼を尋ねていた。 それは誰であろう、佐用赤松家当主の赤松政範である。 彼は、宇野家や三木家より先んじて姫路城に現れたのであった。
だが具教と孝隆は戦術の通り赤松広秀の元に向かっていたので、留守である。 しかしこの可能性を見越して姫路城に残した具房が居たので、繋ぎを取る事自体は大した遅滞も起きずに実現した。
間もなく政範が訪れた事を聞いた義頼は、即座に通すようにと命じる。 その命に従い具房に案内された政範が義頼の前に現れたのは、それから程なくの事であった。
こうして面会が叶った部屋の中には、上座に義頼が座っている。 対面する様に、政範と彼を案内してきた具房が居る。 そして義頼の近くには、小姓を務める岸茂勝と三雲賢春が控えていた。
「ご尊顔を拝し、恐悦にございます。 拙者、上月城主赤松蔵人大輔政範と申します」
「丁寧な挨拶、痛み入る。 某が、六角右少将義頼だ……して蔵人大輔(赤松政範)殿、要件を伺いましょうか」
「はっ。 我らは織田家に恭順し、貴殿からの要請通り毛利家との戦に臨みまする」
事ここに至り、政範も取り繕う様な言動はしなかった。
確かに赤松家は名門とされる家であり、また自負もしている。 そして上月城を居城とする彼ら佐用赤松家も、赤松の名を冠する通り赤松家の分家、若しくは庶家に該当する家である。 つまり宗家より分かれていても赤松の血筋を受け継ぐ家であり、それ故に誇り高くもあった。
しかしどう取り繕おうと、政範らが織田家に恭順、いや降伏していると言う事実は何ら変わり様が無い。 それに下手な事を言い、不興を買うと言う事態は避けたいのだ。 味方となった当初から睨まれるなど、御免被りたいのである。 だからこそ政範は、余計な物言いはせずにただ淡々と口上を述べたのであった。
そんな政範の態度と声色からそれとなく内心を察した義頼は、微かに苦笑を浮かべる。 彼とて、名門佐々木氏の後継である六角家当主の身分である。 政範や彼の家臣が抱えているであろう気持ちは、推し量れるからだ。
だからこそ義頼は、微苦笑を浮かべたまま佐用赤松家の恭順を認めたのであった。
同日の夕刻、才構居から具教と孝隆が姫路城へと戻ってくる。 しかし一行には、才構居に向かった時にはいない人物が同行していた。 その者の名は、赤松広秀である。 彼は恭順を決めると、善は急げとばかりに具教へ同行を申し出たのである。 具教は孝隆と相談の上で、彼の同行を認める。 こうして、義頼と広秀の面会は実現したのだ。
とは言え、義頼と広秀の間で今更話し合う事などない。 命と身柄の保証、それと万が一龍野赤松家が滅んだ場合は広秀を新たな当主とした家の再興である。 これらの確認を行うと、義頼は広秀らと交わした約定の証明として文章を取り交わしたのであった。
佐用赤松家当主赤松政範と、事実上龍野赤松家と袂を分かった赤松広秀との面会から数日。 宇野家当主の宇野祐清、並びに三木家当主の三木通秋が相次いで姫路城に義頼を尋ねる。 彼らは共に義頼と面会を果たし、佐用赤松家と同様に織田家への恭順と毛利攻めの協力を約束している。 その引き換えもまた佐用赤松家と同様に、領地の安堵であった。
こうして西播磨における有力国人のうち龍野赤松家を除く家が織田家へ、ひいては義頼へ恭順なり降伏なりした事となる。 言わば孤立状態に陥った訳だが、当の龍野赤松家は左程動揺してはいなかった。
その理由はやはり、宇喜多家のそして毛利家の存在が大きい。 隣国である備前国から援軍の当てが有り、更に宇喜多家と同盟を結んでいる毛利家からの援軍も期待できる。 この事実が、龍野赤松家の者達から悲壮感を取り除いていたのである。 同時に彼らの気持ちも大きくしてしまい、家中の意見から降伏の二文字が出る事はついになかったのであった。
その龍野赤松家に対し、義頼は幾度となく北畠具教などを使者として派遣し恭順を促している。 一応、赤松広秀とは密約を結んでいるので、最悪龍野赤松家が滅ぶことはない。 しかし、戦をしないで済むのならばそれに越した事はない。 義頼としても、出来れば広秀との約定は秘密の約定のままであって欲しいのだ。
そんな義頼の気持ちとは裏腹に、宇喜多家をそして毛利家を頼みとしている龍野赤松家は首を縦に振る事がない。 そればかりか、赤松宗家当主の赤松則房や佐用赤松家当主の赤松政範が戦を交えずに降伏した事を「あの者達には、名門赤松家の者であると言う気概はないのか」と揶揄する始末であった。
ここまでくると、義頼としても放っておく事などできはしない。 彼は、事実上の最後通告を赤松広貞に突き付けた。 しかし、龍野赤松家が応じる事はない。 その直後、義頼は龍野赤松家の居城である龍野城攻めの用意を始めた。
先ず赤松政範と宇野祐清に、宇喜多家の軍勢が援軍として龍野城へ行けない様に派兵を行う事を命じる。 同時に長岡藤孝も派遣して、政範と祐清の纏め役とした。
藤孝は今でこそ長岡の姓を名乗っているが、元々は細川一門である。 名門細川氏の出であり、かつ本人も文化人としてそして将として名を馳せた藤孝であったことから、政範も祐清も特に不満を言う事は無かった。
最後に義頼自身はと言うと、主力の軍勢に事前に降伏した播磨国人の兵を合流させた上で姫路城を出陣している。 その行先は、無論龍野城であった。
龍野赤松家のみ、気炎を吐いています。
実質は、蟷螂の斧状態ですが。
その龍野赤松家も、事実上分裂しました。
ご一読いただき、ありがとうございました。




