第百七十四話~西播磨国情勢~
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第百七十四話~西播磨国情勢~
播磨国姫路城に、軍勢が到着した。
彼の軍勢を率いているのは、義頼である。 彼は勝龍寺城を出陣すると、途中で有岡城と三木城。 そして御着城を経由して、ついに着陣したのであった。
なお、義頼の軍勢には三木城では別所家当主の別所長治と別所吉親が、更に御着城では小寺政職が義頼の軍勢に合流していた。
さて姫路城だが、元来は小寺孝隆の城である。 しかし彼が織田信長と謁見した際に織田家への提供を約束したので、孝隆は一族もろ共に姫路城の南西に位置する養父の隠居城である国府山城へ移動していた。
「お待ちしておりました、右少将(六角義頼)様」
「うむ。 出迎え御苦労」
「はっ」
「それと、すまぬな官兵衛(小寺孝隆)。 少し遅れてしまった」
「いえ。 こうして来ていただけたのですから、何ら問題はありません」
上杉謙信の侵攻さえなければ、義頼はもう少し早く播磨国へ入れたのだ。
予定よりも確かに遅れた播磨国入りであるが、義頼に責任があると言う訳ではない。 だが信長より急遽別命があったとしても、予定より遅れたのは事実である。 そこで義頼は、念の為に一言詫びを入れたのだ。
それから通り一遍の挨拶を済ませた義頼は、本多正信や沼田祐光や三雲賢持と共に別室に移動する。 案内を務めたのは、孝隆本人であった。
やがて通された部屋に入ると義頼は、播磨国内の動きと毛利家の動きについて報告を求める。 そして求められた孝隆にしても、隠す気などあろう筈もない。 己が今知る情報を、全て義頼達に伝えていた。
先ず毛利家であるが、最近になり備中松山城を落として備中国を毛利家の版図に入れている。 まだ完全に備中国を抑えたとは言い難いが、それでも備中国国人の中で最有力家であった三村を打ち倒した以上は毛利家に反抗する国人が居るとは思えなかった。
備中松山城陥落を聞いた義頼は、三村元親の存在を脳裏に描く。 既にこの姫路城に到達している事は聞き及んでいる為、この会議が終わった後で会う事を内心で決めていた。
その次は、播磨国内の情勢であった。
現在播磨国内は、勢力としては二分されていると言っていい。 先ずは、播磨国国人の中では我先にと織田家と誼を通じた別所家。 その他に名目上播磨国守護の地位にあり、同時に赤松家嫡流の当主である赤松則房や、小寺政職と言った家は既に織田家へ属している。 これらの家は、主に播磨国中央部から東側に領地をもつ者達であった。
しかしその一方で、播磨国西北地域に領地を持つ宇野家。 それから、播磨国西部に領地を持つ龍野赤松家や三木家など、主に播磨国西部に領地を持つ国人達は織田家に付かず毛利家側に属していた。
しかし、必ずしも播磨国西部に領地を持つ国人が織田家に反旗を翻していたのかと言うとそうではない。 赤松家の分家に当たる佐用赤松家が、それである。 確かに彼の家は、未だ旗色を鮮明にしていなかった。
彼の家は毛利家よりの立場を取っているが、必ずしも親毛利と言う訳ではない。 どちらかと言えば、中立の立場を取っているように見える。 何より旗色を鮮明にしていない以上、まだ此方に引き入れる事は可能である様には思えた。
「ふむ……先ずは播磨国内か。 足元が揺らいでいては、色々と不味いからな。 その、佐用赤松家だったか? そちらに、誘いの声を掛けるとしよう。 してそれ以外だが……いきなり戦を仕掛けるか。 それとも、佐用赤松家と同様に声を掛けるか」
「難しいでしょうが、此処にも声を掛けておくべきかと存じます」
そう前置きした孝隆は、話を続けた。
播磨国西部において織田家に反旗を翻している家の内で主要な家は、前述した通り龍野赤松家と宇野家と三木家の三家である。 しかしその三家のうちで、宇野家と三木家は龍野赤松家とは違うある事情を抱えている。 それは、一向宗の存在であった。
元々播磨国には、一向宗門徒が多い。 その上、宇野家の領地には播磨国内で有力な寺院と言える西光寺が存在している。 彼の家の住職は、石山本願寺へ門徒と共に出陣して戦死しているのだ。
また三木家だが、信長と顕如が初めて刃を交えた頃に一向宗門徒として家臣を増援として石山本願寺へと送り込んでいる。 そればかりか、三木家は石山本願寺へ兵糧も幾度か送っていた。
つまり両家共これだけ一向宗に加担している経緯もあって、今更織田家へ付くのは難しいだろうと判断していたのである。
そして残った龍野赤松家だが、こちらは宇野家や三木家程には一向宗との関係は深くない。 彼の家が親毛利派の立場にある理由は、毛利家と同盟を結んだ宇喜多家の調略により家臣の主流が親毛利家で固まってしまっているからである。 そしてまだ若い龍野赤松家当主の赤松広貞では、そんな家臣らを抑える事が出来なかったのだ。
内心では織田家に属するのも悪くはないと考えていた広貞としては忸怩たる思いだが、事が決した以上は彼も覚悟を決めるしかない。 だがこの判断で万が一にも家を滅ぼされる訳にはいかないと考えた広貞は、広貞は弟の赤松広秀と赤松祐高を呼び寄せた。
「兄上。 ご用件は何でしょう」
「広秀に祐高。 そなたたちは、ただいまを持って才村に謹慎とする」
いきなりな広貞の言葉に、広秀と祐高は言葉も出ない。 ただぱくぱくと、口を開閉するだけであった。 そんな弟二人の様子に「さもありなん」と内心思いつつ、広貞は説明を始めた。
彼いわく、この謹慎は龍野赤松家を救う窮余の策なのである。 龍野赤松家が織田家の軍勢である六角勢に対抗して、負けなければ問題はない。 しかし負けた場合、家が滅ぼされるのではと広貞は考えていた。 そこで戦が始まる前に広秀と祐高を謹慎させておけば、少なくとも此度の戦には全く関わっていないと主張できる。 となれば、例え負けて家を滅ぼされたとしても再興は決して不可能ではないのだ。
無論、一朝一夕に再興が成るとは思っていない。 しかしこの二人の弟が協力すれば、時間は掛かっても再び龍野赤松家が再興すると確信していたのだ。
広貞からの説明を聞き、漸く二人の弟は合点がいく。 その様な理由ならばと、広秀と祐高は甘んじて謹慎の処分を受け入れた。 その後、三人の兄弟は水入らずで酒を酌み交わす。 そしてその夜、広秀と祐高の二人は事情を知る一握りの家臣と共に龍野城を出ると才村へ向かったのであった。
こうして龍野赤松家で家の存続を掛けた策が実行されている頃、姫路城では未だ味方になっていない播磨国人を取り込む為の使者の決めていた。
義頼が選んだ使者は、北畠具教や彼の息子である北畠具房である。 何と言っても北畠家は、赤松家と同様に村上源氏の流れを汲む家である。 同族の出身であれば、説得もしやすいだろうと言う考えからであった。
それにこのやり方は、義頼も幾度となく行っている。 つまりそれだけ実績があり、手段として有効なのは己自身が経験してきた事なのだ。
これには、孝隆としても異論はない。 赤松家と同じ村上源氏出身であるの北畠具教や彼の息子である北畠具房と言う人材は、赤松家庶家が多い播磨国人にとって打ってつけと言える存在だからであった。
「それが宜しいかと存じます。 あと問題となるのは一向宗ですが、そちらは如何いたしましょうか」
「官兵衛殿。 そちらに関しては、顕如殿を通せばいい話です。 それで、問題は出ないであろう」
「……は?……弥八郎(本多正信)様。 それは、いかなる意味でしょうか」
途中で会話に入った本多正信の言葉に、孝隆は思わず不思議そうな声を上げた。
その理由は、その意味が分からなかったからである。 幾ら近隣国の話とは言え、織田家と一向宗の講和が完全に成ってからまだ時間が左程は経っていない。 そして孝隆も織田家と一向宗が朝廷の仲立ちで講和に向けた話し合いを行っている事までは把握していたが、まさか既に織田家と一向宗が講和に至ったなどとは露にも思ってみなかったのだ。
そんな孝隆の様子に、義頼と本多正信と沼田祐光は苦笑を浮かべる。 それから、正信が織田家と一向宗の間で成った講和について詳細な説明を行ったのであった。
「……そうでしたか。 織田家と一向宗の講和が既に成っていたとは……」
「無論、上様から許可は得てからとなるが、まず問題はないだろう」
前述した通り、信長が義頼を送り込んだのは毛利家との戦の為である。 ならば、前線基地として機能させる為にも一刻も早く播磨国を抑える必要がある。 毛利家の陰がちらついているとは言え、三木家と宇野家が織田家に付いていない最大の理由が一向宗にあるとするならば、その理由を消す手を打つ事は吝かではないのだ。
やがて相互の情報確認を行った義頼ら、会議が終わると早々に動き始める。 先ず義頼だが、信長に書状を出して播磨国の内情を伝えている。 同時に顕如から播磨国内の一向宗に対して書状を認める要請も、書き添えておいた。
それから具教と具房の親子を呼び出すと、先ずは佐用赤松家の調略を命じる。 そして当然だが、この親子も赤松家と北畠家が同じ村上源氏の末裔である事は承知している。 故に義頼の命じた意味も早々に理解すると、命に服したのであった。
「ところで殿。 龍野にあるもう一つの赤松家は如何なさいますか?」
「正信、祐光。 もう少し、情報を集めよ。 その情報次第で判断する」
『御意』
話が纏まると具教と具房は、孝隆と共に消える。 彼らはその後、三家を訪問する為に姫路城を出て行った。
その一方で部屋に残った義頼はと言うと、本多正信と沼田祐光を残したままで三村元親を呼び出している。 それと同時に、百地泰光もまた呼び出していた。
程なくして、義頼と正信と祐光がいる部屋に元親と泰光が揃う。 すると先ずは、元親が義頼へと挨拶を行った。
「右少将様、お初にお目に掛かります。 三村家親が嫡子、三村元親にございます。 此度は伊賀衆の御助成、真にかたじけなく。 お陰を持ちまして、息子ともどもこの姫路へ到着致しました」
「うむ。 修理進(三村元親)殿もご子息も、ご無事で何よりでしたな」
「はっ」
兵が間に合う事はなかったが、それでも義頼は敵中を突破して伊賀衆を三村家救援に送り込んでいる。 まだ播磨国にすら軍勢の本隊を入れていない状況下にあって、少数でも伊賀衆と言う手を差し伸べてきた義頼に元親は非常に感謝の念を抱いていた。
故に彼は、この面会の前にある事を決意している。 それは、織田家に対する従属であった。 この話は、同道した息子の勝法師丸や三村親重とその息子の三村親富とも話し合っている。 年の割には聡明な勝法師丸も、そして親重と親富の親子もこの話には賛同していた。
それにどの道、今のままでは三村家の復興などままならない。 ならば、織田家の力を借りて三村家の再興に邁進するのも悪くはない道だからだ。
何はともあれ元親は、三村家の従属を告げている。 その旨を聞いた義頼は、喜んで受け入れていた。 まだ先の話ではあるが、三村家の従属は備中国へ進撃する際に大義名分の一つになるからである。 そしてそれは、備中国への進撃を阻む毛利家を攻める大義名分にもなり得るからでもあった。
その様な思惑もあって、義頼は兵が殆どいない三村家の者をあくまで目的を同じくする一つの勢力として受け入れている。 そんな決して粗略に扱おうとしない対応に、元親らは感激する。 そして一層織田家の、ひいては毛利家と直接戦う事となる六角家にたとえ微力でも力を尽くそうと改めて心に誓うのであった。
こうして三村家と言う備中国攻めにおける大義名分を得た訳だが、如何せんまだまだ先の事である。 まずは、足元固めが先決であった。
そこで義頼は、予定通りに事を進めていく。 取り敢えず、まだ旗色を明確にしていない佐用赤松家には北畠親子と小寺孝隆を派遣して取り込みを図る。 同時に信長へ、宇野家と三木家の織田家従属の足枷となっているであろう一向宗に対する顕如の書状の懇請及び三村家の従属を記した書状を忍び衆に持たせて送り出していた。
京にて義頼からの書状に目を通した信長は、大徳寺に居る顕如へ播磨の一向宗に対して書状を認める様にと通達したのであった。
その一方で佐用赤松家に赴いた北畠親子と孝隆は、上月城に赤松政範を訪問していた。 すると佐用赤松家当主の赤松政範は、直ぐに一行を迎え入れている。 もし使者が孝隆だけならば、門前払いもありえたかも知れない。 しかし北畠家は村上源氏の流れを汲む家であり、嘗てはその北畠家当主であった北畠具教と北畠具房の親子が赤松家分家の佐用赤松家へ正・副使として現れたのだ。
その様な一行に対して戦時ならば兎も角、戦端どころか未だ表立って対立すらしていない状況で門前払いなどする筈もない。 具教ら一行は丁寧に客間に通された後、少し待たされたが政範との面会を果たしていた。
その席で具教は、義頼より託された書状を差し出す。 彼の差し出した書状には、佐用赤松家の領地安堵を担保する旨と毛利攻めに対する協力要請が記されていた。
その他にも、手柄次第では領地の増加も約束されている。 佐用赤松家の存続が第一義である政範にとって、無碍に断るのはいささか惜しい条件である。 しかし家中に諮らず、独断即決も憚られた。 そこで政範は、一端回答を保留する。 使者の一行には一度引き取ってもらい、後日改めて返事をする事にしたのだ。
そして具教達にしても、拙速な答えは求めていない。 勿論答えが早いに越した事はないが、後にこの返答が原因となって家中が割れても困り物なのである。 そこで正使の具教は、政範の返事に了承するとこの場は一端引き上げる事にした。
「相分かり申した。 此処はいずれまたお目に掛かる時を待ち、下がりましょう。 良い返事を期待していますぞ、蔵人大輔(赤松政範)殿」
そう答えると、具教らは上月城を辞する。 そのまま彼らは宇野氏の居城である長水山城、そして三木氏の居城である英賀城へと足を向けるのであった。
さて具教の一行が消えて程なく、上月城では主要な家臣らを集めた話し合いが始まった。
議題は無論、義頼からの書状についてである。 これに賛同するかそれとも蹴るかは、佐用赤松家の行く末を占う重要な決定となる為、会議は紛糾した。
その会議では、大きく分けて二つに意見が分かれる。 先ず一方は毛利家との約定や武門の名誉もあり、一戦交えるべきであるとする者達。 それともう一方は、此処は要請に賛同し織田家に付くべきであるとの意見であった。
この二つの意見だが、前者の言わば織田家に対する強硬論より、明らかに後者の融和論の方が優勢である。 その理由は使者として現れた具教や具房、そして彼らの主である義頼にあった。
播磨国の国人は、名門を自負する故かえてして誇り高い家が多い。 しかしその誇り高さから、彼らから見ると織田家は新興の家という印象が拭い切れないのである。 しかし、使者として現れた北畠家やその北畠家が仕える六角家ならば話は別であった。
先ず北畠家だが、前述した様に赤松家と同じく村上源氏の流れを汲む武家である。 宗家としての家督は北畠家の養子となった信長の実子である北畠具豊へ譲っているが、北畠具教もそして彼の息子である北畠具房も嘗ては北畠家の当主だったのだ。
そんな具教や具房が正式な使者として現れたとなれば形の上では同盟、実質臣従なり従属なりであったとしても受け入れる事が出来るからである。 そしてそれは、義頼の存在が後押しをしていた。
宇多源氏の流れを汲む近江源氏佐々木氏、その嫡流を引き継ぐ六角家の現当主が義頼である。 間違いなく大江氏の流れを汲む毛利家と比べても何ら遜色のない名門であり、この六角家であれば誇り高い播磨国の国人をしても相手としては何ら問題はなかった。
例えそれが建て前でしかなく、実質には織田家への所属となるにしてもである。 時と場合によっては、その建て前の持つ意味が重要な時があるのだ。 そして今こそが、正にその時に該当する。 であるからこそ、織田家に付くべきと言う意見が佐用赤松家家中の大勢を占めていたのだ。
だが、武門の名誉や毛利家との約定を重視する者達の言葉も分からないではない。 彼らの言い分も理解できるからこそ、少数とは言え退けられなかったのだ。
だからこそ、幾日も掛けて家中の話し合いは続く。 だが、中々に答えは出ない。 とは言え、何時までも延々と話し合いと言う訳にもいかない。 具教は急いで答えをとまでは言っていなかったが、そう余裕があるとも思えなかった。
そこで政範は、弟の赤松政直に意見を求める。 指名された政直は、政範ににじり寄ると自らの考えを告げるのであった。
「兄上。 六角と毛利はお互い名門の家にございますれば、どちらに縁っても問題はありませぬ。 またこのところの織田家の勢いは、正に日の出がごときにございます。 そしてその一翼を担っているのは、間違いなく六角義頼にございましょう」
「六角義頼……織田の今李広か……」
「はい。 彼の御人は軍神とまで謡われた上杉謙信を戦と一騎打ちの両方で破り、さかのぼればあの武田信玄にも深い一撃を与えたとか。 あの鬼吉川とて、それだけの事が出来たか分かりませぬ」
「確かにな。 と言う事は、そなたは恭順に賛成か」
「御意。 少なくとも、宇喜多よりは信じられましょう」
さて何故にここで宇喜多が出て来るのかと言うと、それは佐用赤松家が取る策に関わるからである。 もし六角勢を敵に回した場合、政範は兵力差から籠城するつもりであった。 そして籠城策を取る以上そこには援軍の当てがあるのだが、その援軍を先ず出してくるのは毛利家と同盟を結んでいる宇喜多家なのである。 しかしその宇喜多家だが、現当主の宇喜多直家が問題であった。
彼は、一度没落した宇喜多家を再興させている。 それはそれで見事な手腕と言えるのだが、その方法にいささか問題があった。 有り体に言えば直家は、綺麗・汚い問わず手段を選ばなかったのである。 特に力を持つ存在に対しては、それが顕著であった。
直家は手強いと感じた家や人物に対し自分の娘や養女との縁組を行い親類となると、頃合いと見るや毒殺や暗殺に踏み切るなど手段に枚挙がなかったのである。 形振り構わないほど追い詰められていたとも言えるのだが、だからと言って全てが肯定されるわけではない。 それ故か直家は、兄弟の様な身内にまで恐れられたぐらいなのだ。
しかしだからと言ってその様な非常な手を数多く打った直家を、諸手を挙げて信じられるかと言えば首をかしげざるを得ない。 ましてや籠城した場合、佐用赤松家を救う鍵はその宇喜多家が握る事となるのだ。
もし深く付き合っていれば、また違った面が見えてくるのかも知れない。 しかし現状の佐用赤松家と宇喜多家の関係では、全面的に直家を信じると言うのはいささか難しかった。
だからこそ政範は、政直の言葉を聞いて微苦笑を浮かべてしまう。 そして弟の持った懸念は、そのまま政範の懸念にも通じているのだ。 下手をすれば直家は、佐用赤松家を手土産に織田家に通じるかも知れない。 その様な出汁に使われるなど、真平ごめんである。 それぐらいならば、早々に織田家に付いた方が遥かにましであった。
「……名門と言う意味では、六角も毛利もそうは変わらぬ。 なれば心常ならぬ宇喜多殿を当てにするより、織田の重臣たる右少将殿と轡を並べるもまた一興であろう」
この言葉により、佐用赤松家の衆議一決となる。 政範はこの後、自ら姫路城を尋ねて義頼との謁見に臨む事を心に刻み込んだのであった。
史実と逆に佐用赤松家が恭順、龍野赤松家が対立の判断をとりました。
一向宗が織田家に降った事もあり、それなりに変化が出ています。
ご一読いただき、ありがとうございました。




