第百七十話~講和の条件と三男誕生~
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第百七十話~講和の条件と三男誕生~
京都六角堂の近くに建築されている六角承禎の屋敷のほど近くに、織田信長の屋敷である二条御新造は建築されていた。
その御新造へ向かう一団がある。 義頼を中心に、彼の家臣である本多正信と沼田祐光と兄である承禎が居た。
彼らの目的だが、それは三つある。 一つは、能登畠山救援の過程で発生した上杉家との戦報告である。 二つ目は、浅井家と共に行った加賀一向宗の殲滅であった。
最も、加賀国の戦で義頼は後詰として兵を展開させただけである。 それ故、直接干戈を交えたわけではない。 しかし、最後だけとはいえ義頼が参加したことで織田家は見方を見捨てる事はないという名分を得たのは幸いと言えた。
それと最後の一つは、石山本願寺である。 顕如は、承禎に重臣の下間頼廉を派遣して接触を試みたのだ。
承禎は、朝廷側の使者として何度か石山本願寺に出向いている。 彼が顕如の正妻と、義理とは言え兄妹に当たる為だ。 しかし、朝廷側は積極的に動いたわけではない。 信長からの依頼と言う事もあって、無碍にはできない為であった。
それはそれとして、昨日のうちに話をすり合わせた彼らは信長の屋敷へ到着する。 事前に連絡は済ませてあるので、問題はない。 彼ら四人のうち承禎だけを別室に残して、義頼と正信と祐光は信長と面会を果たしていた。
なおこの報告だが、あくまで儀礼的なものである。 能登国での経緯についての詳細は、既に報告されていた。 義頼からの言葉が済むと、今度は信長からの通達となる。 先ずは、官位についてであった。
これは、先の信長と帝との謁見の際に出た、本人の褒美の代わりに織田家家臣に官位を与えるというあの話である。 それに伴い、柴田勝家や佐久間信盛などの織田家重臣に官位が与えられたのだ。
この話は、織田家重臣でもある義頼にも関係がある為、此度の事となったのであった。
義頼に与えられたのは正五位上で、今までが正五位下であったので、位階が一つ上がった形である。 なお官職は、引き続き右近衛少将であった。
それから信長は、部屋に入ってくる際に持っていた刀を義頼へ与えていた。
これは、上杉謙信の愛刀である小豆長光である。 今日、この屋敷を訪問した際に信長へ献上したものであるのだが、その小豆長光を義頼に褒美として与えたのだ。
次に播磨国への出陣だが、流石に戻ってからすぐと言う訳にはいかない。 損害を受けた丹波衆に対する手当、消費した物資の補充などもある。 先ずは急いで用意を整えてから、出陣する事となった。
しかし山名家が播磨国に入っている状況であり、何時毛利家が動くか分からない。 そこで、比較的損傷が少ない丹後衆が別動隊として幾日か休みを得てから先行して播磨国へ向く事となった。 この別動隊を率いるのは、長岡藤孝に任される。 藤孝は細川家の出であり、共に軍勢を率いて向かう事となる一色義俊と比べても家格的に問題はなかったからだ。
なお、兵員の補充であるが、それは近江衆から出される事となる。 具体的に言えば、能登国へ向かう義頼の軍勢と共に派遣された蒲生賢秀らが率いてきた近江衆が補充兵として当てられたのだ。
無論、全てではないのだが。
また近江衆と同様に派遣された美濃衆だが、彼らは京に残り織田信忠の護衛の任に服する事になる。 その通達も、義頼に命じられたのであった。
「ところで、義頼」
「はっ」
「何故に、承禎が同道したのだ?」
能登国遠征について一通りの話が終わった信長は、義頼へ疑問を呈する。 それは、同道した承禎の存在だった。
承禎は弟の義頼と違って、織田家家臣ではない。 能登国での戦報告が主である今日の面会において、彼が義頼らと共に来る理由はない。 だからこそ、信長も何故に承禎が同道したのかが見当がつかなかった。
そこで信長は、その理由を尋ねたのである。 すると義頼は、正信と祐光に視線を合わせた後で懐から書状を取り出していた。
「それにつきましては、それをまずお読みください」
「何だこれは」
「顕如殿からの書状にございます」
「何だとっ!?」
驚きと共に、信長は書状を読み出した。
それは正しく、石山本願寺からのそれも講和を促す書状である。 その文を最後まで目を通した信長は、少し口角を釣り上げた。
これが真の物であるならば、小さな休戦擬きを挟みつつ凡そ五年に渡って続けた石山本願寺との戦に決着をつけられるからである。 同時に信長は、何故に義頼がこの書状を持ってきたのかが分からなかった。
石山本願寺との戦で大将である佐久間信盛が持ち込むのならば、まだ分かる。 だが義頼は、個々の戦は別としてさほど石山本願寺とは関わっていないのだ。
そのあたりを信長が尋ねると、義頼は顕如が義兄に当たる旨を伝える。 そこで漸く、顕如の正妻である如春尼が義頼の父である六角定頼の猶子であった事を思い出していた。
それならばと、信長は承禎をも呼び出す。 程なく承禎が現れると、信長の前に座った。
「さて義頼……それと承禎。 顕如の妻は、そなたらと義理とは言え兄弟であったな」
『はっ』
「故に聞こう。 そなたらであれば、何とする?」
その言葉に、義頼は内心驚きつつも嬉しさを感じていた。
義頼達が考えた石山本願寺に対する処置を切り出す機会を、信長が振ってくれた形となったからである。 義頼は喜色の為か少し興奮しつつ、書状をもう一通懐より取り出した。
その書面には、義頼と正信と祐光が考えた石山本願寺と一向宗に対する処置が書かれてある。 そして、義頼と正信と祐光が考え出した処置とは以下の通りであった。
一.一向宗は、武装を解除して本分に立ち返る。 また、今後は武装を認めない。
一.顕如以下全員が石山本願寺及び周辺の砦等より退去して、織田家へと明け渡す。
一.一向宗の寺領は、全て織田家に譲渡する。
一.本願寺に立て籠もる顕如の一門、及び坊官は織田家へ身柄を委ね、用意した新たな寺へ移る。
一顕如の一門、及び坊官が新たに移る寺の場所は、開祖親鸞の娘である覚信尼が築いた廟堂の跡地とする。
一.顕如は、人質を差し出す。
一.坊官の任命、及び派遣は織田家に申請後、許可を得てからとする。
ほかにも細かい事は幾つかあるが、基本となるのは上記の項目であった。
因みに、義頼は一向宗の歴史も廟堂の跡地もほとんど知らない。 この事を知っていたのは、本多正信だった。
彼は今更顕如に組みするなど微塵も考えていないが、それでも一向宗を信心している事に変わりはない。 それ故かそれとも本人の拘りかはわからないが、正信は一向宗の辿った道もそして大谷に築かれていた親鸞の廟堂についても詳しかったのである。 言わば正信の見識と知識を基に、この条件は構築されているといっても過言ではなかった。
「……ふむ……顕如がこれを受け入れるか?」
「そこは朝廷を動かして、勅許を賜ります」
「なるほど、勅許か……それが承禎の同道した理由か」
六角家は、宇多源氏の流れを汲む近江(佐々木)源氏の宗家と言える家だ。
そして公家には、宇多源氏の流れを汲む家は幾つかある。 その他にも過去に六角家と血縁を結んだ家もあるし、三条家の様に過去の経緯から懇意にしている家もある。 この様に六角家は、朝廷の公家に対しても影響力を行使できるのだ。
また、宇多源氏の分家である庭田家は、顕如の実母の実家でもある。 つまり一向宗に関しては、先代と今代の二代に渡って関係を持っている存在である。 だからこそ、本願寺に対しては有効に働くといっても良かった。
それに勅許とまではいかなくても、朝廷を動かせば織田家に大義名分もできる。 朝廷の意向に逆らった存在として、誅する事ができるのだ。
最早、一向宗でまともに織田家と対抗できるだけの勢力を有しているのは石山本願寺ぐらいである。 しかもその勢力は、日一日と佐久間信盛らによって削られているのだ。 そこにきて、朝廷からの使者である。 そうなれば、石山本願寺としても逆らうのは難しいと思われた。
「はい。 それに殿もお気付きだとおもいますが、帝からの命に逆らえば大義名分も得られます」
「…………いいだろう。 先ずは、朝廷を動かせ。 話はそれからだ」
信長は、改めてじっくりと内容を吟味した後で話を進めるようにと許可を出す。 それは、書面の条件が悪くなかったからだ。
元々信長は、一向宗との戦で勝利の暁に石山本願寺を接収するつもりである。 そこに城を建築し、織田家の新たな本拠とするためであった。 その為には、顕如らが邪魔である。 その意味でも、顕如達の移動と一向宗門徒の解放は必須であった。
また、二つ目と三つ目の条件も悪くはない。 織田家の命に従うと言う事は、一向宗が織田家の軍門に降った証と言っていい。 例え万が一にも顕如らにその意識がなかったとしても、他からはそう見られるのは間違いないからだ。
これは、六番目の条件にも通じるところがある。 そして信長は何れはこの事実を基に、一向宗の武装解除をするつもりであった。
五番目の条件に関しては、少なくとも現在は一向宗を宗教として見ていない信長にとってむしろ当たり前と言える代物である。 むしろ無かったら、信長が追加したことはほぼ間違いなかった。
最後に前後するが、四番目の条件である新たな寺についてだが、こちらはある意味飴である。 厳しい条件ばかりだとより反発するのは明確であり、その為の対策であった。
と言うのも本願寺は、石山に移動するまでに二度ほど本願寺の場所を変えている。 最初の本願寺は、新たに寺を建てる場所にあったとされている。 しかしこの寺は、当時の比叡山延暦寺の僧兵らの手によって破壊されてしまう。 いわゆる、【寛正の法難】であった。
その後、越前吉崎御坊に移動した後に当時の法主であった蓮如が京に近い山科に新たな本願寺を築いている。 しかしその山科に築かれた本願寺も、焼き討ちされてしまう。 【天文の錯乱】に端を発した騒乱の過程において発生した戦で、法華宗と法華宗と手を結んだ細川晴元らによって攻め滅ぼされたのであった。
なお、この戦に義頼の父親である六角定頼も参加している。 娘婿である晴元からの要請があった為の出陣であり、別に本願寺へ遺恨があったと言う訳ではなかった。
こうして、山科に建築した本願寺は焼き討ちされている。 その当時の法主で顕如の父親である証如はかろうじて脱出し、石山に建築された御坊へ移動したと言う経緯を持っていた。
話は逸れたが、何はともあれ信長から命じられた義頼と正信と祐光は平伏して、そして承禎は了承の旨を伝える事で返答とする。 彼らは信長の前から辞して屋敷に戻ると、早々に行動へと移った。
義頼はこの後、何れは播磨国へ出陣する為にいつまでも京にはいられない。 そこで正信が義頼の代わりに京へ残り、承禎と共に動く事になった。
すると正信は義頼に頼み、転法輪三条家を筆頭とした三条家や他に二条家。 それから書流の師と弟子と言う関係から、近衛前久にも働きかけをしてもらう。 家臣の頼みを義頼は了承し、彼ら公家に出す書状を作成して正信へと託した。
そして、承禎も承禎で動き始める。 彼は、宇多源氏系の同族ともいえる庭田家や五辻家。 それから、北畠を通じて村上源氏と言う事で久我家や久我家の流れから徳大寺家や中院家。 そして嘗て承禎の叔母が嫁いだ縁から、菊川(今出川)家にも働き掛けを行ったのであった。
信長との面会後、承禎と正信はさっそく動き始めている。 そして義頼と祐光はと言うと、承禎の屋敷にて一息入れていた。 しかし、何時までも屋敷でくつろいでいる訳にもいかない。 二人は屋敷を発つと、勝龍寺城へと向かった。
その目的は、義頼が率いる軍勢の再編成にある。 損害を受けた丹波衆に対する兵員の補充となる近江衆、それと長岡藤孝を大将とする丹後衆の先行派遣であった。
やがて勝龍寺城へと到着した義頼は、播磨国に向かう事になっている軍勢の主だった将を大広間に集める。 それから彼らへ、丹後衆の派遣と兵員の補充として近江衆の追加。 そして、美濃衆の任務復帰の命を伝えたのであった。
因みに石山本願寺の件については、伝えていない。 まだ動いたばかりで、海の物とも山の物ともつかないからである。 もう少し具体的になってからの方がいいだろうと、考えたからであった。
兎にも角にも義頼から命を受けた軍勢は、動く事になる。 最も数日後からであり、今は命を受けただけであった。
通達を終えると、彼らも三々五々大広間から出ていく。 それは義頼も同じであり、彼は大広間から出ると割り当てられた部屋に向かった。
部屋に入ると義頼は、仕事に取り掛かる。 軍勢を分け先行させる以上、色々と処理を行わなればならないからだ。 だが、別に遅くまで仕事をこなすつもりもない。 適当なところで切り上げて眠るつもりであったが、その途中で入った報告に仕事を放り出す事となった。
「そ、それは真かっ!」
「は、はいっ! 殿。 父よりの急使にございます。 お犬の方様、男児をご無事に出産致しましたとのことにございます!」
義頼にそう報告したのは、小姓の三雲賢春であった。
彼の父親は、義頼の懐刀でもある三雲賢持である。 普段は伊賀国に居る事が多いのだが、必ずしも伊賀国内だけに居るわけではなかい。 此度は、近江国へ赴いたので六角館を訪問した際に偶々お犬の方の出産に遭遇したと言う訳なのだ。
そこで観音寺城の改修の為に残されていた大原義定は、彼に命じて甲賀衆を派遣させたのである。 三雲家は六角家六家老の一家であったが、同時に有力な甲賀衆でもある。 家督は弟の三雲成持が継いでいるとは言え、彼自身も甲賀衆を動かせる存在であった。
それ故に義定は、義頼へ知らせるようにと命じたのである。 命を受けた賢持は、直ぐに配下の甲賀衆を走らせたのである。 嫡子が小姓として義頼に仕えている事もあり、殆ど無駄な時を掛けずに義頼へと知らされたのであった。
すると義頼は、賢春へ祐光や健綱らに伝える様に言うと、柳生宗厳や可児吉長ら母衣衆と共に京へと取って返したのである。 その理由は、信長に面会してお犬の方の出産報告と近江国へ戻る許可を得る為であった。
元々、軍事行動の一環として京に来たのであるから、普通であれば許可などまず下りない。 しかし今は能登国での戦終了後で、かつ信長直々に暫しの休暇を得たと言っていい状況にあった。
どの道、先発する丹後衆以外は物資が揃うまで動く事はない。 その様な状態であるので、一時的な許可が下りる可能性は低くはないのだ。
母衣衆と共に馬を駆り、京の町中にある六角屋敷に舞い戻った義頼であったが、流石に今からでは時間が遅いし失礼である。 そこで明日訪問する旨を伝える使者を派遣しておき、その日は屋敷に留まる事にした。
そして勿論、兄の承禎にも三男が生まれた事を報告する。 承禎も近々生まれるとは知らされていたが、まさか京に報告が入るとは夢にも思っていない。 その為、初めは驚きを露わにしたがそれも僅かの間である。 次には義頼の手を取り、まるで我が事の様に承禎は喜色を表していた。
それから彼は、あるものを持ってこさせる。 義頼の前に並べられたのは、御守刀と小さな弓矢であった。 そしてその二つだが、初めて見るものではない。 義頼の嫡男である鶴松丸が生まれた際に、承禎から送られたものとよく似ていた。
「これは……御守刀ですか?」
「うむ。 鶴松丸にと贈ったものと同じ造りとしてある」
黒漆を塗られた鞘に、六角家の家紋である隅立て四つ目が幾つかあしらわれている。 派手さなどは全くないが、小さくともなかなか確りとしたものであった。
鶴松丸に対して承禎が贈った御守刀も、似た様なものは贈られている。 若干色は違うが、物としては遜色あるものではなかった。 その様な兄の贈り物を、義頼は押しいただく様に受け取ると礼を言う。 承禎は若干照れた様な仕草をしながら、その礼を受けていた。
その後は、護衛として同行した母衣衆と京に残る正信も参加しての祝い酒を酌み交わす。 初め兄弟の祝いに差し出がましいと遠慮した正信と宗厳ら母衣衆であったが、主の兄である承禎に勧められては断り切れるものではない。 嬉しそうにしながら勧める義頼の存在もあり、彼らも祝い酒の相伴にあずかっていた。
ただ明日には信長との面会もあるし、予定通り許可を得られれば勝龍寺城に一度戻ってからとなるが出立となる。 その為か、祝い酒は羽目を外すほどの量になる事はなく、適度なところでお開きとなるのであった。
明けて翌日、昨日は抑えていたので誰にも酒は残っていない。 現在、屋敷に居る者の中で一番酒に強い義頼も当然だが残ってなどいなかった。
彼らは朝餉を済ませて一服してから屋敷を出立して、信長の屋敷である二条御新造へと向かう。 やがて到着した屋敷では、事前に連絡していた事もあって大して待たされる事もなく信長との面会を果たしていた。
義頼は挨拶をしてから話を切り出そうとしたが、その挨拶もそこそこに信長が話しかけてきた。
「義頼。 犬が子を産んだそうだな」
「どうして、それを殿が?」
「つい先ほどだが、重政より使いが来た。 ま、これは以前と同じだな」
「そうですな」
重政とは、お犬の方の輿入れに同行した中川重政の事である。 彼は一族と共に、お犬の方に従って六角家入りした者達であった。 そんな中川一族であるから、例えお犬の方に命じられなくても信長には知らせをする。 また事前にお犬の方より命があったので、即座に使者を出したのだ。
なお、信長が言った通り知らせ自体は初めてではない。 義頼の嫡子である鶴松丸や、一の姫である結姫が生まれた際にも知らせは届けている。 義頼としても、別段驚くほどの事でもなかった。
「そこで、事前に作らせていた御守刀をのちに贈らせる。 流石に今は、持ってきていないのでな」
「ありがとうございます。 それと殿、一つお話がございます」
「ん? 何だ」
「帰国の許可をいただきたいのです」
「ふ、そんな事か。 構わん。 ただ播磨行きの手筈だけは、確り行え。 それさえ手抜かりがなければ、いい」
「御意」
信長との面会を終えると、義頼は承禎の屋敷に一度戻る。 そこで、信長から近江国へ戻る許可を得た事を兄に伝えてから勝龍寺城へと向かった。
しばらく後に到着した勝龍寺城で、義頼は馬淵建綱らに祝われる事となる。 三雲賢春から知らされたと言う事もあるが、正式な使者を大原義定が義頼が軍勢と共にいる筈の勝龍寺城へ派遣したからであった。
そのお陰か、子が生まれた事は軍勢を率いる主だった将にも知られている。 長岡藤孝などの軍勢を構成している将達から祝いの言葉を受けた義頼は、とても嬉しそうに口上を受けていた。 主だった者から祝いを受けた義頼は、急ぎ近江国へ戻る旨を彼らに伝える。 既に信長からも許可を得ているので、特に問題が発生すると言う事はなかった。
後の事を建綱と祐光に任せると、一部の母衣衆と馬周り衆を連れて勝龍寺城を出立する。 途中、瀬田城で一泊してから六角館へ向かった。
まだ陽があるうちに到着した六角館にて義頼は、お犬の方と今は寝ている三男となる生まれたばかりの息子と対面する。 侍女から我が子を受け取った彼の表情は、父親らしく優しい表情を浮かべていた。
流石に三人目なので、赤子の扱いも慣れたものである。 眠りを妨げない様にしながら義頼は、小さな声でお犬の方に話し掛けていた。
「お犬、でかした。 珠の様な男児ではないか」
「はい。 私も、無事に産めて安心しました」
「うむ。 そなたも、体は愛えよ」
「もちろんでございます、あなた」
「そなた達も、頼むぞ。 確り、お犬を助けてくれ」
『はい』
義頼自身の声掛けに、侍女たちは揃って返答した。
すると、義頼の手の中に居る我が子がもぞもぞと動き出す。 慌ててゆすってやると、また静かになり寝息をたて始めた。
「ところであなた、この子の名前は如何なさいますか?」
「うむ。 この子の名は、寿亀丸とする」
「寿亀丸……良き名です」
「そうであろう、お犬。 それと……元気に育つのだぞ、寿亀丸よ」
そう言うと、義頼は寿亀丸を上に掲げる。 しかし当の寿亀丸は、まるで気づいた様子もなく眠り続けていたのであった。
一向宗との講和条件と三男誕生です。
なお、実子としては二男ですが、井伊頼直を庶長子としてるので三男となります。
ご一読いただき、ありがとうございました。




