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第百六十九話~加賀一向宗討伐~

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第百六十九話~加賀一向宗討伐~



 能登畠山家の救援を小さくはない被害を出しながらも成功させた義頼は、七尾街道を南下して末森城に至った。

 同城で、上杉謙信うえすぎけんしんに対する追撃と牽制の為に国境にまで進撃した稲葉一鉄いなばいってつ率いる美濃衆と蒲生賢秀がもうかたひで率いる近江衆と合流する。 その後は更に街道を南下して、やがて津幡城へと入る。 そこで一泊した義頼と浅井長政あざいながまさ率いる軍勢は、翌日に進軍を再開して堅田城へと入った。

 この城は嘗て木曽義仲きそよしなかが在城したという伝説を持つ城であるが、所詮は伝説の域を出ない。 そもそもこの城は、一向衆が占拠し改修した城であった。

 果たしてその一向衆も、長政によって駆逐されている。 今となっては、加賀一向衆最後の拠点である尾山御坊を攻める為の付城となっていた。

 その堅田城に、整然と六角勢と浅井勢が入城したのである。 その報告は、尾山御坊に籠る加賀一向衆にも伝えられた。 すると一向衆に、動揺が走る。 その理由もまた、堅田城に入った六角勢と浅井勢にあった。

 一向衆の得た情報では、彼らは謙信率いる上杉勢と戦った筈である。 それであるにも拘らず整然と戻って来たという事実は、加賀一向衆を率いる杉浦玄任すぎうらげんにん七里頼周しちりよりちか若林長門守わかばやしながとのかみらに齎されたある情報を確信させるに至ったのだ。

 その情報とは、援軍として現れる筈の上杉勢が能登国で敗れたと言うものである。 始めは、誤報か敵の策略であろうと一顧だにしなかった彼らであった。 しかしこうして能登国へ向かった筈の敵兵が戻って来た以上は、考慮しない訳にはいかない。 いや、上杉勢の敗北と撤退を事実として受け入れざるを得なかった。

 こうなってしまえば、一気に加賀一向衆の士気は低下する。 元々、上杉勢の援軍を当てにしての篭城だったのだ。 しかし肝心要の謙信が敗北し、上杉勢と相対した筈の軍勢が戻って来ている。 この状況下では、士気を保つなど無理な話である。 そして士気を保てなくなれば、逃げ出す者が出て来るのは自明の理であった。

 それでなくても、尾山御坊に籠っている兵数が多い訳ではない。 敵勢より遥かに少ない兵数と言う事実も、逃亡者の数を助長していた。

 無論彼らも、手をこまねいていた訳ではない。 若林長門守などの一向衆指導部は、苦渋の決断として逃亡者を捕え見せしめに命を奪ったりしていたぐらいである。 しかしそれでも、逃亡者が途絶える事は無かったのであった。





 日増しに増えて行く逃亡者に対する対応に四苦八苦している加賀一向衆と相反する様に、堅田城内は意気軒高である。 尾山御坊から逃亡して来る者を捕えつつ中の状況について情報を入手していた長政が、最後の攻めを決断したからであった。

 味方の命を見せしめに奪うなど、完全に末期状態と言える。 そして長政はと言うと、一向衆が自ら生んだ隙を逃すつもりはなかった。

 因みにこの尾山御坊攻めだが、義頼も旗下の兵を率いて参加している。 しかし、浅井家と共に攻める訳ではない。 義頼は、浅井勢の後方に言わば後詰として軍を展開しているだけであった。

 なお、浅井家と共に尾山御坊を攻める事に関しては、既に信長に報告して許可を得ているので問題はない。 浅井家が能登畠山家救援に結果として協力した形となったので、言わば借りを返す為に今度は義頼が織田家からの援軍として長政に協力しているのだ。 だが、あくまで主役は浅井家である。 そこで浅井勢の後方に後詰として布陣する……と言う形に収まったのであった。

 浅井勢と六角勢の布陣が終了した翌日の朝、完全に太陽が地平の上に出た頃、長政の号令により尾山御坊攻めが開始された。

 正面からは、先鋒大将を任された元朝倉家一族の安居景健あごかげたけが攻め掛かる。 彼は、朝倉家家臣であった真柄直澄まがらなおすみや直澄の甥で現真柄家当主の真柄隆基まがらたかもとなどと共に仕掛けていた。

 さて景健だが、元は朝倉の姓を名乗っていた。 しかし朝倉家が浅井家に降伏すると、長政に許可を取った上で姓を変えている。 彼は居城である安居城に因み、安居と名乗ったのであった。 これは、結果として大名としての越前朝倉家を守れなかった事に対する彼なりのけじめである。 この様な事は、他にも元朝倉家の者のうちで幾人かが行っていた。

 例えば、前波家も姓を変えている。 安居景健と同じ様に彼の家は、朝倉家家臣時代に城代として入っていた成願寺城から名を取り、成願寺へと家名を変更したのであった。

 無論、変えていない家もある。 真柄家もそうであるし、他にも今は朝倉家陣代として、朝倉義景あさくらよしかげ遺児の後見役にもなっている朝倉景鏡あさくらかげあきらも姓を変えずにそのまま名乗っている。 最も陣代を務める以上、姓を変える訳にはいかないと言った事情も存在していた。



 閑話休題。



 先鋒を務める元朝倉家の者達であるが、彼らは果敢に攻めよせ苛烈な攻勢を畳み掛けている。 真柄直澄は、先頭に立ち一向衆を切り裂いていた。 彼が手にしている大太刀が振られる度に、敵が複数屠られていく。 これでは、元々士気が低い一向衆は堪った物ではない。 彼らは、直澄の大太刀を避ける様になっていた。 

 当然、そこに隙が生まれる。 その隙を見逃さず、隆基が亡き父親から託された大太刀を振るい叔父が作った隙を広げて行った。

 此処が押し時と感じた景健は、すかさず魚住景固うおずみかげかたを投入する。 彼は二男の魚住彦四郎うおずみひこしろうと共に押し寄せ、ついには尾山御坊の山門を破るのであった。

 その頃、裏手から攻める赤尾清綱あかおきよつな率いる浅井家の別動隊も山門とは別の尾山御坊内へと繋がる門を攻めている。 先鋒を任された富樫泰俊とがしやすとしは、二人の息子と共に裏から攻勢を掛けたのだ。

 正面の山門を破ってから程なく、裏から攻めていた浅井別動隊も尾山御坊内へと乱入する。 特に富樫泰俊は、一向衆によって加賀国を追われた経緯を持っている。 その鬱憤を晴らすかの様に、嫡子である富樫稙春とがしたねはると二男の富樫家俊とがしいえとしと共に一向宗徒を容赦なく切り捨てて行くのであった。

 こうして表も裏も破られた事を知った加賀一向衆を指導する杉浦玄任や七里頼周や若林長門守、それから若林長門守の息子らは再起を掛けて脱出を図る。 しかし、彼らのその望みが叶う事は無かった。  

 抜け穴から逃げようとしていた彼らを、同じ一向衆徒である奥政堯おくまさたか鏑木頼信かぶらきよりのぶが取り囲んだからである。 二人は、加賀一向衆指導部を構成する玄任らと己れら二人の首を持って一向宗徒の助命を嘆願するつもりでいたのだ。

 本音を言えば、二人はこの尾山御坊攻めが行われる前に浅井家に対して降伏をと考えていた。 実際、玄任や頼周などに進言している。 しかし、二人の言葉は頼周によって切って捨てられた。

 と言うのも、政堯と頼信は頼周から疎まれていたからである。 頼周は、顕如けんにょから加賀一向衆を率いる大将の一人として信任されるぐらい能力はある。 だが同時に、粗暴で強欲な面も持っている。 すると二人は、彼を幾度か諫めている。 それ故に、政堯と頼信は嫌悪されていた。

 そんな二人が言い出した降伏の言葉に、頼周はこれ幸いとこき下ろしたのである。 敗北主義者とまで言われては、政堯と頼信も進言を続ける訳にはいかなかったのだ。

 しかし、その結果が今である。 一向衆は次々と討たれており、尾山御坊は血の海に沈もうとしていた。


「貴公らは……何処に行かれるのか?」

「おお! 近江守(奥政堯)殿! 無事であったか!! それに、右衛門尉(鏑木頼信)殿も一緒か!」

「……ええ、何とか……して今一度尋ねるが、何処に向われる?」

「無論、再起を図る!」


 若林長門守が、「当然であろう」と言った表情を浮かべながら二人に言葉を返す。 その言に、政堯と頼信は苦虫を噛み潰した様な表情となった。

 そんな二人に、更なる追い打ちが掛かる。 頼周が二人に対して、ここで殿しんがりをする様にと命じたのだ。

 確かに二人は一向宗門徒を連れて来ていたので、その言葉が出るのも致し方が無いかもしれない。 しかし政堯と頼信が門徒を連れて来ていたのは、玄任らを逃がさない為だ。 故に二人も、そして一向宗徒も頼周の言葉に従う事はない。 彼らは頷き合うと、即座に行動へ移った。

 まさか味方から捕えられるなど露にも考えていなかった為、あっという間に捕縛されてしまう。 彼らが己の状況を把握した時は、既に全員へ縄が掛けられた後であった。

 当然の様に頼周らから文句が出るが、政堯と頼信は冷たい目を返す。 それから、己らの考えを伝えるのであった。


「そなた達の首と我らの首、それを持って一向宗門徒の助命を嘆願する」

『……なっ!』  

「分かったか。 ならば行くぞ」


 頼周は必死に抵抗するが、雁字搦めに縛られ芋虫状態では行動もままならない。 彼は二人が連れて来た一向宗徒に、がっちりと抱え込まれていた。

 そして残された者達であるが、流石に覚悟を決めた様である。 頼周の様に暴れる事はなく、ただ粛々としていた。 政堯と頼信は、彼らと共に正面の山門の方へと向かう。 そこで彼らは、山門から突入して来た景固へ降伏したのであった。



 加賀一向衆を指導する者達の中で特に力を持っていた三人、杉浦玄任と七里頼周と若林長門守が捕えられ、そして彼らほどではないにしてもやはり力を持っていた奥政堯と鏑木頼信が降伏した事で浅井家と援軍の織田家による尾山御坊攻めは終了したと言える。 それを証明するかの様に杉浦玄任と七里頼周と若林長門守と、彼ら三人を捕えた政堯と頼信は、長政と義頼の前へ揃って地面に座らされていた。

 但し、義頼は形だけとはいえ援軍の役目を果たしたのでこの場に居るだけである。 長政が彼らに対してどの様な判断をするかは分からないが、彼はその判断に異を唱える気も口出す気も無かった。


「さてそなた達の処分だが……玄任と頼周、それと長門守と二人の息子は斬首。 代わりに、一向宗門徒は助けよう」

「……備前守(浅井長政)様、感謝致します」

「連れて行け!」

『はっ』


 彼らの中でただ一人、玄任が言葉を返す。 そして捕えられた時、散々暴れた頼周だが今は大人しい。 流石の彼も、諦めた様子であった。

 玄任と頼周と若林親子が消えると、その場には奥政堯と鏑木頼信が残るだけである。 その二人も神妙にしており、長政の断罪をじっと待っているだけであった。

 そんな政堯と頼信を一瞥した後、長政が言葉を紡ぐ。 その内容を聞き、言い渡された二人は大いに驚いた。 その理由は、長政が二人を助命したからである。 玄任らと同様に死ぬつもりであった彼らからすれば、完全に虚を突かれた形となっていた。


「それは……何故にございますか」

「死ぬなど何時でも出来よう。 それよりも剃髪して、死んでいった者達の弔いを行え」

『……弔い……にございますか……』

「そうだ。 剃髪し僧となり、死ぬまで弔え。 それが、そなたらに課す懲罰と心得よ」

『…………承知致しました』


 たっぷりと時間を掛けてから、政堯と頼信は了承の返答をした。

 二人は戦の後、剃髪して僧となると残りの人生を戦で亡くなった者達の菩提を弔う事に捧げる。 長政も彼らを陰ながら支援した事で、二人の名は名僧として後々まで残る事となった。

 それはそれとして、この場に居るのは義頼と長政。 それから宮部継潤みやべけいじゅん浅井政元あざいまさもと赤井清綱あかいきよつならなどの浅井家重臣と、義頼の護衛である一部の藍母衣衆や馬廻り衆だけとなる。 そんな中で長政は義頼の目をじっと見ていたのだが、やがてゆっくりと口を開いた。


「右少将(六角義頼ろっかくよしより)殿。 何か、異論はあるか」

「ござりませぬな。 越前と加賀は、殿より備前守殿に一任された事案である。 某が、口を挟む筋合いではないと存ずる」

「そうか。 では、これで加賀国は鎮定と相成った。 右少将殿にも、鎮定を祝う宴に参加して貰いたい」


 形だけとはいえ、最後の最後で加賀国鎮圧に参加したのである。 共に同じ戦場に居た同胞はらからとして、戦勝を祝う宴に参加をしないという選択肢は存在しなかった。

 義頼は、即座に頷いて了承する旨を伝える。 それから数日後、長政の主宰する戦勝の宴が催された。 だがこの席で義頼は、酒豪ぶりを披露していない。 まだ傷が癒えていないので、能登畠山家で催された宴と同様に医者から止められていた為であった。





 さて話を少し戻して、加賀一向宗が浅井・六角連合勢に敗れて数日、丁度戦勝の宴の用意が整い明日にでも行われるであろう頃、石山本願寺において本願寺第十一世である顕如けんにょが、加賀国と能登国の状況について報告を受けていた。

 その報告によれば、上杉謙信は能登国より撤退している。 それから間もなく、浅井家と六角勢によって加賀一向衆の壊滅させられる。 どちらの報告も、顕如にとって驚愕に値する報告であった。

 実は石山本願寺も、そして加賀一向宗も反撃を考えていたからである。 しかしそれは、上杉謙信率いる軍勢あっての事であった。

 筋書きとしては、加賀一向宗の救援を兼ねて上杉勢が浅井家を打ち破る。 そのまま越前国を抜け、近江国へ侵攻。 やがて、織田信長おだのぶながと対峙してこれを破るのだ。

 そこに合わせて、石山本願寺も打って出る。 佐久間信盛さくまのぶもり率いる織田勢に痛撃を与え、出来れば駆逐する。 と言う、筋書きであったのだ。

 だが今となっては、それも絵に描いた餅となってしまっている。 上杉家は、少なくはない被害を受けての領国へ帰還。 直ぐに再度出陣となるとは、到底思えなかった。

 さてここで問題となるのは、近隣に石山本願寺が当てになる勢力がないという事である。 上杉家は前述の通り、再度の出撃は望めない。 武田家は、織田家によって痛撃を与えられて間もない。 どちらの家も地力を取り戻すのに精一杯なのは必至であり、とても再侵攻なども出来る筈もなかった。

 畿内と言えば雑賀もあるが、雑賀衆は力を落とされた上で羽柴家に取り込まれている。 とてもではないが、当てになどにはならなかった。

 阿波三好家は、安宅水軍や和泉水軍によって四国に封じ込められている状態である。 力はあるだろうが、畿内にて振るう事ができなければどうしようもなかった。

 そして毛利家も、そう簡単には動けない。 彼の家の旗下にあった村上水軍も防衛なら兎も角、敵勢力へ攻め込むだけの力は取り戻していない。 つまりどの家も、本願寺に軍を送れる状況ではなかったのだ。

 

「……最早、万策尽きましたか……」


 報告が終わった後で現状について思案していた顕如であるが、これ以上はどう考えてもただの悪あがきしかならなかった。

 加賀一向宗が浅井家に鎮圧された事で、地盤はほぼなくなっている。 また、門徒を動かして織田領内などで一揆を起こす事は可能だが、長く続けられなければあまり意味はない。 今の状況でそんな事をすれば、逆にすりつぶされかねなかった。

 つまり、どう考えても現状を覆す事などできはしないのである。 となれば、残された道は降伏か全滅のいずれかでしかなかった。

 しかし、全滅を選ぶことはできない。 そんな判断をしては、今まで門徒を生かす為に命をささげた僧達の行動を無にしかねないのだ。 故に顕如は、もう一つの道である降伏を選ぶ。 そして、その為の窓口も存在していた。

 その窓口とは、六角家である。 彼の正妻は、今は亡き六角定頼ろっかくさだよりの猶子であった。

 すなわち顕如は、武家故実であり兵部卿でもある六角承禎ろっかくしょうていや、義頼と義理とは言え兄弟になるのだ。

 そして承禎も、今や朝廷で影響力を持つ存在である。 また、義頼が織田家重臣なのは言うまでもなかった。

 するとその時、顕如は苦笑じみた表情となった。

 上杉謙信の上洛と言う起死回生の策を、直接的に潰したのは義頼である。 しかし彼は、同時に追い詰められた一向宗を救う鍵となるかもしれない存在なのである。 つくづく皮肉な事だと、顕如は感じていた。

 何はともあれ、顕如は先ず承禎と接触を試みる。 義頼が京に居ない以上、本願寺側としては当然の処置であった。





 堅田城にて行われた戦勝を祝う宴の翌日、義頼は近くの寺へ出かけている。 事前の交渉で住職と掛け合い、本堂を借り切っていたのだ。

 井伊頼直いいよりなお蒲生頼秀がもうよりひで北畠具教きたばたけとものりと言った事情を知っている者達を伴って寺へと向かった義頼は、彼らと共に本堂へと入る。 そこで、幾つか杯を置くとそこに般若湯を注いでいた。

 これは、先の戦で亡くなった者たちに対する葬送の手向けである。 義頼は同行して来た者達と共に、戦死した者達を冥府へと送り出していたのだ。 

 彼らは一刻程、決して酔う事が叶わない酒をゆっくりと飲みつつ過ごす。 それから住職自ら読経を上げてもらうと、堅田城へと戻るのであった。

 明けて翌日、義頼は軍勢と共に堅田城を出立する。 長政以下、浅井家の面々に見送られての出発であった。 


「右少将殿。 参議殿……いや義兄によろしくお伝え下され」

「備前守殿。 確かに承った」

「また何時か、会おう」

「楽しみにしているぞ」


 最後に軽く笑みを交わすと、義頼と長政は別れた。

 この後、義頼は京に一度戻り信長に報告しなくてはならない。 無論、先に報告は送っている。 しかし信長より命じられた以上、自身が報告する義務があった。

 堅田城を出立した義頼の軍勢は、越前国を抜けて近江国へと入る。 軍勢が海津に着くと、海津西内城へ入り一泊させた。 この城は、浅井家臣である海津政元かいづまさもとであったが、浅井家の越前国移動に海津氏も随行している。 今は織田家の直轄領を抑える陣所の代わりとして、海津西内城は機能していた。

 そんな海津西内城と、隣接する海津東内城に分かれて宿泊していたのだが、その日の夜に兄の承禎が派遣した甲賀衆の篠山資家ささやますけいえ)が義頼の居る海津西内城へ現れる。 数日も経ずして、義頼は京へ着く事は使いを出した承禎も知っている筈だ。

 それであるにも拘らず使者を送ってきた事に義頼は眉を顰めたが、それはそれとして資家の差し出した書状に目を通す。 読み進めていくうちに、彼の表情は訝しげなものから驚きに変わり、そして真剣なものへと変わっていった。

 最後まで読んでから義頼は、資家に書状の内容が事実かどうかを尋ねるとはっきりと頷く。 そこで義頼は、資家を下げさせると代わりに本多正信ほんだまさのぶ沼田祐光ぬまたすけみつを呼び出した。 

 両名が揃うと、承禎からの書状を見せる。 手渡された書状に目を通した二人は、驚きの表情を浮かべる。 そこには無論、理由があった。

 以前義頼と祐光と正信は三人で、半ば戯れに思いを巡らせた事がある。 それは、一向宗に対してであった。

 前述した様に顕如の正妻である如春尼は、義理とは言え義頼の姉である。 特に義頼は、彼が生まれた頃にはほかの実姉は全て嫁いでいた為か、ただ一人居た彼女にとても懐いていた。

 その様な経緯からか義頼は、如春尼を悲しませない為に織田家と対立した顕如を救える手はないかと正信と祐光と共に思案を巡らせた事があったのだ。


「……まさか、あの時の考えを実行に移せる可能性が出るとは思いませなんだ」

「弥八郎(本多正信)殿、確かに」

「まぁ、そうだな……俺も、実際に考えを披露できるとは当時、予想だにしていなかった」


 書状を読み終えた正信が思わず漏らした感想に、祐光が同意する。 そしてそれは、義頼も同じ思いであった。

 彼らが、確かに考え付いたことに間違いはない。 だが、披露できる機会が訪れるとは思ってもみなかったというのが正直なところであった。

 佐久間信盛さくまのぶもりが対石山本願寺の大将に選ばれてからは、特にその思いが強くなっている。 織田家筆頭家臣の信盛が大将となっている以上、個々の戦ぐらいしか関われはしないだろうと考えていたからだ。

 もし関われるとすれば、それは戦場で捕らえる事が出来た時ぐらいでしかない。 しかし顕如は戦場に出てくる可能性などほぼ皆無であり、とてもではないが捕縛するなど考えられなかったのだ。

 この考えは、正信と祐光も同じである。 武将どころか、下間氏の様な元武家でもない顕如が戦場に現れる筈はないと両名も考えていた。

 だからこそ義頼も正信も祐光も、この時に考えた内容を実行する機会が訪れると思ってもいなかったのである。 だからこそ三人は、胸の内にその考えをしまっていたのである。 しかし、今になって披露する機会を得る事になるとはと、三人は驚きを隠せなかった。


「……まぁ、いい。 何であれ、殿に申し上げるだけはしてみよう。 考えが通るかは分からないが、な」

『御意』


 明けて翌日の朝、海津湊に堅田衆と六角水軍の船が到着する。 義頼と彼が率いる軍勢は、水軍衆と共に湖上を渡っていった。

 堅田衆と六角水軍は見事な操船を見せて、彼らを無事に大津湊へと到着。 そこで一刻ほど休憩を挟んでから、義頼は勝龍寺城へ向かう。 しかし義頼と軍勢が勝龍寺城へと到着した頃は既に夕刻となっており、これから織田信長おだのぶながの元へ訪問となれば間違いなく日が暮れてしまう。 それでは失礼になると考えた義頼は、明日にでも信長へ報告することにした。

 どの道、承禎とも話は済ませておきたい。 その意味でも、報告は明日にしておくほうが良かったと言えた。

 その後、軍勢を馬淵建綱まぶちたてつなに任せた義頼は、承禎の屋敷へと向かう。 そこで夕餉を済ませると、屋敷の主である承禎を含めて詳細な話し合いに入った。

 そこである程度話を詰めた翌日、義頼は兄である承禎と正信と祐光と共に京における信長の屋敷へと向かったのであった。


加賀一向宗の討伐、そして顕如の新たな動向です。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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