第十四話~策と崩壊~
第十四話~策と崩壊~
六角家と浅井家が対峙する宇曽川、その上流部においてとある一団が移動を行っていた。
彼らは、出来るだけ音を立てずに行動している。 同時に、周辺に対して物見を放っていた。 すると幸いにも、戻って来た物見から怪しい者達が居たと言った様な情報は齎されていない。 その事にこの一団を率いる者、即ち宮部継潤は安堵していた。
「どうやら、順調の様だな」
「はい。 やはり六角家は、この渡河可能な場所について把握はしてはおりませんでした」
渡河可能な場所とは、彼らが今居る場所よりもう少し先にある場所の事であった。
理由は分からないが、その場所では水深が浅くなっており、川を渡ることが可能なのである。 更にこの渡河可能な場所については六角家も浅井家も知らない場所であり、高野瀬家しか把握していない場所であった。 その高野瀬家とて、つい最近になって偶々見付けた様な場所である。 何時からこの様な地があったかも、当の高野瀬家も分かっていないのだ。
嘗てその様な渡河可能な場所の存在を報告された高野瀬秀隆は、万が一を考えて有事の際に使用できる秘密の場所としている。 故に、彼は二人の息子にさえもこの場所の事は教えていない。 だから義頼に降伏した高野瀬秀澄にも、この場所に関しては一切口にしていなかったのだ。
「その様だ。 この僥倖、生かさぬ訳にはいかぬ。 我らの動きが、此度の戦における命運を決めるのだ」
「ははっ。 では、参りましょう」
「うむ」
高野瀬秀隆の返事を聞いた宮部継潤は、頷き返す。 それから彼は、連れて来た軍勢を引き連れて移動を再開した。
さてそもそも彼らが、何ゆえに戦場を離れてその渡河可能な場所に向っているのか。 それは、宮部継潤が受けた主君からの命にそもそも端を発していた。
彼が命じられた任務とは、六角勢に対する奇襲である。 そして宮部継潤が、この別動隊を率いて宇曽川を渡り、上陸後は義頼の本陣を急襲すると言う筋書きであった。 一見すると決死隊の様であるが、実は割とそうではない。 と言うのもこの奇襲は、浅井長政率いる浅井家の本隊と連動した動きだからに他ならない。 浅井長政が、そして磯野員昌が被害も顧みずに六角家の軍勢に攻め続けている理由が正にそこにあったのだ。
それはさておき、宮部継潤率いる別動隊は、件の渡河可能と言う場所へとたどり着く。 そして調べてみると、確かに渡河は十分に可能と思われるぐらいの水かさでしかない。 これならば注意を怠らなければ、問題なく渡河は出来ると思われた。
「確かにそなたの言う通りであるな、秀隆……では渡河を開始するぞ」
「御意!」
彼ら浅井家の別働隊が渡河を完了し、そして義頼の本陣へ奇襲を掛ける。 それが早ければ早いほど、宇曽川の下流域で戦を行っている味方の損害を減らす事が出来るのだ。 だからこそ宮部継潤は早々に渡河へと入った訳だが、その事が自らの運命を左右するとは流石に気付く事は無かった。
実は彼らの動きは、既に六角勢によって発見され監視されていたのである。 渡河を開始する浅井勢をじっと見ているのは、この地に派遣された六角家の別動隊であった。
ところで何ゆえに、彼らがこの場所に居るのか。 その理由は、義頼が本陣で開いた軍議にまで遡る事となる。 六角家本陣で開かれた軍議の場において、本多正信はある情報を六角家諸将へと伝えている。 彼が伝えた情報とは、正に宮部継潤らが渡河を敢行しているこの場所についてであった。
因みに本多正信がこの場所を知り得たのは、ある意味偶然である。 彼は義頼が肥田城を落とすと、直ぐに周辺の地理を調べ直していた。 彼自身にとってこの地は初めて訪れた場所であるし、何よりつい今しがたまで浅井家の領地だったのである。 ならば自分は勿論、嘗て【観音寺騒動】を原因としてこの地を手放した六角家も知り得ない様な状況が生まれているかも知れない。 本多正信はそう考えて、甲賀衆を辺り一帯に派遣したのだ。
すると、徒歩での渡河が可能な場所を見付けてしまう。 その上、以前六角家の領地であった頃の地図にはその場所は記されていなかったのだ。 この場所がここ数年のうちに偶然に出来た物なのか、それとも別な理由があるのか定かではない。 だが問題にすべきなのは、大軍が一度には無理でも数回に分ければ軍勢が徒歩で渡河可能な場所が肥田城の割と近くにあると言う事実なのだ。
そこで彼は監視の為に甲賀衆を数人だけ、その場所に常駐させている。 その結果、この場所を浅井勢が知っていると本多正信は推測していた。 その理由は至極簡単であり、監視の期間中に六角家の者ではない者達を甲賀衆が見止めたからである。 その者達は遠藤直経の家臣であり、高野瀬秀隆から情報を受けた彼の命を受けて周辺の探索をしていた者達である。 まさか彼らも監視の目があるとは思っていなかった為、件の場所を見付けると早々に主たる遠藤直経の元へと戻ってしまったのだ。
それが、戦の始まる少し前の事である。 そして遠藤直経はその情報を持って、少数精鋭による敵本陣への奇襲という献策を浅井長政にしたのであった。
「……つまり正信は、近いうちにその場所へ浅井勢が現れると言うのだな」
「はい。 それ故、その場所に罠を仕掛けます。 近在へ隠れる様に兵を伏し、浅井勢を待ち受けるのです」
もし懸念通りに浅井勢が現れれば、それらを討てばいい。 逆に現れなかったとしても、その場所に兵を配した事が無駄となる訳でもなかった。 どのみち、危険と思われる箇所に兵を派遣するのは当然の処置である。 そう考えれば、齎される結果がどちらに転んだとしても六角家が不利になる訳ではないのだ。
「……つまりそこに兵を伏せておけば、どちらにも対応できる。 正信はそう言いたいのだな」
「はっ。 敵が来た場合にはこれを迎撃し、出来うる事ならば敵将を討ち取る。 例えその場に浅井勢が現れなかったとしても、兵を駐屯させた事に意味が出ます」
「どちらであっても、我らに損はないか」
「御意」
「分かった、正信の策でいこう。 となれば、誰をそこへ向かわせるとするかだが……」
そこで言葉を切った義頼は、ぐるりと諸将を見まわす。 やがて彼の視線が、一人の男を見て止まった。 義頼が目を止めたの者とは、与力衆筆頭である馬淵建綱である。 彼であれば、力量は申し分はない。 また馬淵建綱は、自分の判断で臨機応変に対応できる男でもあった。
やや流動的な対応を迫られる事となるであろうこの部隊を率いるのに、彼であれば過不足などない。 だからこそ義頼は、馬淵建綱に白羽の矢を立て様としたのである。 しかし彼が口を開く間に、本多正信が別の者の名を進言した。 その彼が上げた名は、義頼筆頭家臣となる蒲生定秀である。 馬淵建綱に任せる気となっていた義頼であったのだが、本多正信が敢えて定秀の名を上げた事が気に掛かる。 そこで取り敢えず自分の考えを飲み込むと、義頼は理由を問い質すのであった。
「正信。 何ゆえに、定秀なのだ?」
「経験、実績。 それを鑑みれば、藤十郎(蒲生定秀)様が一番適任でありましょう」
「それは分かるが……「殿。 此処は弥八郎(本多正信)の言う通りにすべきかと」……定秀?」
まさか当の蒲生定秀が賛成するとは思ってみなかった義頼は、思わずと言った感じで問い掛ける。 すると彼は、義頼に一つ頷いてから言葉を続けた。
「拙者も、齢六十を優に越えております。 既に還暦を迎えておりますれば、いつこの命が尽きてもおかしくはありますまい」
「……それで?」
「はい。 従って、まだ体が動けるうちに次代を育ておくべきかと」
「それは定秀。 お前の後釜が、建綱だとそう言いたい訳だな」
「はっ」
義頼はじっと、嘗ては自分の傅役であった男の目を見た。
そこにあるのは、酷く真面目な眼差しである。 それであるが故に義頼は、蒲生定秀が本気である事を理解してしまった。 彼は溜息を一つ吐くと、今一度馬淵建綱を見る。 それから彼に対して、口を開いた。
「だ、そうだ。 建綱、そなたはどうなのだ?」
蒲生定秀の考えは、あくまで彼個人の考えであると思われたのだ。
少なくとも、事前に意見のすり合わせをしている様には感じられない。 いわば勘みたいなものであったが、間違いはないだろうと確信していた。 するとそれは間違いなかったらしい、蒲生定秀より指名された馬淵建綱は面を喰らっていたのである。 もし事前に示し合わせて居れば、その様な態度を彼が取る理由が無いのだ。
それは兎も角として当の馬淵建綱であるが、確かに始めは目を白黒させていた。 だがその状態を直ぐに脱すると、蒲生定秀へと近づく。 それから彼の手を取った馬淵建綱は、はっきりと宣言したのであった。
「藤十郎殿! そのお役目、我が家名に掛けてお引受け致します」
「頼むぞ」
「承知致した」
二人は金打ちをして、その言葉に嘘偽りが無い事を誓い合う。 その言わば儀式とも言える時が過ぎると、二人はどちらともなく微笑みを浮かべた。 それから程なく、蒲生定秀と馬淵建綱は自らの席へと戻る。 それは、まだ軍議が決した訳ではないからだ。 やがて二人が床几に腰を下ろすと、本多正信が義頼へ改めて問い掛ける。 彼は一つ頷くと、この軍議における最終的な判断を下すのであった。
「定秀。 そなたは兵を率いて、件の場所へと向かえ。 それと、重友と一豊を連れて行ってくれ」
「殿! 何故にございますか!!」
「そうです! 伊右衛門(山内一豊)殿の言う通りです!」
義頼の言葉を聞いて、馬廻り衆を務めている寺村重友と山内一豊の二人から抗議の声が上がる。 その抗議に対して義頼は、両名へ名前を上げた理由を告げた。 その理由とは、簡単に言えば教育である。 無論、彼ら二人だけと言う訳ではない。 義頼としても馬廻り衆には、一廉の将として戦場に立って貰いたいのだ。
だが、いきなり戦場へ放り出すと言うのも乱暴な話である。 それで上手く行けばいいが、大抵は失敗すると思われた。 何より、その巻き添えで死ぬであろう兵が哀れである。 そうならない様にする為に義頼は、先ず二人を蒲生定秀に付けて派遣して将について学ばせる事を考えたのだ。
何より蒲生定秀は、義頼の将としての師の一人である。 その意味でも彼に頼むと言うのは、義頼の中では既定路線であったのだ。
「いいな、一豊に重友。 定秀より、確りと学んで来い」
『……承知しました』
「まぁ、浅井勢が来なければ、暇になるだろう。 だが、それもまた経験として考えるのだ」
『御意』
寺村重友と山内一豊は、不承不承ながらも義頼の命を了承した。
そんな二人に対して頷くと、義頼は蒲生定秀に二人の事を頼む。 主君からの頼み事に彼は、一も二も無く受け入れたのであった。
その後、蒲生定秀は、一時的とはいえ旗下の者となる寺村重友と山内一豊へ視線を流す。 その強い視線に、思わずと言った感じで両者が小さく体を震わせた。
「さて。 一豊に重友。 手加減などはせぬから、そう思え!」
『の、望むところです』
少し声が震えた両名であったが、それでも確りと蒲生定秀へ返答していた。
この後、軍議が終了すると命を受けた三人は急ぎ兵を纏める。 そして宇曽川からやや離れた場所を、別動隊の軍勢と共に進む。 やがて件の場所近くまで到達すると、連れて来た兵と共に三人は伏せたのであった。
その様な事が起きていたとは露知らず、宮部継潤率いる浅井家の別動隊が前述した様に現れたのである。 彼らはそのまま渡河を開始したが、蒲生定秀も寺村重友も、そして山内一豊も動かなった。
いや。
正確に言えば、寺村重友と山内一豊は動きたくて仕方が無いと言った雰囲気を醸し出している。 しかしながら主君たる義頼より蒲生定秀からの号令に従う様にと釘を刺されており、そのお蔭もあって二人は焦燥感すらも漂わせていると言うのにじっと耐えて待っているのだ。
そしてその蒲生定秀であるが、傍から見れば何もしていない様にも見える。 だからこそ寺村重友と山内一豊が焦燥感を覚えたのだが、それは間違った認識だと言える。 むしろ蒲生定秀は、他の者より真剣に渡河している浅井勢を見詰めていたのだ。
つまり、彼は機会を待っていたのである。 兵法書にも「敵が水を越えて来たら、これを水中にて迎えずに半ばを渡らして後にこれを撃て」とある。 蒲生定秀は、その策を実践していたのだ。
やがて敵である浅井勢の半数ほどが渡河した頃、満を持して蒲生定秀は率いる別動隊に突撃の命を下す。 すると寺村重友と山内一豊は、待っていましたとばかりに槍を振りかざしながら旗下の兵を引き連れて浅井勢へと奇襲を掛けたのであった。
まさかの不意打ちを受けた浅井勢は、酷く混乱をきたしてしまう。 しかしその中にあって宮部継潤は、何とか兵の統制だけは行っていた。 その働きもあって、この様な不利な状況の中でも浅井勢は瓦解してはいない。 しかし敵から不意打ちを受けたという衝撃は大きく、終始押されている有様であった。
更に敵勢を率いているのは、蒲生定秀である。 義頼の父親である六角定頼が六角家当主であった頃より六角家の重臣として幾度となく浅井勢と干戈を交えた男の存在は、見えない圧力となって彼らにのしかかっていた。
「くぅ! 流石は定秀。 手強いっ!」
宮部継潤は何かを振り払うかの様に、声を張り上げながらも指揮を取り続けていた。
彼としても、簡単に負ける訳にはいかないのである。 今が不利な状況なのは重々承知であるが、そう易々と勝ちを敵に譲る訳にはいかないのだ。
しかし同時に宮部継潤は、このままでは何れ押し切られるともどこかで考えていた。 やはり、不意打ちを受けたのが理由としては大きい。 その為、勢いが完全に敵に持っていかれている状況にあり、これを取り返すのは至難の業と言えたからだ。
その様に内心では焦りを覚えている宮部継潤に対し、近づく者がいる。 それは、高野瀬秀隆と彼の息子に当たる高野瀬隆景であった。
「善祥坊(宮部継潤)様! ここは、我ら親子で敵を食い止めます。 その隙に兵を纏め、急ぎお引き下さい!」
「そなた、殿として残ると言うのか?」
「御意! 此度、我が愚息が高野瀬の家名に泥を塗りました。 その汚名を返上させる機会、我らにお与え下され!!」
「お願い致します! 善祥坊様!!」
懇願と言っていい言葉を吐く二人を、宮部継潤は見た。
そんな高野瀬秀隆と高野瀬隆景親子を少しの間だけ見詰めていたのだが、その後、彼は蒲生定秀率いる六角勢の別動隊と矛を交える前線へと視線を投げ掛ける。 そこは相も変わらず劣勢な状況が展開されており、何とか戦線を維持しているだけと言う様相を呈していたのである。 その様な前線を僅かの間だけでも見た宮部継潤は、再度視線を高野瀬秀隆と高野瀬隆景へと戻す。 それから彼は、確りと高野瀬秀隆の肩を掴むと声を掛けたのであった。
「良いか! 無駄死には許さん。 生き残る事は、決して恥などでは無い。 生きるからこそ汚名も返上できるし、名誉も挽回出来るのだ!! 決して、死に急ぐ出ないぞ」
「は、ははっ」
宮部継潤の言葉を聞き、高野瀬秀隆は大きく頭を下げる。 するとその傍らで、息子の高野瀬隆景もやはり頭を下げている。 そんな二人に後を任せると、宮部継潤は踵を返す。 そして最後の一線で何とか瓦解せずに保っていた味方の兵を纏めあげると、撤退に入ったのだった。
こうして殿として戦場に残った高野瀬秀隆と高野瀬隆景の親子は、自家の兵三百と決死隊として殿へ組み込まれた兵三百、合わせて六百の兵と共に蒲生定秀の軍勢へ突貫を開始する。 正に必死の覚悟を持つこの兵を相手に、六角家の兵は今までとは逆に押され始めていた。
すると、この変化を蒲生定秀は敏感に感じ取る。 それから前線より戻させた寺村重友と山内一豊へ、聞かせる様に言葉を漏らしていた。
「……流れが変わったな」
「御家老様。 変わったとは?」
「分からぬか、二人とも」
蒲生定秀に声を掛けた山内一豊も、そして彼の脇に居る寺村重友も頷いている。 そんな彼らに対して蒲生定秀は、凡そ戦場に居るとは思えないくらいな優しい目を二人に向けると浅井勢と干戈を交えている前線を指し示したのだった。
「敵の勢いを見よ。 堪えていた先程までと違い、明らかにこちらを押し始めている」
「…………確かに」
「言われてみれば、そうですな」
寺村重友と山内一豊は、蒲生定秀から指摘されて漸く敵勢の様子があからさまに変わった事に初めて気付く。 そんな二人の様子を見た後、蒲生定秀は更に言葉を続けた。
「それだけでは無い、敵の士気も異様なぐらい高まっておる。 この様な者達と真面にぶつかるのは、いたずらに兵の損失を増やすだけだ」
「では如何にすれば宜しいのですか?」
「簡単だ、伊右衛門。 真面にぶつからなければよいのだ」
質問をぶつけた山内一豊もそして彼の隣に居た寺村重友も、蒲生定秀の返答に戸惑った。
確かに、最もな言葉かも知れない。 だが、敵と相対している以上ぶつからないという発想が分からないのである。 頭の上に疑問符を幾つも上げている二人に対し、蒲生定秀は「見ておれ」声を掛けた。
それから彼は、伝令を出す。 蒲生定秀の命を受けた伝令は、指示を伝えるべく後方へと赴いた。 すると程なくして、後方で控えていた後詰が動き始めた。
彼らは大きく迂回すると、前線の脇へと出る。 そして間髪入れずに、浅井勢へと躍り掛かって見せる。 しかしながらその攻勢は、とても本気とは思えない節がある。 はっきり言えば、攻めると言うよりからかう、若しくは相手を小馬鹿にした様な攻勢であったのだ。
これには、一部の浅井勢が激昂した。
なまじり決死の覚悟を持ち殿として残ったにも拘わらず、相対する敵がこの様な態度なのである。 彼らから怒りが湧くのは、ある意味で当然と言えた。
だが高野瀬秀隆は、慌てて兵を落ち着かせようとする。 殿は、味方が撤退するまで敵を引き付けるのが役目である。 その事を考慮すれば、積極的に打って出るなど行うべきではないからだ。
しかし彼の行動は、一足遅かった。 浅井勢の一人の将が、旗下の兵と共に六角勢へ突撃を仕掛けたのである。 ここで突撃したのは、河瀬秀宗と言う犬上郡の国人だった。
蒲生定秀はそんな敵の動きをみると、凶悪な笑みを浮かべる。 その直後、彼は突出した河瀬秀宗に対して攻撃を仕掛けた。 しかしながら攻勢は、ただの一度きりだけである。 その後、蒲生定秀は早々に兵を引かせていた。
そんな敵の動きに対し河瀬秀宗は、光に誘引された虫の様に追撃を開始してしまう。 すると、六角勢を今まで押し返していた浅井勢の勢いが見るまに減退した。
「ご家老様、これは?」
「言ったであろう、真面にぶつからねばいいと。 敵を誘引して、各個撃破すればいいのだ」
元々浅井勢は、六角勢に比べて少ない兵力を士気の高さで補っていたのである。 しかし蒲生定秀の策により誘引された一部の兵が前線より抜けた為に、各各の士気の高さで補える限界を越えてしまったのだ。 その上、ここに来て当初は六角勢に押され続けた事を原因とする兵の疲れも浅井勢を後押しする。 その様な情勢を目の当たりにした高野瀬秀隆の脳裏には、死と言う不穏な物がよぎり始めた。
だが正にその時、高野瀬秀隆へ朗報と言うべき情報が飛び込んで来る。 それは、退いた宮部継潤の事であった。 何と、彼と彼が率いた兵達が、無事に対岸へと到着したと言う知らせだったのである。 であるならば、いつまでもこの場に残り続ける理由など彼らには無かった。
だからと言って、直ぐに撤退という訳にはいかない事情がある。 高野瀬秀隆としては直ぐ撤退に入りたいところなのだが、それを行ってしまうと河瀬秀宗を見捨てると言う事に他ならない。 幾ら殿であったとしても、出来るだけ将兵は連れて戻りたい。 しかし敵に誘引され完全に孤立してしまった河瀬秀宗の部隊を助けるとなれば、味方に相応の被害を覚悟しなければ自明の理でもあった。
助けたいと言う思いと一刻も早く撤退をと言う思いの間で高野瀬秀隆は、少しの間だが逡巡する。 しかし彼は頭を一つ振ると、意を決した。
「全軍、引け!」
高野瀬秀隆は、河瀬秀宗を見捨てる決断をした。
息子の高野瀬隆景に兵の統率を命じると、彼は最後尾にて蒲生定秀の兵と相対する。 見捨てる事を命じた最後の責任として、河瀬秀宗の最後を見届ける為であった。
もしかしたら自分も討たれるかもしれないと思いつつも最後尾に残った高野瀬秀隆であったが、彼は正直に言うと拍子抜けとなっている。 想像したよりも軽い攻勢しか、敵よりされなかったからであった。 とは言え、犠牲が出ていない訳でもない。 あくまで比較の問題でしか無く、味方は相応に損害を被っている。 かくて高野瀬秀隆は、それなりの犠牲を払いつつも宇曽川を越えて撤退を成功させたのであった。
だが何ゆえに、六角勢からそれほど攻撃されなかったのか。
それは、蒲生定秀が執拗な追撃を命じなかったからである。 彼に取って、この浅井家の別動隊を抑えられればそれで目的を達した事になる。 つまり更なる戦果を上げる事に、必要性を感じ無かったのだ。
だが、まだ若い寺村重友と山内一豊には不満がかなりあるらしい。 両者の顔には「納得できない」と、ありありと書いてあったのだ。
「ふむ……不満がありそうだが、無論訳はあるぞ」
「ならばお聞かせ下さい」
寺村重友が少し刺々しい言葉で、蒲生定秀へと迫る。 すると彼は、やんわりと諭した。
蒲生定秀が執拗な追撃を命じなかった最大の理由は、河瀬秀宗にある。 彼としては、例え少数であったとしても敵を残しておくなど埒外であったからだ。
「ですがあの少数であれば、問題無く一蹴できる筈です」
「若いな、重友。 世には「窮鼠猫を噛む」と言う諺もある。 下手に追い詰めると、思わぬ痛手を被ることにもなりかねん」
「……それはそうかも知れませぬが……」
「何より我らの役目は、ここを抑え味方本陣を護る事にある。 この大前提を放り投げ敵を追撃し、万が一にも隙を突かれて本陣が急襲されたらそなたら、何とする気だ?」
この言葉に、寺村重友と山内一豊はぐうの音も出なかった。
蒲生定秀の言う通り、彼ら別動隊に命じられたのは恐らく現れると予測された浅井勢の阻止である。 決して、敵の全滅を命じられた訳ではないのだ。 こうして、完全に勝ちが見えた事で、そもそもの目的を忘れた両名はうなだれるばかりである。 そんな寺村重友と山内一豊に対して、蒲生定秀は言葉を続けたのであった。
「そなたらはまだ若い。 わしと違い、まだ幾らでも手柄を立てる機会はあろう」
『…………』
「それに、今でも手柄は立てられるぞ」
『えっ!?』
蒲生定秀の言葉に、寺村重友と山内一豊は驚きの表情を浮かべる。 そんな二人に対して蒲生定秀は、静かに命を出すのであった。
「その方らに命じる。 未だ抵抗を続けるあの一隊のところに行き、降伏を勧めるのだ」
『降伏……ですか』
「そうだ降伏だ。 いいか。 何も敵を討ち滅ぼすだけが、手柄の立て方では無いのだぞ」
『分かりました!』
敵の降伏を促す様にと命じられた寺村重友と山内一豊は、馬首を揃えて未だ絶望的な抵抗を続ける河瀬秀宗の近くまで赴く。 それから河瀬秀宗へ、降伏を勧告した。
元々彼らは、死中に活を求めて抵抗していたと言っていい。 いわば河瀬秀宗も含めて、生き残る事に必死であったのである。 そこで呼び掛けられた降伏勧告であり、河瀬秀宗は藁をもすがる思いで了承した。
彼らは全員捕縛され、河瀬秀宗の兵は肥田城へと移送されて行く。 ただし、大将の河瀬秀宗だけは義頼の前へと連れて行かれた。
そこで河瀬秀宗は、義頼から自らの家臣となる様に説得を受ける。 彼は目を瞑ると、暫くの間だが考えに耽った。 どの道、浅井家に戻ったところで恐らく懲罰を受けるだろう事は想像に難くない。 ならば、ここで六角家に付くのも悪くはないと考え、義頼の説得に応じたのである。 此処に河瀬秀宗は、義頼の家臣として六角家の禄を食む事となった。
その一方で撤退した宮部継潤であるが、腕に包帯を巻いた状態で浅井長政に事の経緯を説明していた。
なお、この傷は中々に深く、今の宮部継潤は満足に片腕を動かす事が出来ないでいる。 しかし安静にさえしていれば完治するとのお墨付きは得ているので、それだけが不幸中の幸いであった。
更に言うと、この場には高野瀬秀隆も居ない。 彼は撤退に臨んだ際、味方と合流した直後に何処からともなく飛んで来た矢から息子の高野瀬隆景を庇った為、宮部継潤以上の重傷を負ってしまったのだ。 そんな重傷者に報告させるのは流石に忍び難く、浅井長政は高野瀬秀隆に対して治療に専念する事を申し付けていた。
「して継潤。 確かに、待ち伏せを受けたのだな」
「はっ。 拙者が率いる兵達は、渡河するべく川を渡っておりました。 やがてあと少しで川を渡り切るというところまで進軍したその時、定秀の奇襲を受けたのです」
「そうか、分かった……継潤に隆景、ご苦労であった。 勝ち負けは兵家の常、あまり気に病むな」
「しかし!」
「隆景。 もし思うところがあるのなら、次の戦で晴らせばよい。 いいな」
「……ははっ」
宮部継潤は少し蒼ざめた顔で、高野瀬隆景は悔しさに体を振るわせながらも本陣より出る。 両名の姿が消えると浅井長政は、傍らに控えていた遠藤直経へ問い掛けた。
主君から問われた彼は、目を瞑りしばらく思案する。 やがて目を開けると、自らの考えを主へ伝えたのであった。
「……どうやら義頼の家臣には、中々の知恵者が居る様です。 善祥坊殿が待ち伏せを受けたと言う事実、これが何よりの証左と言えまする」
「知恵者か、厄介な……しかしその様な者が義頼の近くに居ると言う事は、これ以上の戦果を期待する時間は最早ないか……」
「不本意ではありますが、そう考えた方が無難ではありましょう」
淡々と答えている遠藤直経だが、そんな彼の顔は微妙にひきつっていた。
その浮かべている表情こそ、彼の心情を表していると言って良いだろう。 そして浅井長政はと言うと、彼は遠藤直経の顔を見つつもどう六角家との戦を幕引きするかについて考えているのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




