第百六十話~人質の帰還~
第百六十話~人質の帰還~
観音寺城下に存在する六角館、その敷地内に建築されている庵風の茶室。 その茶室では、既に準備が整っていた。
茶頭を務める事になる道意(松永久秀)は、既に茶室内にて客を待っている。 また義頼は、館にあって客の到着を待っていた。
後は、客である織田信長と彼に同行する筈となっている嫡子の織田信忠。 それと、織田家重臣の丹羽長秀の到着を待つだけであった。
さて館に居る義頼だが、彼は自室に居て信長一行を待っている。 一行が到着前に報せが入る手筈となっているので、主君を出迎え損ねる心配はなかった。
それから程なく、六角館の入り口である門に一人の男が現れる。 風体としては、際立った特徴などない普通の武士であった。
その武士に向って、門番の一人が何用かと誰何する。 するとその武士は、用向きをその門番へと告げた。
彼の言葉を聞いた門番は、一人を残して慌てて館の中へと入って行く。 丁度その時、門番は玄関で館から出て来る井伊頼直に出くわした。
慌てている様子の門番に、彼は何があったかを尋ねる。 その門番は、慌てながらも正直に彼へ詳細を話した。
実は義頼の館を訪れた者とは、客として来る信長一行の先触れの使者だったのである。 だから門番も慌てて知らせようとし、そこで彼は幸いな事に前述通り頼直に出くわしたと言う訳であった。
門番より使者の話を聞いた頼直は、使者に対応する為に門へと向かう。 同時に門番には、義父である義頼へ報せる様に命じた。 すると門番は、命を履行するべく走っていく。 そんな門番を少しの間見た後、頼直は門の外で使者と相対したのであった。
その門番だが、彼は直後に水口正家に出会う。 義頼の小姓を務める正家は、使者の来訪を告げるにはうってつけの相手であった。
当然の様に門番は、使者の来訪と今対応しているであろう頼直の事を告げる。 彼より話を聞かされた正家は了承すると、門番へ職務に戻る様にと告げた。
すると彼は、一つ頭を下げると踵を返す。 そんな急ぎ戻っていく門番を追う様に、正家が館の玄関へ向かう。 やがて到着した玄関にて、頼直に会う事が出来た。
そこで正家は頼直に尋ねると、信長一行がもう少しで到着する旨を伝えられる。 その報告に正家は頷くと、そのまま義頼の元へと向かった。
そんな彼のすぐ後ろには、頼直も続いている。 程なく二人は、義頼の自室の前に到着した。
「殿。 先触れの方が参りまして、大殿が間もなく到着との事にございます」
「分かった」
自室でじっと信長一行の到着を待っていた義頼は、使者来訪の報せに了承の返事をすると立ち上がる。 そして部屋を出ると、廊下に控えている正家と頼直を認める。 部屋の外に二人居る事は気配で分かっていたが、その一人が頼直であった事に少し驚いた様な表情をした。
「頼直までどうした」
「殿。 次郎(井伊頼直)様が、使者の対応をされましたのです」
「おお、そうか。 ご苦労であったな、頼直」
「はい。 義父上!」
褒められた事が嬉しいのか、頼直は嬉しそうに返事をする。 そんな義息を微笑ましいと感じながら、温かいま眼差しを向けた。
それから義頼は、正家に視線を向ける。 そして彼に、お圓の方と鶴松丸を玄関まで連れて来るようにと命じた。
公務ではないとはいえ、仕える主君が館を訪れるのである。 家族一同揃って向かえるのは、当然である。 但し、妊娠中のお犬の方は流石に外した。
やがて館の玄関に義頼、お圓の方、井伊頼直、鶴松丸の四人が揃う。 すると間もなく、信長一行が六角館に現れた。
義頼達は、平伏して信長一行を出迎える。 程なくして館の玄関へと到着した信長は、そんな彼らに声を掛けたのであった。
「おう。 出迎え大義」
「ははっ。 殿、若殿、五郎左(丹羽長秀)殿。 よくぞお越し下さいました」
「うむ。 邪魔するぞ」
それから信長一行は、義頼の案内で茶室へと向かった。
六角館の庭に建てられた庵は四畳半程の広さを持つ部屋を中心に作られているので、問題なく信長と信忠と長秀と案内役の義頼が入る事が出来る。 彼らが中に入ると、そこには道意が佇んでいた。
そして当然の様に、古天明平蜘蛛の茶釜もある。 部屋に入った信長の視線は平蜘蛛に釘付けとなったが、流石にそこで止まる様な事は無かった。
そんな信長の姿に、義頼と長秀は苦笑を浮かべる。 そして信忠は、不思議そうな顔をしていた。
父親が平蜘蛛を所望している事は知っていたが、それだけである。 有り体に言えば、彼には信長の示した反応が未だによく理解できていないのであった。
それはそれとして、やがて全員が着座すると道意が茶を入れ始めた。
千宗易や津田宗及といった者達からは茶人として一つ落ちると言われる事もある彼だが、それでも武野紹鴎の弟子である。 その腕前は決して、彼らに引けを取る物では無い。 あまり茶席の経験が無い信忠をして感心しているのだから、その腕前は推して知るべしであった。
やがて茶席も恙なく終わりを迎えると、義頼達は茶室より出て客間へと移動した。
そこで義頼は、角倉了以より贈られた南蛮からの菓子を出す。 館に集った長岡藤孝らや、その翌日に訪れた浅井長政へ出した物とはまた違う菓子であった。
「ほう。 南蛮菓子ではないか」
「はい。 ちょっとした伝手で手に入れましたので」
「そうか。 俺のところにも同じ物を宗久の奴が送って来たわ」
宗久とは堺の商人で、今井宗久の事である。 そして彼は信長が上洛すると、間もなく信長に近づいた男でもあった。
その宗久だが、彼は信長が上洛後に要求した矢銭二万貫に対しても、反対する堺の会合衆を仲介し纏め上げて要求を受け入れさせている。 その様な経緯もあってか、信長は宗久を重用していた。
「なるほど。 宗久ならば、可能でしょう」
「であろうな……うむ、中々だな」
「ですね、父上」
信忠も、信長の言葉に賛同した。
彼も宗久から信長へ贈られた南蛮の菓子を共に食べた事があるので、義頼が出したカルメラを初めて食した訳ではない。 それ故に忌避感などは無く、信忠は美味そうに食していた。
因みにこの中で、一番驚きを表しているのは長秀である。 流石の彼も、南蛮の菓子など殆ど食した事が無いからだ。 そんな長秀の様子に小さく笑みを浮かべた信長であったが、視線を長秀から道意へと向ける。 すると、彼に対してある意味定番とも言える件を尋ねていた。
それは、古天明平蜘蛛に関してである。 前述した通り信長は幾度となく道意へ平蜘蛛を譲る気はないかと尋ねているが、ただの一度も道意が首を縦に振る事は無かった。
信長としても、力に任せて強引に取り上げると言う事も出来るならばあまりしたくはない。 であるからこそ、未だに平蜘蛛の所有者は道意なのだ。
この信長の申し出を道意が断るという風景は何時も通りであり、信忠も長秀も何か言う事はない。 それは義頼も同じ筈であったが、今回に関しては何時もと違っていた。
「殿! 今更ですが、道意は某の家臣です。 それは取りも直さず、殿の家臣であると言う事に他なりません!!」
義頼本人が言った様に、本当に今更である。 その至極当たり前の言葉に、信長も信忠も長秀も道意も呆気にとられていた。
「…………当り前であろう。 それがどうした」
「なればこそ、道意の持ち物は殿の持ち物と同義であると某は考えます」
その言葉に、義頼が何を言いたいのか信忠以外の者は理解した。
要は仲介である。 幾ら名器であったとしても、何時までも信長の頼みを断り続けると言うのは織田家中的に宜しくはない。 そこで義頼は、例え強引であったとしてもこの問題に幕引きをと考えたのだ。
前からある程度懸念していた事ではあったが、文言は殆どこの場での思い付きに近い。 それ故に穴だらけの展開だが、話す義頼は至って真面目であった。
その大きなずれを目の当たりにした信長と長秀と道意の三名は、思わず噴き出してしまう。 長秀と道意は肩を震わす程度に何とか留めたが、信長は遠慮なく大声で笑い声を上げた。
するとついに我慢が出来なくなったのか、信長の笑いに引きずられる様に長秀と道意も笑い声を上げてしまう。 義頼の言葉の意味が良く分かっていない信忠と、笑われている事が理解出来ない義頼は思わず顔を見合わせていた。
「くはははは。 義頼、笑わせてくれる! のう、長秀に道意」
『ははっ』
まだ声に笑いを残しながら、二人が信長に同意する。 流石に義頼も流す事は出来ず、二人に対して思わず抗議の声を上げた。
「ちょ! 五郎左殿! 道意っ!!」
「まぁ怒るな、義頼」
「ですが殿!」
「落ち着け。 それはいいとして義頼、正直言ってその方の言葉は詭弁よの」
信長の言葉に、義頼は俯きながらもぐっと唇を噛みしめる。 確かに多少は強引だと自覚しないでもなかったが、まさか詭弁とまで言われるとは思ってもみなかったのだ。
「だが、このカルメラとその方の珍妙な態度に免じてその言葉、受け入れてやろう」
「殿っ!」
珍妙な態度とは何を指すのか分からなかったが、それでも信長が受け入れてくれた事に義頼は頭を上げる。 そんな彼の表情には、大きな喜色と若干の困惑が見て取れた。
そんな二つの感情が綯い交ぜとなった義頼の顔を見て、信長は再度笑みを浮かべる。 しかし先程と違い、笑い声は上げなかった。
それから信長は、表情を引き締めると道意へと視線を向ける。 すると道意も笑みなどは浮かべおらず、酷く真面目な表情と雰囲気となっていた。
「さて道意……いや松永久秀よ。 義頼の言葉に相違はあるか?」
「……いえ、ございません。 大殿」
道意も此処まで来れば、義頼が何を考えて先程の様な言葉を吐いたのか理解出来る。 間違いなく自分の事を考えての行動であり、その言葉と行動を無碍にする事は出来なかった。
「なればその方……いや代々松永家に伝えておけ。 俺や織田家当主が所望したら、何時いかなる時も平蜘蛛を持って馳せ参じろとな」
「は、ははっ!」
「それからその事、久通にも確りと言い含めておけ。 茶の腕も含めてな」
「御意」
道意が亡くなるなど何らかの理由で馳せ参じる事が出来なければ、彼の代理は松永家現当主の松永久通が勤めなければならないという事になる。 道意は既に齢六十を越えている事から、何時何時久通が受け継いでもおかしくはないのだ。
それに久通は父親の影響もあり茶を嗜むが、道意と違い茶頭を行えるほどの腕は持たない。 彼が道意の役目を継げば、今度は久通が茶頭を勤めなければならないのだ。
そんな彼が今のままで茶頭を勤めたら、織田家も松永家も恥をかく事になる。 その様な事態となれば、先ず間違いなく松永家が取り潰されるのは考えるまでも無い。 それ故の信長の言葉であった。
「ですが殿、宜しいのですか?」
「構わぬ、長秀。 それに松永家も、裏切る気などはないのだろう? のう、道意」
「む、無論にございます。 拙者も久通も……否! 以降歴代の松永家が、織田家を裏切るなどあり得ませぬ」
やや慌てた様に、言葉を返した道意を見てよほど面白かったのであろう信長は笑い声を上げた。
「はははは……だそうだ、長秀」
「分かりました。 殿が納得であれば、拙者から言う事はございません」
「うむ」
長秀に一言返すと、信長はカルメラを一口齧るのであった。
なお、これ以降信長が道意に対して古天明平蜘蛛の譲渡に関しては何も言わなくなる。 しかしその事に反比例するかの様に、道意が平蜘蛛を持参して信長の茶室に行く事が今まで以上に多くなったのは事実であった。
何はともあれ、古天明平蜘蛛の件について一応の決着が得られた事に義頼は内心で安堵する。 その様に気持ちが落ち着くと、彼は別に信長に対して許可を得たい事があった事を思い出していた。
それは、近江衆の人質などを集めて行っている新年を祝う宴である。 今年は信長が近江国へ移動した事もあるので、近江衆も集めて行うつもりであったのだ。
人質と人質を出している家の者を、新年を祝う宴と言え一つに集わせるのである。 信長の許可が必要なのは、少なくとも義頼の中では絶対と言ってよかった。
かくて義頼は、数日中に新年の宴を開く許可を得る為に信長へ話し掛ける。 すると話を聞いた信長は、人を喰った様な笑みを浮かべながら義頼の申し出を却下した。
「そうですか……ならば別々に行いますので、それぞれのお許しを得た「そう言う事ではない」い……は?」
「宴を開く許可は出す、合同で行う事もな。 しかし、数日中に行う事は止めよと言っているのだ」
「そ、それは如何なる意味なのでしょうか」
「まぁ、直に分かる。 それまで待っておれ」
「はぁ……」
何とも言えない様な表情のまま頷いた義頼は、視線を長秀へと向ける。 しかし彼も全く与り知らぬ事であり、ただ首を振って否定するのであった。
その時、彼の視界に信長と似た表情をしている信忠が入る。 信長ほどではないにしても何処となく似た感じがあり、彼らが実の親子である事を酷く納得させられる絵面であった。
しかしそれでも義頼は信長へ理由を尋ねたが、彼は待てと言うだけである。 その様子にこれ以上聞いても答える気はないのだと確信した義頼は、そこで尋ねるのを止めた。
それから暫く、五人は義頼の出した南蛮の菓子を摘まみながら雑談に興じる。 それは彼らに取り、久し振りとも言える気を張る必要のない楽しい時間であったと言う。
やがて菓子も無くなると、信長は席を立ち上がり安土城へ帰り支度を始める。 義頼自身は信長を送って安土城まで行くつもりだが、道意や義頼の家族は流石にそこまではしない。 義頼以外の者達は、六角館の門で信長一行を見送ったのであった。
六角館を出た一行は、義頼と追加された護衛の者と共に安土城へと向かう。 そして安土城二の丸にある表御殿に到着すると、そこで信長から労いの言葉を掛けられたのだった。
「ご苦労だった長秀、義頼。 下がってよい」
『はっ』
丹羽長秀と共に義頼は、表御殿を出る。 そこで大きく伸びをした後、義頼は長秀を屋敷まで送り届けた。
とは言え長秀も温厚であるが、同時に鬼の名を関する猛将でもある。 義頼自身も決して弱くはない事を考えれば、護衛を連れての送迎などとても過剰な戦力と言えた。
「何か仰々しいですな、右少将(六角義頼)殿」
「そう言われますな、五郎左殿」
「ま、悪い気はしませんが」
程なく到着した長秀の屋敷の前で別れた義頼は、安土城を出る。 そのまま六角館へ、戻っていくのであった。
それから一週間程した頃、信長の言葉の意味が漸く分かる事となる。 それは義頼以下近江衆が集められた表御殿の広間で、信長が宣言した事であった。
「そなたら、近江国人の人質を返す。 以上だ」
信忠と共に広間に入って来た信長から、開口一番出た言葉がそれであった。
一瞬、しんと静まる広間。 やがてさざ波の様に、近江衆がざわざわとし始める。 そんな広間の様子を、信長と信忠はただ見ていた。
やがて彼らの中で最も信長に近い男であり、同時に織田家重臣でもある男が確かめる様に尋ね返す。 その者は、言うまでもなく六角義頼であった。
「と、殿。 近江国人の人質を返すと言われましたが、真にございますか!?」
「ああ義頼、そう言った。 聞いていなかったのか?」
「あ、いえ。 無論聞いておりました」
「ならば、聞き返すなど必要はなかろう。 そもそも、俺がこの安土に居るのだ。 人質を取る意味など、ないだろうが」
言われて見れはその通りであった。
近江衆や近江国人が本拠地や本貫地を持つ近江国に、以降信長が居続けるのである。 その上、近江衆や近江国人の当主達が、今後はその信長に近侍する事になる。 これでは人質を取っていても、あまり意味など無かった。
いや、むしろ彼らを織田家が囲うだけ経費の無駄である。 そう考えて信長は、近江国人より取っていた人質を返す事にしたのだ。
「それは……確かに」
「それから人質だが、数日中には全員戻す。 分かったか」
『はっ』
彼らの返事を聞くと信長は、一つ頷いてから信忠を伴って広間を出て行く。 すると間もなく、表御殿の広間に近江国人から歓喜の声が上がったのであった。
六角家が勢力を張っていた江南を織田家に攻め取られて以来、彼らは人質を出し続けていたのである。 その人質が帰って来るのだから、その喜びは一入であった。
その様に喜びに溢れる近江国人の中には義頼がいる。 彼とて、兄弟同然に育った甥の六角義治を人質として岐阜へ置き続けていたのだから当然であった。
その様に暫く喜んでいた彼らであったが、やがて義頼が落ち着く様にと言葉を掛ける。 それから近江衆へ、一つの用件を告げたのだった。
「さて、新年の宴だが、人質となっていた者達が戻ってから行うおうと考えているがどうだ?」
「無論にございます! 皆で喜びを分かち合いましょう!!」
そう言ったのは、義頼が近江国内に不在の間は近江衆を取り纏める役に付いている蒲生賢秀である。 彼としても、この人質返還は実に嬉しい物であるから喜びは尚更であった。
だがその理由は、義頼を含む他の近江衆とは少々異なっている。
実は近江国人の人質で、彼らより一早く実家へ返されている者がいる。 それは、信長の娘婿となった蒲生頼秀であった。
普通ならば近江国人から贔屓だと妬まれかねないのだが、彼は信長の娘婿という立場になっている。 その為、これはこれで仕方が無いと大半の近江国人から思われていた。
その様な経緯もあって蒲生家は、近江国人の人質返還を何よりも喜んでいる。 しかし同時に、内心では味方より妬まれる要素が減った事に胸を撫で下ろしていた。
さて喜びに沸くのは致し方ないとしても、何時までもこの場に居ると言う訳にはいかない。 慶事は慶事として喜びを噛みしめながらも近江国人は、三三五五固まって自らの家に戻るのであった。
その後、一週間も経ずして、彼ら近江国人の人質達が六角館に到着する。 多少の時が掛かった理由は、彼らが未だ岐阜に居たからである。 流石に屋敷など完成していない棟もある事から、人質の移動はそれらが完成した後と当初の予定ではなっていたからだ。
彼ら近江国人の人質達を率いているのは、六角義治である。 元六角家当主である事から、信長から丁度いいとばかりに任されたのであった。
過去の【観音寺騒動】などからあまり近江国人に受けが良くはない彼ではあるが、義治が六角宗家の人間である事は間違いない。 それに軍事行動とかではなく彼ら人質達を率いての移動でしか無いので、表だった不満も現れてはいなかった。
最も任命したのが信長であるのだから、誰も文句などが言える筈もないのだが。
「戻ったか」
「はっ。 ただいま、戻りました」
「ご苦労だった」
「御意」
公務の場所であるからか、義治は馴れ馴れしい態度を取らずあくまで臣下の様な態度で義頼へ対応する。 その義頼も彼と同様に、家臣へ相対する様な態度で接していた。
義治に声を掛けてから義頼は、彼の率いて来た人質達に声を掛けて行く。 例え時間を掛けてでも義頼は、彼ら人質となっていた者達全てに労いの言葉を掛けたのであった。
人質となっていた者達全てに対して言葉を掛け終えた義頼は、半月後に彼らの帰国祝いを兼ねた新年の宴を開くと告げる。 その言葉に彼らは、漸く故郷に戻ってこれたのだと言う事を実感したのであった。
帰国した元人質達を出迎えに六角館を訪れていた者達が、家族を連れて領地へと戻っていく。 義頼と大原義定、それと六角義治は最後の一人が視界から消えるまで見送った。
それが終わると三人は、連れ立って安土城へと向かう。 人質であった者達が到着した報告を、信長へする為だ。
報告自体は到着翌日でも構わないのだが、彼らは敢えてその日のうちに行う事にしたのだ。
信長への面会を進言した彼らは、表御殿の控えの間にて待機する。 信長も忙しい男であり、幾ら義頼が織田家重臣と言っても直ぐに会えるかどうかは運次第なところがあった。
幸いな事にこの日は割と仕事が詰まっていなかったらしく、半刻も経たないうちに義頼と義定と義治は信長と面会する。 そこで義治が、安土到着の報告をしたのであった。
「大殿。 我ら、無事に安土へ到着いたしました」
「うむ。 義治大義」
「はっ」
「これからは、義定と共に義頼の下で励め。 では、下がってい良いぞ」
「御意」
僅かな時間で対面も終わり、信長は義頼達へ退出を命じた。
彼らも報告ぐらいしか無いと考えていたので、素直に従って部屋から退出する。 表御殿から出ると、義治は安心でもしたかの様に大きく息を吐いた。
そんな彼の態度に、義頼と義定は顔を見合わせていた。
「旅で疲れたか? 義治」
「そうではない。 いや、それもあるが、大殿との面会も終わり役目が終わったと思うと安心しただけだ。 一息つけたと」
「ああ。 分かります兄上」
幾度か信長と面会している義定だが、彼も厳密には織田家陪臣である。 織田家重臣である義頼と違い、そう何度も信長と会える関係にはない。 その為か、義定は信長に気圧される事は多くはないが何度かあった。
義治が緊張に近い状態にあった理由も、滅多に会う事が無い織田信長と間近に会う事実が大半を占めていたと言っても過言ではない。 幾ら岐阜城下に居ようとも、彼は人質でしか無かったのだ。
義頼に用事があり偶々近くを通ったというならばまだしも、普段であれば信長が岐阜の六角屋敷に訪問する事などまず無い。 だからこそ義治も、信長と対面する事に慣れていた訳では無かったのだ。
その一方で義頼は、幾度となく対面している事もあり二人より遥かに慣れてしまっている。 最も初めから気圧された様子などは見受けられなかった事から、その意味で義頼は彼らより図太い神経をしていると言えた。
「ふーん。 そんな物か?」
『ああ、そんなもんだ』
兄弟で声を揃えて言葉を返してきた事に、義頼は首を傾げる。 だがそれ以上、彼がその事に触れることが無かったので自然と話は立ち消えていた。
やがて彼らが六角館まで戻ると、義治が玄関で大きく息を吸う。 それは何かを確かめる様な仕草であり、義頼と義定はまじまじと義治を見ていた。
「何だよ、二人とも」
「いや。 何をしているのかと」
義頼の言葉に、義定も頷いた。
そんな二人の対応を見て、義治は小さく苦笑いを浮かべる。 それから自分が取った行動の理由を、口にした。
彼が行った事は、いわば確認である。 嘗ては数年ほどであったが、館の主となった事もある我が家であった。 それに、約六年振りの帰宅である。 その我が家に流れる空気を大きく吸い込む事で、義治は漸く帰って来たと実感できたのだ。
それには、義頼も義定も同意する様に頷いた。
義頼は元服後、六角家が織田家に降伏するまで六角館から離れている。 そして義定も、一時は大原家に養子縁組していたからこそであった。
その後は、酒をゆっくりと嗜みつつ久し振りに三人は多いに語らう。 それは、数年間離れていた溝を埋めるかの様であった。
その翌日から、三人は精力的に動き始める。 六角家主催の宴であるからか、本来祝われる側である筈の義治も義頼と義定を手伝ったのだ。
こうして彼ら三人は、限られた時間の中で東奔西走する。 今月中には安土城と観音寺城の工事も再開するので、義頼としてはそれまでに終えておきたいのだ。
そこで義頼は京の角倉了以や堺の今井宗久らに頼み、山海の珍味を出来る限りで揃えさせる。 そして義頼達自身も、出来る範囲で行うのであった。
こうした彼らの努力も実り、何とか満足する形で宴の日を迎える。 六角家主催の宴は、現当主の義頼の口上から始まった。
「その方達。 長きに渡る人質、大変にご苦労であった。 そこでささやかだが、そなた達の帰国を祝う宴を執り行う。 出来うる限り、酒も肴も用意した。 大いに飲み、そして喰らい騒いでくれ!」
『ははっ!!』
こうして始まった宴会であるが、義頼と義定は改めて労いの言葉を掛けるべく彼らを順繰りに回っていく。 だが義治は、二人と同じ行動を取る事はなかった。
しかし彼も再建中の石馬寺や人質での生活で相当変わっており、始めは共に行おうかと義頼と義定へ提案している。 それを義頼と義定が今回は祝われる側だからとやんわりと断ったので、義治は宴会を楽しむ側に回っていたのであった。
因みに余談であるが、この宴会においても義頼は酔いはしたが潰れるまでには至っていない。 人質となっていた者全てと酒を酌み交わしたにも拘らず酔い潰れる事無く逆に幾人かは酔い潰したという事実は、彼のうわばみ伝説に新たな項目を残す事になったのであった。
近江国人の人質、各家に戻されました。
それと、平蜘蛛の決着を着けてみました。
ご一読いただき、ありがとうございました。




