第十三話~対陣~
第十三話~対陣~
磯野員昌や日夏安芸守の軍勢と合流を果たした浅井長政は、一度高野瀬城へと入っている。 そこで城主の高野瀬秀隆や、彼の二男である高野瀬景隆の軍勢を加えると宇曽川に向けて進軍を再開したのであった。
その短い過程において、浅井長政はある事を考える。 それは、六角家の対応の早さであった。
後に【六角式目】と呼ばれる様になるこの分国法制定における六角家中の不穏さにつけこんで、浅井長政は軍勢を動かす決断をしている。 その情報が齎された際、六角家が兵を集めていると言う情報は無かった。
と言う事は、どう考えても六角家が軍勢を集めたのは自分達より後の筈なのである。 しかして実際は、先に六角家が兵を集め終えただけでは無く、彼の家の軍勢が肥田城まで進軍しているのだ。
つまり、そこには何か秘密がある。 その秘密について、浅井長政は思考していたのだ。 その様な主の様子に、すぐ近くに居た者が不審気な顔をする。 その者の名は遠藤直経と言い、嘗ては浅井長政の傅役も務めた男である。 要は、義頼における蒲生定秀の様な存在であった。
「如何なされました、殿」
「ん? いや何。 六角家の軍制について考えていたのだ」
「六角家の軍制……にございますか」
「ああ」
そう遠藤直経に答えてから、浅井長政は自らの頭の中で考えていた事について伝える。 主よりその考えを聞かされると、彼は一瞬だけだが驚きを表す。 同時に、浅井長政の考え自体には頷き同調していた。
実は遠藤直経も、六角家の素早い対応には懸念していたのだ。
横山城で六角家の軍勢が肥田城を落としたと報告された時、彼は思わず自分の耳を疑ったぐらいである。 もしあの時、先に浅井長政が声を張り上げていなければ、もしかしたら自分が主と似た様な動きをしていたかも知れない。 その様に考えたからこそ、遠藤直経も六角家の動きが素早い理由について考えを巡らしたのだ。
しかし、未だ答えは出ていない。 そんな時、浅井長政から自分と同じ事を考えていたと聞かされたのである。 遠藤直経が驚きを表したのも、主の考えに同調したのも当然と言えた。
「拙者も、それは考えました」
「直経もか」
「はい。 恐らく、我らとは違う軍制を取っているのでしょう」
いみじくも遠藤直経の言った通り、六角家の軍制は他家と違う面があった。
それは完全な形ではないが、兵農分離をある程度の段階だとは言え導入している面にある。 観音寺城に六角家家臣や近江国人が屋敷を持っていると言う理由の一つもそこにある訳だが、それ故に他家に比べると兵を集めるなどに関して迅速な動きが可能であったのだ。
なお義頼が早々に兵を集められた理由だが、これは六角家の軍制とは別の理由も存在している。 それは義頼が、長光寺城主となった理由でもあった。
と言うのも、義頼が長光寺城主となった理由は主に二つ存在しているのである。 一つは、湖南地域に領地を持つ近江国人に対する重石であった。 独立独歩とまでとは言わないが、割と独立意識の高い近江国人を抑える為に彼は配置されている。 幾ら独立意識が高い者達であったとしても、やはり六角宗家の者が領地の近くに居ると言う事実は大きかったのだ。
そしてもう一つは、湖南地域へ侵入して来る敵を迎え撃つ事にある。 その事を証明するかの様に、義頼が長光寺城主となると彼に付けられた与力衆は領地に戻されている。 この配置は主に対三好家を想定しての事であった訳だが、先の三好長逸侵攻は正に面目躍如と言えた。
その様な理由、主に二つ目の理由からだが義頼は、敵の侵攻等による緊急時以外でも自分の裁量において軍勢を集める事を六角家当主より付託されていたのであった。 勿論、報告の義務はある。 しかし、六角家当主の許可を得てからしか兵を動かせない訳ではない。 だからこそ義頼は、浅井家に先んじて兵を整え肥田城へ進撃出来たのであった。
因みにこの配置に関してだが、実は義頼の預かり知らぬところでちょっとした悶着を起こしている。 当初六角家の一部の重臣が、この義頼の配置と待遇に危惧を覚えたのだ。 実際、彼らは当時六角家当主であった六角義治や彼の父親で義頼の兄に当たる六角承禎に対しても進言を行っている。 しかしながら六角承禎や六角義治は、進言は進言として聞いたがそれだけであった。
そんな二人に対して多少の不満を覚えた彼らであったが、配置された後に義頼が挙げた実績により危惧を覚えた一部の者達もその考えを下げざるを得なくなってしまう。 結果、義頼は自らが意識しないうちに己に抱かれていた危惧を払拭していたのであった。
そんな六角家の内情はひとまず置いておくとして、話を戻す。
浅井長政も遠藤直経も、自家とは違うと思われる六角家の軍制に興味を持ったのは事実である。 それ故、浅井長政の口から洩れた言葉は素直な彼の気持であった。
「我らと違うか……先々の為にも知っておきたい事ではあるな」
「そう……ですな。 ですが今は、目の前に集中した方が宜しいかと」
「まぁ、そうだな直経」
浅井家は、これから六角家と矛を交えるのだ。
全軍の指揮を取る総大将が別の事に囚われて気もそぞろでは、全体の士気に影響が出かねない。 だが、それでは困るのだ。
その点を指摘した遠藤直経の言葉を理解したからこそ、浅井長政は苦笑を浮かべつつも同意したのである。 彼が更に言葉を続けようとしたその時、先鋒を任せている磯野員昌からの伝令が到着した。 その内容は、宇曽川への到着と陣立ての開始である。 その伝令に対して慰労の言葉を掛けてから、浅井長政は遠藤直経に向き直った。
「話はここまでだ」
「はい。 戦の後にでも、続きは致しましょう」
「うむ」
遠藤直経へ言葉を返すと、浅井長政は意識を切り替えた。
それから程なく、義頼率いる六角勢が陣取る宇曽川の対岸に浅井家の旗印である三つ盛亀甲がたなびく。 それは即ち、浅井長政の到着を知らしめるものであった。
宇曽川に着陣した直後、彼は早速川岸近くにまで赴き対岸を見る。 するとそこには、既に陣を展開している六角家の陣があった。 当然ながら、浅井の軍勢を出迎えた六角家の軍勢を率いるのは義頼である。 そんな敵陣を、浅井長政はじっと眺めた後で傍らに居る遠藤直経へと声を掛けたのであった。
「さて……直経、如何に攻める」
「そうですな……やはり先に陣を張られた為、攻めどころが限定されています。 と言うか、ほぼ穴がありません」
「お主の目から見てもそうなのか」
「はっ。 正直に申しますと、あの男がこれほど陣立てが上手いとは思ってもみませんでした」
何とも言えない曖昧な表情を浮かべたまま、遠藤直経は敵陣を眺めて己が抱いた感想を主へと伝えた。 だが彼の感想は、正しいが同時に間違いとも言える。 六角家の陣を構築したのは、義頼ではなく本多正信なのだ。 はじめは自分で行おうとした義頼だったのだが、その時に本多正信が陣立てを進言する。 彼の話を聞き、より強固な陣が完成しそうだと判断した。
その事に若干の悔しさを覚えない訳でもなかったが、事は味方の命も掛かっている。 そこで義頼は、筆頭家臣の蒲生定秀へ意見を聞いた。 こと経験と言う分野において、彼を越える者など義頼の家臣にはいない。 と言うか、義頼の家臣は基本若い者で構成されているので、彼の様な存在は実に貴重なのだ。
それ故、老練な将である蒲生定秀に尋ねた訳だが、彼の口からも正信の陣立てに対して否定の言葉など出ない。 いやむしろ、感心している様な節もある。 そこで義頼は、本多正信の陣立てをほぼそのまま受け入れ任せたのであった。
「だがよくよく考えてみれば、義頼が先に陣を張っているのを見るのは初めてだ。 四年前の時は蒲生定秀であったし、先年は我らの方が早かった」
「そう言えば、そうでしたな」
「まぁ、陣立てでも侮れないと言う事が分かった。 それはそれで収穫としよう」
「はっ」
遠藤直経の返事を聞きつつ、浅井長政は宇曽川の対岸を見つめ続けていた。
その翌日になると、義頼率いる六角家の陣が少し騒がしくなる。 その理由は、馬淵建綱率いる後発部隊が肥田城に入ったからだ。 此処に来ての援軍であるから六角家軍勢が多少沸き立ったと言う訳だが、結果から言うとそれだけである。 此の援軍が切欠となる様な動きが、戦線に出る事は無かった。
しかし、馬淵建綱到着から数日経ったある日、ある事態の報告が義頼と浅井長政に齎される。 それは琵琶湖上で起きた六角水軍・堅田衆連合水軍と、昨年の琵琶湖西岸での戦の後で新たに浅井長政が設立した浅井水軍との間に行われた合戦の結果であった。
その急報を記した書状を読んだ浅井長政の顔色は、かなり悪くなる。 傍に居た遠藤直経は不審に思ったが、差し出された書状を見て主と同様に彼もまた顔色を悪くした。
「……まさか我が方の水軍が一方的に打ち破られた挙句、水軍大将が行方知れずだとは」
正に驚愕の表情を浮かべながら、遠藤直経は知らず知らずのうちに言葉を漏らしていたのであった。
さて、その戦が起きたのは、つい先日の事である。
義頼が肥田城へ攻め入る前、長光寺城を出陣する際に六角水軍と堅田衆へ出陣を促した事は前述している。 この依頼に従い、六角水軍と堅田衆は連合して浅井攻めに参加する事になる。 しかし、六角水軍と堅田衆が別々に動いては効率が良くないのは自明の理であった。
また、もし別々に動き夜にでも遭遇したら、同士討ちとなってしまう可能性も否定できない。 そこで六角水軍を率いる駒井秀勝と彼の息子である駒井重勝、そして堅田衆を率いる猪飼昇貞は誰が総大将となるかについて話し合いを行った。
「さて御両名、どうなされるか?」
猪飼昇貞は、そう駒井秀勝と駒井重勝に話を切り出した。
すると昇貞に話し掛けられた駒井重勝は、目を瞑り黙っている父親とそして猪飼昇貞を交互に見る。 流石にまだまだ若い彼は、自分が連合となる水軍を率いる事ができるとは考えていなかった。 まだ六角水軍だけならば、可能かも知れない。 しかし堅田衆もとなれば、水軍全軍を十全に生かせると言い切る自信が無かったのだ。
となれば、総大将は自分の父親である駒井秀勝か猪飼昇貞が務める事となる。 そして、彼らの持っている経験は、どちらも甲乙がつけがたい。 それ故に、駒井重勝はどちらがなるのかと少し不安気に両者を見比べていたのだ。
その時、駒井秀勝が閉じていた目を開く。 そして猪飼昇貞に目を向けると、問われた事に対する答えを告げたのであった。
「総大将は、貴公に頼む」
「……良いのか? この戦は六角家と浅井家の戦であろう」
「それ故に、貴公へ頼むのだ」
六角水軍も捨てたものではないが、やはり琵琶湖を最もよく知るのは堅田衆であった。
時には湖賊ともなる彼らだが、基本は運送業である。 常に湖上へ船を出している者達であり、そこで得られる琵琶湖に対する知識は隔絶していると言って良かった。
そして駒井秀勝としても、負け戦に臨む気はない。 だからこそ、彼は猪飼昇貞に連合となる水軍の総大将を頼んだのだ。
その様に申し出た駒井秀勝の目を、じっと猪飼昇貞はみ続ける。 そんな二人の間に緊張ともとれる張り詰めた空気が暫く流れていたが、やがて唐突に猪飼昇貞が口を開いた。
「……相分かった。 総大将の件、しかと引き受けた!」
こうして六角水軍・堅田衆連合水軍を率いる事となった猪飼昇貞は、直ぐに相手となるであろう浅井水軍の動きを探る為に幾つも堅田衆の船を琵琶湖上に派遣した。 湖上の運送を生業としている堅田衆に対して、どの様に極秘に行おうとも水軍を隠し遂せる筈もない。 当然、彼らは浅井水軍の存在を知っていたのだ。
因みに六角家も、浅井水軍の事は知っている。 だが情報においては、秘匿されていた事もあり堅田衆には落ちる情報しか入手できていなかった。
何はともあれ、連合水軍が放った水上の物見は琵琶湖を南下する浅井水軍を発見する。 彼らは遠巻きに決して近づかなかったので、浅井水軍もまさか物見とは思わず見逃してしまったのだ。
そしてこれが、浅井水軍の明暗を分ける事となった。
「美作守(駒井秀勝)殿、八右衛門(駒井重勝)殿。 そなた達は、如何に思う?」
物見から報告を受けた猪飼昇貞は、早速駒井秀勝と駒井重勝に問い掛けた。
すると暫く考えてから駒井秀勝が、浅井水軍は恐らく竹島の東側を通るであろうと推察する。 この意見には猪飼昇貞も同じ考えであり、両者の考えが一致した事でまず間違いないであろうと言う事になった。
相手の動きが分かれば、後は如何に迎撃するかである。 その時、駒井重勝が二人に自分の思い付きを告げた。
「では、如何でしょう。 水軍を分けると言うのは」
『水軍を分ける?』
「はい。 一隊は堂々と進み、竹島近くで浅井水軍を迎え討ちます。 そしてもう一隊は、竹島を隠れ蓑にして戦場を迂回します。 その後、浅井水軍に横撃を仕掛ける! と言うのは如何かと……」
駒井重勝の策を聞き、猪飼昇貞と駒井秀勝は頭の中で大体の動きを考えてみた。
そこから齎された結果は、決して悪いものではない。 いや、即座に思い付いたとしては上等とも言える策であった。
「ふむ……悪い手では無いな。 美作守殿はどう思う?」
「そうですな。 愚息にしては、良き手かと」
父親の愚息扱いに、駒井重勝は少し機嫌が悪くなる。 するとそんな彼を見て、猪飼昇貞と駒井秀勝は小さく笑みを浮かべた。 この程度の言葉で機嫌が悪くなるなど、まだ若いと思えたからである。 更に言えば、昔の自分もそんな感じであったのだろうかと言う思いも、無きにしも非ずではあったのだが。
「父上! 甚介(猪飼昇貞)殿!!」
「いや、すまぬ。 別に馬鹿にした訳ではない、許されよ八右衛門殿。 それはそれとして、貴公の策を実行に移そうと思う」
「真ですか!」
「うむ。 そこで別動隊だが……」
そこで一度言葉を切った猪飼昇貞は、駒井秀勝を見る。 総大将を任せた者からの視線を受けた駒井秀勝は一つ頷くと、確りと息子の目を見つつ告げたのであった。
「別動隊は、そなたが指揮しろ」
「え?……宜しいのですか?」
「無論だ」
父親から間髪入れずに肯定された駒井重勝は、思わずと言った感じで連合水軍の総大将である猪飼昇貞べ視線を向ける。 すると彼は、力強く頷く事で返答とした。 そんな二人の仕草から嘘ではないと確信した駒井重勝は、思わず喜びの声を上げる。 しかし、そんな浮かれている息子へ駒井秀勝は、いっそ厳粛とも言える雰囲気を醸しつつ注意を促した。
「良いか。 次の戦は、そなたの率いる別動隊次第で如何様にも変わる。 その事を心に留め、確り働くのだ。 良いな!!」
「ぎ、御意!」
この後、六角水軍・堅田衆連合水軍は兵を二つに分ける。 全体の三分の二を猪飼昇貞と駒井秀勝が率いてそのまま竹島へと向かう。 そして残りの三分の一は、少し距離を置いて駒井重勝が率いたのであった。
やがて猪飼昇貞と駒井秀勝が率いる連合水軍の主力が、竹島近くへと到着すると程なくして浅井水軍も同地に現れる。 旗印を見ればお互い敵と分かるので、彼らは躊躇う事なく湖上に船を展開する。 そして暫く睨み合いの後に、連合水軍と浅井水軍が激突した。
この場に居る両軍勢の兵力はほぼ互角であり、その事を証明するかの様に戦の様相は一進一退を繰り返していたと言っていい。 しかも浅井水軍にとってこの戦が浅井水軍の初陣と言う事もあり、彼らの士気は上がっていく。 しかしながら彼ら浅井水軍には、この状態が相対する敵によって造られた状況であるとは流石に思い至らなかった。
それに気付けたのは、竹島の影から正体不明の船団が現れた時である。 その一団を見た浅井水軍を率いる安養寺猪之助や副将の入江小次郎は、思わず顔を見合わせた。
しかし両名共に、彼の一団には心当たりが無い。 だがやがて見えて来た旗印に、両名は一団の正体を見抜いたのであった。
と言うのも、船団には駒井氏の旗印である藤の丸が掲げられていたからである。 慌てて対応をと思った二人であったが、その動揺を相対していた猪飼昇貞と駒井秀勝に突かれてしまった。
敵の動きが乱れた事を見取った彼らは、一気に攻勢を強める。 総大将の命で今まで十全に戦えず溜めていた鬱憤を晴らすとばかりの攻勢を見せる六角水軍・堅田衆連合水軍に、浅井水軍の動揺は更に広がった。
直前まで互角に戦えていたと言う事実が、この動揺を助長したと言える。 そこに駒井重勝率いる連合水軍の別動隊から、浅井水軍は横撃を受けたのだ。
敵船団を貫けとばかりの勢いで仕掛けられたこの一撃は、戦場での趨勢を決めるに足る一撃であったと言える。 その事を証明するかの様に浅井水軍は完全に船団を分断されてしまい、最早彼らは軍隊としての体を成していなかった。
「今こそ、敵を喰らい尽くす! 全軍、総攻撃ー!」
『おおーー!!』
間髪入れずに猪飼昇貞から総攻撃を命じられた六角水軍・堅田衆連合水軍は、一斉に浅井水軍へと押し寄せる。 既に軍の体を成していない浅井水軍に取り、この一撃は重すぎる一撃であった。
あっという間に敵勢から蹂躙され、あちこちで討ち取られていく。 全体の兵数で負け、そして勢いも敵に取られた浅井水軍としては逃げるしか手はない。 安養寺猪之助も入江小太郎も水軍を把握するなど無理であり、二人も逃げる事に必死となるしか無かった。
此処に勝敗は決し、浅井水軍は六角水軍・堅田衆連合水軍に敗北したのである。 後にこの戦いは、【竹島(多景島)沖の戦い】といわれるようになった。
さて、浅井長政にしてみれば浅井水軍は新進気鋭の部隊である。 その部隊が負け、更には水軍大将まで行方不明と聞いた浅井長政は狼狽えてしまったと言う。
そしてほぼ同じ頃、宇曽川の対岸にて陣を張る義頼の元にも【竹島(多景島)沖の戦い】の結果が齎されている。 だが彼は、この勝ちをほぼ確信していたので表情の変化はあまり見られなかった。 嘗て幾度となく干戈を交えた事もある堅田衆と六角水軍が、手を組んで敵を迎え撃ったのである。 幾ら新進気鋭の浅井水軍といえど、これは相手が悪すぎたのだ。
むしろ味方が負けたと聞いた方が、義頼も彼の近くに控えていた蒲生定秀も驚愕しただろう。 しかし結果は六角家側の想定通りであり、彼らが驚く事は無かった。
そんな彼らに取り当然の結果が書かれた報告を蒲生定秀に渡しつつ、義頼は川の対岸を見る。 そんな主君に対して蒲生定秀は、一言声を掛けたのであった。
「ところで、殿。 我らの水軍は上陸しましたかな?」
「しているだろう。 浅井水軍を撃破したら、浅井勢の後方を荒らす様に命じてあるからな」
そう。
実は連合水軍には、二つの任務があった。
一つは、浅井水軍の撃破である。 これは、首尾よくこなしたと言っていい。 そして今一つは、浅井の軍勢の後方を騒がす事にある。 そのもう一つの役目を果たすべく、浅井水軍を撃破した連合水軍は既に移動を開始していたのであった。
六角家側の大勝と言っていい【竹島(多景島)沖の戦い】から半月ほど経った浅井家本陣、そこで浅井長政は届いた伝令から聞いた内容に溜息を一つ付く。 それから伝令を下げさせると彼は、傍らに居る遠藤直経へと問い掛けた。
「これで何度目だ?」
「確か……五度目でしたか」
「五回。 それだけ襲われておきながら、有効な手立てが打てんのか」
愚痴とも取れる浅井長政の言葉だが、ある意味仕方が無かった。
琵琶湖上で起きた【竹島(多景島)沖の戦い】から二日程経った頃、安養寺猪之助と入江小太郎は岸に漂着しているところを発見されている。 その報告に安堵した浅井長政であったが、報告の続きに彼は眉を寄せていた。
と言うのも、両名共に中々に傷が深く、直ぐの復帰は無理だからである。 即ち、浅井水軍の再興が遅れるということである。 それは取りも直さず、六角水軍・堅田衆連合水軍の跳梁を許す事となったのだ。
「まあ、今さら愚痴を言っても仕方が無いか。 それよりも、これからどうするかだ」
「こう頻繁に襲われては、何れ採算が合わなくなります。 何より、田植えが後少しで始まります。 そうなれば兵の中から不平不満を言うものが出て来るでしょう」
浅井家の軍制では、基本的に兵は農民兵であった。
つまり農閑期ならばまだしも、農繁期には出兵がしづらい。 六角家の様に、ある程度でも兵農分離を進めて居ればその限りでは無かっただろう。 しかし浅井家は、その様な軍制を取っていなかったのである。 だからこそ、義頼に機先を制させれてしまったのだ。
「そうだな。 なれば、その前に兵を引いた方が良いか……しかし、一戦もせずに引くと言うのもな」
肥田城包囲戦、その後に起きた荒神山城への進撃と開城という戦いはあったが、基本的にこの二つの戦では争いと言える争いは生じていない。 唯一戦と呼べるのは、琵琶湖上で起きた【竹島(多景島)沖の戦い】であった。
またこの宇曽川でも義頼と長政は対陣しているが、ここでも遠矢による小競り合いが殆どである。 しかしその小競り合いも、どちらかと言えば六角家の方に軍配が上がっている。 これは、義頼も含めて日置流弓術の使い手が多い事が原因だった。
しかも、それだけでは無い。
前述したが、浅井勢は今も六角水軍・堅田衆連合水軍に後方を攪乱されている。 しかも猪飼昇貞と駒井秀勝と駒井重勝の親子率いる連合水軍は、迎撃の為にと慌てて浅井長政が繰り出した浅井勢と本格的な戦いになる前に素早く琵琶湖へ引き上げてしまうのだ。
これでは、如何ともしがたい。 味方の水軍が壊滅状態の浅井家では、湖上の敵へは対処のしようが無いのであった。
「ならば殿。 一戦、交えますか?」
「うむ。 ある程度の勝ちを収め、有利に事を進めたい」
「そうですか。 ならば、この様な物は如何でしょう」
そう言うと、遠藤直経は一つの策を浅井長政に進言した。
策を聞いた彼は、喜色を表す。 それから急ぎ、宮部継潤と磯野員昌を呼び出すと遠藤直経の策を両名に告げた上で実行へ移させたのであった。
その様な動きを見せた浅井家だが、無論義頼達が知る由もない。 しかし、意外なところで浅井家の動きを義頼は察知する事となった。 それは、遠藤直経が策を立てた数日後の事である。 六角勢の大将である義頼は、宇曽川の対岸にある浅井の陣を見ていた。
何故に今更その様な事をしているのかと言うと、本多正信から呼ばれたからである。 すると義頼は、共に来た蒲生定秀と共に対岸の浅井勢の陣を見ていたのだが、やがて二人揃って首を捻った。
それと言うのも、理由は分からないが敵陣に違和感を感じるからである。 しかし今まで何度か確認した敵陣と、さほど変わり映えはしていない。 だが、確かに二人は違和感を感じていたのだ。 だからこそ二人は、首を傾げているのである。 それは具体的には何かと言われても、答えられない為であった。
その様に主従揃って首を傾げていると、背後から近付いて来る気配を感じる。 そこで義頼が後方へ視線を投げかけると、そこに居たのは本多正信であった。
「正信か……それで、我らを呼んだ用とは何だ?」
「はい。 何かを、感じられましたか」
「ああ。 説明しろと言われても説明出来んが、確かに敵陣に違和感を感じる」
「拙者もですな」
義頼の言葉に、蒲生定秀も同意する。 そんな二人の答えを聞いた後、本多正信は正解を口にした。 その正解とは、炊煙の数である。 つい先日までと違い、浅井勢から上がる炊煙の数が明らかに多くなっているのだ。
そう本多正信から指摘された義頼と蒲生定秀は、改め敵陣を見る。 すると、彼が指摘した通り浅井家の陣から立ち上がる炊煙の数は前見た時より大分多いのである。 その事実から導かれる答えに至った義頼は、確認するかの様に本多正信へ尋ねていた。
「もしかして、長政は動く気か」
「恐らくは。 碌に戦も無く、後方は攪乱され被害も大きい。 それに何より、田植えの時期も近い。 これだけ浅井家側に不利な状態が揃えば、動かざるを得ないでしょう」
「そこまで分かっているのならば、対策は立てているのであろうな」
「無論でございます」
そう言うと本多正信は、主に対し己が策を耳打ちして伝える。 彼の策を聞いた義頼は、笑みを浮かべると直ぐにその場から離れたのであった。
「軍議を行う。 定秀、皆を集めろ」
「は? ははっ」
それから数日した後、正信が考え義頼が思い至った通り浅井勢は動いた。
それを見た義頼は、彼らに呼応する様に迎撃の手筈を整える。 暫く川の両岸で対峙していた両軍勢であったが、やがて焦れたかの様に浅井の兵が動き始めた。
浅井勢の先鋒は、磯野員昌が務めている。 その指示の元、浅井の兵は次々と宇曽川に入って行った。 そんな浅井勢先鋒の動きに対して義頼は、与力衆の一人である吉田重高に命じて矢を次々に放たせる。 日置流の使い手もかなり混じっている弓衆であるから、それ相応の命中度を誇る。 そんな弓衆の矢によって、浅井の兵は次々と討ち取られて行くのであった。
しかしながら、一向に浅井勢が止まる様子はない。 それを見て義頼は、手にした軍配を返す。 すると矢が止み、変わって坊主頭の者に率いられた数百人ほどの兵が宇曽川沿いに並んだ。
現れた数百人の兵は全員、手にした火縄銃を構える。 彼らの無駄のない動きに、鉄砲隊を鍛えそして率いる事となった杉谷善住坊は満足そうに頷いていた。
直後、彼は視線を渡河し続けている浅井勢に向ける。 それから腕を振りあげると、やがて掛け声と共に振り下ろした。 その号令に従い、一斉に数百の銃弾が放たれる。 それらの威力と辺りに響く轟音によって、僅かの間だが浅井勢の動きが完全に停止してしまう。 それを見て槍隊を率いる山崎賢家と、彼と共に援軍として六角高定から派遣された大谷吉房が声を張り上げた。
「突撃ー!」
この急襲によって、更なる被害が浅井勢に齎された。
その為、六角家と対峙する最前線は大きく押し込まれてしまう。 そんな味方の情勢に、浅井長政は苛立ち気に言葉を漏らしていた。
「直経、してやられた。 まさか、あれほどの火縄銃を揃えていたとは」
「拙者も同じです。 正直、あれほどの数は想定しておりませんでした。 日置流免許皆伝の義頼なので、弓に力を入れてるとばかり」
「それは俺も同じだ。 だが今は踏ん張る、策を成就させる為にもな」
「御意」
遠藤直経の返事を聞いた浅井長政は、視線を宇曽川の最前線から川の上流へと移した。
彼はやや上流を見た後、別動隊を率いて密かに水量が少なくなっている川の上流部から渡河している筈の一隊に思いを馳せる。 そしてこの別動隊こそが、遠藤直経が浅井長政に進言した策の肝である。 直経は本隊を囮として、別動隊による義頼の本陣急襲の策を立てたのだ。
「頼むぞ……継潤」
相手に聞こえる筈が無いのは分かっていたが、それでも浅井長政は一言漏らしてしまう。 だが、その祈りにも似た彼の願いに答えてくれる存在は誰もいなかったのであった。
ご一読いただき、ありがとうございます。




