第百五十話~【設楽ヶ原の戦い】決着~
第百五十話~【設楽ヶ原の戦い】決着~
滝川一益と内藤昌秀の戦いは、正に終幕を迎えんとしていた。しかして互いの様子は、当初とは全く異なっている。終始までとはいわないが、あからさまに滝川一益が押しているからだ。
それでも偶にではあるが、内藤昌秀も反撃している。しかしあくまでも稀であり、大半は滝川一益が攻勢を掛けていた。
もはや二人の戦いは、完全に一方的だといってもいい状況となっている。そのような状況の中にあった滝川一益が何を思ったのか、そこで攻め手を止めたのだ。
肩を激しく揺らしながらも大きく息をしている内藤昌秀であるが、この休める機会を逃さない。少しでも多く息継ぎをして息を整えつつも、より時間を伸ばそうと話し掛けた。
「な、何の……つもりか」
とはいえ、彼がここまで消耗している理由の大半は、皮肉にも彼の戦場での活躍にあった。
内藤昌秀が一人でも多く味方の将兵を生き残らせる為に八面六臂の活躍をしたというのは、前述している。しかしてその活躍こそが、彼から体力を奪っていたのだ。そこに来て「先駆けは滝川、殿も滝川」とまで称された彼との一騎打ちを演じているのだから、より体力を消費するのも当然であった。
無論、相対している滝川一益とて内藤昌秀と同様に体力は消耗している。内藤昌秀程ではないにしても、彼も肩で息をしているのがその証であった。しかし一騎打ちが始まった時点で既に疲労がある程度蓄積された状態であった内藤昌秀と、まだ疲れなど覚えていない状態から一騎打ちを始めた滝川一益である。どちらが先に体力が尽くのかなど、火を見るより明らかであった。
だからこそ滝川一益は、内藤昌秀に声を掛けた。このまま討ってしまうのも、確かに手柄の一つではある。しかし内藤昌秀は、失うのが惜しいと思える将である。それゆえに滝川一益は、内藤昌秀に生き残る機会を与えたのであった。
「もう、結果は見えておろう。降伏されよ、内藤殿。武田の副将とまで謡われた貴公であれば、殿も無下にはすまい」
「……真にそう思われるか、滝川殿」
「無論」
真面目な表情を浮かべたまま間髪入れずに返答した滝川一益に、内藤昌秀は微笑みといっていい穏やかな表情を浮かべた。何せ、敵から称賛されたのだ。自身の気分的にも、悪い話しではない。だからこそ内藤昌秀は、笑みを浮かべたのである。
だがその笑みも、僅かの間だけであった。そして、彼の表情から笑みが消えたかと思うと、次の瞬間、内藤昌秀の表情は一変していた。
「そうか、敵にも惜しいとそう思って貰えるのか……それで十分よ! 我は、内藤修理亮昌秀! 拙者が生きるも死ぬるも、武田の旗の元だけよ!!」
そう宣言すると内藤昌秀は、疲れが蓄積された自身の体にまるで鞭を打つように槍を横薙ぎする。それと同時に、彼は腹の底から吠えていた。その魂の叫びともいえる咆哮は、弩号と喧騒が渦巻く戦場であるにも関わらず不思議なぐらい響き渡った。
「……惜しい! 実に惜しいな内藤殿。だが、降伏をしないとなれば致し方ない。貴公の命、拙者が貰い受けてくれる。 来い! 内藤!!」
「応っ!」
それ以上は言葉など無用とばかりに、滝川一益と内藤昌秀がお互いに得物を構える。騒がしい戦場にしては不釣り合いなぐらい、僅かの間だけも辺りが静かとなった。しかしその静けさも、僅かな時間でしかない。二人の間を微かに風が流れたかと思うと、それを契機としたかのように内藤昌秀が走り出す。そんな彼の状態は、つい先程まで息も絶え絶えに呼吸をしていた男とは思えない確りした足取りだった。
そんな内藤昌秀を、滝川一益は槍を構えつつ微動だにせず静かに佇む。やがて自身の間合いに滝川一益が入ったと判断した内藤昌秀は、そこから突きを放つ。しかし滝川一益半身になることで、その槍による突きを避けていた。だが、彼の動きは避けただけでは止まらない。滝川一益は、何とすれ違いざまに、内藤昌秀の喉を貫き通したのであった。
「ご、ごぼっ(見事)」
喉が焼けるかのごとく熱く、上手く言葉にならない。そればかりか、内藤昌秀の口からはそれこそ溢れ出ると表現して憚らないぐらいに血が流れ出している。その状態では、まともな言葉が口から出る筈もない。その旨を自覚しつつ内藤昌秀は数歩だけ進むと、前のめりに倒れ込んだのであった。
「内藤昌秀……出来れば轡を並べて戦ってみたかったものよ」
前のめりに倒れ伏した内藤昌秀の遺体に手を合わせながら、滝川一益は彼を惜しみ賞賛の言葉を送るのであった。
その頃、森可成を辛うじて排除した馬場信春であったが、彼はふらつく足を叱咤しつつも先へ進もうとしていた。
無論、何も邪魔も無く敵陣の中で歩みを進められた訳ではない。馬場信春は途中で、幾人かには切りつけられていた。しかし彼は、その全てを一刀の元に蹴散らしている。そんな姿を見て、周りを包囲している織田勢は「本当に重傷を負っているのか」と攻撃を躊躇してしまった。
だからといって、いつまでも放っておくなどできない。彼らが決意も新たに切りつけようとした正にその時、気迫と気合の籠った一言が彼らを金縛りにさせたのであった。
「やめい!!」
味方を金縛りにしたのは、義頼であった。
そして当然ながら、彼の周りには馬廻り衆と藍母衣衆がいる。他にも、義頼の義息となる井伊頼直がいる。それから、京極高吉と京極長高の親子も同道していた。
「義父上! あの者の相手は、拙者にお任せ下さい!」
義頼へ向かってそう進言したあと、井伊頼直が武器を構える。しかし義頼は、首を横に振りながら腕で遮ることで義息の行動を阻害した。まさか義父から邪魔をされるとは思ってもみなかった井伊頼直は、思わず義頼の顔を見る。するとその顔は、酷く真面目な表情をしていた。
「頼直、下がっておれ! あの男は、命すら捨ててここまで到達したのだ。武士には、武士らしく相対せねば失礼ぞ!」
「……はっ!」
それから義頼は、藍母衣衆筆頭の北畠具教や馬廻り衆筆頭の藤堂高虎へ、この場まで辿り着いた数少ない武田勢を討つ命を与える。命を受けた二人は、藍母衣衆や馬廻り衆を率いて敵勢を討ち取っていった。
因みに武田勢の中には河原正良率いる真田の者もいたのだが、彼らも等しく討たれていた。
そして義頼はというと、愛用の打根を握りしめつつゆっくりと馬場信春へ近づいていく。やがて彼の手にする刀の間合いから少し外れている地点にで、立ち止まった。
「よくぞここまで辿り着いた物よ、しかもそれだけの傷を受けたにも関わらず。流石は鬼美濃といったところであろうか。のう中務少輔(京極高吉)殿」
「そうですな、右少将(六角義頼)殿」
義頼から問われた京極高吉が、頷きながら言葉を返している。そしてその後ろでは、息子の京極長高も頷いていた。そんな彼らを見つつ、馬場信春は億劫そうに口を開く。彼は痛みと出血から気が遠くなりそうな状態であるのだが、奥歯が粉砕してもいいぐらいに噛みしめることでまだ意識を繋ぎとめていたのだ。
しかし足元は、ふらふらとしておぼつかない。そして彼の上体も、ゆっくりとであるが左右に揺れていた。
「……皮肉……か、六角義頼」
「そのようなことではない。純粋に、驚き感心している。河内守(不破光治)殿を討ったそうだが、そのあとでも、誰かと戦ったのであろう。その相手すらも突破している男に、皮肉などという無粋な真似などせぬ」
義頼はまだ把握していないが、馬場信春の片腕が森可成の一撃により無くなっているのは前述の通りである。その片腕があったであろう場所を見ながら、義頼はさらに一戦したと予測して言葉を返したというわけであった。
そんな彼の目に、馬場信春をからかう色は一切ない。義頼の目にあるのはただ一つ、尊敬だけであった。
「そう……か……なれば、わしの目……的も分か……ろう」
「想像はつく。俺と殿、そうではないか?」
「そ……そうだ。ろっ……かく義よ……り、勝負だ!」
「いいだろう。ここで俺に討たれ、死して名を残すがいい鬼美濃!」
その言葉を契機として馬場信春はゆっくりと、そして義頼は素早く得物を構えた。周りの喧騒などまるで意に介さず、まるで二人だけの世界に入ったかの様に静かに対峙する。それから、どれだけ時間がたったであろう。否、もしかしたら数瞬の短い間かも知れない。長いのか短いのか分からない時が流れたあと、先に動いたのは以外にも大怪我を負っている馬場信春であった。
彼は義頼へ近づくと、片手で刀を振り下ろす。それは大怪我を負っているとは思えない、鋭い一撃であった。しかし、やはり彼は重体である。普段と比べたら、想像出来ないぐらいに刀を振り下ろす速度が足りない。そんな一撃など、よほどの奇襲か不覚を取っていなければ食らう筈もない。義頼は、馬場信春の攻撃など余裕を持って避けていた。
すると馬場信春は、何を考えたのか数歩ほど下がり距離を取る。それから、ひたと刀を構えると掛け声と共に踏み込んだのであった。
「おおおおおおお!」
腹の底からほとばしる雄叫びと共に、馬場信春は僅かな距離を走った。彼はそのまま刀を振りあげたかと思うと、振り下ろそうとする。それを見た義頼は、即座に手にした打根を振るって馬場信春の刀を受け止めていた。
その時、義頼は微かに驚きの表情を浮かべる。その理由は、今受け止めた馬場信春の一撃にあった。何せ、驚くほどに軽い。とてもではないが、鬼美濃の名を冠する男のものとは想像できない一撃である。そんな馬場信春の一撃に、義頼は目の前の男に残された時間はないのだと悟った。
すると彼は、馬場信春の刀を弾き相手の体勢を崩す。怪我もあり、彼はたたらを踏んでしまったのである。その瞬間、義頼は一気に踏み込むと懐に飛び込んだ。
馬場信春は体勢を立て直す間もあればこそ、急いで刀を手許に戻そうとする。しかしその動きは普段に比べれば緩慢であり、迅雷にも等しい義頼の踏み込みには間に合うものではなかった。
「食らうがいい!」
裂帛の気合と共に放たれた義頼の一撃は、正確に馬場信春の心臓を貫く。体ごとぶつかったかのような一撃に、義頼の操る打根の穂先はそのまま相手の背中にまで突き抜けていた。
「……み、見事な一撃よ」
「……」
「信長にまでは、と……届かなかったが……貴公であれば、我が最後に……相応しい…………信玄様……残念ながら……御傍には行けませぬ。拙者は、武田をま……守る鬼として武田家を……そして信勝様を……お守り致します……」
「さらばだ……馬場美濃守信春」
遺言とも取れる馬場信春の言葉を聞き届けた義頼は、最後に別れの言葉を掛ける。すると馬場信春は、小さく笑みを浮かべたあとで、そのままゆっくりと崩れる。義頼はそんな馬場信春の体を受け止めると、静かに地面へ横たえていた。
その後、微笑を浮かべながら事切れている彼の目をゆっくりと閉じさせる。それから手を合わせると、義頼は馬場信春の遺体へ言葉を掛けた。
「死してなお、鬼となるか……正に鬼美濃! 見事なり!!」
最上の賞賛の言葉を掛けた義頼は、それから打根を天にかざす。そして、戦場中に届けとばかりに声を張り上げた。
「馬場美濃守信春! 討ち取ったり!!」
彼の声は、届く限りの戦場へ響き渡ったのであった。
『何だと! それは真か』
「はっ」
馬場信春討たれるの知らせは、佐久間信盛と丹羽長秀と羽柴秀吉の三将と渡り合っている真田昌輝と甘利信康の二人にも届いた。
両者は互いに連携し、佐久間信盛と丹羽長秀と羽柴秀吉の三将を翻弄して釘づけにしていたのである。しかし、馬場信春までもが討たれたという知らせを聞き、このままでは敵に飲み込まれると二人は感じた。
因みに真田昌輝は根来衆の銃撃により手傷こそ負っていたが、致命傷という程でもない。というか、行動するに不便はない程度の傷でしか無かった。
「もはや、踏み止まるのは厳しいか」
「しかし、御屋形様が上手く撤退したのかどうかが分からぬ状態では……」
「だが、このままでは織田に飲み込まれるぞ」
敵勢力の織田勢の方が、二倍を優に超える兵数を揃えている。その状況下において戦場でぐずぐずしていれば、敵中に残されかねない。そうなっては、降伏か討ち死にするしかなかった。
「……む? あれは何だ?」
「あれだと?」
何かに気付いた甘利信康の言葉に、真田昌輝が後方を向く。一瞬敵に回り込まれたのかと警戒したが、やがて旗印が見えたところでその懸念も払拭される。その旗印は白地に裾赤で、それは一条信龍の旗印であった。
「右衛門大夫(一条信龍)様!」
一条信龍は始め本陣にあったのだが、武田信勝が撤退する際に味方の撤収を援護するようにと命じられたのである。そのお陰で、徳川から追撃された小山田信茂と川窪信実は一度徳川勢を追い返している。その後、改めて二人は撤退に入っていたのだ。
小山田信茂と川窪信実が撤退する手助けをした一条信龍は、それから北上する。しかし戦場中央部は乱戦となっており、手を出すのは中々に厳しい。そこで一条信龍はさらに北へと上り、真田昌輝と甘利信康の救援に馳せ参じたのであった。
ただ、馬場信春が討たれてしまったのは痛恨であったが。
「突撃ー!」
それは兎も角、一条信龍の号令一下、武田兵が佐久間信盛と丹羽長秀と羽柴秀吉に攻勢を仕掛ける。ここに来てまさかの援軍に、織田勢は動揺してしまった。そんな織田勢の様子を好機と見た一条信龍は、一気呵成に攻め立てる。兵数ならば断然に織田勢の方が多いのだが、一条信龍の勢いと味方の動揺の為に押し込まれてしまっていた。
これでは流石にまずいと判断した佐久間信盛と丹羽長秀と羽柴秀吉は、旗下の兵の体勢を立て直す為に一旦兵を引かせる判断をする。だがそれこそが、一条信龍の狙い目であった。そもそもからして、彼に勝とうという気がない。あくまで、真田信輝と甘利信康が撤退出来る時間を稼ぎたいだけである。一条信龍は、そこに生まれた隙をついて二人と共に武田信勝を追って撤退するのであった。
「お待ち下さい! これでは敵の思うつぼ。さらに攻勢を掛けてください!!」
しかしそこで声を張り上げたのは、竹中重治であった。彼は、一条信龍の攻勢が所詮一時的でしかないと見抜いていたのである。だからこそ留まるだけでなくさらなる攻勢を主張したのだが、兵の動揺が激しいのを見た羽柴秀吉は黙って首を振った。
「半兵衛(竹中重治)。そなたの目を信じない訳ではないが、今は不味い。このままでは、押し切られかねんのだ」
「ですが!」
「既に五郎左(丹羽長秀)殿も、そして右衛門尉(佐久間信盛)殿も兵を引かれている。分かってくれ」
羽柴秀吉の言葉に竹中重治は、何かを我慢するかのように奥歯を力一杯噛みしめた。
それから程なく、一条信龍の軍勢と合流した真田昌輝と甘利信康の軍勢は、竹中重治が指摘したように攻勢へ移ることなく、主の武田信勝を追って設楽ヶ原より撤退する。そしてそれは、設楽ヶ原に残っていた最後の武田勢の撤退でもあった。
織田信長の元に、次々と知らせ届いていた。
名だたる武田の将を複数討ち取っている知らせ自体は、喜ぶべきものである。しかし同時に、追撃の機会を失ったと彼は考えていた。それに徳川家康が、既に追撃に入っているという知らせも届いている。そこで追撃は徳川家康に任せるとして、織田勢からは半分ほど追撃に回すこととした。
「信盛を追撃の大将として、秀吉と光秀と一益を付けろ」
「はっ」
伝令が走っていく姿を、織田信長はじっと見つめる。 やがて伝令が視界から消えると、次の者へ別の命を出した。
「長篠城近くにまで移動する。そう信重と義頼と長秀に伝えよ」
「御意」
伝令が本陣より出ていくのを見届けた織田信長は、それから移動の準備を始めた。
やがて用意が整うと、茶臼山の本陣を引き払い出発する。茶臼山を降りたところで暫く待っていると、息子の織田信重が現れた。息子が率いる軍勢と合流した織田信長は、予定した場所への移動を再開する。間もなく、義頼と丹羽長秀の二人とも合流した織田信長は、長篠城近くにまで移動したあとで、そこに陣を構えたのであった。
その一方で、撤退した武田勢を追撃した織田・徳川の軍勢は寒狭川沿いに進んでいたのだが、橋詰と言う地で武田勢の殿として残っていた武田家臣の笠井秀満と会合してしまった。
そこで笠井秀満率いる軍勢と、織田・徳川の軍勢は戦いとなる。だが、笠井秀満は寡兵ながらも良く持ちこたえてみせる。流石は、敵の足止め、即ち殿を託された将であった。そんな殿となった笠井勢の命と引き換えに味方が撤退する時を稼いだ武田勢は、完全に戦場からの脱出に成功していたのであった。
「これでは、もう無理ですな」
佐久間信盛は、橋詰近くで合流した徳川家康へ話し掛ける。その言葉には、彼も賛同せざるを得なかった。織田・徳川の軍勢は、笠井秀満の奮闘により彼の率いた兵数の倍近い損害を被っている。そればかりか相討ちという形であったが、滝川一益の旗本であった滝川助義も討たれてしまっていたのだ。
「徳川殿。残念ですが、一旦設楽ヶ原へと戻りましょう」
「……そうですな」
ここに織田・徳川の連合勢は、武田勢の追撃を諦める。これにより武田家は、どうにか九死に一生を得たのであった。
武田勢全員が設楽ヶ原頼撤退、若しくは討ち死にとなった様です。
ご一読いただき、ありがとうございました。




