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第百四十八話~撤退戦~


第百四十八話~撤退戦~



 前線より武田本陣のある才ノ神へと戻った武藤昌幸むとうまさゆきは、そのまま主たる武田信勝たけだのぶかつの近くまで馬に乗ったまま寄せる。そこで馬を降りると、片膝をついて報告を始めた。


「殿! 戻りましてございます!!」

「おお! 戻ったか!! して、どうであった!」


 報告を受ける武田信勝としても、この情報は重要だった。

 傍から見ても味方の攻勢は、頓挫しかけているといっていいだろう。それでも撤退の命を出していないのは、思ったよりも被害が大きかったことと情勢が今一分かっていなかったからだ。

 しかしそんな状況も、武藤昌幸の情報次第である。彼から報告される内容のいかんによっては、撤退という選択も決断もせねばならなかったからだ。


「はっ。では……」


 そう前置きしてから、武藤昌幸は前線で見聞きしたことを全て報告していく。その中には勿論、山県昌景やまがたまさかげとの会話も含まれていた。


「……そうか。そのような情勢となっていたのか……それに昌景も撤退を勧めるのか、信春と同じように」

「はい。それに何より、このまま攻勢を仕掛け続けたとしても、敵の前線を抜けることは難しいと思われます」


 攻勢を掛けている馬場信春ばばのぶはる真田信綱さなだのぶつなは無論のこと、内藤昌秀ないとうまさひで山県昌景やまがたまさかげらもそう時を置かず劣勢を覆す為に攻勢に転じるだろうと武藤昌幸は考えている。しかしながら、彼らをしても一時的に戦況を盛り返すだけでしかないとも想定していた。

 そんな彼らを生かす為にも本陣、いや武田信勝の撤退は必須である。総大将が撤退していればこそ、将たる彼らもまた撤退出来るのだ。

 もっとも彼らのうちの誰かが殿しんがりを務めなければならい可能性が高い。そして該当者となれば、他の撤退勢に比べて生存率が下がるのは否めない。しかし武田本陣が撤退をしなければ、生存の確率そのものがさらに下がってしまうのだ。

 ともすれば武田勢の半壊、下手をすれば最悪全滅の憂き目すらあり得るのだから。


「やはり……撤退しかないのか昌幸」

「重臣の皆さま方を生かす為にも、撤退をするべきかと存じます。実父一徳斎(真田幸隆さなだゆきたか)の策を完遂できないのは、残念にございますが」

「……分かった。撤退する 長篠城を押さえている信供らにも連絡して撤退させるのだ」

「はっ」


 長篠城に対する抑えとして武田信勝は、山本信供やまもとのぶとも春日昌澄かすがまさずみ小山田昌成おやまだまさなりを置いていた。その彼らに対しても、撤退の命を出したのである。因みに山本信供は、武田信玄たけだしんげんの軍師とも評される亡き山本晴幸やまもとはるゆきの嫡子であった。


「それと、東濃を攻めている虎繁にも伝令を出せ。我らは、設楽ヶ原より撤退すると」

「御意!」


 武田信勝の命を受けた武藤昌幸は、すぐに履行するべく急いで武田信勝の前を辞したのであった。





 戦場の中央にて、武田勢主軸の攻勢に晒されている義頼だが、彼はよく凌いでいた。

 馬場信春と真田信綱の攻勢により、一時的に武田信廉たけだのぶかどらに対する攻め手が緩んでしまっていたが、そのことに気付くと即座に対応している。織田の陣に肉薄しかけている馬場信春と真田信綱へは、滝川一益たきがわかずます森可成もりよしなり森長可もりながよしの親子、そして不破光治ふわみつはるを当てている。そして武田信廉らには、明智光秀あけちみつひで佐々成政さっさなりまさや各国の与力衆、さらには六角家家臣で対応していた。

 体勢の立て直しに少し時間が掛かった為に敵との距離こそ稼がれてしまったが、まだ柵に取りつかれた訳ではない。義頼は少し低調となっていた銃撃や射撃を雨の如く降らせて攻勢を強めながら、同時に数門の大砲の向きを変えていた。


「放てー!」


 十八門の大砲が一斉に火を噴き、武田勢へ満遍なく襲い掛かる。そんな中、彼らは轟音で使えなくなっている馬は諦めて徒歩で柵へと近づいて行った。その一方で、間近で初めて轟音を聞いた馬場勢と真田勢は、兎にも角にも馬が恐慌をきたしていて操れないでいる。すると馬場信春は即座に馬を降りていたので事なきを得ていたが、真田信綱は立ち馬から振り落とされてしまいしたたかに肩を地面へ打ちつけていた。


「くうっ!」


 痛みに堪えながら手を地面について立ち上がろうとしたが、その直後に地面へ打ち付けた肩に激痛が走る。その激痛と力が入らない事から、何らかの異常をきたしたと判断した。


「肩が逝ったか……折れたか、それとも打ち身で済んでいるのか。何であれ、片腕は使えないな」


 ここで問題なのは、使えない腕が利き腕であるということである。勿論、反対の手で武器を扱うことは出来る。だが、利き腕でないとやはり自在に操るとはいかない。ましてや片腕では、どうしてもぎこちない動きになってしまうのだ。

 しかし柵を越えれば、いや越えなくても肉薄すれば火縄銃も撃てなくなる。そこに一縷いちるの望みを託して、突貫しているのだ。ただ織田勢の持つ火縄銃の先端に取り付けられている物がいささか気に掛かっているが、それに関して頓着している余裕などはなかった。


「全兵、柵を乗り越えよ。さすれば火縄銃も弓も、そしてあの武器も使えなくなる! 行け!!」

『はっ』


 彼らは必死に、柵に取り付き乗り越えるべく近づいて来ている。味方で屍の山血の河を踏み越えながら、進む事を止めないのだから大したものであった。


「もはや、距離的にも大砲は難しいか……よし、大砲を下げよ」

「はっ」


 義頼は大砲による砲撃を諦めると、火縄銃と弓の射撃に切り替えた。

 すると雑賀衆を向こうに回し、彼らにすら感心させた火縄銃と弓による濃密な射撃が武田勢に襲い掛かる。その為、大砲が下がったことで漸く纏め上げた兵による攻勢も織田勢を圧倒するには至らない。それどころか、逆に圧倒されかねなかった。


「むぅ。この射撃では、近づくこともままならぬ。だが、何としても接敵しなければ!」


 内藤昌秀は、手にした槍を握り直しつつ決意を新たにしたその時、武田信勝から戦線に撤退の命が届いた。


『撤退だと!?』


 伝令を受けた者たちは異口同音に声を上げたが、その後の対応は大きく分けて二つに分かれた。武田信廉や武田信豊たけだのぶとよは、その命に従い矛先を敵から撤退へと変える。そして討たれてしまったが父親の小幡憲重おばたのりしげと共に参陣した小幡信貞おばたのぶさだは、撤退の指示に躊躇した。しかしながら、父親に続いて自分まで討たれては小幡家が断絶してしまう。彼は断腸の思いで、本陣からの指示に従う決断をする。こうしてこの三人は、向かう先を織田勢ではなく北へとしたのであった。

 これは、徳川勢と当たっていた小山田信茂おやまだのぶしげ川窪信実かわくぼのぶざねも同じである。二人は一度、後方に下がり徳川勢と距離を取ると、大将の武田信勝を追うよう北へと転身した。

 そして残るは、内藤昌秀ないとうまさひで山県昌景やまがままさかげとなる。しかし彼らは、既に撤退へ移った武田信廉らと違う反応をする。何と二人は、撤退の合図を認識しつつも無視して攻勢を掛け続けたのだ。

 まず山県昌景だが、彼らは殿しんがりを務めるつもりだったのである。そして内藤昌秀だが、彼は山県昌景とは違う考えを持って戦場に残る判断をしていた。彼が戦場に残った理由、それはこの場を死に場所と考えているからである。戦が始まる前に軍議で出た撤退という選択を潰し、逆に攻勢へと本陣の雰囲気を導いてしまった責任を感じていたのだ。


「今さらになって、おめおめと退却できぬ! しからばここで踏ん張り続け、一人でも多く敵を冥府に引き摺り込む!」


 内藤昌秀は得物を一つ大きく振ると、敵勢目掛けて駆け出していった。





 前線から幾人かの敵将が撤退に入ったことで、義頼を含む織田・徳川勢に掛かっていた圧力が明らかに下がっていた。それを好機と判断した徳川家康とくがわいえやすは、旗下の将兵へ追撃を命じる。すると彼らは、今まで守勢に回っていた鬱憤を晴らすかの様に喜々として追撃に入っていった。

 その一方で織田勢であるが、徳川と違い追撃へと移れていない。移りたいのは山々なのだが、内藤昌秀と山県昌景、馬場信春と真田信綱、真田昌輝さなだまさてる甘利信康あまりのぶやすが追撃を許さなかった。

 真田昌輝と甘利信康が羽柴秀吉はしばひでよし丹羽長秀にわながひで佐久間信盛さくまのぶもりを止め、残りの四将が義頼らを止めている。兵力差がある為に武田勢は徐々に削られているが、彼らが邪魔する間は、武田信勝の追撃などできはしなかった。


「おのれ! 邪魔をしおって!! ええい、義頼らへ命を出せ!」

「何と?」

「さっさと、武田の前線を喰らい尽くせと」

「御意」


 武田の将の邪魔に、酷く憤った織田信長からの命が届く。その命に、義頼は苦笑を浮かべてしまった。


「早く喰らい尽くせ……か。殿(織田信長)も無茶を言われる」

「しかし、徳川が攻勢を掛けた今、それも致し方ないでしょう」

「分かってはいる……」

「殿! 悪い報せが入りました! 太郎左衛門尉(不破光治)様、討ち死に!!」

「な! 誰に討たれた!」

「馬場信春だそうにございます!」



 不破光治は、森可成と森長可の親子、そして滝川一益と共に武田勢に攻勢を掛けていた。既に彼らは柵から出て、武田勢に直接攻撃を仕掛けていたのである。しかし相手は、死すら覚悟し死兵と化した馬場信春と真田信綱が率いる武田勢である。兵数で勝っていても、中々押し切ることなどできなかった。

 そんなさなか、森長可が負傷して片腕が使えなくなっている真田信綱を見付ける。その瞬間、彼は馬を走らせていた。


「そこに居るは、敵将と存じる! 何者か!」

「拙者は真田左衛門尉信綱! 貴公こそ何者である!!」

「拙者は森勝蔵長可!! 尋常に勝負!」


 直後、森長可の得物である十文字槍が真田信綱を襲う。しかし刀を抜くと、何とか逸らした。その仕草を見て、眉を訝しげに寄せる。やがて、森長可はその仕草の理由に気付いた。それは真田信綱の片腕が、不自然に動かないからである。怪我でも負っているのだろうと判断したが、だからといって森長可が攻撃を緩める理由にはならなかった。


「どうやら腕が動かぬようだが、これも時の運。覚悟せい! 真田信綱!」


 再度、十文字槍が襲い来る。その槍の穂先は、動かない腕が繋がる肩を捕えていた。自身の体に槍が突き立つ痛みに、真田信綱は苦悶の表情を浮かべて動きが止まる。そこに生まれた隙を、森長可は見逃さない。手にしていた十文字槍で、正確に真田信綱の急所を貫いていた。


「真田左衛門尉信綱! 討ち取ったり!!」


 こうして森長可が敵将の一人となる真田信綱を討ち取ることで味方の士気が上がったのだが、その直後には何と馬場信春が自ら先頭に立ち織田勢を蹴散らし始める。その勢いは凄まじく、彼が率いる兵にも伝播し次々と織田勢を討ち取っていった。


「このまま、一気に貫く! 目指すは、六角義頼ろっかくよしより! そして、織田信長だ!!」

『おおー!』


 馬場信春の掛け声に答え、兵から鬨の声が上がる。その声を背で聞きつつ、彼は一気呵成に突撃した。やがて彼の目に、一人の男が写る。その瞬間、馬場信春は手にした獲物を振りあげつつ声を張り上げていた。


「我は馬場美濃守信春! 織田の将よ! 尋常に勝負!」

「な! 鬼美濃だと!?」


 驚きの声を上げたのは、標的とされた不破光治である。まさかこんなところに馬場信春が現れるなど、想像していなかったからだ。しかも、すぐ近くまできており、今さら踵を返すのも不可能である。ならば残る選択肢としては、戦うしかなかった。


「相手にとって不足なし! 我は不破河内守光治! 鬼美濃、勝負!!」


 次の瞬間、馬場信春と不破光治の得物が空中で火花を散らした。

 しかしながら、相手は鬼美濃こと馬場信春であり、一筋縄でいく筈もない。不和光治とて決して弱い訳ではないが、今回は相手が悪かった。

 馬場信春の自力と勢いが勝り、不和光治の得物である槍を大きく弾いたのである。このままでは勢いに引きずられ落馬すると判断した不和光治は、即座に槍を手放す。そのお陰で事なきを得たが、当然槍は手になかった。

 急ぎ刀を抜くが、それでも不利なのは明白である。何といっても、槍と刀では間合いが違う。その上、相手の腕が上なのは今の相対で分かってしまった。しかし、彼とて武士。家の名誉や自身の名の為にも、無様に負ける訳には行かなかった。たとえ及ばずともせめて一太刀、その意気込みを込めて不和光治は刀を構える。それは、突きの構えであった。

 命すら掛けた裂帛の気合が籠ったその構えに、馬場信春の気も引き締まる。すると、彼もまた突きの構えを取っていた。刀と槍という全く違う武器でありながら、まるで鏡に写したかの様に二人の構えは同じである。いや、錯覚でもしたかのごとく同じに見えてしまった。


「行くぞ! 鬼美濃!」

「応っ!!」


 同時に馬を駆ると間もなく、二人はすれ違った。やがて、二人の馬が止まる。それから間もなく、馬場信春は槍を手放してすれ違いざまに手傷を負わされた肩を押さえながらも後ろを向く。するとそこには、ゆっくりと倒れていく不和光治の姿があった。


「敵将、不破河内守光治! 討ち取ったり!!」


 武田家が劣勢な戦場に、馬場信春の声が朗々と響き渡ったのであった。


武藤昌幸の報告により、武田信勝が撤退を決断しました。

これから撤退戦です。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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