第百四十七話~武田の対応~
第百四十七話~武田の対応~
才ノ神に本陣を置く武田信勝は、一丸となって攻め掛かる味方をじっと眺めていた。そんな彼の元に、入れ替わり立ち替わり百足衆が報告を届けて来る。それらの報告を聞き、武田信勝は眉を顰めた。
「信春は勝ったが、信綱と昌輝と信康は一度退却か。また、徳川へ当たっている者たちも戦局は五分とは。そして、叔父上と信豊、信貞と昌秀と昌景の攻めもしのいでいる、か。いささか不味い……何だ!?」
その時、武田信勝が驚きの声を上げたのも無理はない。突如戦場に、轟音が幾つも響いたのだ。床几に座っていた武田信勝は、思わず立ち上がり辺りを見る。その直後、本陣より幾分か離れた場所に幾つも土が盛大に舞い上がっているのが見て取れた。
「なっ!」
驚き、ただ一言だけ漏らしたが、それだけである。正直なところ、自分の目に映った事態が彼にもよく分かっていなかったからだ。何せいきなり轟音が辺り一面に鳴り響き、その直後に土砂が幾つも舞い上がっているのである。これだけで分かろうなど、無理な話であった。
「あ、ああ……」
跡部勝資は、慄くように言葉を漏らしている。そして武藤昌幸も、自身が体験している事態に目を丸くして驚くばかりであった。
このように武田の本陣では、誰もが皆呆気に取られている。そんな彼らであったが、その中でいち早く我に返った者がいる。それは誰であろう、武田信勝であった。彼がいの一番に気付いたことは、不幸中の幸いといっていいだろう。他でもない軍の総大将が、最初に意識を取り戻したのである。そのお陰で、驚きのあまり硬直してしまった指揮系統の復活が早められたからだった。
「昌幸! おい、昌幸!! 聞いているのか!」
「……っはっ、ははっ! 申し訳ありません、御屋形様」
「そんなことはいい。それよりも、何だ今のは」
「わ、分かりません。あのような大きな音を聞くなど、雷鳴以外ありません。しかし、天気は綺麗な晴れ。近くに雲もなく、雷鳴とはとても考え……」
しかしながら、武藤昌幸の言葉は、新たに発生した轟音によってかき消される。その直後、またしても土柱が形成され、土が大量に舞い上がる。しかもそれらは、先ほどと違い相応に本陣へと近づいていた。
「……ひっ! こ、このままでは此処も危険かもしれません。 御屋形様はお引き下さい!!」
跡部勝資には轟音の正体も、土砂の巻き上げが発生する意味も分からない。だがこのままでは、自分は元より主たる武田信勝も、いやそもそもからしてこの本陣が危ういのではということだけは何となくだが理解できたのだ。
理由のいかんに関わらず、この場に留まるのは危険だと思えば非難を促すのは当然である。その思いに従い跡部勝資は、武田信勝の避難を進言したのであった。またその進言は、実に的を射ているといっていいだろう。それゆえに、武藤昌幸も彼の言葉に同調した。
「御屋形様、その通りにございます。まずはお引き下さい」
果たして武田信勝は、ゆっくりと首を左右に振る。それから、敵の総大将たる織田信長がいるであろうと思われる茶臼山の方向を睨むように見詰めた。
「大きな音と土煙が幾つか上がったぐらいで引くなど、出来ぬ! そのようなことを実行すれば、武田はこの先敵に侮られ続けであろう」
「そ、それは……その通りかもしれませぬ。ですがっ!」
「だから昌幸! 先ずは、正体を確かめろ。全てはそこからだ!」」
「……分かりました。左衛門佐(栗原信盛)様、本陣をよろしくお願いします」
本陣より出る前に武藤昌幸があとを託した栗原信盛は、武田一門の出である。彼は武田信玄と武田信勝の二代に渡って仕えた譜代の家老である。そして武田信玄亡きあとは、武田一門衆筆頭の武田信廉に協力して武田信勝を、ひいては甲斐武田家を支えた一人であった。
「うむ。御屋形様と本陣は任せよ。喜兵衛(武藤昌幸)も、しかと頼むぞ」
「承知しております。では!」
武田信勝と栗原信盛にしっかりと頭を下げると、武藤昌幸は馬に跨り前線へと赴くのであった。
話を少し戻し、義頼が大砲の第一射を行って間もなくの頃である。前線にて待機していた馬場信春であったが、轟音が響き渡る戦場の様子を見て流石にまずいと感じていた。
彼は織田家重臣の佐久間信盛を押し返した事で織田勢から警戒こそされていたが、ただそれだけだったのである。しかしそれゆえに、戦場を冷静に眺めることができていた。
「これは……いささか危ういな。明らかに押されている。さらに、あのよく分からない物は何なのだ!」
馬場信春の漏らしたよく分からない物、要は大砲なのだが流石に遠目では分からない。そもそも見たこともないので、実際に目の当たりにしても分からないだろう。ただ、容易ならざる物であることは本能的に理解できていた。
その上、轟音がして間もなく味方本陣の方では土が複数舞い上がる。流石に本陣そのものにではなかったので、そこは安堵している。しかし何となくであるが馬場信春には、二つは連動しているように思えたのだ。
「もし想像通りなら、何れは本陣まで届く……このままでは押し切られかねん。信頼!」
「はっ」
「わしは左衛門尉(真田信綱)と兵部丞(真田昌輝)、それと郷左衛門尉(甘利信康)の元に行く。その間に、そなたは兵をすぐに動かせるようにしておけ!」
「え? あ、兄上!!」
弟の馬場信頼が止める間もあればこそ、馬場信春は馬を駆けさせる。うしろから何か声が聞こえているが、彼は無視して馬を走らせた。やがて、体勢を立て直して再度攻撃を仕掛けようとしている真田信綱と真田昌輝の兄弟と甘利信康の元へとたどり着く。すると、馬場信春は彼らに面会を希望した。
『美濃守殿が!?』
面会を申し込まれた三人は、思わず見つめ合う。それぐらい、驚いたのであった。
「そ、それで美濃守殿は何と?」
「兎に角、一向一刻も早く会いたいとのことにございます」
「……分かった。昌輝と郷左衛門尉殿も宜しいかな?」
『おうっ!』
その後、三人は馬場信春と面会する。しかし挨拶もそこそこに、本題へと入っていた。
「今は危急ゆえ、無礼は承知で本題に入る。わしは味方を救う為に織田の陣へ、それも中央に向けて攻勢を仕掛ける。その方たちは、わしと連動して攻めて貰いたい」
「……いいでしょう。鬼美濃(馬場信春)殿が一緒ならば心強い」
「面映ゆいのう。まぁいい。兎に角、わしと共に一隊付けてくれ。残りは、佐久間と羽柴と丹羽を足止めするのだ」
「では、私が行こう。昌輝と郷左衛門尉殿には、佐久間たちを相手して貰いたい」
『応!』
何より時が惜しいので、考えは置いておきまず彼らは了承する。やがて彼ら三人と馬場信春の軍勢が合流した頃、大砲の第二射が発射された。放たれた大砲の砲弾は、武田兵を容赦なく蹂躙していく。そのすぐあとには火縄銃の鉛玉や矢が戦場に飛来し、これらもまた武田勢を蹂躙していった。
正にその頃、馬場信春は織田勢へ仕掛けたのである。前述した通り、彼と真田信綱は義頼の率いる織田家の鉄砲衆へ攻勢を掛け、真田昌輝と甘利信康は佐久間信盛たちへと攻勢を掛けたのであった。
大砲を既に二発ほど放っている義頼だが、そこで手を緩めるつもりなど彼の考えにはない。正直にいえば、この戦で使い潰してもいいぐらいに思っていた。
「殿! 砲弾の装填、及び再標準が完了しました!」
義頼へと伝えたのは、三雲賢春である。彼は三雲賢持の息子であり、元服後は義頼の小姓として仕えていた。そんな三雲賢春の報告を聞きながら義頼は、大砲の連射にはやはり難があるなと感じていた。
実際問題、大砲は撃つ度に後退してしまう。その為、大砲を一度戻し再度標準を合わせなければならないのだ。対策として、大砲を乗せている板には綱を結び固定しているので少しはましである。何せ陸上での運用試験を始めた当初の頃は、後退した大砲に弾かれた者もいたぐらいなのだ。
取り敢えず見付けた問題は置いておくとして、義頼は報告して来た三雲賢春に頷き返す。そして義頼は、再度前を見ると号令を掛けた。
「撃てー!!」
その直後、一斉に大砲から砲弾がほぼ水平に発射される。そのまま真っ直ぐ戦場を駆け抜け、混乱の収まらない武田勢を蹴散らしながら突き進むと、やがて三度目の土砂を巻きあげながら着弾した。
この三度目の砲撃で、原昌胤が砲弾の直撃を受けて死亡している。彼は弩号と轟音が飛び交う戦場で、必死に味方の慰撫に努めていた。しかしそれが、逆に仇となった形である。味方の混乱を抑えようと躍起になっていた為に、意識がそちらに集中してしまったのだ。
そこに織田家の所有する大砲から放たれた砲弾が飛来する。寸でのところで気付けたので急ぎ回避に入ったのだが、幾ら何でも間に合う筈もない。彼は飛来してきた砲弾に半身を持っていかれ、そのまま絶命したのであった。
そして偶々、原昌胤が死亡したところを本陣から前線に赴いていた武藤昌幸が目撃する。そのあまりと言えばあまりの光景に思わず絶句して立ちすくんだが、すぐに彼は首を振り強引に意識を戻していた。
「あ、あれが轟音の正体か……よ、よくは分からないがどうやら妖術などの類では……」
「喜兵衛! 何ゆえここにいる!!」」
少し呆気に取られつつ、それでも分析だけは行っていた武藤昌幸に声を掛けたのは、山県昌景である。彼も死亡した原昌胤同様に、恐慌をきたす兵を何とか落ち着けようと奮闘していた。
もっとも、大した成果を上げてはいない。それは武田信廉や武田信豊、小幡信貞や内藤昌秀も同じであった。
「三郎兵衛尉(山県昌景)殿。拙者は、御屋形様の命でここに来たのです」
「御屋形様の命だと!? してその命とは何だ!」
「はっ。さきほどより聞こえて来る轟音、それと土煙の正体を付きとめる為です!」
「……あれか……あれはわしも良く分からんが、どうも火縄の類と思うぞ。恐らくだがな」
「火縄ですか……」
「うむ。確か火縄銃に、大鉄砲というのがあったであろう。先程から轟音を上げている物は、あれをさらに大きくした物のように思える」
山県昌景が武藤昌幸に伝えた推論は、ほぼ正鵠を得ているといってよかった。
「ということは、あの土煙は……」
「多分、着弾した時に上がっているのだろう。これも、推察でしかないが」
「いえ、十分です。これで、御屋形様へ撤退を促せます」
「……そうか、退くか」
「はい」
その時、二人は漸く奇妙なことに気付いた。
先程の三発目より、轟音がしないのである。そればかりか、銃撃や射撃もいささか緩やかになったように感じたのだ。実際、山県昌景と武藤昌幸が悠長に喋っていられるのだから、あながち気のせいとは思えない。思わず辺りを見た二人は、何ゆえそうなったかを理解した。
「あれは……美濃守殿! それから、左衛門尉もか!!」
山県昌景が見た先では、馬場家の旗印と真田家の旗印が真一文字に義頼の率いる鉄砲衆へ向かっている。彼らはまだ柵に取り付いているとまではいっていない様子だが、それでも大分近づいており、そちらの対応に意識を割かれているという雰囲気であった。
「これは好機だ! 喜兵衛!! 我らは何とか兵を纏め、時間を稼ぐ! その隙に本陣を退くのだ!!」
さて、何ゆえに反撃では無く時間稼ぎなのか。その理由は、至極簡単である。味方の武田勢が、あまりにも被害を受け過ぎている為だ。まだ半壊にまでは至ってはいないが、それも時間の問題のように思える。いまだに敗走まで至っていないのは、馬場信春らが織田勢へ攻勢を掛けたからという、それだけの理由だった。
そのことは、自身の眼で前線を見た武藤昌幸にも理解できる。だからこそ彼は、山県昌景の言葉に従ったのだ。
「……分かりました。御武運をお祈りします」
「おう! そなたも、御屋形様のことを頼むぞ!!」
「はっ!」
山県昌景に一つ頭を下げると、武藤昌幸は武田信勝の居る才ノ神へと取って返す。そんな彼の後ろ姿を暫し見送ってから、山県昌景は視線を前線へと戻した。
「まずは、集められるだけ兵を集める。それから、美濃守殿と合流するとしよう……しかし、美濃守殿と共に敵へ突入か。奇しくも【三方ヶ原の戦い】の再現となったか」
そう独白してから山県昌景は、苦笑を一つ浮かべる。それから辺りを見回し、手近に居た空き馬に跨った。既に轟音により陥った馬の混乱は収まっており、彼は問題なく馬を操って戦場へと舞い戻れたのであった。
武田勢が、反撃(?)を……
ご一読いただき、ありがとうございました。




