第百四十二話~織田・徳川の情勢~
第百四十二話~織田・徳川の情勢~
岐阜城下にある六角屋敷へ到着した義頼は、道意と本多正信の二人を連れての謁見を織田信長に求める使者を送った。しかしてその使者は、すぐに来るようにという指示を携えて戻ってくる。義頼と本多正信と道意は、素早く衣を改めると織田信長の屋敷へと向かったのであった。
「来おったか。して用件だが、武田だな」
「はい。武田は、三路より攻めて来る様です」
「三路? 二路の間違いであろう」
「いえ、三路にございます。東遠江の高天神城、東濃の岩村城……そして奥三河の長篠城です」
「待て、長篠だと? その話、どこで聞いた!」
鋭い視線を叩きつけながら、織田信長は尋ねた。
そんな視線を静かに受け止めつつ義頼は、自らの懐から書状を出す。それは、道意が義頼へと提出した武田家からの書状であった。
「これは何だ!」
「まずはお読みください」
織田信長は、眉を不機嫌そうに寄せつつも書状を読み始めた。黙って最後まで目を通すと、ゆっくりと顔を上げる。その視線は、真っ直ぐ道意を射抜いていた。
「武田からの書状か……それで道意、その方はどう答えた」
「明確な答えは伝えておりませぬ」
「ほう? それはつまり、武田に同調しないということか」
織田信長の問いに、道意は首を縦に振る事で答えた。
そもそも、彼がもし謀反を起こす気であるのならば義頼へ知らせる筈もないのである。こうして義頼へ、ひいては織田信長へ報告した事自体、謀反を起こす気などないという証左であった。
「大殿(織田信長)。よろしいですか?」
「ん? その方は確か……本多正信であったな。して、何だ」
「はっ。この書状ですが、逆に利用致すというのはいかがでしょうか?」
『利用?』
「……おお! その手があったか!!」
義頼と織田信長は、訝しげな表情を浮かべながら声を揃えて誰何する。そして道意はというと、本多正信の言葉の持つ意味を理解している様子であった。
「道意。その手とは何だ」
「はっ。弥八郎(本多正信)殿の申す利用とは、恐らく武田信勝の出陣を明確にさせる。そうではないかな?」
「流石は道意殿。その通りにございます」
道意の言葉に対して、本多正信は笑みを浮かべながら答える。それから視線を義頼と織田信長へ向けると、自らの考えを伝えるのであった。
「大殿、それに殿。この書状による要請を受ければ、信勝は間違いなく長篠へ出陣するでしょう」
「……ああっ!」
「そうか!!」
義頼と織田信長は、ほぼ同時に本多正信のいいたい旨を理解した。
彼の考え、それは「敵の策を逆に利用して、罠にはめる気」なのであると。
「敵の進撃が判明してからでは、どうしても受け手たる我らは後手に回る。しかし進撃先を誘導出来れば、その限りではないということか」
「はっ」
「ふむ。面白いな……よし、道意。その方は、武田に了承したと返事をしろ。そして、本当に兵を集め信貴山城へ籠れ」
「は?……よろしいのですか?」
「うむ。確実に、信勝めを長篠へ誘引する為だ。ま、長篠には援軍は送るつもりだがな」
織田信長からの指示を聞いた道意は、現在の主である義頼へ視線を向ける。彼からの視線を受けた義頼は、ゆっくりと頷いた。
「次に義頼、その方は与力の兵を率いて道意の討伐に向かえ。あくまで、武田を疑わせない為だ。その後は、道意の軍勢と合流し即座に長篠に来い」
「となりますと、速度が命となります……正信。何か手はあるか?」
実際問題、義頼と偽りとはいえ反旗を翻した松永家が対峙した時点では、いつ織田家の軍勢と武田家の軍勢がぶつかることになるか分からない。下手をすれば、既にぶつかってしまっている可能性すらある。であるからこそ、策が成就したあとに長篠へ向かう軍勢は早急に進まさせねばならないのは明白の事実であった。
「そうですな……こういうのはいかかでしょうか」
義頼から問われた本多正信は、暫く考えてから思い付いた考えを述べた。
その策を聞き始めは唖然としていた義頼や織田信長や道意だったが、やがて彼らの顔に人を食ったような笑みが浮かび始める。ついには堪え切れなくなったのか、織田信長は声を上げて笑い始めていた。
「ははは……面白い。実に面白いぞ。義頼、正信、その策を実行するのだ。必要な物は全て俺が揃えてやる」
『はっ』
「それと確認となるが、決して戦うな。包囲だけにしておけ。あくまで偽装であること、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
『御意!』
織田信長の屋敷を辞した義頼は、岐阜城下にある六角屋敷へと戻る。だが、時間が惜しいとばかりに、早急に出立していた。一行は馬を飛ばし、関ヶ原を越えて近江国へと入る。佐和山辺りで日が暮れてしまったが、そこは勝手知ったる甲賀衆の鵜飼孫六や伴資定などが共に行動している。彼らの案内で多少速度を落としつつも義頼の一行はそのまま進み、やがて観音寺城下の六角館へと到達した。そして到着するなり、館に残っていた沼田祐光や三雲賢持を呼び出すと、岐阜で織田信長と話した内容を二人へ告げていた。
『なるほど……罠にはめますか』
異口同音の言葉に、思わず両者は目を合わせる。そんな二人を見て、義頼は微笑を浮かべていた。
「そういうことだな。そこで話を合わせておこうと思って、お主たちを呼んだのだ。それで、まずはだがこの場合は道意であろうな」
「はい、まずは道意殿でしょう」
本多正信が義頼の言葉に追随すると、道意は頷きながら笑みを浮かべる。その笑顔は、これから悪戯を仕掛ける子供のといってもいい表情である。実に、年不相応な笑顔であった。
「無論、分かっておりますぞ、殿。第一に、土屋昌続へ織田家に反旗を翻す要請に了承した旨を告げる。その後は、息子の久通と共に松永家の居城である信貴山城へ籠る……それでいいのであろう、弥八郎」
「はい。そのようにお願いします……次に殿にございますが」
「わしは兵を率いて、松永家の居城である信貴山城を取り囲むのであろう」
「御意。その間に拙者は、長篠へ向かう手筈を整えておきます」
「そうか。となれば、まずは味方にも周知徹底させねばならんな。「信貴山を攻撃することはまかりならん」と。特に、大和衆に対しては徹底させねばならん」
義頼の言葉に、道意を含めて一同は苦笑した。
これも、致し方ないといえる。過去の経緯などから、これ幸いにと筒井家や彼の家に近しい大和国人が暴走して信貴山城へひいては松永家に攻撃をしかねないのだ。その様な事態となれば道意や彼の嫡子で現松永家当主の松永久通としても、不本意でしかない。策の上で織田家へ反旗を翻したかのような形を取っているにも関わらず、本当に攻撃をされたらそれこそ冗談では済まされないのだ。
何はともあれ、大よその流れを把握して一段落ついた義頼は茶で喉を湿らせる。それから、道意へと視線を向けた。
「さて、松永家には戦が終われば殿からも褒美は出ると思うが、個人的には何か要望はあるか? 俺が出来る範囲で叶えよう」
「松永家に褒美があるのならば今さらですが……そうだ! では一つお願いがございます。殿がお持ちの九十九髪茄子を用いて、殿御自らの茶を御所望しとうございます」
「何? そのようなことでいいのか?」
「はい。お願い致します」
「分かった。必ず、一席設けよう」
「はっ!」
義頼が織田信長と面会した翌日、織田家中に出陣の命が発せられた。これは、武田家が侵攻した東濃に関する物である。そしてそれを隠れ蓑に、恐らく徳川家に送ることになるであろう援軍も用意されていた。
但し、この部隊はまだ動かさない。いや、正確には動かせない。奥三河にある長篠城にせよ、東遠江にある高天神城にせよ、どちらも徳川家の領地内にある。織田信長にとって徳川家の扱いが実質どうであれ、建前上は勝手に軍勢を送る訳にはいかないからだ。
そして岩村城へ援軍に向かうのは、池田恒興を大将とした美濃国の国人達である。岩村城は柴田勝家の城であり、こと戦に関しては織田信長も信頼しているのでこれで十分だと考えた上であった。
「一応は東遠江に対しても用意しておくが、家康はどう動くか。もしすぐに援軍をとのたまうなら、色々と考えねばならんな」
織田信長の用意した東遠江への援軍を率いる大将は、二男の北畠具豊だ。他家を継いでいるといっても、彼は織田信長の実子である。その北畠具豊であれば、実父の名代に十分なり得たからだ。
また織田信長率いる本隊より先だって長篠城へ送る軍勢を率いるのは、河尻秀隆である。彼は一時、柴田勝家の与力として東濃にあったが、この頃には柴田勝家の元から離れ、嘗てのように黒母衣衆筆頭の座に戻っていたのだ。
「秀隆は、念の為に軍勢を用意しておけ」
「はっ。ところで殿。拙者は、どちらに向うことにあいなりましょうか」
「向うとすればまず長篠だが、少し流動的だ。場合によっては、別のところになるやも知れぬ」
「分かりました。兎にも角にも、兵を調えておきます」
「うむ」
こうして織田信長が東濃への援軍を隠れ蓑に着々と用意を整えている頃、浜松城の徳川家康も武田勢の動きを掴んでいた。
「またしても高天神城だと!?」
「はい。武田家の穴山信君が、一万余の兵を率いて高天神城に向かっているとのことにございます。もしかしたら今頃は、包囲されているやも知れません」
徳川家にて伊賀衆を率いる服部正成からの報告を聞き、徳川家康は驚きを隠せないでいた。因みにまたしてもというのは、甲斐武田家先代当主となる武田信玄がまだ存命であった頃にも攻められているからである。この時は、高天神城の堅牢さを持って、落城を防いでいたのだった。
「ええい! 父親といい息子といい、ふざけおって!!」
「いかがなさいますか?」
「まず数正を呼べ!」
「はっ」
程なくして石川数正が、服部正成と共に現れる。一刻でも時が惜しい徳川家康は、挨拶する石川数正を制すると即座に本題へと入っていた。
「数正。武田が、高天神城へ向けて攻めて来ているそうだ」
「高天神城ですか……兵数はどれぐらいですか?」
「一万を越えるぐらいである。確かそうあったな、正成」
「はっ」
家康の口から出た兵数を聞き、石川数正は眉を寄せた。
その理由は、存外少ないからである。嘗て武田信玄が攻めて来た時は、兵が二万余はいたのだ。それであるにも関わらず、今回の兵数はそれよりも少ない。そこに石川数正は、違和感を覚えたのだ。
「どうした数正」
「いえ。その、武田の意図が読めません。高天神城は、武田信玄でも落とせなかった堅城。それは他ならぬ、武田の者がよく知っていましょう。しかしこたびの兵数は、信玄が攻め寄せた時より少ないという。何ゆえそのようなことをするのかが、分からないのです」
石川数正の言葉を聞き、徳川家康もそして服部正成も気付いた。
確かにおかしいし、腑に落ちない。前回の出兵で失敗しているのだから、普通なら近い兵数を、そして可能ならばより多くの兵を送り込むのが定石なのである。しかし今回武田家は、その定石を行っていない。だからこその、違和感であった。
「むぅ。言われてみれば、確かにそうだな」
「とはいうものの、攻められるのもまた事実にございます。高天神城を任せている弾正忠(小笠原信興)殿へ援軍を送りましょう」
「それはそうだな」
石川数正の言葉に、徳川家康も援軍を送ることを決める。その後、誰を送ろうかと、彼は思案を始めようとした。しかしその前に石川数正が、服部正成へ一つ頼みごとをする。徳川家康も思案は取り敢えず脇へ置き、石川数正の言葉に耳を傾けた。
「半蔵(服部正成)殿。貴公には、配下の伊賀衆と共に武田の情勢を調べて貰いたい」
「武田の情勢? 高天神城へ来ているではないか」
「いえ。確かに来襲しておりますが、兵数が少なすぎます。何より大将の勝頼……否、武田信勝がいない。その旨を考慮すれば、とても高天神城を攻めている部隊が敵の本隊とは思えません」
「なるほど……よかろう。どのみち、武田の動きは追わねばならんからな」
「お願いします」
石川数正が軽く頭を下げると、服部正成は手で制する。それから主たる徳川家康に挨拶をしてから、彼は部屋から出ていった。
「ところで数正。そちの懸念とは何だ?」
「具体的には何とも……ですが、この高天神城攻めには裏がある。それは間違いないと思います」
「裏のう……それはそれで気になるな。とはいえ、援軍は送らねば我らが遠江国人より不信感を覚えられてしまう、か。嫌な手を使って来る」
「全くです」
「まぁいい。分からんことをあれこれと言ったところで始まらん。まずは、目の前の出来事に対処するとしよう」
「御意」
ここに徳川家康は決断し、彼は最低限の兵を浜松城へ残して高天神城救援に兵を自ら率いて向かったのであった。
武田家侵攻を受けての織田家と徳川の対応です。
情報が遅れた徳川の動きが、いささか後手でしょうか。
ご一読いただき、ありがとうございました。




