第百三十九話~雑賀の降伏~
第百三十九話~雑賀の降伏~
雑賀川沿いに展開する山手より攻めた織田家の陣にあって、羽柴秀吉はじっと対岸を見ていた。実は、堀秀政と飯沼長実を送り出して以来、川を越えて対岸の雑賀衆の砦へ攻め入る為の手を打っている。その手だが、大よその目処は立っているので、あとは実行へと移すだけなのだ。
そんな羽柴秀吉の元へ、一人の男が近づいてくる。その男は誰であろう、竹中重治であった。
「藤吉郎(羽柴秀吉)殿」
「どうした半兵衛(竹中重治)」
「吹上城、宇須山砦、東禅寺山城、玉津島砦が落ちました。流石に、雑賀衆の動揺も激しいようにございます」
竹中重治からの報告を聞いて、羽柴秀吉は笑みを浮かべる。どちらかといえば人懐っこい印象のある彼にしては、とても似つかわしくない冷たいとすら思える笑みであった。
「良し! 半兵衛、川底について上手くいったのであろうな」
「はい。全ては無理でしたが、それでも幾筋か行軍出来るように致しました」
羽柴秀吉は堀秀政率いる別動隊が出陣して以降、雑賀衆と睨み合っていると見せ掛けつつも密かに川底の掃除を行っていたのである。雑賀川の川底全てを綺麗にするなどは無理な話であったが、それでも幾つかの場所を軍勢が進めるようにとしたのであった。
「今宵、夜陰に紛れ渡河をして甲崎砦に攻め入る用意を整えよ!」
「はっ」
羽柴秀吉から命を受けた竹中重治は、木下秀長と蜂須賀正勝と共に兵を整える。また羽柴秀吉は、味方の将に情報を伝えた上で、渡河の準備を進めるようにとの命を出していた。
「藤吉郎殿。ではいよいよか」
「うむ。勝三郎(池田恒興)殿、今宵に動こうと思う」
「それは真か?」
「無論です、一鉄殿」
稲葉一鉄の誰何に対して、羽柴秀吉はしっかりと頷く。それから近在の地形等を記した地図に、渡河出来る場所を記していった。
「印をつけた場所から、川を渡れます」
「なるほど。良かろう、藤吉郎(羽柴秀吉)殿。拙者も従おう。各々方はどうだ?」
「一鉄殿。聞くだけ野暮という物だ」
稲葉一鉄の言葉に先ず反応したのは、氏家直通である。その直後には、池田恒興らからも参戦の声が上がっていた。
「では宜しいな。今夜に雑賀川を渡河し、甲崎砦へ攻め込む」
『応!』
こうして羽柴秀吉たちは、夜の雑賀川に入った。
渡河が可能な場所には目印がしている為、問題はない。しかし夜ということもあり、多少は手間取ってしまう。それでもかなりの数の兵が渡河に成功し、対岸へと上陸していた。
「なっ! いつの間に!! 敵襲ー!」
偶々見回りをしていた雑賀の者が織田勢を見付けた為、敵の来訪を味方に知らせる。しかしその直後、彼は織田勢からの矢を受けて絶命した。まだ敵へ知られていないのであれば、静かに行動するつもりだったが、知られてしまって意味がない。羽柴秀吉は、すぐに全部隊へ命を下していた。
「もはや隠す必要はなし! 全軍、柵へ取りつけ!」
先鋒を承ったのは、飯沼長真の父親である飯沼長継である。その彼が出した命に従い、渡河した山手の兵は柵へ次々に取りついて行く。勿論、雑賀衆は必死に反撃していたが、ついには柵が倒されてしまった。
「不味い! 何としても抑えよ!! 直に援軍が来る!」
確かに彼ら雑賀衆は敵襲を受けて、周辺の砦へ援軍の要請を出している。しかし前述の通り、吹上城と宇須山砦と東禅寺山城と玉津島砦は既に敵の手にあり、援軍など出せる状況にはなかった。
すると残るは弥勒寺山城と雑賀城だが、彼らの元へと向かった援軍の要請は蜂須賀正勝の配下によって悉く捕えられていたので、両城へ援軍要請の使者が到着することは決してなかったのであった。こうなれば、兵数差が全てである。完全な多勢に無勢という状況に陥った雑賀衆は、山手の軍勢に飲み込まれていった。
ここに、甲崎砦も陥落した。
すると羽柴秀吉は、甲崎砦に留まらずそのまま進軍する。これは、竹中重治の言葉による行動であった。甲崎砦に僅かな兵を置いて先を急いだ羽柴秀吉は、そのまま弥勒寺山城を包囲したのであった。
いつの間にか囲まれている状況を垣間見た鈴木重意は思わず一言漏らしていた。
「……これまでということか……」
その後、彼は踵を返すと、城内に居る他六人の有力武将を集める。その彼らへ、鈴木重意は降伏する旨を告げた。無論、彼らも驚く。しかしこの驚きは、納得できる驚きであった。
「……致し方なかろう。既に、水軍も敗れている。それに……織田勢に各個撃破されている現状ではお手上げというものだ」
鈴木重意の言葉に、土橋守重が同意した。
鈴木氏と土橋氏という特に力を持つ二つの一族の当主が降伏を口にした以上、他の者とて否はない。鈴木重意と土橋守重と同様に、残りの五人も降伏に賛成した。
全ての味方から賛同を得られた鈴木重意は、弥勒寺山城を囲んでいる羽柴秀吉に対して軍使を送る。やがて面会した軍使から話を聞いた彼は、蜂須賀正勝を着けて雑賀衆からの軍使を織田信長の元へ送った。
やがて中野城で雑賀衆の軍使と会った織田信長だったが、彼は書状を読み終えると、鼻で笑いつつゆっくりと引き裂いた。
「な、何をなされます! 参議(織田信長)殿!!」
「ふん。何が「何をなされます」だ。その方、重兼といったな。我らに雑賀の降伏を受け入れる意味があると、本気で思うか?」
「…………」
鈴木重意の嫡子である鈴木重兼には、その問い掛けに答えられる術はなかった。
鈴木氏の居城、雑賀城も玉津島砦より軍を進ませた明智光秀の軍勢によって包囲されている。既に雑賀衆へ残された拠点は、もう弥勒寺山城しかない。つまり雑賀衆は、織田家に蹂躙される寸前であったのだ。
「そうよな。もし降伏するというのならば、首を差し出せ」
「……もしかして父上ですか?」
「馬鹿を申せ。汝の父親だけで、足りる訳がなかろう。先ずは、降伏の書状を出した七名全て」
降伏の書状は、弥勒寺山城に集っていた雑賀衆の中でも有力者となる七名の連名で出されている。その内訳は、鈴木重意と土橋守重の他は、岡崎三郎大夫、松江定久、湊高秀、嶋本左衛門大夫、粟村三郎大夫の七名であった。
「なっ!」
その条件に、鈴木重兼は驚く。だが織田信長の言葉は、それだけでは終わらなかった。
「それと、七名それぞれの一族の者で元服を迎えている者も全てだ。なお女と、元服を迎えていない男子の助命は認めてやる。この条件を飲めば、その方らの降伏は認めてやろう。分かったか。分かったら、下がれ!」
「さ、参議ど……いや参議様! それは、あまりにも無慈悲にございます!」
「今一度言う。下がれ! それとも、汝の一存で決めるか? それならば、話を聞こう。そうでないならば、弥勒寺山城へと去ねい!」
これ以上、鈴木重兼と問答をする気などない織田信長は、そのまま部屋を出ていく。そして部屋には、鈴木重兼と織田信長の側近である下石頼重だけが残されていた。
彼らしか居ない部屋に、ただ静けさだけが横たわる。そんな部屋にいる下石頼重の元に、暫くすると何かが届く。すると彼は立ち上がり、鈴木重兼へ声を掛けた。
「鈴木殿。大手門までご案内致そう」
「……お頼み申す……」
鈴木重兼はうなだれたままそれだけ返すと、悄然と下石頼重の後に付いていく。程なく中野城の大手門に到着すると、鈴木重兼は蒼ざめた顔のまま弥勒寺山城への帰路に付いた。
その手に、下石頼重から手渡された新たな降伏の条件が記された書状を持ってである。やがて失意のうちに到着した弥勒寺山城にて、彼は父親の鈴木重意に織田家からの返書を手渡したのであった。
「こ、これが降伏の条件だというのか……」
軍使として中野城へ赴いた鈴木重兼から手渡された書状を、雑賀衆の実力者である七人が読み終える。その直後、松江定久は顔を引き攣らせると一言漏らしていた。いや、彼だけではない。他の者たちも、声こそ出していないが浮かべている表情は一様に同じであった。
その中にありながら、鈴木重意だけは泰然としている。そんな彼の様子を見た土橋守重は、訝しげに眉を寄せながら尋ねていた。
「随分と余裕があるな」
「いや。余裕などはない。ただ、予想の範囲内だっただけだ」
「この結果を予想していたと、そなたはいうのか!」
「信長は、長島でも同様なことをしている。但し、現実とはなって欲しくなかったのだがな」
苦笑を浮かべながらいう鈴木重意を見て、他の者たちも長島でのことを思い出した。
織田信長は長島攻めを終了させるに当たり、一向一揆を指導した石山本願寺の僧である三人と織田家に逆らった国人達を磔にしている。それを考えれば、この条件もあり得る話であった。
「……なるほど。して、どうする? このまま徹底抗戦するか、それとも最初に決めた通り降伏するか二つに一つだ」
暫く座に沈黙が流れた後、湊高秀が改めてこの場に居る者たちへと問い掛ける。内容が内容だけに迷っていたが、その中にあってまずは鈴木重意が口を開いた。
「拙者は、この条件を飲む。族滅とされるのであるならば、徹底抗戦もやむなしだがこたびはそうではない。我らと引き換えに、家は残るのだからな」
「……家が残るのならば、吝かではないか……いいだろう、拙者も飲むぞ佐大夫(鈴木重意)殿」
鈴木重意に引き続き、土橋守重も織田信長が出した条件を許諾する。こうなると、他の者たちも織田家から出た降伏の条件を飲む旨に賛同していく。程なくして、この場に居る全ての者からの確約を得られたのであった。
「では改めて、我らで中野城へ向かうとしよう」
『応!』
音頭をとった鈴木重意の言葉に、彼の息子となる鈴木重兼を含めた七人が声を上げる。 だが鈴木重意は、鈴木重兼へ声を掛けた。
「重兼。その方は残れ」
「何ゆえにございます! 父上」
「そなたまで居なくなったら、誰が兵を纏めるのだ?」
「し、しかし」
「いいから、その方は残れ。そして、兵を纏めておくのだ」
「……分かりました父上」
鈴木重兼に後を託すと、鈴木重意を含む雑賀衆の有力者七名は中野城へと向かう。そして、厳戒態勢の元で彼らは織田信長と面会した。
「ふん。来たか」
「はっ」
「雁首揃えて現れた以上、その気はあるのだな」
「はは。我ら一同、参議様のご意向に従います」
鈴木重意が平伏すると、彼に続く様に同行した七名も頭を下げる。そんな彼らを冷ややかな目で眺めた織田信長であったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「よかろう。雑賀衆の降伏を受け入れる。またそなたらの命、及び元服している者の命を持って家名の存続を我が名において約束する」
『ま、真にございますか!』
「嘘など言わぬ。だから、安心して逝くがいい」
『おお! 感謝致します』
家名の存続を喜び、鈴木重意らは再度平伏する。そんな彼らを見つつ、織田信長は内心で笑みを浮かべていた。あくまで約束したのは、家名の存続だけである。彼らの降伏に伴い召し上げた領地に関してまでは、約束していないのだ。
何はともあれ、雑賀荘と十ヶ郷は既に降伏していた三緘衆の三郷と合わせて織田信長に降伏したのであった。
雑賀衆、落ちました。
そして義頼、出番はありません。
ご一読いただき、ありがとうございました。




