第百三十七話~【和歌浦の海戦】~
第百三十七話~【和歌浦の海戦】~
堺にて出陣の用意を整えていた明智光秀に対して、織田信長からの書状が届く。 使者から書状を受け取った光秀は、一つ掲げてから中身を読み始めた。
そこに書かれていたのは、出陣の下知である。 此処に来て漸く届いた命に、光秀の体が一つ震えた。
「やっと、この堺より出陣が叶う。 彼らも、喜びを露わにするであろうな」
堺で出陣の用意を整えていたのは、何も光秀だけでは無いのだ。
鉄甲船を操る九鬼嘉隆が率いる九鬼水軍、そして九鬼水軍と共に出陣する和泉水軍も居る。 彼らは出陣はまだなのかと、紀伊国での様子が報告される度に気もそぞろであった。
だが此処に、信長の命が届いた事で晴れて出陣する事が出来る。 それを考えると、水軍達の様子は目に見える様であった。
光秀は旗下の兵は勿論、九鬼水軍と和泉水軍の者達を集める。 するとその席で、信長より出陣の命が出た事を告げていた。
「聞けいっ! 殿より、出陣の下知が届いた。 我らはこれより堺を出陣し、紀伊国雑賀の地へと向かう!」
『おおー!』
未だに戦へ参加出来ていなかったという鬱憤を、漸く晴らす事が出来るのだと意気は天を突く様な勢いである。 そんな彼らを宥めると、光秀は言葉を続けた。
「我らは、雑賀との戦に一石を投じるのだ。 そして戦線を動かし、必ずや織田家の勝利に繋げるのだ」
『おおおおーー!!』
「では、乗船!」
光秀の言葉を切欠に、全兵が鉄甲船へ関船へ小早船へと乗り込んでいく。 そして一兵残らず乗り込むと、彼らの船団は和泉灘(大阪湾)を南下し始めたのであった。
鉄甲船四隻を主とした織田家水軍が堺の湊を出港して南下を始めてから程なく、水軍の動向は信長より中津城に居る織田信重と雑賀川沿いに雑賀衆主力と対峙している羽柴秀吉の両名にも伝えられた。
浜手を行く軍勢の大将である信重は、中野城、鈴木重兼の館、そして中津城と立て続けに戦を行ったばかりでありすぐに動く気はない。 彼は中津城の守りを固める様にと、義頼と丹羽長秀に伝えた。
命を受けた両名は、城及びその周辺の警戒を密にする。 並行して、義頼が伊賀衆と甲賀衆を雑賀衆への斥候として放った。
しかし信重と対照的に、積極的な動きを見せた者が居る。 他ならぬ、秀吉であった。 最も彼とて始めから動こうと考えた訳ではない。 信長からの書状を受け取り、同行している諸将に告げてから暫くした頃に秀吉の元を訪れた堀秀政の存在が鍵となっていた。
「また攻める? 本気か、久太郎(堀秀政)殿」
「如何にも」
「しかし、貴殿が川を越えようとして手痛い目にあったのはつい最近の事ではないか……久太郎殿。 もしかして、死ぬ気か?」
そう。
秀政は前述した通り、この地に着陣してから間もなく、雑賀衆に敗北寸前まで追い込まれている。 秀吉の配下が救出に間にあった為、どうにか見た目上は引き分けに持ち込んだと言うのが正直なところであり、事実上の負け戦と言ってよかった。
その負け戦の舌の根が乾かないうちに、再度の出陣願いである。 負け戦の汚名を返上する為に秀政が無理をするのではないかと秀吉が心配したのも当然と言えた。
しかし久太郎は、首を左右に振り否定する。 それから扇子を取り出すと、差し棒代わりにして近辺の地図を指し示しながら考えを伝えた。
「幸い、若殿(織田信重)の御尽力により中津城が落ちております。 そこで雑賀川の上流より渡河をして、川沿いを南下します。 そして、吹上城などの雑賀方の城を落とすなり降伏させるなりしては宜しいのではないかと」
「そうなりますと、別動隊だな。 敵を引き付ける意味でも、雑賀川沿いに展開している陣を全て払うと言う訳には行きますまい」
秀政の策を聞いて、そう言葉を紡いだのは竹中重治である。 彼の言葉に、秀政も流石に舌を巻いた。 重治が言った事は、正にこれから秀政が告げようとした言葉だったからである。
「流石は今孔明殿。 見抜かれましたか。 して如何であろう、藤吉郎(羽柴秀吉)殿」
秀政から問い掛けられた秀吉は、じっと地図に目を落としていた。
悪い策では無い。むしろ膠着状態となっている前線を動かすと言う意味でも、行うべきだと秀吉は感じた。 しかし、一つ懸念がある。 それは、信重の不興を買うのではないかという懸念であった。
この策を行ってしまうと、半ば浜手の進軍に割り込む形となってしまう。 信重が紀ノ川を越えていなければ問題はなかったが、中津城まで進軍した事でその懸念が生まれてしまったのだ。
「藤吉郎殿。 此処は殿(織田信長)へお伺いをたてましょう」
「半兵衛(竹中重治)?」
「若殿とて、殿からの命であれば何も言いはしないと思います」
「……そうか! その手があったか」
例え割り込んだとしても、信長のお墨付きがあればそれは作戦の一環である。 山手の軍勢が、浜手の軍勢に対して遠慮する必要が無くなるのだ。
「よし、わしから殿へお伺いを立てる。 その後、許しを得られれば久太郎殿の策を実行しよう」
「宜しいかと」
「お願い致す、藤吉郎殿」
急ぎ書状を認めさせると、中野城へと使者を送る。 秀吉からの使者に、訝しげな顔をした信長だったが、書状の内容を見て微苦笑した。
「……久太郎め、取り返そうと必死か。 だが、悪くはないな。 それに此方へ向かっている水軍と合わせれば、より高い効果を得られる……よし、認めてやろう」
信長は書状を二通認めると、中津城の信重と雑賀川沿いに駐屯する秀吉へと送る。 距離の関係から最初に書状が届いたのは、信重であった。
「義頼、長秀。 父上から書状で陣変えだ」
「陣変えにございますか?」
「うむ」
『拝見致します』
信重が取り出した信長からの書状を、二人が読み始める。 義頼と長秀が最後まで目を通した頃を見計らって、信重は彼らに話し掛けた。
「つまりは、そう言う理由だ」
「久太郎殿の援護ですか……」
「うむ」
「では、此方からも一応援軍を出したほうが宜しいかと」
「長秀。 誰か居るか?」
信重に問われた長秀は、暫く思案に耽る。 やがて彼は、一人の男の名を上げた。
「そうですな……出羽守(蜂屋頼隆)殿は如何かと」
「なるほどな。 いいだろう、頼隆を「お待ち下さい」は……何だ義頼」
「どうせならば、此方も動きましょう」
『動く?』
その言葉に、信重と長秀が揃って声を上げる。 そんな二人に頷いた後、義頼は自分の考えを口にした。
「堀殿に送る援軍の送る傍らで、我らはその先へ進んでしまうのです」
「先だと?」
「……右少将(六角義頼)殿。 もしかして、東禅寺山城か?」
「それと、宇須山砦です。これらの城に進撃し、周囲を固めるか攻めるかして両城の雑賀衆が吹上城へ向かえぬ様にしてしまうのです」
これは、雑賀衆を各城に孤立させる為である。 つまり他の拠点に籠る雑賀衆を、吹上城に援軍が送れる状況では無くしてしまおうという意図を狙ったものであった。
「なるほど」
「ふむ……面白い。 やるか」
『はっ』
一方で秀吉はと言うと、信長からの書状が届くと即座に動き始めていた。
彼はまず山手の将を集めて詳細を伝えると、それから陣変えを行う。 その間に秀政は、別動隊を率いて飯沼長実と共に出陣していた。
とは言え、この別動隊に全てを委ねる訳にはいかない。 そこで秀吉は、秀政達が出立した後で残りの将と共に川を渡河する手を打っていくのであった。
それはそれとして秀政率いる別動隊は、太田城を経由した後に雑賀川の上流部を渡河する。 それから川沿いに進んでいたが、中津城に近い辺りで彼らは一つの軍勢と遭遇した。
一瞬敵かと思ったが秀政だったが、その直後に使者が訪問して来た事で警戒も氷解する。 秀政の軍勢に使者を出したのは、蜂屋頼隆だったからである。
「これは蜂屋殿。 この様なところで、如何されました」
「うむ。 若殿の命により、堀殿にご助力致します」
「何とっ! これは、忝い。 しからば蜂屋殿には、我らの後ろに付いていただきたく存じます」
「承知した」
此処に頼隆を加えた別動隊は、進軍を再開する。 やがて彼らは、吹上城を取り囲んだ。
その吹上城だが、城主として土橋一族の土橋平左衛門が入っている。 彼は織田勢の接近が分かると、鈴木重意の居る弥勒寺山城へ援軍の要請を行っている。 だがその頃の弥勒寺山城には、その要請に答える余裕が無かった。
その理由は、織田家水軍にある。 吹上城が秀政率いる軍勢に取り囲まれたのと時を同じくして、織田家水軍が雑賀崎沖へ現れたからであった。
「何っ!? 織田の水軍だとっ!」
「はい、佐大夫(鈴木重意)様。 噂の鉄甲船四隻を中心に、雑賀崎沖へ現れたそうにございます」
「馬鹿なっ! 雑賀崎では目と鼻の先ではないか!! 見張りは寝ていたのかっ! いや、そんな事は今はいい。 急ぎ水軍を出して迎え討たせろ!!」
「はっ」
雑賀水軍を率いる狐島吉次に、重意より出陣の命が下る。 しかし吉次を筆頭に、雑賀水軍の士気はあまり上がっていなかった。
何故なら彼らが鉄甲船を相手にして散々に打ち破られてから、大して時は経っていないからである。 【紀伊沖の海戦】で手も足も出なかった相手であり、 しかも雑賀水軍に甚大な被害を齎しておきながら織田水軍には殆どの被害を出させなかった元凶と言える船がこちらにせまっているのだ。
その事を考えれば、それも仕方が無い事であった。
しかし、命が出た以上は出陣をしない訳にはいかない。 重いと錯覚する体を無理にでも動かし、吉次は雑賀水軍を率いて織田家水軍を迎え打つべく出陣した。
程なくして、雑賀崎を越えた織田家水軍と雑賀水軍が対峙する。 だが兵数も船の数も、そして装備も士気も全て織田水軍が上である。 この状況で勝てるのであれば、そもそも雑賀衆は織田家によって此処まで押し込まれる事は無かった筈であった。
それは兎も角、全てにおいて相手より劣った状態の雑賀水軍ではいかんともしがたい現実が襲いかかっている。 彼らは、織田家水軍の擁する大多数の兵力に押し潰されていくのであった。
「やはりどうにもならなかったか……このままでは全滅だろう……ならば雑賀水軍の意地、例え一矢といえど織田水軍に刻みつけてくれる!」
最早死を覚悟した吉次は、引き入れるだけの軍船と共に四隻の鉄甲船目がけて突撃を開始する。 しかしそれを許すほど、光秀は愚かでは無いし愚将でもない。 彼は鉄甲船に雑賀水軍を引き付けるだけ引きつけると、手にした配を振り下ろした。
「撃てー!!」
光秀の掛け声と共に、一斉に火縄銃が大鉄砲が大砲が火を吹く。 放たれた鉛玉は、接舷して敵船に乗り込む事に希望を見出していた雑賀水軍を容赦なく撃ち抜いていった。
彼らの小早船や関船は、至る所で撃沈したり乗り手を失い海流に流されたりしている。 その中にあって吉次の船は、被害を受けながらも鉄甲船に近づこうとしていた。
「あれは……敵の旗艦か! 作左衛門、拙者の銃を寄越せ!!」
「はっ」
光秀に作左衛門と呼ばれた進士貞連が、一つの火縄銃を取り出す。 これは義頼より光秀へ送られた銃であり、杉谷善住坊などが使用している狙撃仕様の火縄銃であった。
義頼は光秀が銃の名手である事を知っており、彼へ一丁進呈したのである。 贈られた光秀も、射程の長さなどを気にいり新たな愛銃としていた。
因みに義頼は、光秀だけではなく滝川一益にも狙撃仕様の火縄銃を送っている。 彼も光秀同様にその銃を痛く気に入り、義頼へ狙撃部隊の指導を頼み込んでいる。 義頼もそれに答え、服部甚右衛門らを一益の元へと送っていたのだ。
話を戦場へと戻す。
貞連から渡された火縄銃を構えた光秀は、ひたりと狙いを付ける。 その直後、彼は引き金を引いていた。 彼の愛銃より放たれた弾丸は、目標へと突き進んでいく。 程なくして銃弾は、確実に吉次を貫いていた。
「御見事!」
貞連が、光秀を賞賛する。 そんな彼に火縄銃を渡すと、光秀は次の命を出していた。
「敵大将は討ち取った。 最早、立ち上がる事はなかろう。 雑賀水軍など最早烏合の衆、奴らに引導を渡すぞ! 蹴散らせぃ!」
『おおーー!!』
此処に雑賀水軍も壊滅する。 吉次もまた光秀の手により戦場の露と消え、和歌浦の海には織田家水軍を遮る物は無くなったのであった。
銃の名手、光秀の見せ場です。
ご一読いただき、ありがとうございました。




