第十一話~侵攻と撃退~
タイトルも少し変更しました。
第十一話~侵攻と撃退~
三好三人衆筆頭格である三好長逸が近江国へ侵攻する気配を見せた事に対して義頼は、軍勢を率いて長光寺城を出た。 彼らの行き先は、落窪城である。 義頼は当初、矢島越中守の館に入る事を考えていた。 しかしその考えは、本多正信に反対されたのだ。
「何故、落窪城に入る必要がある? 矢島越中守の館でも問題はなかろう」
「いえ殿、それではいささか不味いかと存じます。 矢島越中守殿が左馬頭(足利義秋)様の護衛を六角家から任じられた者である事は、三好長逸も存じている筈にございます。 となれば、矢島越中守殿を抑える為に兵力を裂く可能性がございます」
三好長逸が足利義秋を狙って兵を動かしたのは、ほぼ間違いないであろう。 正攻法による襲撃か不意打ちを狙っているのかは分からないが、どちらであったとしても足利義秋の護衛任務についている矢島越中守を放っておくなど本多正信には考えにくかったのだ。
「ふむ……なるほど。 奇襲を目指しているこちらとしては、長逸に所在を知られたくはない。 そう言う事だな」
「御意」
奇襲。
それこそ、本多正信が義頼と蒲生定秀に提示した策であった。
初め彼から策を聞いた時、義頼は訝しげな顔をしている。 それは、主君と一緒に本多正信から策を聞いた蒲生定秀も同様であった。
そんな本多正信の提示した策だが、敵である三好勢を引き付けそこに攻撃を仕掛けると言う物である。 そして敵を引き付ける場所は、今は誰もいない矢島御所であった。
先ず用意するのは、案山子である。 案山子は特に精巧である必要はなく、遠目から見れば人と思えるぐらいの出来で十分である。 その案山子を矢島御所の各場所へ配置して、さも警備をしている様に見せるのだ。
また、手練れの甲賀衆も配してさも御所内を巡回しているといった雰囲気を本多正信は出させるつもりであったのだ。
「案山子に甲賀衆……か」
「はい。 あと、篝火も灯させます」
「篝火? 夜なら良いが、もし昼であったら何とするのだ?」
「無論、夜間だけにございます。 ですが、必ず有効だと思います」
自信たっぷりに言う本多正信に、義頼は眉を寄せる。 それから、その理由を彼に尋ねた。
「恐らく三好長逸は、不意を突いて左馬頭(足利義秋)様の御所へ襲撃すると思います。 それも、多分夜に」
「何ゆえだ?」
「三好長逸の目的は、左馬頭様にございましょう。 昼ならば直ぐに正体が判明してしまいますが、夜ならば時間が掛かります。 出来ればその隙に、事を終わらせてしまおうと考えていると思います」
「そ、そう言う物なのか?」
「そう言う物にございます」
「……分かった、その方の言う通りにしよう」
「ありがとうございます」
その後、義頼は山中俊好を呼びだすと、彼に本多正信の策を話した上で矢島御所へ向かう様にと命じた。 義頼の命を承知した彼は、腕利きの甲賀衆を連れて御所へと向かう。 やがて無人の矢島御所内に入ると、早速本多正信の策を実行に移した。
その一方で長光寺城を出ていた軍勢だが、予定通り落窪城へと入る。 義頼が到着した落窪城には、矢島越中守が手勢と共に駆け付けていた。
「侍従(六角義頼)様、お待ちしておりました」
「越中守、御苦労」
「はっ。 して日向守(三好長逸)の動向は如何なものなのでしょうか」
「まだ、分からん。 陣触れを出した事しか、正確な事は分かっていない。 だが、狙いは間違いなくこちらであろう。 よって、暫くは待機だ。 我らが動くのは、三好長逸の動きが判明してからだ」
「承知致しました。 何時でも動ける様にしておきます」
「頼むぞ」
「御意」
義頼が軍勢率いて落窪城に入ってから暫く時が経った頃、瀬田城城主の山岡景隆から報せが届く。 その内容は、軍勢が国境を越えたとの事であった。
因みにその軍勢だが、旗印などは掲げていない。 よって正確な正体は判明していないが、山城国からやって来る軍勢など三好家の将兵以外には考えづらい。 つまり山岡景隆が義頼へ報告した軍勢の正体は、三好長逸が率いる三好勢である事に疑う余地などなかった。
すると義頼は、すぐに落窪城から出陣する。 野洲川を越えて間もなく日は暮れたが、そのままなるたけ明かりを使わずに行軍を続けると、今度は小島城へと入った。
小島城は、児島重範が城主を務めている城である。 そして児島重範だが、彼は南北朝の時代に南朝方の忠臣として仕え続けた児島高徳に連なる者でもあった。
児島重範の事は兎も角、義頼が入った小島城だが、篝火などはあまり焚かせずさも普通に過ごしている体を装っている。 これは本多正信が義頼に進言したからであり、そして三好勢に警戒させない為であった。
そんな小島城内で警戒だけは怠らずじっと三好勢を待ってる義頼であったが、その時、一人の馬廻り衆が尋ねて来る。 その者は、瀬田城城主山岡景隆嫡子の山岡景宗であった。
「殿、宜しいのですか?」
「景宗、何がだ?」
「日向守殿の事にございます。 三好家とは、手を結んだのではないのですか?」
「ああ、その事か。 大丈夫だ、問題ない」
「……その根拠を窺っても宜しいですか?」
「そうだな……約定についてだが、右衛門督(六角義治)殿は先代当主であり現当主では無い。 三好家との約定はあくまで右衛門督殿と三好家が個人的に結んだ約定であり、六角家として結んだ訳ではないのだ」
「まぁ。 確かに、その通りではありますが……」
義頼の返答を聞いた山岡景宗は、言葉尻を濁す。 実際、義頼の言葉が間違っている訳ではないからだ。
最も、詭弁に近いのだが。
「次に長逸を攻める理由だが、それは至極簡単だ。 他家の者が、事前の断りもなく将兵を率いて領内に進撃しているのだ。 この慮外者達を撃退する事に、何の躊躇いがあると言うんだ?」
さてそんな話題の人である三好長逸はと言うと、妨害らしい妨害も無く国境を越えている。 彼は夜の闇の中を、三千ほどの兵を率いて足利義秋の館を目指していた。 その進軍中、幸いな事に取り立てて問題などは発生してはいない。 その事実に気を良くしながらも三好長逸は、現地に到着するのは夜半前と当たりをつけていた。
やがてほぼ予想通りの頃合いに御所近くへと到着した三好長逸は、遠目に幾つかの篝火と兵の影を認める。 自分達の事がまだ気付かれていないと判断した彼は、即座に夜襲を仕掛けた。
先手を取った三好勢は、鬨の声と共に矢島御所へと迫る。 その段になって漸く気付いたのか、御所の兵は反撃を始める。 しかし反撃はひどく散発的であり、幾ら奇襲の成功したとはいえ三好長逸は敵の様子に不審気な顔をした。
彼の懸念も間違ってはいない。 前述した通り、御所に居る兵は少数の甲賀衆でしか無いのだ。 幾ら手練れを揃えたとは言え、あくまで少数でしかない。 どうやっても、手数が足りる筈も無かった。
その一方で三好長逸は、眉を顰めながら反撃の手が緩い理由を考え始める。 だが正にその時、彼の元へ急報が齎されたのであった。
「敵にございます! 後方より奇襲を掛けられました!!」
「何だとっ!!!」
後方からの奇襲と言う報告を聞き、三好長逸は歯軋りを始める。 やがてそんな彼の耳に、とても良く通る声が聞こえて来た。
「進めー! 敵に思い知らせてやるのだー!!」
此処で話を少し戻す。
小島城にて敵兵をやり過ごした義頼だったが、彼は軍配を本多正信に預けた。 それから愛馬を操り、軍勢の先頭に立つ。 そこで味方に対して振り向くと、彼らに口上を述べた。
これは昔、義頼が元服する前に兄である六角承禎や傅役でもあった蒲生定秀から言われた事でもある。 味方の士気を高める為にも有効であると諭されたからであり、それを実践したに過ぎなかった。
「良いかっ! 我らはこれより出陣し、三好の軍勢に奇襲を仕掛ける!!」
『はっ!』
「いいか! 思う存分に暴れ、奴らに引導を渡してやれ!!」
『おおー!!』
「では、突撃ー!」
そう味方に号令を下すと、義頼は軍勢の先頭を切って駆け出した。
因みにこれは、苦肉の策と言っていい。 それは、兵数に理由があった。 義頼が揃えた兵数と三好長逸の揃えた兵数を比較すると、敵が率いる兵数の方が多いのである。 そこで本多正信は、兵数が少ないという不利を補い同時に味方を奮い立たせる為に、危険は承知の上で先陣を切る様にと願い出たのだ。
やはり総大将が先頭に立つと言うのは、味方を鼓舞する効果が非常に高いのである。
そんな本多正信からの要請を聞いた義頼だったが、彼は暫く考えに耽った。
六角承禎や教育係も兼ねていた蒲生定秀から総大将が先頭に立つなど危険故に、そうは行うなと言い含められていた為である。 しかし義頼は、それでも本多正信の要請を受け入れた。 彼が決断した理由はやはり彼我との兵数の差を考慮した結果であり、そして味方が勝利を得る為であった。
こうした理由の元、義頼は軍勢の先頭に立つと彼らを率いて出陣する。 その勢いそのままに、三好勢の背後から夜襲と言う名の奇襲を仕掛けたのだ。 この奇襲は効果が高く、三好勢は浮き足立っただけでは無く一部では同士討ちすら始めてしまう。 そんな敵勢を見た義頼は、更に果敢に攻めたてたのであった。
やがて間もなく、六角勢の攻勢に耐えきれなくなった三好勢はあちこちを食い破られ始める。 その事が更なる混乱を呼び、彼らは軍勢としての体を成さなくなってしまった。 そんな三好勢の混乱を、本多正信が見逃す筈も無い。 彼は義頼から預けられた軍配を返すと、後詰の兵のうち半数を増援として投入した。
敵勢からの攻勢がより強くなり旗色が不利になったと感じた三好勢は、足軽を中心に我先へと逃げ出し始めてしまう。 これではどうにもならないと感じた三好長逸もまた、未練を残しながらも撤退へと入った。 そんな三好勢の様子を見た本多正信は、すかさず後詰の兵全てを投入する。 この一手が決め手となり、三好勢は完全に瓦解してしまう。 そんな敵勢の様子を見た義頼も、追撃に入っていった。
義頼からのまさかの奇襲に軍勢を瓦解させられてしまった三好長逸はと言うと、兎にも角にも国境を目指していた。
この状態で軍勢の立て直しなど、まず無理だと判断したからである。 ひたすら逃げに徹した三好長逸は、国境を目指して馬を駆けさせた。 漸くあと少しで瀬田川というところまで辿り着いた彼は、そこでほんの一瞬だが安堵する。 しかしそれは、ぬか喜びとなる。 と言うのも、彼は視線の先に複数の者達を認めたからだ。
撤退中の三好長逸が見た軍勢の正体は、偶々月明かりで見えた旗印によって判明する。 黒餅に木瓜の旗印を掲げた軍勢の正体は、瀬田城から打って出た山岡景隆が率いる将兵であった。
「……最早これまでか」
「何をおっしゃられます。 総大将がそう簡単に諦めて、どうなされるのですかっ!」
そう言って長逸を諫めたのは、中村高次と言う男であった。
彼は元々、松永久秀の家臣だったのだが、彼から離反して三好長逸についた男である。 中々の剛の者という事もあり、三好長逸は己の護衛も兼ねて傍に置いていたのだ。
「そうは言うがな、高次。 この重囲をどう切りぬけろと言うのだ?」
前方には山岡景隆が率いる軍勢が陣取っているだけではない、後方より義頼率いる軍勢も迫って来ているのである。 三好長逸は、今まさに「前門の虎、後門の狼」を地でいっている様な状況なのだ。
「拙者が残ります。 日向守様の兜と陣羽織を、拙者の物と取り換えて下され」
つまり中村高次は、主の身代わりとしてこの場に残ると宣言したのだ。
流石に鎧を着換えている暇などないが、兜や陣羽織ぐらいならば直ぐに交換できる。 三好長逸の兜や陣羽織は高次の物に比べれば遥かに煌びやかであり、間違いなく敵の目を引きつける代物であった。
そう申し出た中村高次の意図を察した三好長逸は、一瞬だけ躊躇ってから兜と陣羽織を渡す。 そして中村高次だが、彼は陣羽織を羽織っていなかったので兜だけ長逸に手渡していた。
間もなくそれぞれが交換した物品を着込むと、三好長逸は踵を返す。 前方の山岡景隆が率いる兵を避ける為、大きく迂回する様に馬を駆けさせる。 徐々に小さくなる主の後ろ姿を少し見やったあと、中村高次は視線を戻した。
それから程なくした頃、彼の後方から軍勢が現る。 そちらに目を向けた中村高次は、軍勢の先頭に居る若者を見掛けた。 その若者は派手さこそないが、確りとした鎧を身に着けている。 そして手に槍を持ちつつも、巧みに馬を操りながら駆け来ているのだ。
「あれは……これで時が稼げそうだ」
そう呟くと、中村高次は手にした槍を扱いた。
そして一気に駆け出したかと思うと、軍勢の先頭に居る若者へと肉薄する。 彼はその勢いのまま、槍を繰り出した。 しかし突然襲ってきた槍を、寸でのところで若者、即ち義頼は避ける。 彼の手による急な制動に愛馬は不平を漏らしたが、彼はすかさず馬を宥めていた。
義頼は馬術においても、兄の六角承禎が興した佐々木流馬術免許皆伝である。 そんな義頼であるから、馬の扱いは中村高次よりも遥かに上手い。 彼は、巧みに愛馬を操りながら敵と相対した。
「何奴ッ!」
「我は三好日向守! 暫し相手をして貰うぞ、六角侍従!!」
三好長逸の名を騙る中村高次の言葉に、義頼は眉を顰めた。
聞き及んでいた人相と、違う様な気がしたからである。 しかし月明かりがあるとは言え夜であり、もしかしたら見間違いかもしれないと義頼は思い直していた。
正にその時、三好長逸の名を騙っている中村高次が義頼に対して連続で槍を突いて来る。 しかし義頼もまた、手にした愛用の武器で攻撃を弾いでいた。 そして彼が手にしていたその武器だが、長さにして二尺半(凡そ七十五センチ)ぐらいの物である。 更にその端には、紐が繋がっていた。
「……それは打根……か?」
中村高次が驚くのも無理はない。
戦場で使われる武器は、大抵槍の様に長柄を持つ武器が多い。 他にも大太刀や長巻などがあるが、始めから打根を使う者などそうは居ないからだ。
「そうだ。 何か問題でもあるか?」
「……いや、ないな」
「ならば良いだろう」
そう言うと、義頼は打根を構える。 その構えを見た次の瞬間、中村高次は身構えていた。 義頼の構えは、とてもその若さで辿りつけたとは思えないくらい堂に入っていたからである。 言わば彼の警戒心が、構えを取らせたと言っていい。 そしてその警戒心は、間違いではなかった。
義頼は愛馬を駆けさせると、一気に肉薄する。 そしてすれ違い様に、打根を繰り出した。 それは鋭く、先ほどの構えが決して虚仮脅しでは無かったと確信させる一撃である。 何とか義頼の一撃を凌いだ中村高次は、すかさず体勢を整える。 だがその瞬間、目を見張った。 何と義頼が、振り向きざまに何かを投げつけていたからである。
それが何かを確認する暇などなく、中村高次は馬上より体を投げ出す事で何とか回避する。 多少は体を打ち付けたが、それでも受け身を取る事で幾らかは衝撃を和らげていた。
顔を顰めながらも立ち上がった中村高次は、視線を前方へ向ける。 彼の視線の先では、義頼もまた馬から降りたところであった。
義頼が先程投げつけた何かを警戒し、距離があるにも拘らず中村高次は身構える。 そんな彼に対し義頼は、懐に手を入れると何かを複数取り出す。 それは月明かりを反射し、鈍く光っていた。
義頼が手にしている何かだが、長さは一尺(凡そ三十センチ)より少し短いぐらいであろう。 それは矢の形をしており、正体は投げ易い様に短く加工した打矢であった。
その直後、義頼は取り出した打矢を同時に三本投げつける。 中村高次は投げられた打矢のうち、二本は槍で叩き落とす事に成功している。 しかし最後の一本を落とす事は出来ず、彼は体を捻る事で何とか避けていた。 どうにか打矢を避けた中村高次が視線を戻した瞬間、彼は大きく目を見開く。 何と今度は、義頼が手にしていた打根を投げつけたからだ。 中村高次の頭を狙って投げられた打根であったが、彼は大きく横に飛び退く事で避ける。 そして次の瞬間、義頼に向って駆け出した。 そんな相手の行動を見た義頼は、慌てず騒がず僅かに手首を返す。 その動きに従い、紐によって繋がれた打根は彼の手の中へと戻った。
まさか投げた打根が戻るとは思っていなかった中村高次は、慌てて立ち止まる。 その隙に義頼は懐から打矢を取り出すと、引き戻した打根と共に打矢を構えた。
間合いを保ちつつ、対峙する両者。 得物は中村高次の方が長いが、義頼には紐で繋がった打根があり打矢もある。 むしろ間合いでは、義頼の方に分があると言えた。 何せ中村高次ではあと数歩は近づかねば、手にした槍の間合いに入れないのである。 しかし義頼は、既に攻撃の間合いであったからだ。
「疾っ!!」
小さな掛け声と共に、義頼は打矢を二本投げる。 中村高次自身に一本、そして彼の右側にもう一本である。 それを見た中村高次は左に動いたが、それが実は囮であった。
打矢を避けた事で僅かに体勢が崩れた相手に対して、今度義頼は打根を投げたのである。 打根自体は当たらなかったが、打根の後ろに繋がる紐が中村高次に絡まった。 その瞬間、義頼はにやりと笑みを浮かべながら思いっきり打根を引きつける。 体勢が整わないうちに引っ張られてしまった中村高次は、抵抗する間もなく倒れ込んでしまった。
直後、義頼自身が襲い掛かる。 倒れ込んでいる中村高次の背中から馬乗りになると、鎧通しを引き抜きそのままわき腹を刺し貫いた。 その為か、くぐもった声が中村高次の口から洩れる。 するとその時、二人の将が義頼の元へ駆け寄って来た。
『殿! ご無事ですか!!』
現れたのは、寺村重友と山内一豊である。 するとその声を聞いた義頼の意識が、一瞬だけ中村高次から逸れた。
「退けいっ!」
彼は気合いと共に、義頼を押しのけ様とする。 すると義頼は、敢えて逆らわずに中村高次から離れた。 わき腹から鎧通しを引き抜きながらも何とか立ち上がったが、彼の表情は蒼ざめている。 青白い月明かりも相まって、白に近い色をしていた。
「諦めろ。 俺達三人を相手にするつもりか、その傷で」
「やかましい!」
気合だけは籠った声を返した中村高次は、鎧通しを放り投げ代わりに自らの刀を抜く。 しかしわき腹から血は流れ落ち、足元もおぼつかない様子であった。 しかし中村高次は、降伏だけはするつもりはない。 三好長逸を逃がす時間を稼ぐ為にも、敵の総大将である義頼を足止めし続けなければならないからだ。
その悲壮とも言える覚悟を見せる中村高次に、せめて自ら止めを刺そうと義頼は打根を構える。 しかし彼の前に、寺村重友と山内一豊が立ち塞がった。
「一豊、重友。 退け」
「出来ません」
「殿。 伊右衛門(山内一豊)殿の 言う通りにございます。 此処は我らに、お任せを」
山内一豊も寺村重友も、義頼の気持ちが分からないでは無い。 相対した者として、自らの手で止めを指してやるのが武士の情けと言うものだ。 しかし家臣として、例え主君の義頼が九分九厘勝てるであろうとしても見過ごすなどできはしない。 介入できない状況であるならまだしも、今は介入できるのだ。
彼らはその意思を表すかの様に、槍を構え穂先を中村高次へと向ける。 そんな二人を少しの間見た義頼は、やがて軽く頭を振った。
「……分かった。 二人に任せる」
『御意』
怪我をしていなければ、もしかしたら逃げ遂せる事も出来たかもしれない。 しかし三好長逸を逃がす為にも残らない訳にはいかない上に、致命傷に近い傷を負っている中村高次ではもはや勝負は見えていた。
彼はせめてもの意地か、刀を振りかぶると寺村重友と山内一豊へ襲い掛かる。 そんな高次に対して二人は、手にした槍を一閃する。 直後、寺村重友の槍は左胸を、そして山内一豊の槍は鳩尾をそれぞれ貫いていた。
「む、無念……」
それが、中村高次がこの世に残した最後の言葉であった。
此処に中村高次は討たれたが、義頼と対峙した事で稼いだ貴重な時が三好長逸の命を存えさせる事には成功している。 だが多くの三好勢は、主の名を騙った中村高次も含めて長逸の家臣幾人もが戦場の露と消えていた。
こうして三好勢がからくも撤退した後、義頼は兵を纏める。 それから山岡景隆と合流すると、瀬田城まで兵を進めている。 そこで義頼は、三好勢が国境を越えたのを自らの目で確認した。
しかしすぐには兵を引かず、数日の間は瀬田城に駐屯する。 その間に義頼は、観音寺城の六角高定や(ろっかくたかさだ)六角承禎に対する戦の結果報告を行う。 同時に、撤退した三好勢の情報収集にも努めていた。
「……定秀、どうやら第二陣は無い様だな」
「その様です。 弥八郎(本多正信)はどう思うかの」
長光寺城で留守居役をしていた蒲生定秀であったが、三好勢が六角領内より撤退すると義頼に呼ばれて瀬田城へと赴いていた。 そんな蒲生定秀だったが、彼は手渡された書状を読みつつ主の問いに答える。 それから書状を本多正信に渡しながら、彼の考えを尋ねている。 渡された書状を一読した後で本多正信は、義頼と蒲生定秀に返答した。
「殿。 拙者も、藤十郎(蒲生定秀)様と同じです。 長逸がすぐ兵を新たに起こすとは考えづらいですし、その余裕も無いでしょう。 また、他の三好家臣が長逸の二番煎じを行うとも思えません」
「だろうな……次の報告次第では、兵を引くぞ」
『御意』
その後、義頼は甲賀衆が集めた最新の情報を確認すると、瀬田城より兵を引いても問題はないと判断する。 しかし念の為、山岡景隆には警戒を怠らない様に釘を刺した。 無論、山内景隆も分かっている。 彼は義頼の命に、確りと答えたのであった。
なおこの戦で義頼は、三好長逸が繰り出した兵の半数強を討ち取っている。 これは、敵兵力の壊滅と言ってもいい損害を与えたと等しい。 この三好勢の惨敗と言える結果と、対照的に攻められた六角家の被害が少ないという事実だけを残して三好長逸の足利義秋襲撃は幕を下ろしたのであった。
さて、ところ変わり観音寺城の麓にある六角館。
時にすると、丁度義頼が瀬田城に駐屯している頃の事である。 三好勢撤退の報告を受けた六角承禎は、二人の男と顔を合わせている。 そこに居たのは、蒲生賢秀と進藤賢盛であった。
「賢秀に賢盛、力を貸して貰うぞ」
『力、にございますか?』
六角承禎の言葉に、二人は何とも言えない表情を浮かべながらも顔を見合わせた。
今でこそ表立って動いている訳ではないが、六角承禎の持つ影響力は六角家内では大きい。 それこそ、現当主の六角高定と比べても決して引けは取らないと思われる。 だからこそ六角承禎は、表立って動いていないのだ。
家中に混乱を齎さない為に。
しかしながら、そんな六角承禎が力を貸せと言う。 蒲生賢秀と進藤賢盛が困惑するのも、仕方が無かった。
「うむ、そうだ。 義治を捕える。 その為に、その方らの力を借りる」
『はあっ!?』
六角承禎の言葉に、二人は声を上げる。 しかし、それも当然と言えば当然であった。
いきなり六角家先代当主である六角義治を捕えるから力を貸せと言われれば、六角家家臣であれば誰しも似た様な反応をするであろう。 それくらい、六角承禎の言葉は唐突だったのだ。
「な、何ゆえにございますか」
「決まっておるわ賢秀。 これ以上、あ奴に勝手をさせる訳にはいかないからだ。 そなたらも知っておろう、此度の騒動の原因を。 何とか義頼が左馬頭様に対して手を打ち、かつ攻め込んだ長逸を撃退したからいい様な物を放っておいたらどうなったか」
六角承禎にそう言われては、二人としても言葉の返し様が無かった。
重臣に諮った上で、かつ現六角当主である六角高定の代理として三好家との交渉に当たったのならばその行動に何ら問題はない。 しかし彼の独断で三好家と約定を結ぶなど、蒲生賢秀と進藤賢盛をして六角義治の行動は遺憾の極みと言っていい物であった。
確かにこのまま放っておけば、この先何が起きるか分からない。 それを考慮して六角義治を捕えると言う六角承禎の言葉は、六角家重臣としてそして近江国人として否定出来るものでは無かった。
「承禎様。 右衛門督様を捕えた後、如何なさるおつもりですか?」
「賢盛、寺に入れるつもりだ。 命を奪わんのは、せめてもの親心だ」
「御屋形様はどう致します?」
「わしから説明する。 お主らは、わしの指示に従っただけだからな」
「……分かりました。 この山城守(進藤賢盛)、ご下命に従いましょう」
「……この左兵衛大夫(蒲生賢秀)も、従いまする」
「すまぬな」
こうして六角承禎は、蒲生賢秀と進藤賢盛と共に息子の六角義治を捕えていた。
つまり六角承禎の中では、息子の説得など時間稼ぎでしか無かったのである。 足利義秋が六角領内より無事に退出するまでの。
その上で六角承禎は、この捕縛について六角高定にも前述した様に知らせていない。 その為、六角承禎が六角義治を捕えたとの報告を受けた六角高定は慌てて確認をしたのであった。
「父上っ! 兄上を捕えたのですか!!」
「……ああ。 これ以上、義治を放ってはおけぬ。 それに、此度の騒動に対する責任は取らせなければならぬであろう」
「それには同意致しますが……」
「義治は石馬寺に入れる。 命を奪わずに寺に置くのは、わしからせめてもの情けだ!」
「……承知しました……」
六角高定は必ずしも納得したという訳ではない。 しかし、家中に対して見える形で動いておくことが必要だという事も理解できる。 その点を考えれば、父親の行動を非難するのは難しかった。
だからこそ六角高定は、不承不承でも六角承禎に従ったのである。 しかし、話はこれで終わらなかったのである。 今回の戦に至る経緯は六角家家臣、取り分け義頼に近い重臣を除く他の重臣に新たな動きを齎す要因の一つとなる。 この動きは密かに進行したが、領国内外においての情報収集に力を入れていた義頼の耳目を誤魔化す事は出来なかった。
瀬田城から長光寺城へ戻ってから暫くした頃、彼ら重臣達の動きに関して鵜飼源八郎から重臣達の動きについて報告を受けた義頼は少し考に耽る。 その後、彼から詳細について問い掛けたのであった。
「まさか、兵を挙げるとかでは無いだろうな」
「その様な感じはありません。 ですが、十人以上の六角家重臣が動いているのは確かです」
「十人以上か……何かあるな。 よし源八郎、重点的に調べろ。 これは全てに優先する命だ!」
「御意」
鵜飼源八郎が消えてからも義頼は、暫く考える。 それから無意識に、彼は言葉を漏らしていた。
「あの【観音寺騒動】以来、どうにも落ち着かない。 常に六角家家中に火種が燻っている、そんな感じだ。 何事も起きなければいいのだが……」
その後、部屋の障子を開けた義頼は夜空を見上げる。 すると彼の今の気持ちを代弁するかの様に、雲が月を覆い隠していくのであった。
ご一読いただきありがとうございました。




