第百三十二話~【木津川口の海戦】~
第百三十二話~【木津川口の海戦】~
紀伊国沖の海上で雑賀水軍をほぼ撃滅した九鬼水軍は、堺の湊、及びその近郊に錨を降ろすとそこで数日停泊した。その間に九鬼水軍は、淡路水軍と漸く再建が成された和泉水軍、さらには明智光秀と合流する。その後、和泉灘(大坂湾)と木津川河口付近に水軍を展開させ、石山本願寺への兵糧などといった戦略物資を運び込む為の海路封鎖を行ったのであった。
ここに、織田家勢力による石山本願寺包囲網が約一年半ぶりに復活する。すると石山本願寺攻めを行っている軍勢の総大将を勤める佐久間信盛は、かねてからの取り決め通り旗下の軍勢で陸側から石山本願寺を包囲した。
それから間もなく、彼は息子の佐久間信栄と共に石山本願寺の砦に対しへ攻撃を仕掛ける。その攻撃に対応するべく、顕如は石山本願寺より援軍を出して来た。
「そう簡単に、砦を落とさせてなるものか!」
石山本願寺より、顕如の命を受けた下間頼龍が打って出る。すると佐久間信盛は、到着した石山本願寺の援軍と適度に戦ってから一度撤退した。勝利を得たことでお役目御免となった援軍は、意気揚々と石山本願寺へと引き上げる。これで終わりならば石山本願寺側も苦労はないのだが、そうは問屋がおろしてはくれない。織田勢による陸からの攻撃は、このあとも担当する将を変えつつも執拗なまでに行われ続けたのだ。
これでは、織田勢から完全に包囲されている石山本願寺勢は堪らない。援軍として派遣される兵も、何度も行われれば消耗する。それは兵糧などの物資も同じであり、どちらも日にちがたつに従って目に見えて減っていく。ここに顕如は、密かに援軍の要請を毛利家と阿波三好家に向けて出す決断をした。
とはいえ阿波三好家は、まだ家中の動乱の影響が残っており顕如からの要請に答えるのは難しい。何より篠原長房の反対もあり、三好長治は顕如の要請に答えることはしなかった。
その一方で毛利家だが、こちらは阿波三好家と違い全く問題がない。流石に数日のうちに出陣というのは無理な話だが、それでも時間を掛ければ兵糧等の物資の搬入を含めて要請に応じることができるからだ。
「……要請に応じましょう、殿」
顕如からの書状を読んだ小早川隆景が、主君でありかつ甥にあたる毛利輝元に対して溜息交じりに告げていた。
彼も本音でいえば、援軍など送りたくはないのである。だが鞆に居る足利義昭からも、石山本願寺の援軍要請に答えるべきとの達しが来ている。その意味からも、そして何れは干戈を事になる織田家の力を削ぐという観点からも無視する訳にはいかなかった。
「叔父上、良いのか?」
「……致し方ありません」
苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべながら、小早川隆景は毛利輝元へ答える。その表情が、不本意である心情を如実に表していた。
「そうか。相分かった。では、兵糧と共に援軍を送るとしよう」
「それで宜しいかと」
元々、兵糧等を送る予定はもう少し先だが確かにあった。
それにかこつけて毛利家は、旗下の水軍を和泉灘へ送る気だったのである。派遣した水軍によって織田家水軍を討てれば最上、たとえ敗れてしまったとしても物資だけは石山本願寺へ送り届けるつもりであった。
「して、叔父上。大将は誰にするか……」
「掃部頭(村上武吉)を大将として、小早川と毛利の水軍を送りましょう」
「分かった」
ここに村上武吉を総大将とした毛利家旗下の水軍が、和泉灘へ急遽派遣されることとなる。和泉灘への派遣を命じられた村上武吉は、即座に織田家と戦う水軍衆を編成した。それから程なく、水軍自体の編成も終える。また石山本願寺へ搬入する兵糧等が揃うと、村上武吉は兵や物資を満載させた水軍を東進させたのであった。
さて毛利家水軍の目指す和泉灘であるが、相変わらず織田家水軍が陣取っていた。
彼らは時おり、鉄甲船に搭載している大砲を石山本願寺へ向けて発射している。最も、石山本願寺まで届かせることなどは、いかな大砲でも無理であった。
よって狙っているのは、比較的近い位置に存在する石山本願寺勢の砦である。大砲の命中率はお世辞にもいい方ではないが、砦に籠る一向宗門徒の士気を挫くには十分な効果があると予測されていた。果たしてそれは、目論見通りとなる。砦が被る損害と比例するかのように、砦に籠っている一向宗門徒の士気が落ちていったからだ。
その結果だけでも、効果は十分あったといえる。今回の戦で織田家の火器を取り扱う部隊を統率している義頼の機嫌は、悪いものではなかった。しかし、その機嫌の良さも唐突に破られることとなる。それは、緊急の知らせが義頼の元へ届けられた為であった。
「殿!」
「どうした、祐光」
「毛利家の水軍が現れたとの報せにございます!」
「……ついに、来たか……」
沼田祐光からの報告を聞いた義頼は、毛利家の水軍が来るであろう西方へと目を向ける。やがて彼の目に、小さな黒い何かが映る。それらは徐々に数を増し、ついには多数の船を擁した船団として彼の目に映り込んだのでいた。
とはいうものの、まだ彼我に距離がある。その為、船団が掲げている旗などは見えず確認もできない。だがあれだけの数を擁し、かつ運用出来ているとなれば、まず毛利家以外には考えられなかった。
「流石の数よ。中国の雄、毛利ならではだな。ところで祐光、彦右衛門(滝川一益)殿や大隅守(九鬼嘉隆)殿、十兵衛(明智光秀)殿には知らせたのであろうな」
「無論にございます」
「なればよし。何れ、命が届くだろう」
それから間もなく、総大将の九鬼嘉隆から迎撃準備の命が届く。その命に従い、六隻の鉄甲船を含む織田家水軍がゆっくりと動き出した。そのまま木津川河口沖に出た織田家水軍は、鉄甲船を前面に押し出す。その周辺には、小早船や関船が沢山展開していた。
さてこの海戦における戦術だが、基本的には雑賀水軍を撃滅に近い状況へと叩き込んだ【紀伊沖の海戦】と同様である。鉄甲船で敵を引き付けるだけ引き付け、しかる後に返す刀で反撃へと移るのだ。
その後は、反撃に動揺していると思われる毛利家水軍に織田家水軍が攻撃を仕掛けてこれを敗走させる あわよくば、雑賀水軍と同様に撃滅、いやそれ以上の壊滅へ追い込むのが至上の目的であった。
「右少将(六角義頼)様……その、出来るのでしょうか」
「できるかできないかではない、やるかやらないかだよ重勝。虚仮の一念、岩をも通すとも言う。その心づもりで掛かれば、困難も成就するだろう」
義頼とて、村上水軍を中核とした毛利水軍に勝てるかどうかなど分かりはしない。しかし兵を率いる者として、一度決めた以上は迷いを見せる訳にはいかないのだ。内心はどう思っていようとも義頼は、表面では確固たる意志を駒井重勝へ見せていた。
「……そう、ですな。今さら臆しても、仕方がありません」
「そういうことだ」
弱気が完全になりを潜めるまでには至らなかったが、それでも義頼の決意は駒井重勝に伝わっていた。
一方でゆっくりと近づいてくる鉄甲船を見て、村上武吉は嘲りの笑みを浮かべていた。
何といっても、鉄甲船は遅いのである。自重が他の船など比べ物にならないことが理由だが、それゆえに航行する速度はそれこそ亀の歩みのようであった。
「左衛門大夫(狐島吉次)殿も不甲斐ない。あのような、見た目だけの船相手に負けたのか。左衛門尉殿は、どう思われるか?」
村上武吉は、自身の近くにいる左衛門尉こと香川広景に声を掛ける。彼は黙って鉄甲船を見ていたのだが、少し間を開けてから言葉を返した。
「……そう、だな。あのような虚仮脅し、我らには通用せん」
「正しくその通り。今一度、織田の水軍に海戦とは何たる物かを教育してやろうではないか」
「うむ。そうだな」
やがて村上武吉の目に、織田家水軍の旗が見て取れた。
織田家の旗印である木瓜は無論だが、他にも九鬼氏の旗となる七曜紋に丹羽氏の表す直違、さらには明智氏の土岐桔梗に六角氏の隅立て四つ目が目に入る。その途端、彼の眼がすっと細まったかと思うと六角家の旗を睨みつけた。
さて、村上武吉が何ゆえに六角家の旗に対して睨みつけているのか。その理由は、【堺沖の海戦】まで遡ることとなる。実はあの戦に、彼の息子である村上元吉が父親の代理として参戦していたのだ。
村上元吉は海戦にて順調に手柄を立てていたのだが、戦の最終局面で思いもよらない不覚を取ってしまう。それは、義頼が行った火矢による援護射撃において負った手傷であった。しかし幸いな事に、従兄弟叔父に当たる村上景広のお陰で命の危険にまでは晒されていない。だが炎の洗礼を受けたことに変わりはなく、彼は体に若干の不自由を残してしまっていた。そういった経緯もあって、この海戦には参加していない。彼は国元で、父親の名代を勤めていた。
「掃部頭殿。いかがされた」
村上武吉の雰囲気が変わったことに気付いた香川広景は、何事かと尋ねる。その声で我に返った村上武吉は、一まず睨むことを止めていた。
「……何でもない。お気に召さるな、左衛門尉殿」
「そうか? それならば、宜しいが……」
香川広景は大将の顔を窺うように見るが、しかし村上武吉は不敵に笑うだけである。その様子に、大丈夫のようだと少し安心すると彼は言葉を続けていた。
「さて、そろそろ先鋒が接敵するだろう。大将、ご命令を」
「うむ。味方先鋒に通達、敵の船に攻撃を仕掛けよ!」
「御意」
果たして、毛利家の水軍で先鋒を務める浦宗勝と鉄甲船が接敵する。しかし勇将の誉れ高き浦宗勝であっても、鉄甲船を攻めあぐねていた。機動という点でいえば、余裕で勝てる。しかし、それだけなのだ。
そればかりか、近付こうとすれば大砲や大鉄砲や火縄銃、そして火矢の洗礼を受けてしまう。たとえ掻い潜ったとしても、今度は焙烙玉がまるで功を奏さない。鉄甲船は、意も関せずに攻撃し続けているのだ。
まさか頼みの綱ともいえる焙烙玉が効かないという想定していなかった事態に、毛利家の水兵は気落ちしてしまう。そこに九鬼水軍の先鋒を命じられた佐治隆俊が、攻撃を仕掛けた。その攻撃で我に返った浦宗勝であったが、彼は即座に旗下の将兵を掌握に掛かる。だが鉄甲船から火矢や鉛玉が次々と撃ち込まれ、混乱し動きが鈍ると九鬼水軍が満を持して切り込んで来る。勇将の浦宗勝をしても、この状況で水軍の把握は難しかった。
結局、浦宗勝と毛利家水軍の先鋒は、焙烙玉による火力など遥かに凌ぐ火力を擁している鉄甲船に押し込まれてしまう。毛利水軍の先鋒は、鉄甲船を沈めるどころか、逆に次々と船の舳先を海底へ向けていくこととなってしまった。
「おのれ織田! おのれ六角!!」
味方の先鋒を突破された村上武吉は、織田の鉄甲船を憎々しげに見やりつつ怒りをあらわにする。その隣では香川広景が、いかに反撃するか考えを巡らす。だが、一考に妙案など浮かんでこなかった。その間にも鉄甲船は、毛利家の水軍を鎧袖一触とばかりに沈めながら徐々に迫って来る。やがて鉄甲船からの銃弾が、彼らの乗る船にも届き始めていた。
しかし距離はまだあり、届いたとしても偶々である。むしろその場合は流れ弾に近く、それゆえに弾丸がどこから飛んでくるのか分からないという怖さも併せ持っていた。
「掃部頭! このままでは、我らも危うい。一まず引き、体勢を立て直してからしかるのちに再戦を望むべきであろう」
「戯け! 今ですら押せぬというのに、いつ押せるというのだ!!」
「しかし!! このままでは、敵に貫かれ分断される。そうなれば、各個撃破されるぞ!」
「ならばあの船に接敵し、乗り込めばいい。さすれば、勝機を見出すこともできよう……がはっ!」
村上武吉の言葉を詰まらせ、その後、彼から血反吐を噴出させたもの。それは、銃声とそれに続くたった一発の銃弾であった。
この戦で杉谷善住坊は、鉄砲衆を率いる将としてではなく狙撃兵として敵を、それも敵将を中心に涅槃へ叩き込んでいた。そんな彼の視界に、村上家の旗をたなびかせる安宅船が入って来る。さらに目を凝らすと、誰かまでの判別は出来なかったが敵将と思われる二人が甲板にいるのが見て取れた。
思わぬ獲物を見た杉谷善住坊は、不敵に笑みを浮かべてから狙いを定める。波間に揺れる船の中にあって、その時の彼は異様であったと周りの兵はのちに述懐していた。
それというのも杉谷善住坊が、船の揺れなど意に介さずにまるで陸地で狙いを定めているかのように身動ぎ一つしなかったからである。一種、異様とも言える雰囲気が周囲へ流れる中、杉谷善住坊は引き金を引いていた。
彼の持つ銃口より打ち出された弾丸は、まるで撃ち手の意識が乗り移ったかのごとく目標へと突き進んでいく。やがて鉛玉は、香川広景と言い合っていた村上武吉のこめかみを正確に貫いていた。
「な、何!? 何が起こった!」
今の今まで目の前にあった村上武吉の頭が、弾かれたように横へと動き、それに続くように彼の体が横に流れ倒れ込む。一瞬、何が起きたか分からず、香川広景は茫然と倒れ込んだ村上武吉を見ていたのだが、そのうちに彼の頭から血が流れ出したのを認めると、はっとなり周囲を見回した。
だがその直後、彼にも銃弾が襲いかかって来る。それは、杉谷善住坊が放った第二弾である。そしてその弾丸も、寸分違わずに香川広景の額を貫いていた。
「ば、馬鹿な……」
彼は、驚愕の表情を浮かべつつ、そのまま意識を闇へと落とした。
敵将が倒れていくのを見届けた杉谷善住坊は、構えた火縄銃を降ろす。それから一言、漏らしたのであった。
「敵将二人。"撃ち"取ったり」
洒落を交えつつも彼は、自身の挙げた戦果を噛み締めたのであった。
村上武吉、憐れ狙撃銃の餌食となりました。
なお文中の最後の言葉ですが、誤字変換ではありませんので。
ご一読いただき、ありがとうございました。




