第百三十一話~【紀伊沖の海戦】~
第百三十一話~【紀伊沖の海戦】~
石山本願寺包囲網の一端として、また毛利家水軍と雌雄を決する為、和泉灘(大阪湾)へと向かう九鬼水軍であったが、すんなりと和泉灘へ到達することはできなかった。その理由は、紀伊国沖の海上で別の水軍に行く手を阻まれた為である。九鬼水軍の航行を邪魔したのは、狐島吉次が率いる雑賀水軍であった。
実はこの時、雑賀衆は阿波三好家にも彼の家が擁する阿波水軍へ出陣を促す書状を届けている。しかし要請の書状を受け取った阿波三好家は、適当な理由を付けて出兵を断っていた。これは、阿波三好家で起きたお家騒動における混乱がまだ完全に収まっていないという現実的な理由もある。しかしそれ以上に、重臣の篠原長房が主君の三好長治に対して水軍を出すべきではないと主張したからであった。
彼は今までの戦から、織田家は決して侮れはしないと考え直し、改めて彼の家の情報を集めたのである。その過程に置いて鉄甲船のことも知り、その船の性能についてもしらべたのだ。その結果、阿波水軍では勝てないのではないかと危惧したのである。そこで篠原長房は、これ以上の阿波三好家の損失を押さえる為に三好長治へ意見したのだ。
一方で三好長治も重臣たる篠原長房から懇切丁寧な説明を受け、彼の意見に同意する。こうして阿波三好家は阿波水軍を出陣させず、戦を静観すると決めたのであった。
海上に展開している雑賀水軍であるが、彼らは鉄甲船六隻を先頭にゆっくりと進む九鬼水軍に対して嘲りの視線と嘲笑を向けている。確かに鉄甲船は大きな船であるが、その重さゆえか船足が遅い。彼らからしてみれば、的が動いているようにしか見えなかったからだ。
「威圧感はあるが、それだけの虚仮脅しだな」
「確かに」
雑賀水軍を率いている狐島吉次が、隣にいる岸忠次郎に話し掛ける。すると、彼も相槌を打つ。何せ岸忠次郎にも、鉄甲船はその鈍足さゆえに的としか見えなかったからだ。
「では、さっさと終わらせるとしよう」
「そうだな狐島殿。これならば、毛利家の水軍に出張って貰う必要などないな」
岸忠次郎の言葉に狐島吉次は、一頻り笑ってから返答した。
「ははは。違いない。では早速……撃て!」
狐島吉次の命を受けて、雑賀衆から焙烙火矢が放たれる。しかしながら焙烙火矢は、鉄甲船に当たると跳ね返されてそのまま海へと行き先を変更していた。
『何!!』
焙烙火矢が効果を表さず、そして火もつかない。こんな状況など、過去に一度もなかった。その為、雑賀水軍を率いている狐島吉次や岸忠次郎を含め、雑賀水軍衆は次弾の装填も忘れてまじまじと鉄甲船を見やっている。そんな彼らの様子など全く頓着しない鉄甲船を擁する九鬼水軍は、そのまま間合いを詰めていった。
そこで漸く我に返った狐島吉次は、すかさず雑賀水軍へ指示を出して次弾を装填させる。間もなくて、焙烙火矢を放つ。またそれだけではなく、焙烙玉も投げつけているが、残念ながら鉄甲船に対してはやはり全くといっていいほどに効果はない。つまり焙烙火矢も焙烙玉も、鉄甲船にぶつかっては次々と弾かれ、空しく海へと落ちていくのであった。
雑賀水軍の放つ焙烙火矢や焙烙玉が当たる中、我関せずとばかりに悠々と進む六隻の鉄甲船。その一隻に乗る義頼は、じっと様子を窺っていた。因みに義頼だが、対毛利家の水軍撃破までは鉄砲衆の大将としての地位にある。これは、淡路水軍や和泉水軍と合流してからもそのまま受け継がれることとなっていた。
それは兎も角、六隻の鉄甲船は徐々に敵との距離を詰めていく。やがて鉄甲船がある地点まで到達すると、義頼から号令が発せられた。
「頃合いよし! 撃てー!!」
義頼の命に従い火縄銃や大鉄砲、さらに数は少ないが鉄甲船に搭載された大砲から次々と鉛玉が吐きだされる。雑賀水軍衆が焙烙玉や焙烙火矢の命中率を上げる為という目的である程度近づいていたことが災いして、避けるなどできない。彼らは、次々と撃破されていった。
また、義頼旗下の水軍内には、単独で敵へ狙いを付けている者たちもいる。それは杉谷善住坊や城戸弥左衛門といった存在であり、一様に銃の腕が立つ者たちであった。
そんな彼らが手にしている火縄銃だが、一般的な火縄銃と外見が少し異なっている。もっとも顕著な違いとしては、通常よりも全体的に長く作られていたことにあった。
「何だ善住坊、見て貰いたいという物は」
「こちらにございます」
杉谷善住坊が義頼へわざわざ見せたのは、火縄銃である。その火縄銃だが、銃床に当たる部位が通常よりも長いのである。その長さは、従来の火縄銃が銃槍を装着した時と同等かそれ以上の長さを持っていた。
「はて。これはまた、随分と長いな。普通の火縄銃より一尺(約三十センチ)……以上はあるか?」
その後、義頼はその火縄銃を構えてみる。形だけでも六角流砲術の始祖となっている以上、手解きは受けている。それゆえ、問題なく扱うことは出来るのだ。無論、杉谷善住坊や城戸弥左衛門と比べてしまうと、その腕は天と地ほど差があるのだが。
「それに……通常の火縄銃と比較しても重いな」
「はい。全体的に長くなった分だけ、重くなっております」
どれくらい重いのかなど具体的には分からないが、およそ二割ぐらいだろうと義頼は当たりを付けている。しかしてその目算は、大体合っていた。
「それで善住坊。この火縄銃を、どのように使うのだ?」
「敵兵の後方にいる将を、狙撃します」
「何!? 敵将への狙撃だと?」
「はっ。この火縄銃の有効な射程は、従来の物よりありますので」
「……なるほど。それならば、可能か。だが、先ずは見せてみよ。話はそれからだ」
「御意」
その後、場所を射場へと移動した。
元々この場所は、弓の修練を行う為の弓場であったのだが、今は火縄銃も撃てるようにと改修が施された場所でもある。その射場に到着すると、既に的が用意されていた。その的だが、人の形をしている。そして的の材質だが、分厚い杉の板であった。
「一町(約百九メートル)……いや、一町半(約百六十三メートル)ぐらいか」
「流石ですな、即座に距離を見抜かれるとは」
義頼も弓の名手である。即座に彼我との距離を計れなければ、放った矢を敵へ命中させることなどできはしないのだ。因みに義頼が弓で狙えば、外すなどまず有り得ない距離ではある。しかしそれは義頼だから可能なのであり、他の弓兵では同じことなど難しい。いや命中させることは可能かも知れないが、任意の場所を狙うことなどはまず無理な距離であった。
さて、話を火縄銃に戻す。
通常の火縄銃だが、鎧を身に付けた敵に対して確実といえる有効な射程は、およそ一町の半分程度である。しかしながら、それは火縄銃を無難に扱うことができる兵に持たせた場合であり、杉谷善住坊や城戸弥左衛門などといった名手と呼ばれる者たちが狙えば、腕に比例して有効射程は伸びていくものでもあった。
「いや、このぐらいで褒められてもな。それで、この距離で狙うのか」
「はい。ご覧下さい」
杉谷善住坊は、ゆっくりと火縄銃を構えると狙いを定める。その数瞬後、件の火縄銃から放たれた鉛玉は、見事に分厚い杉の板で出来た的を貫いていた。
「ほう……これは驚いた。幾らその方の腕があったとしても、この距離で狙って命中させかつこの威力を出せるのか」
「はい。もう少し伸びても、この火縄銃であれば威力と共に問題はありません。それに腕がいい者がこの火縄銃を持てば、敵将の脅威となるは必定かと」
「まぁ、そうだろうな……いいだろう善住坊。その火縄銃を作れ。できあがり次第、その方や弥左衛門などの腕が立つ者に与えよう」
「御意」
こうしていわば狙撃兵といえる者たちが、義頼の鉄砲衆にあらわれた。
彼らは、義頼が抱える鉄砲衆全体からみれば多いという程ではない。それでも一定数は、存在したのであった。そんな狙撃兵だが、船の鉄砲狭間より敵将であろうと思われる存在を見付けては狙いをつけていく。その狙撃で最初の餌食となった将が、雑賀衆の向井強右衛門尉であった。
彼は狐島吉次と並んで、雑賀水軍を率いる者である。いわば雑賀水軍の将の一人であるのだが、そんな彼が雑賀衆の得意とする火縄銃で討たれたのである。その為かそれとも違う理由なのか定かではないが、雑賀衆の行動に乱れが生じ動揺があちこちで発生していた。
そしてそんな隙を見逃す程、九鬼水軍も愚かではない。鉄甲船を盾として、その陰に隠れるかのごとく航行していた彼らは、一斉に雑賀水軍へ襲い掛かっていった。それでなくても狙撃兵からの狙撃や、鉄甲船からの銃撃を前にして対処らしい対処が出来ていない雑賀水軍衆である。この急襲に即した対応を求めるなど、まず無理であった。
それでも狐島吉次と岸忠次郎は、必死に水軍を動かして何とか九鬼水軍へ反撃しようと試みる。だが焙烙火矢や焙烙玉は全くといっていいほど功を奏さず、そして味方は次々と鉛玉により落命していく。この状況に置いては、士気を高めることもできない。いや、時間をおけば置くほど、士気が下がっていくのは想像に難くなかった。
そうなってしまえば、軍勢としての体を成さなく成るのは必定である。あとは、織田家水軍衆による蹂躙が始まるのは必至であった。
「……忠次郎。我らも退くぞ」
ここに、雑賀水軍の大将を務める狐島吉次も撤退の決断をする。しかし彼から声を掛けられた岸忠次郎は答えず、その代わりとばかりに辺りへ響いたのは銃声だった。
そう。
岸忠次郎もまた、狙撃されたのである。鉄甲船からと思われる一発の銃弾が、彼の額を貫いたのだ。岸忠次郎は、驚愕の表情を浮かべながら倒れ込んでいく。慌てて狐島吉次が手を伸ばすが、その手は届かない。狙撃された岸忠次郎の体が、海中へと没した為であった。
少しの間、そのままの体勢で狐島吉次は固まっていた。
幸いに銃撃を受けなかったわけだが、いつまでもその幸運が続く訳ではない。間もなく、彼の顔のすぐ近くを銃弾が抜けた。流石に狙撃を受ければ、意識が復活する。しかして狐島吉次は、思わず顔に手をやる。するとその手は、真っ赤に染まった。
「掠ったか……いや、生きているだけでも僥倖だな」
つい先ほど、岸忠次郎が狙撃されて命を落としたばかりである。それが怪我で済んでいるのだから、運はいいといえるのだろう。
最も、悪運の類であろうが。
何はともあれ狐島吉次は、一瞬だけ海中に没した岸忠次郎を見やったあと、確認の為に周りへ目をやる。すると彼の視界には、次々と一方的に叩かれている味方の雑賀水軍の姿が映る。その様子に、このままこの戦場に残り続ければ、全滅も時間の問題としか思えなかった。
「もはや、どうにも成らぬ……雑賀水軍、撤退せよ!!」
狐島吉次は、少しでも生き残りを図る為に味方へ撤退の命を出す。だが狙撃を受けたり、岸忠次郎が討たれたりするなどが相次いだ為、命を出すのがいささか遅かった。しかしそれでも雑賀水軍は、生き残る為に狐島吉次の命を履行して、急ぎ撤退の準備を調えたのであった。
だが前述したように、撤退の命が出たのがいささか遅い。その為、雑賀水軍は半壊を超える被害を出してしまったのであった。
鉄甲船、初海戦の回でした。
ご一読いただき、ありがとうございました。




