第百二十話~結ぶもの~
第百二十話~結ぶもの~
京に残った織田信長とは対照的に、義頼や丹羽長秀は早々に京から出立している。彼らの行き先は、近江国であった。
織田信長に先んじる形で近江国へ入った義頼たちの一行は、観音寺城下にある六角館に入る。彼らはここに腰を据えると、目賀田山に作る新たな織田信長の居城と観音寺城の改修に着手するつもりであった。
だがしかし義頼は、建築に着手する前に大和国を任せている大原義定呼び寄せている。そして彼の代りとして大和国へは、藍母衣衆筆頭の北畠具教を配置した。
母衣衆筆頭である北畠具教を義頼から離すということは、即ち護衛が心許なくなってしまうという側面も孕んでいる。しかし、大原義定が大和国に居ない以上、彼の代わりとして重石となる役目を担えるのは彼しかいない。そのような事情もあり、北畠具教も仕方無く大和国にて義頼の代理を務める事を了承していた。
さらに義頼は、織田信長から許可を得た上で自らの補佐として蒲生賢秀と蒲生頼秀の親子、並びに目賀田貞政を呼び寄せている。やがて義頼に呼ばれた四人は、一同揃うと挨拶を行った。
「我ら、参上致しました」
「うむ。待っていたぞ義定、賢秀、頼秀、貞政」
『はっ』
「して、何用でしょうか」
義頼が集めた四人の中で最も高い官位を持つ大原義定が、代表する形で問い掛ける。すると義頼は、彼らに言い聞かせるように口を開いていた。
「その方たちには、我の補佐を頼みたい。殿より新城の縄張と観音寺城の改修、及び資材の調達を命じられたのでな」
『それはまた……』
四人はそれ以上、言葉は続けなかった。
続けてしまえば、批判めいた言葉になってしまいそうだからである。それはあまりにも、義頼に仕事が集中している為であった。
「まぁ言いたいことは分からんでもない。だが、それ以上は言うな」
『はっ』
こうして大原義定と蒲生賢秀と蒲生頼秀の親子、並びに目賀田貞政の四人を自らの補佐にと揃えた義頼は、同時に丹波国の対応についても思案し始めた。
何せ丹波国に領地を得てから、さほど日にちが立っていない。かといって、他の仕事を命じられたからといって疎かにしていいという問題でもない。そこで義頼は、大和国に北畠具教を置いたのと同様に、丹波国にも自身の代理を置こうと考えたのだ。
重臣の馬淵建綱あたりであれば多少時が掛かろうともいずれ抑えられるだろうが、残念だが今はまだ少し早いと思える。だからといって、誰か別の適任者がその辺りに居るとも思えなかった。
いかに対応するかと暫く悩んでいた義頼だったが、その時彼の視界にふと道意が入る。彼が視界内へ入った瞬間、義頼は丹波国を任せるのに都合のいい人材が居ることを思い出していた。
「そうだ! 道意」
「何でしょうか」
「頼みがある。左馬助(土岐頼次)殿を、俺の家臣としたい」
「……は? 何ゆえにございます?」
義頼のいきなりの言葉に、道意は訝しげな表情をする。そんな道意に義頼は、土岐頼次が欲しいと言った理由を話し始めた。その理由とは、彼の出自にある。土岐氏の家督は彼が継いでいるので、当代の土岐氏当主となる。そして土岐氏は美濃源氏の嫡流となり、美濃源氏は清和源氏の分家筋となる一族である。そして丹波国の国人は、清和源氏の分家筋に当たる一族が多く存在していたのだ。
「いいか。土岐家は美濃源氏嫡流だが、元をただせば清和源氏だ。そして、丹波の国人も清和源氏が多い」
「ああ、なるほど……その上、左馬助は殿の甥子。丹波における殿の名代としてはうってつけということにございますか」
「そうだ。それに我が家臣は無論のことであるが、波多野家や赤井家、それに土岐家支流の宇津家にも補佐をさせれば問題はそう出ないだろう」
「確かに。分かりました、久通と左馬助には拙者から話を通します」
義頼からの依頼を受けた道意は、急遽大和国へと戻る。そこで息子の松永久通に面会して、土岐頼次を六角家に移動させるように言い含めたのだ。そんな父親の話を黙って聞いていた松永久通は、話が終わってからも瞑目しつつも考える。それは勿論、土岐頼次を六角家所属とするべきか否かに付いてである。暫くの間考えていた松永久通であったが、話を受ければ松永家にも利があると判断すると父親の話に同意する。ここに土岐頼次は、松永家から六角家への移動が決まったのであった。
その後、彼は丹波国にて義頼の筆頭家臣である馬淵建綱や丹波国の有力国人である波多野家や赤井家の補佐を受けつつ、義頼の代理を務めることになったのであった。
新たに手に入れた領地である丹波国の件に手を打った義頼は、いよいよ織田信長から命じられた新城と観音寺城の改築へと取りかかった。彼は六角館にて、丹羽長秀や石奉行や瓦奉行に任じされた者たちと共に新城の縄張り図を完成させる。とは言えあくまでもたたき台であり、実際には図面を主君たる織田信長に見せて許可を得てからの着手となるのだ。
そしてそれは、観音寺城の改修も同様である。縄張りを図面に起こし、京から岐阜へ戻る際に織田信長へ新城の縄張りと共に見せるつもりであった。
また義頼たちは主を待つ間、取りあえず完成させた縄張りを元に資材がどれだけ必要かを概算で見積もっていく。そのような作業が半ばほど終わった頃、京を発った織田信長の一行が六角館へと到着した。
すると織田信長は、一息つく間もあればこそ義頼と丹羽長秀を呼び寄せる。そして二人から、新たな城の縄張りや改修する観音寺城の縄張り図を見つつ説明を受けたのであった。
さて新城の造りに関してであるが、こちらはいわゆる魅せる城となる。防御よりも、見た目の印象などに重点が置かれているといっていい城であった。その為、本丸へ続く路が曲がりくねっているような感じはない。実に、直線の多いすっきりとした造りである。だが同時に、絢爛豪華さも感じさせる城でもあった。
その一方で観音寺城だが、こちらは新たに作る城の詰めの城としての性格を持ち合わせている。その為、今までの観音寺城が持っていたような政治的な意味合いを廃しており、徹底的に防御を追求した縄張りであった。
その作りに対比は、正に対極といっていいだろう。二つの城はいわば兄弟のような関係でありながら、その容姿は全く異なる構造をしていたのだ。
「ふむ……観音寺城の方はそれで良い。それと安土城だが、もう少し防御は排除して良い。その代わり、居住性や豪奢さを向上させよ」
『はっ』
追加された織田信長の指示に、全員が返事をした。
「ところで殿」
「何だ、長秀」
「その……安土城とは」
「中々良かろう。新たな城の名よ」
しかして、義頼以下近江国出身者には頷ける名であった。
元々この辺りは常楽寺と言う地名だが、別名として安土とも呼ばれている。一説には、海人族である安曇が訛って安土となったらしい。その他にも、六角家の弓修練用の土盛りが呼称の元になったなどもある。だが何れにせよ安土という呼び名が、この辺りに以前よりあったことは間違いなかった。
「殿。城の名は、この地の名より取られたのですか?」
「そうだ義頼、気に入ったしのう。それに、日本後紀だったか? あの中にある言葉にも通じる」
「……もしかして、宮中行事の踏歌ですか?」
踏歌は、古来中国より伝わった物である。
そして平安の頃より宮中では、踏歌節会として年始の祝詞を行っている。その中の一つに、安土を含む言葉が詠まれているのだ。
「ほう、知っておったか」
「平安楽土……確か「天下を安んじ戦などの心配や苦労を無くす」というような意味の言葉だったと記憶していますが」
「その通りよ。この安土の城も、それの一環よ。ただの築城と、決して安易に考えるな」
『御意!』
釘を刺された感がある二人だが、元より主君の新たな居城となる安土城と詰めの城となる観音寺城の改修である。注意されずとも手を抜く気などなかったが、織田信長の言葉に改めて気を引き締めたのであった。
安土城築城と観音寺城改修に入って二ヶ月した頃、義頼の姿は六角館になかった。
その理由は、お圓の方(井伊直虎)にある。彼女が産気づいたとの知らせが、義頼の元に届いたからだ。お圓の方が臨月に入っていた旨は、丹羽長秀たちも知っている。ゆえに彼らは、義頼へ丹波国に向かう様に勧めていた。
織田信長には、前もって許可を得ているので問題はでない。義頼は自らの代理として大原義定に職務を一時預けると、愛馬の疾風を駆り一路丹波国へと向かっていった。
逸る気持ちを抑えきれない義頼は、無意識のうちに本気で馬を操り始める。こうなってしまうと藍母衣衆や馬廻り衆が追い付けなくなってしまう為、そうなる前に不本意ながら慣れてしまっていた藍母衣衆の布施公保や藤堂高虎などが義頼へ声を掛けていた。
その言葉に義頼は、少し不機嫌になる。しかしいわれていることはもっともであり、義頼は一つ二つと息を吸い込むことで気分を落ち着けると謝罪した。
「……済まなかった。気が逸ってしまった。もう少し休んだら、無理のない程度で急ぐぞ」
『はっ』
家臣へそう伝えた義頼は、言葉通り付き従っている将兵のほぼ全員が一息つくまで休憩をする。やがて頃合いを見計らって出発した一行は、程なくして瀬田城に到着した。
「美作守(山岡景隆)。一晩だけ世話になりたいが、構わぬか?」
「右少将(六角義頼)様。どうぞ我が家と思い、お寛ぎ下さい」
「感謝する」
山岡景隆は、山岡家の家督を継ぐ前に義頼の傍へ仕えたこともある。そのような経緯を持つ為か、山岡景隆は六角家降伏後に織田直臣となってからも何かと義頼の力となっていた。
実際義頼には、織田家降伏後、経済的に厳しくなった時期がある。その頃、山岡景隆は表立ってでは無かったが義頼を支援していたぐらいなのだ。
「して、お急ぎの御様子でしたが何かありましたか?」
夜食後、部屋に現れた山岡景隆が義頼に尋ねた。
別に、彼が不審に思った訳ではない。ただ急いでいると感じられたので、気になったから尋ねたのだ。そして問われた義頼だが、別に隠し立てする様なことでもない。彼は笑みを浮かべつつ、返答していた。
「お圓が産気づいたのだ」
「……おお! それは目出たい!!」
お圓の方の名を伝えてから山岡景隆が少し間を開けたことが、気にならない訳ではない。 だが取り分け問い詰めるようなことでもないので、それ以上は触れなかった。因みに山岡景隆が間を開けた理由は、お圓の方が誰かを一瞬思いだせなかったからである。しかし即座に思い当たり、祝いの言葉を述べたのであった。
「そのような理由でな、明日は朝一番に発つ」
「その方がよろしいかと思います。なれば明日の為に、早めにお休みになった方がよろしいですな。すぐに床を用意させましょう」
「重ね重ね、済まん」
「お気になされますな、右少将様。では」
部屋を辞した山岡景隆は、即座に命じて寝所の準備を整えさせる。やがて用意が整ったと知らされた義頼は、明日に備えて早々に眠りについていた。
明けて翌日、朝が早いにも拘らず山岡景隆やその弟たちの見送りを受けつつ出立した義頼一行は、やがて丹波国へと入る。丹波国内おける六角家の居城が出来るまでの住まいである内藤家の居館へ辿り着いた義頼は、取る物も取り敢えずお圓の方の元へと向かう。急いで六角館を出たとはいえ、流石に出産には間に合わなかったからだ。
「でかしたぞ、お圓」
部屋に入るなりにそう言った義頼だが、声自体はそう大きく張り上げていない。そのお陰で眠っていた赤子が目を覚まし掛けたが、どうにか目を覚ますまではいかず再び眠っていた。
「あ、四郎五郎(六角義頼)様」
「ああ、そのまま寝ていろ」
「ですが」
「かまわんといっているのだ、遠慮をするでない」
「……はい」
体を起こそうとしたお圓の方であったが、やんわりと義頼に止められる。最初は遠慮したが、最後は義頼の言葉に従っていた。
「して我が子は、娘であったな」
「はい」
この部屋に入るまで途中で、お圓の方付きの腰元から娘が生まれたことは聞いている。 だからこそ義頼は、お圓の方の部屋に向かったのだ。
「どれどれ……おー、これが俺の娘か」
義頼に覗かれている赤子は、何も気にせず眠っている。そんな我が子の寝顔を、義頼は穏やかな笑みを浮かべながら見ていた。本音をいえば、初めての娘を抱きあげたい。しかし抱きあげてしまうと、折角気持ちよく寝ている娘を起こしてしまいそうなので彼は抱き上げずに見るだけに留めていた。
「四郎五郎様。名は、何と致しますか?」
「うむ。結ぶと書いて結だ」
「結ぶ者、ですか。とてもよい名だと思います」
この結姫だが、のちに虎松の正室となっている。これは、お圓の方が義頼の側室となってから井伊家家中に表れた「井伊家傍流の出である虎松様より、井伊家嫡流のお圓の方の子に継がせるべきではないのか」という意見を封じる為であった。
要は虎松を結姫の婿とすることで、虎松と井伊家嫡流の血を引く結姫の子供が代々井伊家の家督を継がせるという体を整えたと言える。つまり結姫は、義頼が意図した訳ではないが名の通り井伊家の嫡流と傍流を結ぶ者となるのだがそれは先のことである。今の彼女は、小さな寝息をたてながら眠る眠り姫でしかなかった。
この結姫誕生から半月ほどした頃、越前国でも歓喜の声が上がっていた。
浅井長政の館がある一乗谷にて、正室のお市の方が一人の娘を産んだからである。その話を聞いた義頼は、すぐに祝いの品を使者に持たせて越前国へ派遣させる。 使者を務めたのは、一時期浅井家臣であった藤堂虎高であった。
「お久しぶりにございます、備前守(浅井長政)様」
「うむ。 あの一件以来だな、白雲斎(藤堂虎高)殿」
藤堂虎高こと白雲斎だが、彼は今年になり藤堂家の家督を嫡子の藤堂高則へと譲っている。その後は、御伽衆として義頼に仕えていた。また彼は、家督を譲った際に剃髪をしている。それに伴い、藤堂虎高は白雲斎と名乗っていた。
「今日は祝いの使者として、主である右近衛少将(六角義頼)に成変わり参上致しました。我が主は、義兄たる備前守様に無事御息女がお生まれになり、事の他お喜びでございます。つきましてはささやかでございますが、祝いの品をお持ち致しました。こちらは目録にございます」
口上の後に白雲斎が差し出した目録を、浅井長政の小姓が受け取り長政へと差し出す。彼は渡された書状を広げて、中身を確認した。そこに書かれていた物の半数は、義頼の領地から算出する物産品である。そして残りの半分は、京の角倉了以や堺の今井宗久に津田宗及に千宗易といった豪商達から購入した名物であった。
そのような物品が書かれている目録を最後まで目を通した浅井長政は、ゆっくりと畳むと小姓へと渡した。
「白雲斎殿、右少将殿へお伝え下さい。「結構な物をいただき、感謝の念に堪えません」と」
「何を言われます。備前守様からは結姫さま誕生の折に、結構な物をいただきましたと主は感謝しておりました」
そう。
結姫誕生後、浅井長政は即座に義頼へ祝いの使者と祝いの品を送っていたのだ。
これは以前より両家で行っていることでもある。過去に色々あった六角家と浅井家だが、今は織田家を介した義兄弟ということもあり、両家歴代当主の中で一番良いと言える関係を築き上げていたのだ。
「それでも、拙者が感謝していたと右少将殿にお伝え下され」
「承知致しました。備前守様のお心は、必ず我が主へお伝え致します。では、これにて」
「うむ。ご苦労であった」
「はっ」
こうして白雲斎は、代理としての役目を果たすと浅井家の館を辞して、義頼の元へと戻ったのであった。
井伊直虎との子が生まれました。
ついでに、浅井家にも生まれてます。
ご一読いただき、ありがとうございました。




