第百十一話~丹後国侵攻~
第百十一話~丹後国侵攻~
「丹後を攻める!」
季節も移ろい気温も温んだ春、岐阜城の大広間において軍議が開かれた。
その軍議の冒頭にて、集っている織田家家臣たちを前に開口一番そう言い放ち宣言したのは織田信長その人であった。しかしてこの丹後国攻めだが、当初は噂ぐらいでしかなかったのであるが、丹後国より現れた一色義定が織田信長と面会したことでそれは一変する。以降は、まことしやかに織田家内で囁き続けていたのであった。
その上、一色義定との面会から間もなく、先に織田信長から直接命じられた義頼や丹羽長秀といった者たちや元幕臣の長岡藤孝もいる。それゆえにこの丹後国攻めは、織田家中では公然の秘密といっていい代物となっていたのである。しかし今日この日を持って、丹後国攻めが正式に織田家の方針となったのであった。
「義定。かねてよりの約定通り、そなたを大将として丹後へ攻め入る」
「はっ」
一色義定は、平伏して織田信長からの命を受ける。そんな彼に一瞥してから、織田信長は視線を義頼へと向けた。
「義頼。そなたが副将として同行せよ」
「御意」
織田信長は大将を一色義定にそして副将を義頼にとしているが、実質の大将は義頼となる。あくまで一色義定は、丹後国を攻める大義名分でしかない。いってしまえば神輿でしかなく、織田信長は丹後国侵攻に当たって彼に兵権を与える気など始めからなかった。
また、丹羽長秀も丹後国攻めに加わっており、他にも佐々成政と不破光治、それから森可成と森長可の親子に加え山名豊国も参画する。しかもそれだけにとどまらず、長岡藤孝を筆頭とした元幕臣たちも丹後国攻めを命じられていた。
さらにいうと、山名堯熙が、但馬衆を率いて但馬国より丹後国へ攻め入る手筈となっている。彼はのちに、山名豊国と共に兵を推し進めることとなっている。同時に、但馬水軍も動く。但馬水軍の頭領となる奈佐日本之介が、海上より丹後国を封鎖することとなっていた。
この織田信長の宣言した丹後国攻めに派遣される軍勢の規模は、京で蜂起した足利義昭が籠った槇島城へ攻め入る際に織田家が調えた兵数と同等か下手をするとそれ以上である。織田信長は、丹後国人に対して織田家の力を見せつけて、彼らを威圧するつもりであった。
これは味方である筈の一色義定に対しても同じであり、彼に丹後国攻めの終了後、織田家へ逆らう気など微塵も起こさせない為である。かくしてこの考えは功を奏し、少なくとも一色義定の中には織田家に逆らう気など完全に消え失せてしまっていた。
軍議が終了すると、義頼以下丹後国へ派遣される者たちは岐阜城下にある六角屋敷へと集まる。そこで、丹後国へ攻める前の調整を行うのであった。
「某は近江衆と大和衆、並びに丹波衆を率いて丹波より攻め入ります。五郎左(丹羽長秀)殿は、若狭衆を率いて東より攻め入ってもらいます」
「うむ。任せよ」
鷹揚に頷いた丹羽長秀の言葉に、義頼も頷いていた。
はっきりと申せば、丹羽長秀に関しては全く心配していない。それどころか東からの進撃に関しては、完全に一任するつもりであったのだ。
「三左衛門(森可成)殿と太郎左衛門尉(不破光治)と内蔵助(佐々成政)殿は、五郎佐殿と共に丹後へと向かっていただきたい」
『おうっ!』
森可成と不破光治と佐々成政からの返答を聞いた義頼は、引き続いて長岡藤孝ら元幕臣たちへと話し掛けた。
「与一郎(長岡藤孝)殿に弾正左衛門尉(三淵藤英)殿、並びに中務少輔(京極高吉)や右馬頭(細川藤賢)殿や六郎(細川昭元)殿は某と共に丹後へと攻め入ります」
「承知」
義頼の言葉に、元幕臣たちを代表する形で長岡藤孝が了承の言葉を返してくる。そんな彼らに対して一つ頷くと、今度は視線を山名豊国へと向けた。
「宮内少輔(山名豊国)殿には先に但馬入りをして、右衛門佐(山名堯熙)殿と共に西から丹後国へと攻め込んでいただきたい」
「承知致した」
山名豊国の返事を聞くと、義頼はこの場に居る者達を見遣る。それから一呼吸分間を開けたかと思うと、一色義定へ視線を向けた。
「五郎(一色義定)殿。ご異存はありますか?」
「いや。左衛門佐(六角義頼)殿にお任せする」
「分かりました。では……兵を動かすのは半月後、朔日(一日)を持って進撃する」
『応っ!』
丹後国へ進撃する将たちとの確認を終えた義頼は、丹後国攻めに当たって大将となる一色義定を神輿に担いで近江国より出陣する。その後、大和国を経由し多聞山城に入り大和衆を軍勢に加えてから丹波国へと入ったのであった。
織田家が正式に丹後国攻めを発表してから幾日かたったある日、丹後国加佐郡八田にある一色家居館、その一角に設えられた足利義昭の在所。そこに一色家当主の一色義道が、彼の弟である吉原義清を伴って現れた。
さて丹後国入りを果たした足利義昭であるが、到着した直後から彼は京に居た頃と変わらずに御内書を発行し続けている。その宛先だが、甲斐武田家は元より石山本願寺や阿波三好家や毛利家、さらには北條家や越後上杉家など各地の有力大名を中心に書状を送っていた。
つまり足利義昭は彼らを味方に付け、三度織田家へ対する包囲網を構築するつもりなのである。とはいえ、書状を送った全ての者から回答を得られた訳ではない。それでも、石山本願寺や越後上杉家からは悪くはない感触を得ていた。
そんな足利義昭の元へ、少し表情を強張らせた一色義道が尋ねてきたのである。そんな彼の表情を見て、足利義昭は訝しげに眉を寄せた。
「いかがした、義道」
「公方(足利義昭)様。正直にいって、歓迎できない情報が入りました」
「何だ?」
「織田家が攻めてきます」
「な、何じゃと!」
一色義道の言葉を聞き、足利義昭は思わず立ち上がる。そんな彼の脳裏には、槇島城での戦の有り様がまざまざと甦っていた。堅城であった筈の槙島城が、大した時も掛けずに落とされたのである。京より追放されて間もない足利義昭が、思わずその時のことを幻視してもそれは仕方がなかった。
驚きの声をあげたあと、固まってしまっている足利義昭に眉を顰めた一色義道と吉原義清であったが、今は頓着している暇はない。一色義道は一つ咳払いすると、話を続けていた。
「そこで公方様。この館から、すぐに動座していただきたいのです」
「義道! そなたも信長のように、わしを追い出すというのか!」
「め、滅相もございません。公方様には、我が弟の昭辰と共に毛利家へ向かっていただきます」
一色昭辰は、吉原義清と同様に一色義道の弟に当たる人物である。彼は足利義昭がこの館に訪れると、幕府奉公衆として弟を推挙している。すると足利義昭も気に入ったのか、自らの名を一字与えて名を変えさせてから奉公衆の一人として任じていたのだ。
「む、昭辰をか」
「はい。昭辰は拙者の代理として、以前は幾度となく毛利家に派遣しておりました。右衛門督(毛利輝元)殿とも顔見知りでありますゆえ、何も御心配には及びません」
「……それで、その方らはどうするのだ?」
一色義道が述べたこれからの方針を聞いた足利義昭は、少し考えてから一色義道に対して一色家の動きについて尋ねる。すると彼の口から発せられたのは、家と命を掛けた行動であった。
「拙者は、丹後国守護にございます。当然この丹後に残り、織田を迎え討ちます。公方様がご動座する間は、決して織田を西には向けさせませぬ」
「そうか……流石は四職の一家よ。そなたの忠義、嬉しく思うぞ」
「はっ」
その後、足利義昭は用意を整えると一色家の館を後にする。一色家に所属する丹後水軍の船で日本海を西進して、出雲国で上陸している。するとそこへ迎えにきていた毛利家の者たちと合流すると、毛利輝元の元へ向かったのであった。
程なくして、毛利家の居城である吉田郡山城へと到着する。そして次の日、足利義昭は毛利輝元と面会を果たしていた。
「公方様をお迎えしこと、この毛利輝元嬉しく思います」
「うむ。大儀である」
「はっ。して公方様の御在所ですが、鞆にただいま建築中にございます。それまでは、窮屈とは思いますがこの山城に御逗留下さい」
鞆とは、備前国にある土地である。かねてより潮待ちの港として栄えた場所であり、同時に軍事的に見ても重要な土地であった。
またこの鞆だが、足利家にとっても縁の深い土地でもある。それは、室町幕府十代将軍の頃の話となる。幕府内の権力闘争により発生した【明応の政変】に敗れ龍安寺へ幽閉された十代将軍たる足利義材が小豆島へと流される直前に脱出し、紆余曲折後に大内義興の後ろ盾を得て京に上洛する際、最後に立ち寄ったのが鞆であった。
彼はその後、堺から上陸し京に上洛を果たす。そして再度、将軍職へ就任する。この時、名を変え、足利義植と名乗り始めたのであった。
またさらに遡れば、室町幕府初代将軍となる足利尊氏が新田義定追討の院宣を受けたのもやはりこの鞆であった。
「むう、鞆か……よかろう」
やや不満のある顔をしたが、足利家と縁の深い鞆からの再出発も悪くは無いと考えた足利義昭は、少し間を空けたあとで了承していた。
因みに足利義昭の在所だが、元は備後国人の築いた鞆要害である。毛利輝元はこの鞆要害をさらに整備、拡張して足利義昭を移動させるつもりであった。のちに在所するようになると、鞆幕府とも呼ばれるようになる。これは京を追放されたとはいえ、足利義昭が未だ征夷大将軍の地位にあることに由来していた。
こうして足利義昭が一色家を脱出して間もなく、丹波国八木城に軍勢が集結する。内訳は丹波衆と大和衆と近江衆、そして長岡藤孝を筆頭とする元幕臣たちであった。
なお丹波衆だが、義頼が直接率いている。そして大和衆であるが、こちらは甥の大原義定が松永久通と筒井順慶と共に率いている。そして近江衆を率いているのは、蒲生賢秀と彼の嫡子となる蒲生頼秀、そして今年の年初に織田家直臣より義頼家臣となっていた進藤賢盛であった。
因みに先鋒だが、元幕臣の長岡藤孝らが務めることとなっていた。
「良いか! これより丹後国へ出陣する!!」
『はっ』
「殿より恩寵を賜りながら恩を仇で返しただけでなく、家内にて専横を極めている一色義道に天誅を加える為だ! 皆存分に働き、そして励め!!」
『おおー!』
旗下の将兵から返って来た気合いの籠った蛮声に、義頼は笑みを浮かべる。それから手を上げて声を抑えると、その場を名目上の大将である一色義定へと譲った。
すると彼は、ゆっくりと歩み出す。そして先ほどまで義頼が立っていた場所に立つと、大きく息を吸う。すると彼の脳裏に、父親と二人の叔父の姿が一瞬だけ浮かぶ。しかし一色義定は小さく頭を振り追い出すと、ゆっくりと息を吐く。そして彼は、丹後国へ出陣する将兵たちを見詰めると宣言したのであった。
「では、出陣する!」
『はっ』
まず先鋒を務める元幕臣たちだが、彼らは長岡藤孝の命に従って動きだした。続いて大原義定の率いる大和衆、蒲生親子と進藤賢盛が率いる近江衆と続き、最後に義頼が率いる丹波衆が丹後国を目指して山陰道を使い進撃した。
その同日には、若狭国の丹羽長秀が若狭衆を率いて出陣する丹後街道を西進した。
なおこの軍勢には、織田家からの援軍となる森可成と森長可親子と不破光治、佐々成政が軍勢と共に同道している。最後に但馬国から山名堯熙と山名豊国が、但馬衆を率いて山陰道を使い丹後国へと軍勢を押し出していた。
また、奈佐日本之介が率いる但馬水軍も併せて出陣している。ここに丹後国は、四方より攻められることとなったのであった。
丹後国を南から攻める義頼も、東から攻める丹羽長秀も、そして西から攻める山名堯煕と山名豊国も順調に進撃していた。というより、彼らは等しく戦らしい戦を行っていない。それは大半の丹後国人が、攻め込まれる前に降伏してしまうからだった。
これには理由があり、一つは戦前から義頼や丹羽長秀が行っていた丹後国人に対する降誘である。だがもう一つの理由の方が大きく、それはいうまでもなく、神輿とした一色義定の存在であった。
元々丹後国人たちは一色義定が丹後国を脱出する頃に、おおよそ三つに分かれていた。一つは織田家に恭順する者たちであり、もう一つは一色義道に同意した者たち、最後に中立の立場をとる者たちであった。
だがここにきて、織田信長より命を受けた義頼が軍勢を押し出している。そもそも一色家は、織田家を後ろ盾として丹後国内の統一に邁進していたのだ。その後ろ盾であった筈の織田家は、一色義道を見限っているのは侵攻してきたことで証明されたといっていい。さらにいうと織田家侵攻軍の大将は、名目上とはいえ一色義定が務めているのだ。
この状況を鑑みれば、織田家の後ろ盾が一色義道から嫡子の一色義定へ移行したことなど想像に難くない。方や織田信長から見捨てられた一色義道であり、方や次期当主で新たに織田家の後ろ盾を得た一色義定である。どちらに味方すれば有利かなど、考えるまでもなくすぐに思い付いた。
だからこそ、元から織田家側であった国人と少数の中立国人たちは丹後侵攻軍に降伏して一色義定へ、否義頼が率いる織田勢へと合流したのだ。しかし数が少ないとはいえ一色義道へ同意者たちは、戦わずに敵へ降伏する旨をよしとしなかったのである。彼らは、居城を捨てると、一色家の居城である建部山城へ集う。味方として現れた丹後国人たちを受け入れた一色義道と吉原義清は、建部山城へ籠城し義頼の率いる織田家の軍勢を待ち受けたのであった。
「……む、来たか」
城内から城外を確認していた物見から、織田家の軍勢が到着したとの知らせを受けて一色義道と吉原義清の二人は城外を確認しに現れる。そんな建部山城から見える範囲には、数万は優に超えるだろう織田家の軍勢がひしめいていた。
ましてや、その中に丹後国人たちも加わって居る。その数は推して知るべしであり、最後に「武士の意地を!」と密かに意気込んで建部山城へ入った丹後国人たちは驚愕の表情を一様に浮かべていた。
「こ、これが織田の軍か……」
「狼狽えるではない!」
敵の数に気圧され狼狽える丹後国人に対し、一色義道が一喝を入れた。彼にすれば今さらであるのだが、それを今いっても始まらない。それよりも、彼らの士気をあげる方が大事であった。
「確かに数は多かろう。だが、所詮数だけよ。しかも敵は、恐れ多くも公方様に刃を向けた者たちである。大義は我らにあるのだ、烏合の衆など幾ら集まろうともこの建部山城は落ちぬ!」
「お、おお! そうだ、左京大夫(一色義道)様の言われる通りだ」
「正義は我らにあり! あのような悪鬼羅刹などに負けはしない!!」
一色義道の檄に、丹後国人もそして密かに意気消沈していた一色家臣も気勢を回復する。どうにか士気が下がることを阻止した一色義道は、隣にいた吉原義道と共に小さく息を吐いたのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




