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第百九話~対武田戦の褒美~


第百九話~対武田戦の褒美~



 岐阜城下にある屋敷において主たる織田信長おだのぶながは、複数の書状に目を通している。彼が目にしている書状それぞれの差出人は、徳川家康とくがわいえやす佐久間信盛さくまのぶもり柴田勝家しばたかついえであった。

 まず徳川家康からの書状だが、そこには二つの事柄が記されている。一つは、武田家の来襲に際して援軍を出してくれたことに対する礼である。そしてもう一つはというと、武田家の侵攻を前に一旦は徳川家より離反し武田家についた奥三河の国人たちが、徳川家に再属した旨とその経緯が記されていたのだ。

 他家のこととはいえ、徳川家は一応同盟関係にある。その家の勢力が盛り返したというのは悪い話ではなかった。次に佐久間信盛からの書状だが、こちらは書状というより報告書であった。


「ほう? 奥三河が再び徳川の物となったか。まぁ、吉報といえるのであろう。それと信盛の対応だが、可も不可もないな。まぁ、家康が迎撃の主である以上、これも致し方ないな」


 引き続いて織田信長は、柴田勝家からの書状に目を通す。しかしこちらも、佐久間信盛と同じく報告書といっていい代物しろものであった。


「流石、といえるのだろうな、武田の秋山は。こうも上手く、勝家をあしらうとは……信玄が死んだとはいえ、まだまだ武田も侮りがたい」


 確かに武田信玄たけだしんげんという、織田信長も認める一代の英傑がこの世を去ったのは、間違いない。その意味では織田家も徳川家も危機を脱したといえるのだが、しかしてその英傑が鍛え上げた家臣団はまだ手付かずに近い状態で残っているのだ。このつわものたちを武田家の新たな当主となる武田勝頼たけだかつよりがもし上手く扱うのであるならば、それはそれで問題となりえるといえた。


「ふむ……義頼のいったこともあながち間違いではないか。とはいえ、やはり武田とは義頼が言葉通り決着をつけねばなるまいて。しかも三方ヶ原のような曖昧な形ではなく、はっきりとした形でな!」


 東濃に派遣した柴田勝家からの書状というか実質は報告書でしかない書状を握りしめつつ、決意を新たにしていた。

 その後、織田信長は遠江国に残していた佐久間信盛と水野信元みずののぶもとを召喚している。さらに、東濃へ派遣していた柴田勝家も岐阜へと呼び戻していた。彼らを呼び戻したのは、それぞれの地にての戦がひとまず終わったからである。軍勢を派遣しているだけでも物資は消費してしまうので、その命も当然といえるだろう。また、そればかりではない。彼らを戻したのは、家臣たちに武田勢を撃退した恩賞を与える為でもあった。

 このような理由から出された織田信長からの召喚状を受け取った佐久間信盛と水野信元は、徳川家康を尋ねる。すると、兵を引く旨を伝えたのであった。


「徳川殿。殿からの命により、我らは岐阜へ戻ります」

「そうですか。しからば佐久間殿、水野殿。「合力感謝致す」と、弾正大弼(織田信長)殿にお伝え下さい。わが徳川家は弾正大弼殿は無論のこと、佐久間殿や水野殿や六角殿や丹羽殿にも感謝致しております」


 退去の挨拶に訪れた両名に対して徳川家康は、佐久間信盛と水野信元に手を取り感謝を表しつつ礼の言上を行ったのであった。


「徳川殿のお言葉、必ず殿や左衛門佐(六角義頼ろっかくよしより)殿や五郎左(丹羽長秀にわながひで)殿にお伝え致しましょう」


 そう徳川家康に返答した佐久間信盛は、水野信元と共に退席すると自陣へと戻る。それから数日したのち、彼らは岐阜城へ向けて浜松城を出立した。それとほぼ時を同じくして、東濃にいた柴田勝家もまた出立している。彼はおつやの方を筆頭とする遠山家と、柴田勝家の代理として東濃へ残る金森長近かなもりながちかを残して岩村城を発っていた。

 それから暫くしたのち、岐阜城の大広間に徳川家の援軍に向かった全ての将と、東濃での戦を終えた柴田勝家が揃う。しかし大広間に織田信長がまだ現れていない為、彼らは雑談をしていた。


「そういえば半羽介(佐久間信盛)、遠江で下手を打ったそうだな。お主らしくもない」

「いうな権六。今にして思えば、何であんな判断をしたのか分からん」


 東濃にて秋山虎繁あきやまとらしげを相手にしていたこともあり、遠江国へ直接出向いていない柴田勝家が佐久間信盛に対して【欠下城外の戦い】について問い質している。すると問われた佐久間信盛も

、苦い飲み物でも口にしたかのような顔をしながら答えていた。


「ふむ。もしや、魔がさしたというやつかも知れぬ。ただ、その辺りは殿が判断するだろうから置いておくとして……左衛門佐殿の上げた功だが、本当なのか?」


 先の武田勢との戦に置いて、義頼の功は群を抜いているといっていい。

 まず井伊家の救出にはじまり、その後にあった【欠下城外の戦い】における武田本陣への奇襲と武田信玄へ与えた致命傷に等しい一撃。その上、織田信長が出陣したあとに起きた【三方ヶ原の戦い】において、徳川家康からの命で合力した徳川の将兵と共に鬼美濃こと馬場信春ばばのぶはると武田の赤備えを率いる山県昌景やまがたまさかげが行うつもりであった織田本陣への襲撃を完全に抑え込んでみせたのだ。

 これだけのことを行っているのだから、実際に目にしていない柴田勝家が不審に思っても不思議はなかった。


「権六、間違いない。それは、徳川家救援の第二陣に副将として同道した俺が保証する」


 すると丹羽長秀が、疑問を投げかけた柴田勝家に対して淡々と答えた。


「そ、そうか……それは済まなかったな左衛門佐殿、疑うようなことを申して」

「お気になされないで下さい、柴田殿」


 義頼が柴田勝家に答えたちょうどその時、小姓が織田信長の来訪を告げる。すると彼らは雑談を止めて居住まいを正すと、平伏して主が部屋に入って来るのを待った。程なくして部屋の障子が開くと、彼らの主君が入ってくる。やがて部屋の上座に立った織田信長は、義頼ら自身の家臣を睥睨するかのごとく見降ろしてから上座に腰を降ろした。


「全員、何も問題なく揃っておるようだな。何よりである。さて、先の武田との戦に対する褒美を与える。久太郎(堀秀政ほりひでまさ)」

「はっ」


 織田信長の後に付いて部屋に入った堀秀政は、主君が座った場所より一段低い場所に座っていた。だが織田信長に名指されると、即座に立ち上がり手にしていた書状を開く。その書状には将それぞれの褒美が記されており、彼はその内容を朗々と読み上げていった。

 先ず佐久間信盛が率いた援軍の第一陣に所属していた将に対しては、金子や名物が与えられる。これは【欠下城の戦い】において下手を打っていただけに、彼らへ安心感を与えていた。

 但し、派遣された第一陣に所属していた将のうちで、滝川一益だけは別である。彼には、今までの領地とは別に伊勢国の二郡が与えられていた。

 なお、金子や名物の褒美であるが、これは織田信長と共に出陣した明智光秀あけちみつひで羽柴秀吉はしばひでよしへも同様に与えられていたのである。

 次に義頼が大将として率いた第二陣であるが、こちらは第一陣の将たちとは違っている。だが、それも当然である。彼らは井伊家を攻めていた山県昌景を追い払い、【欠下城の戦い】においては徳川家と佐久間信盛らの救出を行った上で滝川一益たきがわかずますと共に武田本陣へ奇襲を掛けている。その辺りの功績も鑑みての褒美となるので、違ってくるのも当然であった。

 第二陣の副将を務めていた丹羽長秀が賜った褒美だが、若狭国の遠敷郡となる。同時に彼へは、若狭国主の地位も与えられていた。次に森可成もりよしなり森長可もりながよしの親子にも与えられ、また佐々成政さっさなりまさ不破光治ふわみつはるにも褒美が与えられていた。彼らへの褒美は領地であり、丹波国の何鹿郡内にそれぞれ城と領地が与えられていた。


「義頼には丹波国桑田郡、及び船井郡と何鹿郡の残りを与える」

「はっ」


 最後に第二陣の大将を務めた義頼への褒美だが、彼には桑田郡と船井郡、それと前述した三家に与えた上で残った何鹿郡の全てが与えられた。

 今回、義頼が与えられた領地で桑田郡と船井郡は、口丹波とも称されている地域である。この辺りは京との結びつきも深く、さらに山陰方面と京を結ぶ重要な地でもある。そのような重要な土地を任されただけでも名誉なことであるが、さらに義頼へは、丹羽長秀と同様に国主へ就任する命が下されていた。

 またこれらの褒美とは別に義頼と丹羽長秀と森親子、さらに|佐々成政と不破光治には浅井家に対して行われた援軍の褒美も合わせて与えられている。こちらは、佐久間信盛らに与えられた褒美と同じく金子や名物で賄われていた。

 因みに丹波国へ領地を下賜された森家と佐々家と不破家だが、実は彼らには義頼の与力として役目が与えられている。そればかりか、丹波衆にも与力として役目が与えられていた。

 最後に柴田勝家だが、彼には美濃国の加茂郡と可児郡が与えられる。またその褒美とは別に、彼には織田信長の叔母であるおつやの方が継室として柴田家に輿入れする旨が伝えられた。というのも、柴田勝家には側室はいたが正室は若い頃に病死しており、その為に正室が空位となっていたのである。そこで年も近いということもあって、おつやの方と柴田勝家の婚姻が決められたのだ。

 どの道、織田信長は遠山景任とおやまかげとお亡きあとの東濃を柴田勝家に任せるつもりだったのである。その為、遠山景任へ輿入れしていたおつやの方を輿入れさせるのは、都合が良かったのだ。

 なおこういった経緯もあり、遠山家の嫡子である坊丸が元服を迎えるまでは柴田勝家が引き続いて後見役を務めることとなる。坊丸は、おつやの方と夫婦となる以上は柴田勝家の義息となるのだから当然と言えるだろう。そしてこの件を起因として遠山家は、柴田勝家の与力と目されるようになっていた。

 無事に武田家との戦に関する論功行賞も終わると、義頼や他の者たちと揃って岐阜城を退出する。彼らはぞれぞれ、城下にある自身の屋敷へと向かった。

 さて義頼であるが、彼は程なくして屋敷に到着すると、さっそく出立の準備を始める。すると、圓(井伊直虎)や虎松、そして井伊家家臣たちも出立の用意を行いはじめていた。彼らは全員で大和国の多聞山城に向かってから、対武田戦の褒美として義頼が拝領した丹波国に向かう段取りとなっていたからである。何かと移動が多い義頼は慣れた物であり、その日のうちに出立の準備を整えていた。

 しかし圓を筆頭とする井伊家の者達は慣れていないせいもあり、少し時間が掛かってしまう。そんな彼らに義頼は、ゆっくりでいいと声を掛けた。その傍らで義頼は、お犬の方と圓と義息の虎松と共に家族の絆を深めていたのである。そんな光景を見ると、先ほど掛けた言葉が井伊家の者たちを気遣っているのかそれとも家族の団らんを楽しみたいからなのか分からなかった。 

 横目でそんな義頼の様子を見た六角義治ろっかくよしはるはというと、小さく苦笑を浮かべる。それから一つ息を吐くと、彼もまた井伊家の者たちへ声を掛けていた。


「殿もああいっておられる。ゆっくりと慌てることなく、準備を行うといい」

『はっ』

「その通り、義治のいう通りだ。慌てず騒がずに行えばよい」

『ははっ』


 六角義治が気遣ったお陰か、それとも彼の言葉に続いて改めて義頼が声を掛けたからかは分からない。だがそれでも、少し慌ただしかった井伊家の者も落ち着く。すると先程までよりは準備が幾分早くなり、やがてその準備も終わりを迎えた。


「明日はゆっくり休め。明後日には岐阜を発つ。その後は、曽根城と佐和山城を経由し、それぞれの地で一泊する」

『御意』


 それから二日後、義頼らは六角屋敷を出立した。

 その日は、出立前に伝えた通り事前に頼んでいた稲葉一徹いなばいってつの曽根城で宿泊する。明けて翌日の早朝に出立した彼らは、関ヶ原を越えて同日の夕刻には、佐和山城に到着する。そこでも一泊した一行は、翌日に漸く観音寺城へと到着していた。

 それから観音寺城下の六角館に入った義頼一行は、留守居役を務めていた大原義定おおはらよしさだと彼の補佐を行っている進藤賢盛しんどうかたもりの出迎えを受けていた。


「殿。ご無事の到着、何よりにございます」

「うむ」

「それと、そなたが次郎法師殿にございますか。拙者は六角義頼が甥、大原義定と申します」

「ご丁寧な挨拶、痛み入ります。私は井伊直盛が息女、圓でございます」

「圓殿……ですか?」

「はい。私の姫としての名にございますれば」

「そうでしたか。では、これからもよろしくお願い致します。お圓の方様」

「殿、奥方様方、中務大輔(大原義定)殿。積もる話もありましょうが、先ずは中へおはいり下さい」

「そうですね。圓姫の体にもそしてお腹の子にも触りましょう」


 進藤賢盛に促されると、お犬の方も賛同した。

 そこで一行は、六角館内へと足を進める。するとそこには、蒲生賢秀がもうかたひでを筆頭とした近江衆が揃っている。彼らは満面の喜色を浮かべながら、口々に祝いの口上を義頼と圓に述べていた。

 実は、彼らがここまで祝っているのには訳がある。今まで義頼の血を引く子は、ただの一人しかいなかった。だが今は、圓のお腹の中にもう一人の子がいる。まだ男か女かは分からないが、鶴松丸以外の子が生まれることは彼ら近江衆としても慶事であったからだ。

 その夜は、圓の側室入りを祝う宴となる。しかし彼女の体を考慮して、あまり騒がしくはしない。どちらかといえば、朗らかといっていい宴であった。

 明けて翌日、義頼は三雲賢持みくもかたもち駒井秀勝こまいひでかつ駒井重勝こまいしげかつに会っている。そして彼らから、織田信長より命じられた焙烙玉対策などを目的とした船を覆う材質についての報告を受けていた。

 報告書の形で纏められていた資料を、義頼は最後まで目を通す。全て読み終えてから顔を上げると、三雲賢持へと問い掛けていた。


「……結局のところ、船体を金属板で覆うのが一番いいということで間違いはないか?」

「はっ。しかし、問題は残っています。素材という問題ですが」

「そうだな賢持。ただ燃えないというのであれば、材質は金属であれば何でもいいということになる。しかし頑丈さや潮風による錆びなどを考慮すれば、自ずと材質は選ばない訳にはいかないか……それで、どうなのだ秀勝」

「はっ。堅さでいえば間違いなく鉄となりましょう。しかし、殿が懸念しておられたように錆びてしまうのが早いです。その旨を考慮致しますと、銅の方がよいのではないかと思われます」

「その代わり、鉄より柔らかいと。一長一短だな……よし。この辺りで一度、殿へ報告をしておいたほうがいいな」


 義頼はそう結論づけると、駒井秀勝へ岐阜に向けて使者を立てるように命じる。それから三雲賢持と駒井重勝には、引き続いて材質の検証を命じていた。

 用件を済ませる為、義頼はそれから数日の間は六角館に逗留している。その間に、近江代官としての職をもこなしていた。やがて出立の日になると、予定通り観音寺城を発つ。しかしながら、義頼一行を見送った者の中に大原義定の姿がなかった。

 その理由は六角の両藤とまでいわれた進藤賢盛に、今まで義頼の代理として観音寺城にいた大原義定の役目を引き継がせたからである。ならば大原義定はどうなるのかというと、何ということはない義頼と同行しているのだ。

 してその理由であるが、彼に新たな命を与える為である。その命とは、大和国主代理としての命となる。つまり大原義定には大和国に移動して貰い、丹波国へ向かう義頼の代理を務めさせるのだ。

 その後、街道を南に向かい甲賀郡に入ると義頼は、甲賀郡を任せている三雲成持みくもしげもちと面会する。彼と、統治などについて諸々の話をしたあとで出立して伊賀国へ入った。すると義頼は、伊賀国を任せている仁木義政にっきよしまさ仁木義視にっきよしみにそれぞれ会う。彼らから伊賀国内の統治に関する報告を聞き、必要と感じれば追加の指示を出してから義頼は伊賀国を出立して大和国へと入った。

 やがて多聞山城へ到着すると、大和国内の国人らを集めている。そこで義頼は、丹波国へ新たな領地を褒美として与えられた為に向かう旨を、それから自身の代理として大原義定に大和国の差配を任せる旨を伝える。そして最後に、丹後国へ侵攻する際には、大和衆と丹波衆を動かすことも併せて伝えられていた。


「左衛門佐様。それは、公方様を追ってですかな?」

「いや。違う、そうではない道意どうい松永久秀まつながひさひで)。一色義道いっしきよしみちが、殿の書状を無視したのでな。それゆえ、征伐の為よ」

「ああ、なるほど。そういえば、そうでしたな」


 この件については道意も無論のことであるが、筒井順慶つついじゅんけい以下大和国の国人たちも聞き及んでいたことである。その為、こたびの進撃に対して特に異論が出ることもなかった。 


「よいか! 我らが動くのは、冬が明けて春となる再来月だ。それまでに、しっかりと準備をしておくのだ」

『御意!』


 力強く返答してくる彼らに対し、義頼は頼もし気に頷いたのであった。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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