第百七話~お披露目~
第百七話~お披露目~
岐阜城下にある六角屋敷で義頼は、井伊直虎改め圓を、そして彼女に付き従ってきた井伊家家臣団を慌ただしくも迎え入れていた。
その六角屋敷では、三日後の夜に宴が執り行われる運びとなっている。それというのも圓は側室に当たる為、正室を迎える際に行われた華燭の典(婚儀)は挙げない為である。その代わりという訳ではないのだが、婚儀の最終日に行われる披露だけは行われることとなっていた。
またこの披露の宴だが、はるばる井伊谷から来訪した井伊家の者たちの歓迎という側面も併せ持っている。その為か、宴は義頼の筆頭家臣となる馬淵建綱が音頭をとりそして全てを仕切っていた。
その一方で義頼はというと、直虎と共に六角家に入る虎松との面会を果たしていた。彼の義母に当たる圓が義頼の側室となる為、虎松は養子として六角家に入ることとなる。つまり彼は、当主たる義頼の義息となるのだ。
ゆえに六角家内における彼の扱いとしては、庶長子と同じとなる。既に義頼の正室に当たるお犬の方が生んだ鶴松丸という嫡子が存在している為、これは当然の仕儀であった。
「四郎五郎(六角義頼)様。この子が、私の養子となる虎松です。さ、義父上にご挨拶をなさい」
「義父上。ご尊顔を拝し、恐悦至極にございます。井伊直虎が養子、虎松にございます」
今日の為に、義母である圓と練習したのであろう。一つ頭を下げたあとで義頼へ挨拶の口上を行った虎松は、噛むこともなく言い切っていた。そんな義息に対して、義頼と彼の正室となるお犬の方は微笑みを浮かべている。何となくであるが、とても微笑ましく思えたからだった。
その後、義頼は自己紹介をする。しかしその際に、官職名ではなく敢えて通称を用いて自己紹介をしていた。それは圓がそのように紹介したということもあるが、何より今日ただいまを持って家族となる虎松に対する義頼の思いであった。
彼の挨拶が終わると続いて、正室たるお犬の方も自己紹介をする。虎松が義頼の庶長子となる以上、これからはお犬の方も義母に当たることになる。しかし頭では分かっている虎松であったが、いざ彼女を前にするとどのような態度を取ればいいのか分からなくなった。
「あ、えと。その……」
「無理はしなくてもよいのですよ、虎松殿」
「は、はい」
お犬の方より優しく諭されたが、それでも虎松はどう返答していいか思いつかないまま、もう一人の母になるというお犬の方へ返事をしている。その姿に、義頼とお犬の方は笑みを浮かべていたが、圓は苦笑を浮かべていた。
「虎松。しっかりしなさい」
「ですが、その……どうお呼びしていいか」
確かに新たに母親が一人増える。字面で書けばそれだけだが、実際にはどう呼べばいいか分からないというのも納得できるものであった。そこで話し合った結果、今日以降は直虎をかかさま、お犬の方を大かかさまと呼ぶということで解決を図っていた。
さて無事に井伊谷から井伊家の者たちが岐阜城下へと到着してから三日後、ついに予定通り圓の側室入りを祝う宴が始まった。織田家と武田家との戦はまだ遠江国は無論のこと、奥三河や東濃でも行われている。だが、祝い事は祝い事として義頼は岐阜に居る近江衆の人質たちや親しい織田家臣たちを招待していた。
彼が招いた主な者の名を挙げれば、まずは織田家重臣である丹羽長秀となるであろう。他にも森可成と森長可の親子が招待され、そして佐々成政と不破光治が招かれていた。
また彼らとは別に、武田信玄との戦の際、信長と共に遠江国へ進軍した明智光秀に羽柴秀吉も参列している。さらには、織田家家臣の滝川一益や元幕臣の長岡藤孝に京極高吉など錚々たる者たちも宴には参加するのだ。
この、豪華ともいえる彼らを霞ませてしまうような人物も、実はこのお披露目には参加している。その人物とは、六角家と井伊家の婚儀にあたり事実上の仲人を務めた織田信長その人であった。
仲人である以上、彼が事実上の婚儀であるこの宴に参加すること自体は筋が通る話ではある。しかし彼には、織田家当主という立場がある。その立場を考えれば、代理でも格好がつかない訳ではない。それであるにも関わらず、彼は宴に参加していた。
事実信長は、丹羽長秀から当初自分を代理とするべきだと進言されている。彼も招待をされていたので、代理としても都合もよかったからだ。しかし信長はそれを良しとせず、なぜか代理を出さずに本人が参列している。その為、今宵の宴の主役が義頼と圓という新たに誕生する夫婦なのか、それとも信長なのか分からなくなっていた。しかしその辺りは心得ているのか、信長も出しゃばったりはしない。黙って、仲人の役目を履行していた。
だが招待された者たちからすれば、そういう訳にはいかない。彼らからすれば義頼と圓に対して祝いの口上を述べたあとに信長へ挨拶に向かうべきなのか、それとも信長に挨拶してから義頼と圓に対して祝いの口上を述べるべきか判断がつかず困惑していたのだ。
「何をやっておるか。今宵の主役は、義頼と女地頭であろう。さっさと、口上をせい」
『は、はぁ……』
そんな招待客たちの様子に気が付いた信長は、自分よりも義頼への挨拶を優先するようにと彼らへ水を向ける。だがやはり、招待客たちの態度は煮え切らなかった。するとそんな彼らに業を煮やしたのか、信長自ら立ち上がり義頼と圓に近づくと手にした酒を傾ける。唐突に行われた信長のまさかの行動に、圓はいささか緊張してしまう。しかし義頼は、信長の型破りなところは慣れているので彼女とは違って緊張せずに対応していた。
「殿」
「義頼、まずは一献」
「ははっ」
「義弟、そんなに畏まるな」
「では……ありがとうございます義兄上」
「うむ」
義頼はあえて信長の言葉に乗ると、主ではなく義理の兄からの祝いとして自身の杯を差し出す。信長は、その杯に銚子を傾けて酒を注いだ。その後、義頼が酒の注がれた杯を飲み干すのを見届けると、今度は圓の方を向いて彼女にも手ずから酒を注いでいた。
「直虎。いや、圓であったな」
「はい。弾正大弼(織田信長)様」
「では圓。我が妹と同様に、義弟を支えてやってくれ」
「勿論にございます。お犬の方様と共に、奥を乱すことなく夫を支えていく所存です」
「……だ、そうだ犬」
圓からの返事を聞いた信長は、その流れで妹であるお犬の方に話を振った。
義頼と圓という自身の夫とそして夫の新たな側室となる二人の様子を見ていた彼女は、問い掛けてきた兄に対して莞爾として笑って見せた。
「御心配は無用にございます。ねぇ、圓」
「はい、お犬様」
半ばからかうように妹へ話題を振った信長であったのだが、お犬の方から何ともいえない笑みを返答のように返されている。そんな妹の様子に一瞬だけ呆気にとられた信長であったが、すぐに彼は大きく笑いだしていた。
「ふはははは。これなら心配いらぬ。のう、義頼」
「は、はい」
義弟となる義頼からの返答を聞いた信長は、義頼と圓の前から移動してその場を空ける。すると、あとに続くように長秀と秀吉が義頼と圓の前に進み出ていた。すると織田家臣の先達ということからか、秀吉が一歩引いて先を譲る。こうして先を譲られた長秀は、軽く頷くと義頼と圓の前に進み出る。それから、彼らに祝いの言葉を述べた。
「左衛門佐(六角義頼)殿、此度はおめでとうに存ずる」
「ありがとうございます、五郎左(丹羽長秀)殿」
「しかし、まさか女地頭殿を側室に向かえるとは。流石のわしも、思いもよらなかったぞ」
「はははは……」
半ば感心、半ば呆れたかのような長秀の言葉に、義頼はただ笑みを浮かべた。
もっとも彼の言葉は、義頼と共に井伊谷へ救援に向かい、しかも同地の救援を成功させた森親子や成政や光治は無論のことだが、実際に救援された井伊家家臣団とも共通した思いであった。
そしてそれは、義頼と圓も同じである。確かにあの夜、一夜限りの情を結んだ二人だったが、こうして夫婦となるとは思ってもいなかったのだ。
「だが、それも今さらではあるな。何であれ、めでたいのはまごうかたなき事実だ。左衛門佐殿、それから女じと……いや、圓殿。改めておめでとうをいわせてもらおう」
『ありがとうございます』
意図せず揃って返事をした義頼と圓に、長秀は笑みを浮かべてから場所を空ける。その次に祝いの口上を述べたのは、長秀へ先を譲った秀吉であった。そして彼の口上が済むと、続いて一益と光秀が祝いを述べる。さらに祝いの口上は、森親子と成政へと続いていく。彼らは義頼と圓へ祝いを述べたあと、信長に挨拶してからめいめい所定の位置に戻っていた。
こうして織田家の家臣たちの口上が終わると、次に義頼と圓の前に現れたのは岐阜にいる近江衆の人質たちである。彼らは次々と、義頼と圓に対して祝いを述べた。その後は先に祝いを述べた織田家重臣と同じように、信長へ挨拶してからそれぞれ座っていた場所に戻ったのである。
暫く時も進み宴もたけなわとなる頃には、皆思い思いに移動しており当初の席に座っている者などまずはいない。彼らは、いろいろと移動していたのだ。もし居るとすれば主役である義頼と圓、それから虎松ぐらいである。元服こそ迎えていない虎松だが、彼も酒を少しは嗜むので宴には参加していたのだ。
しかし今は、酒など全く気にできる雰囲気、否、事態ではない。それというのも、信長が虎松へと話し掛けていたからだ。はじめ信長から話し掛けられた虎松は、緊張のあまり体を堅くしている。相手が信長であるのだから、当然といえば当然であった。何せ虎松は、前述したようにまだ元服すら迎えていない。そんな彼が、大大名の当主である信長に話し掛けられて緊張しない訳がないのだ。
だが話していくうちに、緊張も解れていく。この辺りは若さゆえの順応の高さといえるのだろう。そして今に至っては、快活に答えていたのだ。
そうこうしているうちにやがて披露を兼ねた宴も終わりを迎え、それに伴い招待客も三々五々帰っていく。やがて全員を送り出した義頼と圓は、いよいよ初夜を迎えることとなる。しかし現在、圓が身重であることを鑑みて、彼らの初夜は添い寝だけであった。
圓の披露から数日間だけではあったが、義頼はお犬の方や圓や虎松と共にゆったりと過ごしていた。ある意味で、家族の団らんを味わっていたといっていいだろう。そんな義頼であったが、いつまでものんびりとしている訳ではない。彼は信長に呼ばれ、主の屋敷を訪問していた。
しかして義頼が呼ばれた理由だが、それは義頼の茶にあった。実は信長、彼の茶を飲んだことなど一度もなかったのである。しかも何か理由があって飲めなかったのではなく、ただの偶然であった。
それでなくとも信長は、以前より近江衆で近臣という立場にある建部隆勝、他にも西美濃三人衆の稲葉一鉄から、義頼の茶について話を聞いていたのである。そこでそのうちに味わいたいとは考えていたのだが、しかして今まで実際に確かめる機会が巡ってこなかったのだ。
主の屋敷を訪問した義頼は、信長や彼の近臣で右筆の松井有閑と共に茶室へ赴く。有閑は茶人としても有名であり、藤孝や道意(松永久秀)と同じく武野紹鴎に師事したこともある。そのような彼であればこそ、この場に居ても別段不思議ではなかった。
「……美味いな」
「若いのにこれほどとは。正直、思いもよりませんでしたな」
「お恥ずかしい限りにございます」
手ずから点てた茶に対して称賛といっていい言葉を二人から贈られ、義頼は少し照れながらも返答した。
やがて茶を飲み終えた信長は、義頼へあることを尋ねる為に口を開く。それは、義頼が師の志野省巴より茶と共に教えられたことであった。その教えとは、香道である。省巴は千宗易などを弟子にしている茶人であるが、それ以上に香道の大家としての方が有名であった。
その為、義頼は茶だけでなく香道も嗜んでいる。とはいうものの、前述した隆勝や一鉄程には嗜んではいない。隆勝は師の省巴が隠棲する際に道具の大半を預けられている人物であるし、一鉄に至っては省巴の先代に当たる志野宗温より名香帖を、省巴からは目録を伝授されたぐらいである。しかして義頼だが、香道において彼ら程には及ばない。それでも、一応は香道にも通じていたのだ。
「そなた、茶だけではなく、香道にも通じているらしいな」
「は。師よりご教授していただきました」
「そうか。ならば、ちょうどいい。そなたに、朝廷との交渉を命じる」
「交渉ですか? それは構いませんが、どのような事案なのでしょうか」
「その方に与えた大和の領内にある寺に眠る天下第一とも謡われた香り高き物。そういえば分かるか?」
「添上郡の寺に眠る天下第一の香る物……蘭奢待!!」
幾ら茶程ではないとはいえ、義頼とて香道を学んでいる。ゆえに信長の言わんとしたことを、正確に察していた。
大和国内には、数多くの古刹や名刹がある。その中の一つに東大寺があるのだが、この寺にある正倉院には数多くの宝物が収蔵されていた。そんな宝物の一つに、蘭奢待と呼ばれる香木がある。この香木だが、今まで僅か四人しか正式に切り取りを許された者はいないとされていた正に名木中の名木であった。
「そう、その蘭奢待よ。天下の権威を示すには、ちょうど良かろうて」
足利義昭を京から追放したことで、信長は天下を継承したといって差し支えない。つまり新たな天下人として名乗りを上げたに等しい彼にとって、蘭奢待は自身が持つ権威権力を示す体のいい宝物であった。
そこで、そんな蘭奢待を利用しようと考えたのだ。しかも、力を背景に強引に迫るのではなく、朝廷から正式に許可を取り付けた上で切り取ろうと考えたのだ。
東大寺は、嘗ては強訴で朝廷や院を悩ませたという経緯を持っている。そこで、正式に許可を得て筋を通し、過去の東大寺とは違う姿勢を見せることでいわば当て付けたのだ。つまり朝廷に奏上して嘗ての東大寺とは違うところを見せつつも、その東大寺から宝物をせしめてやろうという信長の皮肉も込められた行動だった。
「…………分かりました。兄にも協力を頼み、勅許が降りるように交渉してみます」
やや間を空けてから義頼が了承の返答をすると、それまで黙って控えていた友閑が声を上げた。文化人でもある彼としても、蘭奢待はとても興味深い代物である。もしこの件を知らなかったのであればまだしも、こうして知ってしまった以上は座して見逃すことなどできなかった。
「お待ち下さい、殿。そのような事案でしたら、拙者にもお命じいただきたい」
「その方にもか? それは構わぬが……義頼に命じた以上、その方が主となることはないのだぞ」
「構いません。ですから、何とぞ」
有閑の強引とも取れる物いいに、さしもの信長も目を白黒させた。
彼としては、先に述べた理由もさることながら、若い義頼の手助けをとの思いがある。彼が朝廷との交渉でも失敗でもしようものなら、ひいては織田家が恥をかいたことになりかねないからだ。
そのような未来を防ぐ為にも、そして蘭奢待への興味も相まっての直訴である。だがこの一件で、源成瀬より連綿と数百年に亘り名門として名を馳せ、しかも近江国にて君臨し続けた佐々木一族の持つつてと畿内における影響力をまざまざと見せつけられることになるとはこの時点で彼は夢にも思ってみなかった。
「分かった。その方に、補佐を命じる。義頼と力を合わせ、朝廷との交渉を成功させよ」
『はっ』
揃って返答する二人の家臣に対して、信長は静かに頷いたのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




