第八話~謀反と侵攻~
第八話~謀反と侵攻~
足利義秋が左馬頭の官位を得てからほどなくした頃、義頼は矢島へと向かっていた。
最も、彼が矢島へ向かう事はさして珍しいことでもない。 足利義秋へのご機嫌伺いや、義頼が手に入れた畿内の情報などを細川藤孝らへ伝えることなど色々とあるからだ。
但し、今日の訪問はそれらいわば公務とは違う。 では何かというと、細川藤孝から私的に招待を受けたからだった。 確かに公務では接点が何度もある義頼と細川藤孝だが、物凄く親しいというわけではない。 しかし、足利義秋の臣の中では一番顔を合わせることがあるので、その意味では親しいともいえた。
「兵部大輔(細川藤孝)殿からの招待か。 いきなりだが、何であろうな」
「……さぁ。 若年の私には、分かりかねます」
義頼から声を掛けられた鶴千代が、やや答えに窮しながら言葉を返した。
因みに彼を連れて来た理由だが、鶴千代に茶の席へ同席させる為である。 細川藤孝は、足利義輝や松永久秀らに茶を教えた武野紹鴎の弟子である。 彼は他にも津田宗及や千宗易と言った茶人も弟子とした者であり、そんな彼の弟子である細川藤孝の茶を見せる事は若い鶴千代の為になると考えたからであった。
「おう。 それもそうだ。 どの道、行けば分かるか」
「はい」
「では、慌てずけれど遅れずに参ろうか」
『はっ』
義頼はそこで、鶴千代以外に護衛として同行している寺村重友らも含めて声を掛けた。
そんな彼ら全員からの返事を聞き頷くと、己が乗る馬を軽く急がせる。 常歩から速足へと速度を上げると、細川藤孝の屋敷へと向かうのであった。
さて義頼がこれから訪問する細川藤孝の屋敷だが、矢島御所のすぐ近くに存在している。 彼が足利義秋の家臣である以上、仕える主の館を守る様に屋敷が建つのは当然であった。
そんな細川藤孝の屋敷に到着した義頼一行だったが、彼らはすぐに招き入れられる。 大体何時頃に到着するかなど向こうも予測はしているので、対応に齟齬が生じるなどまずはない。 ただ遅れないようにと義頼が少し急いだので、一行は取りあえず通された部屋で少し待たされたぐらいであった。
それも僅かのことであり、寺村重友ら護衛の者はその部屋で留まり、義頼自身は細川家家臣から接待を受けることになる。 そして主賓である義頼は、鶴千代と共に細川邸内にある草庵へと移動していた。
「よく参られた、侍従(六角義頼)殿」
「兵部大輔殿、お招きに甘えましてございます。 これにあるは貴殿も御承知かと思いますが、我が小姓の鶴千代です」
「おお。 鶴千代、息災そうだな」
「はい、細川様」
鶴千代は、何度か義頼の供として同行した事もあるので細川藤孝と面識があった。
その際に細川藤孝は、鶴千代を一目見て「利発そうな子」だと思っている。 それゆえか、細川藤孝は鶴千代を嫌っていなかった。
それは兎も角、招かれた相手に挨拶を済ませた義頼は、続いて草庵内に居る二人に視線を向ける。 そこには細川藤孝の兄である三淵藤英と、彼ら兄弟の同僚にあたる一色藤長がいた。
「いやしかし、弾正左衛門尉(三淵藤英)殿と式部少輔(一色藤長)殿も御同席とは思いませんでした」
「弟に誘われての」
「拙者も同じにございますれば」
あくまでこの茶席は、今まで手を尽くしてくれた六角家に対するささやかな礼である。 したてに出て侮られるわけにはいかないが、居丈高に出て六角家との仲を拗らしてしまうのもはばかられる。 そこで細川藤孝は、兄や同僚と言った身近な者を参加させて親しみさを出した方がいいと考えたのだ。
また義頼としても、足利義秋に対する繋ぎ役を任じられている以上は、彼の家臣につてを持つのは悪いことでは無い。 最悪、何かの失策があったとしても取り成して貰える可能性が高くなるからだ。
こうして義頼の鶴千代に対する後学の為という純粋な思いと、色々な大人の事情という要素を孕んだ茶席が始まった。 間もなく茶室内に、茶頭となる細川藤孝が茶を点てる音が静かに流れる。 やがて出来た茶を出すと、義頼は確りとした作法で茶席を楽しむ。 その作法は、細川藤孝や三淵藤英や藤長の目から見ても義頼の若さから想像もつかないぐらい中々のものであった。
と言うか、はっきり言うと自分達と比べても遜色がないのである。 細川藤孝の学んだ武野紹鴎の茶とは似てはいるがいささか違うと思えるが、そこに野暮さなどは全く感じられない。 思わずどこで学んだのか尋ねそうになったが、それこそ野暮な様な気がした細川藤孝は喉まで出かかった言葉を飲み込んでいた。
それは三淵藤英や一色藤長も同じであり、彼らも口から出かかった言葉を飲み込むと表面上は静かに藤孝の茶を楽しむのであった。
因みに鶴千代だが、彼は茶席自体に参加していない。 草庵の片隅から、じっと眺めているだけであった。
やがて細川邸で行われた饗応も終わり、長光寺城に戻る道すがら義頼は鶴千代に話し掛ける。 その内容は、見学をさせた茶席に関してであった。
「さて鶴千代」
「はい。 殿」
「初めてみた茶席だが、どうであった?」
抽象的と取れる義頼からの問い掛けだが、意味は通じたらしい。 鶴千代は目を瞑り、思いだすかのような素振りする。 それから程なくして目を開くと、自分が感じたことを口にし始めた。
「ええと……何と言いましょうか……綺麗。 そう! すごく綺麗だったと思いました」
「なるほど。 綺麗か」
「はいっ! そして出来ればやってみたい、学んでみたいとも思いました」
鶴千代の言葉に義頼は、少し驚いた表情をした。
あくまで後学の為にと考えていただけに、まさか茶を学びたいと言い出すとは思ってみなかったのである。 しかしながら、折角やる気を見せたのだ。 その思いを無下にするには、いささか憚られた。 そこで義頼は、彼に手ほどきをしてやろう思い立つ。 その旨を告げると、鶴千代はとても喜んで見せた。
「そうか、学んでみたいか……ならば恥をかかない程度ならば俺が教えてやろう」
「本当ですか!?」
「ああ。 だが手加減はせんぞ。 それに、茶を教えるだけに時間を割く訳にもいかないからな」
「ご指導ご鞭撻、弓同様に宜しくお願い致します」
「分かった。 確りと付いて来い」
「はいっ!」
こうして鶴千代は、弓だけでなく茶においても義頼の初めての弟子となったのであった。
矢島御所へ義頼が茶席に招かれてからほどなく、長光寺城から見て割と近くにある大森城では二人の男が雁首を揃えていた。 一人は布施公雄と言い、この大森城の城主である。 もう一人は布施公保と言い、布施公雄の嫡子であった。
だが、その様子だがいささかおかしい。 父親は決意に彩られた表情を浮かべており、対面にいる息子の驚愕に彩られた表情とはあまりに違いすぎていた。
「父上! 今、何とおっしゃられましたか!!」
「公保、聞いていなかったのか? わし、否わしらは六角家に反旗を翻す、そう言ったのだ」
「ま、まさか謀反をすると言われますのか!」
「有り体に言えばそうだな」
「し、しかし三河守様が何とおっしゃられるか」
「問題ない。 これは、三河守様も同意の上だ」
自分の父親の言葉を聞き、布施公保は絶句した。
布施宗家の当主である布施三河守と分家当主である父親の間で全く齟齬はないということは、この謀反は布施家の総意と言っていい。 つまりは、覆すのが非常に難しいということなのだ。
しかし布施公保としては、それで良とする訳にはいかない。 布施一族の者として、座して滅ぼされる訳にはいかないからだ。
「せ、拙者は反対にございます! 三年前に起きたあの騒動の時の様に複数で行動を起こすならばまだしも、布施一族単独でなぞ負けるのは必須ではありませんか」
「そう思うか、公保。 だが、そんな事はないのだ。 手は打っておるからな」
「で、では! 問題が無いという理由をお教えいただきたい」
父親の自信たっぷりな言葉に何かあるのかと布施公保は詰め寄ったが、布施公雄は涼しげな表情をして返答した。
「例え息子でも、残念だがそれは無理だ。 秘中の秘だからな」
「それで安心しろと言われても、安心出来るわけ」
「黙れ公保!」
「……父上……」
「三河守様とわしの策ぞ! それを疑うと、そう申すか!!」
更に言い募る息子に対し、布施公雄が一喝した。
ふと見れば、父親は苛立たしげに肘かけを指で叩いている。 その様子に不穏な空気を感じた布施公保は、慌てて平伏すると詫びを入れた。
「も、申し訳ありません! 出過ぎた真似を致しました」
「……まぁ、よかろう公保。 兎に角は、兵の準備だ。 よいな」
「し、承知致しました」
そう父親に命じられて布施公保であったが、その表情は対照的であった。
父親が喜色にあふれる表情を浮かべているのに対し、息子は何か思慮にふけっているのかあまり表情を浮かべていない。 しかし機嫌がいい父親は、そんな息子の様子に気づいてはいなかった。
その後、父親の前を辞して自室へと戻った布施公保は、一人でじっとこたびの謀反について考える。 とてもではないが、成功するとは思えないからである。 何か策がある様な雰囲気であったが、例え策があったとしても彼には成功するとは思えなかったのだ。
「……ここはやはり、布施家存続を第一に考えよう。 例えそれが一族として、力を落とす事になったとしてもだ」
そう決断した布施公保は、深夜になると密かに大森城を出る。 彼が向かった先は、六角家当主の観音寺城では無く最寄りの長光寺城であった。
いつ布施氏本家当主の布施三河守と父親の布施公雄が謀反するか分からないので、彼は少しでも時間を惜しんだのである。 その結果、選んだのが義頼であったのだ。
「……すまん、もう一度言ってくれ。 誰が何をするって?」
「侍従様。 我が父である公雄が蜂起します。 布施家宗家たる三河守様と共に」
「あー、その何だ。 聞き間違いでは無かったのだな。 いや、むしろ聞き間違いであってほしかったが」
「……はい。 拙者も戯言であって欲しかったです」
悲しげな表情を浮かべつつ答えた布施公保に、彼から布施一族の謀反を聞かされた義頼と蒲生定秀は思わず黙ってしまった。 よく考えてみれば彼は一族を、何より父親を売ったのである。 例えそれが覚悟の上であったとしても、いささか配慮に欠けていると判断した為だった。
「……すまん、公保。 軽率だった、そなたが一番つらいのであったな」
「いえ。 何であろうとも、謀反は謀反ですから」
間違いなく覚悟を決めているのであろう布施公保の言葉に、この場の空気が輪を掛けて重くなる。 義頼は後ろ頭を何回か掻いてから、謀反の話を聞いて気になったことを尋ねていた。
「なぁ公保よ。 布施家の所領は、国境に面していない。 つまりは、周りを六角家及び六角家臣に囲まれていると言う事だ。 はっきり言えば、勝機は薄いだろう。 だがそれにもかかわらず、なにゆえに公雄、いや布施家は蜂起を考えたのだ?」
「それが、分からないのです。 今回の謀反に拙者が反対した理由が、正にそこなのです。 しかし父は、問題ないの一点張りでして」
義頼や布施公保の言う通り、布施家には逃げ場が無い。
以前兵を挙げた小倉家の様に、国境に領地を持つのであるならば最悪落ち延びれば命と家は永らえることが出来るかもしれない。 また【観音寺騒動】の時に兵を挙げた後藤家の様に、複数の国人が協力していれば例え国境では無くても成功する目は出て来る。 だが一家だけ、しかも国境に面しておらず逃げ場が無い布施家では袋の鼠と言っていい状況なのだ。
「どう思う、定秀」
「何かの策はありましょうが、布施家の意図が読めませんと予測は難しいですな」
蒲生定秀の言葉に、再び義頼は考え始めた。
そう。
意図が読めないというのは、対応するのに一番やり辛いのだ。 謀反の目的が分かっていれば、それに準ずる対応をすればいい。 相手の思惑が読めても、やはり同様だ。 しかし目的も今現在では曖昧、思惑も同様では対処の選択が無限に広がってしまう。 せめて背景だけでも読めれば、そこで手を打つこともできるのだが。
その時、本多正信が部屋に入って来た。
「遅いぞ! 正信」
「申し訳ありません。 実はもう一つ、別に緊急性の高い情報が齎されましたので布施殿の件と合わせて裏を取っておりました」
「何!? 別の案件だと? 何だそれは」
義頼からすれば、布施家の一件でも十分に頭が痛いのだ。
それであるにもかかわらず、そこにさらなる問題が発生しているのだと聞いた義頼は思わず立ち上がってしまう。 そんな主に対して本多正信は、冷静と言っていい態度と言葉でもう一つの問題とやらを報告した。
まず、本多正信は手にしていた物を差し出す。 それは、書状であった。
一つは報告書の形態を取っている物であり、もう一つは本当の書状である。 報告書を書いたのは甲賀衆の一人で美濃部源吾であり、そして書状の差し出し人は朽木の領主を務める朽木元綱であった。
この朽木家だが、六角家同様に佐々木氏の流れを汲む家である。 佐々木氏八代目当主となる佐々木信綱の次男が受け継いのが高島郡であったことから、領地に因み高島氏を名乗ることとなる。その高島氏より別れた家の一つが、朽木家であった。 更に朽木家だが、足利将軍家とは係わり合いが深かったのである。 過去に遡れば、幾人も将軍の側近と言える者達を輩出している家なのである。 その様な経緯からか、現在六角家の名代として足利義秋と直接繋がりを持っている義頼と朽木元綱は懇意にしていたのであった。
その朽木家当主からの書状である。 義頼は、少し考えてから朽木元綱からの書状を手に取った。 書状を広げて読むうちに、顔色が変わる。 そして思わず義頼は、声を上げていた。
「……なっ! 正信、これは真か!!」
「はっ。 同様の事が、報告書にも書いてあります」
本多正信の言葉に義頼は、朽木元綱からの書状を放り投げると報告書を見る。 すると本多正信の言う通り、書状と同様の内容が書いてあった。 そんな慌てている様子に容易ならざる事でも起きたのかと、同席している蒲生定秀と布施公保が尋ねる。 すると義頼は、呻く様に言葉を紡いでいた。
「浅井家が……長政が動いた。 琵琶湖の湖西を攻めているそうだ」
『何ですと!?』
義頼の呻く様な言葉を聞き、蒲生定秀と布施公保はほぼ同時に驚いた。
そんな二人に対して義頼は、美濃部源吾の報告書を渡すと食い入る様に報告書を見やる。 そして彼らを尻目に義頼は、放りだした朽木元綱の書状を綺麗に畳んでいた。
「さて……参ったな。 小倉家の内訌、左馬頭様の任官と立て続けて起きて、浅井への警戒がやや疎かになっていたか」
「はい。 拙者の不徳の致すところにございます」
「そうではない。 そもそも俺が、甘かったのであろう。 ところで正信、この浅井の動きと布施の謀反だが繋がっていると思うか?」
「まず、間違いなく繋がっていると拙者は愚考致します。 して殿、いかがなされますか?」
本多正信からの問い掛けに、義頼は腕を組みながら思案を始める。 やがて蒲生定秀と布施公保が報告書を読み終えると、そこで腕を解き本多正信へ対処の手立てを考えるようにと指示を出した。 すると彼は、すぐに了承の返答をする。 義頼は一つ頷くと、視線を本多正信から布施公保へ移していた。
「公保は俺と一緒に居て貰うぞ」
「それは……監視ですか?」
「そういう一面もある。 だが何より、俺よりも義治に対してだな。 あの【観音寺騒動】以来、この手の謀反騒ぎに対して義治は過剰になる傾向がある」
そのような義頼の言葉に、布施公保は頷いた。
確かに先の【小倉の乱】でも、六角義治は少し過激と言うか過剰に反応した節がある。 それには、傍目で見ていた布施公保も感じていたぐらいであった。
「承知致しました侍従様。 拙者としても、痛くもない腹は探られたくありませんので」
「そうしてくれ。 それから、鶴千代!」
「はっ」
「すぐに皆を集めよ、軍議だ!」
「はいっ!」
義頼は鶴千代に命じて、己の家臣とそして現在長光寺城に在番している与力衆を全員集める。 その間に彼は六角高定宛ての書状を認めると、義頼の与力の甲賀衆を纏める立場にありしかも小浅井城主の山中俊好に託し、観音寺城に派遣した。
それから程なく、家臣や与力衆が揃ったと報告を受けた義頼は少しだけ間を開けた後に皆を集めた広間へと入る。 そんな彼の後ろには蒲生定秀と本多正信、そして布施公保が続いていた。
義頼が、彼らを伴って広間に入る。 やがて彼のみが上座に座ると間もなく、与力衆筆頭の馬淵建綱が己達を参集させた理由を尋ねて来る。 それと同時に馬淵建綱は、義頼の与力衆では無い布施公保がこの場にいる事を不思議に思っていた。
そんな彼の問い掛けに義頼は組んでいた腕を解き、布施家の謀反とそれを知らせて来たのがこの布施公保である事を告げる。 更には、此度の一件に便乗するかの様に、浅井長政が軍勢と共に湖西へ侵攻している旨を伝えた。
その途端に、広間が騒がしくなる。 しかし、その動揺は蒲生定秀が一喝する事で収めて見せた。
ただ一言だけであったが、そこには年季と言う重さが籠っている。 そんな彼から醸し出される経験に裏打ちされた威厳に、先程までの喧騒が嘘の様に静まっていく。 程なくして広間が静まり返ると、そこで義頼が喋り始めた。
「定秀、御苦労。 さて、危急に皆を集めた理由は今言った通りだ。 早急に手を打つ必要がある。 ましてやこの地には、左馬頭(足利義秋)様がおられるのだからなおさらだ」
「確かにおっしゃる通りです」
馬淵建綱の同意に続いて、多くの家臣や国人達が同意して頷く。 そんな彼らの態度を見て内心で安心した義頼は、言葉を続けた。
「そこで具体的にどうするかだが……」
そこで一度言葉を切った義頼は、視線を本多正信へと向ける。 主からの視線を受けた本多正信が一つ頷くのを見て、義頼は更に言葉を続けた。
先ずは和田信維に命じ、足利義秋に対して事態を報告させる。 同時に彼へ、矢島御所の警護を命じた。 その次は蒲生定秀に、彼の息子である蒲生賢秀と三雲城主の三雲定持を動かすようにと命じている。 彼らは、三年前に起きた【観音寺騒動】の際に六角家に協力して事態を収めている。 ゆえにこちらの要請にも、無下に扱わないだろうと言う目算に基づいた判断だった。
「それからこの場にはいない山岡景隆についてだが、彼の者には既に書を出しており瀬田川沿いを守らせるつもりだ。 よって最悪でも、時は稼げるだろう。 それと、秀勝。 その方は息子の駒井重勝と共に堅田衆の猪飼昇貞と合力して、湖上から浅井を警戒しろ。 場合によっては攻め手にもなるからそのつもりでいるのだ」
「はっ」
「長光寺城は水口盛里に預ける。 それから、布施家の動向には注意しろ。 城に籠ると思われるが、打って出てくる事も考えられるからな」
「御意」
「宮城堅甫には、兵糧を任せる。 奉行として、つつがなく届けてくれ」
「分かりました」
「残りの者は出陣する! 元綱達を助けるぞ!!」
『おおー!!』
それから数日したのち、いよいよ出陣だというその時、義頼の元に六角高定からの使者が訪れた。
使者を務めていたのは、進藤賢盛である。 【観音寺騒動】以来、彼は義頼といい関係を築いている。 その事を鑑みて、六角高定は彼を使者としたのであった。
「六角侍従義頼、湖西より進攻して来た浅井長政の迎撃を任せる」
「御意」
上座に迎え入れた進藤賢盛より読み上げられた六角高定からの命を即座に了承すると、軍勢を率いて山岡景隆の居城となる瀬田城へ急行した。 その山岡景隆は元々義頼の与力だったが、先年に父親の山岡景之より家督を譲られ現在は山岡家当主となっている。 それまでは近くにいたことから、義頼も彼を当てにしていたのだ。
それはそれとして、進行している浅井家だが思ったよりも侵攻が早い。 浅井家の軍勢が進行してきている高島郡には朽木元綱を含む通称高島七頭と呼ばれた有力家があったのだが、彼らの家は朽木家を除いてことごとくが浅井長政に敗れてしまっていた。
その様なことなど露知らず、義頼は軍勢を率いる瀬田城に入る。 その時、主の命で湖西の戦況をつぶさに集めていた鵜飼孫六が報告と共に瀬田城へと現れたのであった。
「……そうか。 間に合わなかったのか……」
「御意」
義頼は、救援が間に合わなかった事をまるで詫びる様に目を瞑りながら頭を垂れる。 やがて頭を上げて目を見開くと、この場に居る山岡景隆へ指示を出した。
「景隆。 瀬田の守りは万事整っているか?」
「はい侍従様、問題ありません。 川沿いに人を派遣して、渡河できそうな場所も警戒させております」
「ならば、よし! 引き続き、警戒に当たれ」
「御意」
その一方で、いよいよ湖西の国人を傘下に収めた浅井長政の軍勢は瀬田川対岸へと到着した。
しかし高島七頭を破った時と違って、その行動は遅い。 それは未だ抵抗を続けている朽木家以外の戦に勝利した後で必要な事であったとは言え、湖西を押さえる為に必要であったとは言え時をやや掛け過ぎたのが仇となったからだった。
彼らが漸く瀬田川まで辿り着いてみれば、川沿いに守りを固められている。 その為、とてもではないが軍勢を進め渡河するなど出来ない。 取り敢えず浅井長政は辺りを調べさせたが、これと言う場所には間違いなく兵が配置されている。 そればかりか、巡視を行う兵も存在していたのだ。
そのことを忌々しく思いつつ、しかし抜かりのない対応に彼は不思議に思う。 事態の規模故に、六角家の一族が率いているのは分かる。 事実、隅縦四つ目の旗が靡いており、六角家一族の者がいる事を如実に表していた。 しかしながら、これだけの対応を行えるものに心当たりがない。 隠居している六角承禎ならば可能だろうが、彼が観音寺城から動いていないことは把握している。 だからこそ、分からないのだ。
そこで浅井長政は、自分の相談役兼傅役である遠藤直経に尋ねる。 彼は伊賀衆とも縁を持っており、事実上浅井家の情報を司っている。 その遠藤直経は、主君の問いに対して即座に答えていた。
「どうやら敵大将は、六角義頼の様です」
「……あやつか」
「殿が六角一族内で相対していながらも、唯一勝ちを収めていない相手ですな」
「直経、中々に辛辣なことを言うな。 それほど、三年前の六角家の騒動に関与できなかったのが悔しいか」
「……正確に言えば、殿と六角義頼が初めて見まえた時にその場に居たにもかかわらず敵の力量を見抜けなかったことが悔しいのです。 もしその場で見抜いていれば、拙者は暗殺を仕掛けたやも知れません」
少し間を開けた後で遠藤直経が零した言葉を聞き、流石に浅井長政も驚きをあらわしていた。
但し、彼が驚いたのはその物騒な物言いにではない。 遠藤直経の零した言葉が有する意味、それに気付いて驚いたのだ。 浅井長政の相談役も務める遠藤直経は、浅井家屈指の武将である。 武も智も人並み以上持つ武将であり、だからこそ浅井長政がそばに置いている。 決して遠藤直経が、傅役だったからだけではないのだ。
因みにこの関係は、義頼と蒲生定秀にとても類似していた。
「しかし……お前がそれほどの評価をするとはな」
「まぁ、それも今更であり結果論に過ぎませぬ。 それよりも殿、いかがなされますか?」
「うーむ。 この瀬田川を越えねば、三河守との約定が果たせん。 だが、この警戒では動けんわ」
浅井長政の言う三河守とは、謀反を起こした布施一族当主のことであった。
布施三河守は、【観音寺騒動】の後、密かに浅井長政と気脈を通じていたのである。 だからこそ四面楚歌にも近い状態でありながら、兵を挙げたのである。 そして浅井長政にとり、この申し出は渡りに船と言えた。
従来であれば、浅井家と六角家で戦場となるのは佐和山城から観音寺城までの間が多い。 そこで浅井長政は、六角家の虚を突く目的もあって湖西からの侵攻を考えていた。
そんな最中に、布施三河守が現れたのである。 ここで上手く立ち回れば、湖西だけでなく湖南も抑えることが可能となる。 そうなれば、六角家に致命的にも等しい損傷を与えるばかりではなく京までの道が開けるのだ。
だが浅井長政と布施三河守に取って、予想外の事態が生じる。 布施三河守にとっては、布施公雄の嫡子である布施公保が裏切りである。 そして浅井長政にとっては、予想外の高島七頭による抵抗と義頼の迅速な行動であった。
お陰で布施一族は、完全とは言えない状態での蜂起を余儀なくされてしまっている。 そして浅井長政も、布施家と足並みを揃えることが出来なくなってしまったのだ。
「確かに。 元々、瀬田川近辺は山岡家の所領。 その山岡家の者が中心となって、瀬田川沿いを抑えております。 さらに、こちらを迎撃する為でしょうが義頼がそれを許しています。 いえ、任せていると言ってもいいでしょう。 だからこそ、余計に攻め辛くなっています」
「それと義頼は……湖南地域の国人から信用と信頼を得ているのであったな」
確認するかの様に尋ねる浅井長政に、遠藤直経は頷いた。
「より正確に言えば、湖東西部からとなりますが。 何れにせよ、観音寺城に陣取る承禎や義治。 更に、現当主の高定より上と考えておいた方が間違いないでしょう」
「かと言って、湖上も駄目か」
「はい。 一族全てかどうかは分かりませんが、間違いなく堅田衆は六角家に味方しています。 堅田衆棟梁の猪飼昇貞が、義頼の与力である駒井重勝と共に湖上に居るのが何よりの証拠です」
「だが、堅田衆を敵にはできん。 そんな事をすれば、我が領内は干上がる! とまでは言わんが、かなり厳しくなるからな」
「その通りです」
「ええい、全く! 本当に忌々しい限りだ!!」
そう言ってから立ち上がった浅井長政は、今まで座っていた床几を睨みつける。 そして八つ当たりでもするかの様に、床几を蹴飛ばしたのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




