第九十八話~団らんと仕官~
第九十八話~団らんと仕官~
足利義昭の挙兵を筆頭に上洛して諸事に対応していた織田信長であったが、漸く目途がついたとして宿泊所にしていた妙覚寺を出立すると、一路岐阜を目指して出立した。
また此度の足利義昭挙兵に当たり、丹波衆を自ら率いて京へ軍勢を進め織田家に協力した波多野秀治は、織田信長から直々に労いの言葉を賜り、そればかりか手ずから褒美を受け取る栄誉に浴している。 その後、織田家の軍勢を見送ると、彼もまた丹波衆と共に丹波国へと帰国した。
さて京を発った織田信長と軍勢だが、ゆっくりと進軍している。 悠々と逢坂の関を越えると、そのまま近江国へと入った。 途中で一泊した軍勢は、観音寺城下にある六角館に到着するとそこでも一泊する。 その翌日に織田信長は出立して岐阜へと向かったが、その一行に義頼及び近江衆の姿は無い。 彼らは此処で、織田家の軍勢から離れて六角館へと残ったのだ。
館に残った義頼と近江衆は、織田信長と軍勢を見送っている。 やがてその軍勢が視界から消えると、義頼は踵を返す。 それから彼は、将兵を集めさせた。
「越前から遠江、そして畿内とご苦労であった。 次に何時動くか今は分からぬが、英気を蓄える為にもゆるりと休んでくれ。 解散」
『御意』
こうして将兵を解散させた義頼は、伊賀衆や甲賀衆や家臣達を引き連れて街道を南下した。
まず到着した甲賀郡で、野洲川沿いに建築されている義頼の城館に入るとそこで甲賀衆を労った上で別れる。 その日は一泊し、明けた翌日には城館より出立した。 そのまま街道を南下して、峠を越えて伊賀国へ入る。 やがて阿拝郡に構えた城館へと到着すると、そこで伊賀衆と家臣を集めやはり労いの言葉を掛けてから解散させた。
それから義頼も、屋敷に入る。 するとそこには、喜色満面の表情をしたお犬の方からの出迎えを受ける。 そんな彼女の脇には、鶴松丸を抱えた本多正信の妻が佇んでいた。
「お帰りなさいませ、あなたっ!」
「ただいま、犬。 変わりないか?」
「はいっ!」
義頼の言葉に対してお犬の方は、とても嬉しそうに返事をする。 そんな妻を見て、義頼もまた笑みをこぼしていた。
「それは何よりだ。 さて……鶴松丸も抱きたいが、流石にこの格好ではな」
言うまでもなく、今の義頼は帰ったばかりであり埃まみれである。 そして当然だが、鎧も纏っている。 流石に今の状態で、我が子を抱きたくはないというのが義頼の偽らざる心境であった。 するとお犬の方が義頼へ、着替える様にと促してくる。 無論、否などない。 義頼は了承の返事をすると、身綺麗にする為にこの場から離れた。
先ず足を洗い綺麗にしてから、久し振りとなる我が家に上がる。 そのまま一室に入ると、そこで漸く鎧を外す。 その後は、用意された風呂に入り汗を流した。
漸くさっぱりした義頼は、用意された着物を身に着けるとお犬の方と鶴松丸がいる部屋へと向かう。 部屋に入りそこで腰を下ろすと、人心地ついたのか彼は息を吐き出していた。
「ととしゃま。 おかーなさい」
「お、おおっ! 喋れるようになったのか!!」
予想だにしていなかった事態に、義頼は驚きの声を上げた。
だが、それもそうだろう。
義頼が越前国へ侵攻した浅井家に対する援軍として出陣した頃、鶴松丸は一人でお座りが出来ていたしはいはいも始めていたが、それだけである。 まだはっきりと、内容が分かる様な言葉は喋れなかったのだ。
そんな息子が僅か数ヵ月の間に言葉を覚えたばかりか、自身を父と呼び出迎えてくれている。 これで驚くなと言う方が、無理であろう。 何より義頼の胸の内には、驚きと共に何とも言えない嬉しさが込み上げていたのだから尚更だった。
「ふふ。 それだけではありませんよ、あなた。 さ、鶴松丸」
「はい。 かかしゃま」
お犬の方に促されると鶴松丸は「よいしょ。 よいしょ」と声を出しながら、床に手を突き立ち上がる。 かなり危なっかしい事この上ないが、それでも何とか両足で立って見せた。 そして顔を上げると、その顔にはふんすとばかりに力が入っている。 それから鶴松丸は、たどたどしい足取りながらも義頼に向かって歩き始めていた。
これにも義頼は、更なる驚きを見せる。 前述した通り、記憶の中でははいはいしかできなかった息子である。 そんな我が子が、立ち上がったばかりか懸命に歩いているのだ。 無論、安定した歩みなどではない。 だがそんな事よりも義頼には、驚きとそれを遥かに凌駕する嬉しさの方が大きかった。
ある意味で感動している義頼に対して、鶴松丸はゆっくりとだが着実に一歩ずつ近づいていく。 そんな健気な愛息に向かって、義頼はたまらず両手を差し出しながら声を掛けていた。
「ととはここだ。 頑張れ、鶴松丸!」
「んしょ、んしょ」
「ほら。 もう少しだ」
「ととしゃま~」
漸く父親の元へと到着した鶴松丸は、やり遂げた満足感からかそれとも大好きな父親に触れたからか分からないが兎に角嬉しそうに義頼へ抱きつく。 そんな息子を確り抱きとめると、彼は大きく上へと差し上げている。 それだけに留まらず、あふれる嬉しさを表すかの様に二度、三度と抱え上げていた。
「偉いぞ! 鶴松丸、よく頑張った!」
義頼へ抱き上げられた鶴松丸は、普段は味わえない高い視点にとても嬉しそうに笑みを浮かべる。 元々、大柄な義頼である。 その高さは、押して知るべしであった。
そんな高さを堪能していた鶴松丸だったが、やがて抱きしめてと言わんばかりに父親に向かって両手を差し出す。 そんな息子の仕草に義頼は、望み通りに鶴松丸を改めて抱き抱える。 こうして父親の腕の中にすっぽりと納まった息子は、さも嬉しそうに義頼の胸の中で甘えていた。
それだけでは物足りないのか 鶴松丸は自分の頭をぐりぐりと義頼の胸に押し付けている。 そんな息子の様子に義頼は、優しげな笑みを浮かべている。 それは、周りに居るお犬の方や侍女達なども同じであった。
それから一刻ほど、義頼は鶴松丸の相手をする。 程なくして遊び疲れたのか、鶴松丸はうつらうつらとし始めた。 舟をこいでいる様子から眠いのかと判断して鶴松丸へ声を掛けた義頼だったが、息子からの答えは眠いのか眠くないのか判別できない返事であり、思わず彼は苦笑を浮かべていた。
その様子からやはり眠いのだろうと判断した義頼は、鶴松丸を抱え上げる。 それから息子の背中を軽く叩きながら、ゆりかごの様に優しく揺らし始める。 するとその揺れが心地良かったのか、それとも別の理由からか分からない。 しかし確かなのは、鶴松丸が義頼の腕の中で眠りについた事であった。
完全に眠っていると判断した義頼は、お犬の方へ息子を優しく手渡す。 鶴松丸を受け取り腕の中に納めたお犬の方は、隣室に移動して息子を寝かし付ける。 やがて完全に眠ったのを確認すると、後を侍女に任せて再び義頼の元へと戻って来る。 そのまま夫の隣へ腰を下ろすと、微笑みながら話し掛けていた。
「鶴松丸は、ご機嫌でしたね」
「そうなのか?」
「はい。 あなたの顔を見たからでしょうけど」
「そうか……もう少し一緒に居てやれれば良いのだがな……」
「仕方ありません。 お務めなのですから」
確かにお犬の方の言う通り、主君の命を果たす事は武士の務めなのであろう。 だが例えそうであったとしても、やはりもう少し息子や妻と一緒に居たいと思ってしまうのも事実であった。 何より、妻にも息子にも寂しい思いをさせている。 義頼にはその事が、やはり歯痒くもあったのだ。
「そなたにも、寂しい思いをさせて済まぬな」
「そんな事はございません」
「いや、俺は寂しいんだがな」
健気にも殊勝な言葉を返したお犬の方に対して義頼は、人が悪そうな笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。 夫の口から出た言葉の意味を理解したお犬の方は、少し驚いた様な表情を浮かべる。 しかしその後、彼女は小さく笑みを浮かべていた。
すると義頼は、お犬の方の腕を引き自らの腕の中へと誘う。 抵抗などする事なく夫の腕の中に納まったお犬の方は、胸に頭を付けながら静かに口を開いていた。
「お寂しいと思われているのならば、夫が寂しくない様にすると言うのが妻の務め。 あなた、ご協力いただけますか?」
「無論だ」
「では今度は、姫が欲しゅうございます」
「そうか。 しからば犬、今宵は寝かさぬぞ」
そう言うと義頼は、お犬の方を抱き上げる。 そのまま彼は、妻と共に寝室へと向かうのであった。
義頼がお犬の方とお家繁栄の為に勤しもうと寝室へいそいそと向かっていた頃、別室では本多正信が岸教明と共に客人と面会していた。
「まさか、そなたが拙者達を尋ねておいでになるとは……仁兵衛殿」
そう言った本多正信と彼の隣に座る岸教明の前に居るのは、伊奈忠家と言う武士であった。
彼は本多正信や岸教明と同じ様に、元は徳川家に仕えていた三河衆である。 そんな彼が何ゆえに六角家に現れて、しかも本多正信と岸教明に面会をしているのか。 その理由は、二人の伝手を頼って六角家に仕官する為であった。
伊奈忠家は、これまた本多正信や岸教明と同様に三河一向一揆が起きた際に、一向衆側の武将として徳川家を出奔している。 そして、主であった徳川家康と対峙したのであった。 その三河一向一揆だが、紆余曲折の末に徳川家の手によって鎮定されている。 しかしながら徳川家を離れ一向衆側に立った徳川家の武将のうちで、一部の者達は徳川家康が許すとの命を出しても徳川家へと帰参していなのである。 本多正信や岸教明が正にそれであり、そして伊奈忠家も同様であった。
「拙者だけならば、まだ我慢を続け浪々の身であったかも知れん。 しかし、息子の行く末を考えるとな」
自身が言った通り、伊奈忠家には息子が一人いる。 名を伊奈忠次と言い、彼は義頼よりわずかに年下の青年であった。 その伊奈忠次もまた、父親の伊奈忠家と共に一向宗側に立って徳川家に刃を向けていたのである。 そして一向一揆の鎮定後も、やはり父親と行動を共にしていたのだ。
「確か熊蔵……いや半左衛門(伊奈忠次)殿でしたか」
「ああ。 何とか手柄を立てて松平……否、徳川のお家に戻ろうかと考えていた。 しかし、それはわしの我儘でしかない。 その我儘に息子を付き合わせて、もはや十年だ。 これ以上は、酷と言うものであろう」
「なるほど」
伊奈忠家の言葉を聞いて岸教明は、思わず相槌を打っていた。
と言うのも、実は岸教明が六角家に仕官した理由もやはり妻や息子達の存在だからである。 彼は三河一向一揆が収束すると、家族を連れて三河国から近江国にまで流浪してきた。 しかしその生活も、妻や幼い我が子達を抱えていてはこれ以上難しくなっていた。
だからと言って、妻や息子達と分かれるなど言う選択はしたくない。 岸教明は悩みに悩んだ末、義頼の重臣として六角家に仕えていた本多正信という伝手を頼り六角家に仕官したのだ。 その様な経緯で、六角家家臣となった岸教明である。 伊奈忠家の境遇は、他人事とは思えないのである。 それ故に彼は、口添えをしようと考えたのだった。
「どうであろう、弥八郎(本多正信)殿。 せめて、殿への紹介ぐらいは宜しいのではなかろうか」
「……ふむ、そうですな……分かりました。 殿へ紹介を致しましょう」
「おお! 忝い」
家臣として六角家の末席を与えられるかどうかは分からないが、それでも仕官の叶う機会は与えられたのである。 伊奈忠家は、感謝の念を込めて本多正信と岸教明に対して頭を下げていた。
その翌日の早朝、義頼は何時もの様に外で軽く体を動かしていた。
そんな彼の目の下には、薄らとだがくまの様な物が見て取れる。 その理由は言うまでもなく、昨晩のお家繁栄を齎す運動にある。 しかし此処は、何があったのか聞かない方が華という物であろう。
その様な秘事は一先ず置いておくとして、義頼は暫く体をほぐす。 それから徐に愛弓となる雷上動を手に取ると、まず巻藁に向かって射始める。 基礎を確認しつつも十数本程射ていた訳だが、突然に矢を放つのを止めた。 それから義頼は、射術場へと移動する。 そこで、かなり遠くへと置かせた的に向かって矢継ぎ早に射始める。 彼の手にする弓から放たれた矢は、綺麗な放物線を描いて的の中心部分に全て突き刺さっていた。
因みに、放った矢の数より実際に的へ刺さっている矢の数が少なくなっている。 これは、義頼の矢が的を外したからではない。 先に刺さっていた矢に対して、後から飛来した矢を数本程裂いた為である。 それを証明する様に、的の真下には綺麗に裂けた矢が転がっている。 その後、全ての矢を放ち終えた義頼は、的に近づいて命中の度合い確認した。
全ての矢が的のほぼ中心部分に集まり刺さっている、そんな状態の的を見て「まあまあだな」と呟いていた。 それから義頼は、今まで射ていた的から標的を変える。 彼が今度の狙う先は、串の先に小さい懐紙を挟んだ物であった。 その小さな懐紙へ狙いを定めると、静かに矢を放つ。 すると弓から放たれた矢は、寸分違わず的代わりの懐紙へと命中した。
そのまま義頼は、横に幾つか並べてある懐紙の的へ次々と矢を放って行く。 程なくして用意させた懐紙の的全てに命中させると、不敵な笑みを小さく浮かべていた。
それから義頼は、標的を懐紙の的から遠くへと置かせた的へと変更して再び遠矢を行う。 今回の標的は、先ほどの遠矢以上に距離を取っておいてある的となっている。 しかし彼は、苦も無く放った矢の全てをその的へと命中させていた。 するとその時、誰かが近づいて来る気配を感じて、義頼は弓へ番えた矢を外しつつ視線を向ける。 するとそこに居たのが、本多正信と岸教明であったのだ。
「……流石にございますな、殿」
「正信と教明か。 して朝からどうした、何か問題でも起こったか? それとも、武田信玄の容体でも判明したか? それならば、重畳だな」
「いえ。 残念ながら武田信玄の容体に関しての決定的な情報は、入手できておりません」
「そうか。 して正信、甲賀衆や伊賀衆に決して無理はさせてはならぬぞ。 何より情報を手に入れるのは、必ずしも六角家である必要はないのだ。 大事なのは、情報が明らかになる事だ」
「御意」
義頼の言葉に間髪入れずに、本多正信は返事をする。 それから彼は、この場に現れた本当の用件を義頼へと告げる。 それは言うまでもなく、伊奈忠家についてであった。
「……実は、殿に会っていただきたい方がございます」
「誰だ?」
「伊奈仁兵衛、伊奈半左衛門の親子にございます」
本多正信から伝えられた姓に、義頼は訝しげな顔をした。
それは伊奈という姓に六角家は無論のこと、近江衆や浅井家家臣にも聞き覚えが無いからである。 表情を変えないまま義頼は、伊奈仁兵衛と伊奈半左衛門親子とは何処の者なのかを尋ねる。 その問いに答えたのも、やはり本多正信であった。
「元は拙者と同じく徳川家家臣にございます。 そして彼らもまた、徳川家を出奔致しております」
「出奔か。 その理由は何だ?」
「拙者と同じにございます」
「一向一揆か……して正信。 その伊奈親子の人柄だが、信用できるのであろうな」
「それは勿論にございます。 そうでなければ、幾ら同じ三河者とて殿へ話を通すなど致しませぬ」
「なるほど。 その方がそこまで言うのならば、問題なかろう。 分かった、会おう」
義頼の言葉を受け、その日の午前中に会う段取りとなった。
朝の修練の後、朝食を取ると暫く間を空けてから伊奈親子との面会に臨む。 長い放浪生活もあってか装いは薄汚れている……などと言う事は無く、伊奈忠家と伊奈忠次親子が身に着けている着物はこざっぱりとしている。 これは本多正信と岸教明が、彼ら伊奈親子の寸法に合う着物を調達したからであった。
それはそれとして、義頼は平伏している伊奈忠家と伊奈忠次に対して面を上げる様にと言う。 その言葉に短く返答すると、平伏していた両名はそこでゆっくりと頭を上げた。 そこで義頼は、まるで見定めるかの様にじっと伊奈忠家と伊奈忠次親子の顔を見据える。 そんな義頼の視線を、伊奈親子は憶する事なく確りと受け止めていた。
面会の部屋に、静かな空間が醸成される。 やがて頃合いを見計らってか、本多正信が義頼に対して口を開いていた。
「殿。 如何にございましょう」
「ふむ。 親子揃って、いい目だ……いいだろう、仕官を認める」
『ありがとうございます、殿』
こうして三河国で起きた一向一揆から凡そ十年近く放浪した伊奈忠家と伊奈忠次親子は、六角家に仕官したのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




