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第九十七話~論功行賞と観音寺城大改修?~


第九十七話~論功行賞と観音寺城大改修?~



 二条城にて行われた新年の宴が終わってから暫く後、足利義昭あしかがよしあきの蜂起に関連して諸将への論功行賞が行われた。

 とは言え、まだ遠江国で佐久間信盛さくまのぶもり水野信元みずののぶもとが、そして東濃において柴田勝家しばたかついえを筆頭とした者達が未だに武田勢との睨み合いを行っている。 その為、武田勢との戦に関する論功行賞は後回しとされた。

 さて話を戻して論功行賞であるが、大抵は金子もしくは名物などによりまかなわれている。 その中にあって足利義昭から早々に離れた元幕臣の細川藤孝ほそかわふじたか三淵藤英みつぶちふじひで兄弟、そして細川藤賢ほそかわふじたか京極高吉きょうごくたかよし。 それから、河内国への援軍で功を上げた明智光秀あけちみつひで木下秀吉きのしたひでよし。 最後に、義頼は違っていた。

 まず細川藤孝に対してだが、彼には勝龍寺城とその周辺の土地が与えられている。 また兄の三淵藤英には、今まで通り伏見周辺が安堵された。 そして細川藤賢には飯盛山城とその周辺の土地が与えられ、京極高吉に対しては、近江国に領地が与えられたのであった。

 元幕臣に対しての論功行賞が終わると、次は織田家中に対してである。 明智光秀に対してだが、彼には近江国志賀郡の領地はそのまま新たに和泉国泉北二郡と堺代官の地位が与えられている。 そして木下秀吉に対しては、泉南二郡と岸和田城が与えられた。

 因みに木下秀吉だが、初めて本格的な領地を賜った事に飛び上がらんばかりに喜んでいた。

 それから義頼に対しての褒美はと言うと、彼には大和国の添上郡が与えられている。 更には、多聞山城が与えられている。 また、与力扱いだった仁木義視にっきよしみが六角家に組み込まれる事となった。

 これで終わりかと思ったが、最後にもう一つ残っている。 それは、宇治川の先陣争いに対する物である。 この褒美として与えられたのは、織田信長おだのぶながの愛馬の一頭となる大葦毛であった。

 これには、義頼も驚きを表す。 と言うのも大葦毛は織田信長秘蔵の大型馬であり、その馬体は他の愛馬などと比べてもかなり際立っていた。 しかも、の馬は義頼が一度は乗ってみたいと思っていた馬だったからである。 それが自分の物になるとなれば、驚くのも当然であった。


「ま、真にございますか」

「嘘など言うか。 それにその方の体格であれば、大葦毛でも見劣りはしないであろう」


 実は義頼、この時代の平均身長からみればかなり大きい。 およそ五尺八寸から六尺と言われており、かなり大きい部類に入る。 その事は、彼の死後に残されていた愛用の鎧からも証明されていた。

 それは兎も角として、この義頼への褒美を最後に論功行賞は終了する。 皆が思い思いに岐阜城の広間から下がる中、義頼は一人の男に声を掛けられる。 それは、村井貞勝むらいさだかつであった。

 彼は元々、近江国出身である。 また二条城建築のおりに普請奉行として共に仕事をしたという一種の仲間意識もあり、義頼と村井貞勝はそれなりにつきあいもあったのだ。


「おめでとう左衛門佐(六角義頼)殿、中々の出世ですな」

「これは民部少輔(村井貞勝)殿。 貴殿も京都所司代への就任、祝着に存じます」


 織田信長の上洛以来、村井貞勝は大抵京に居て諸事に対応している。 その功績により、京都所司代への就任となったのであった。

 因みに京都所司代に関して織田信長は、その役に誰を宛てるかで村井貞勝にするかそれとも義頼にするかで悩んでいる。 その理由は、朝廷より無言の打診の様な物があったからであった。

 朝廷としても既に昇殿出来る資格を持ち、今は名門六角氏の嫡流となっている義頼であったほうが京の守りを任せる人物としては色々と都合がいい。 更に言うと義頼は、織田信長の義弟でもある。 将来朝廷に取り込むとした場合、血筋家柄共に問題が無いからだった。

 しかし朝廷の思惑は思惑として、これからもあるであろう天下統一への戦を考えると義頼を京へ縛り付けておく事は織田信長に取りあまりにも惜しい。 政戦共に満足できる水準でこなす事ができる人材など、早々に見つける事など出来ないからである。 そこで朝廷の思惑をかわす意味をも含めて、義頼ではなく村井貞勝を所司代へと就任させたのであった。

 それから少しの間、雑談をした二人だったが、程なくすると両者は離れていく。 まるでその時を見越したかの様に、更に数人が義頼に近づく。 彼がそちらを見ると、義頼の視界に丹羽長秀にわながひでなどが入っていた。


「左衛門佐(六角義頼ろっかくよしより)殿。 おめでとうございます」

「ああ、内蔵助(佐々成政さっさなりまさ)殿。 ありがとう」


 最初に義頼へ祝いの言葉を掛けたのは、佐々成政である。 それから後に続く様に丹羽長秀や森可成もりよしなり森長可もりながよしの親子、 他にも不破光治ふわみつはるや明智光秀、木下秀吉などからも祝いの言葉が送られていた。

 最も明智光秀と木下秀吉に関しては、織田信長より褒美を与えられた当事者であるので、お互いに送り合っていた。 するとその時、義頼は別の者から声を掛けられる。 誰であろうとそちらに視線を向けると、そこに居たのは堀秀政ほりひでまさであった。

 何用かと尋ねると、織田信長が義頼を呼んでいると言う。 直ぐに了承した義頼は、丹羽長秀達に頭を一つ下げてから堀秀政の後に続いて主君の元へ赴いた。

 織田信長のいる部屋に入った義頼は、上座に居る主君から少し離れた位置に腰を下ろす。 すると織田信長が手招きをしたので、近くまでにじり寄って行った。


「義頼。 そなたが多聞山城へ入った暁には、彼の城をつぶさに調べ俺に報告しろ」

「報告……にございますか?」

「そうだ。 あの城は、中々に面白い。 遠くないうちに目賀田山に建てる城の参考とする。 ま、いずれ俺自身が検分する腹積もりではいるがな」

「承知致しました」

「それから義頼。 観音寺城だが……詰めの城として使える様に改築せよ」

「改築ですか?」

「そうだ。 観音寺城は、俺が新建する城と同じ概念で作らているだろう。 詰めの城に、そんな物は必要ない」

「……知っておられたのですか、観音寺城が持つ意味を」


 観音寺城はきぬがさ山をそのまま城としたと言って良く、規模はかなりの物である。 しかしながら、防御と言う意点で言うと少し疑問符が浮かぶ様な構造をしていた。

 勿論、城であるから防備に関してある程度考えて作られてはいる。 だが規模を考慮すると、守りが薄い様に感じられてしまうのである。 だがそれは、観音寺城に防衛と言う物を無視してでも付与させたい事情が存在していたからだ。

 その事情とは、六角家の近江国内に対する権威であり、また家臣である近江国人達に対する政治的配慮であり、そして城割でもあった。 


「当たり前だ。 それゆえに、観音寺城にその概念は要らん。 屈指の堅城に作り直せ」

「承知致しました」


 観音寺城は義頼が元服するまで過ごした城であり、その城を大改造して往年の姿を失くすという事に少し寂しい気持ちもある。 だが織田信長の言う事は道理であり、そこに反抗する意味合いはなかった。 ゆえに義頼は、粛々と了承した。


「それと義頼。 話は変わるが、数日後に京へと向かう。 その方も護衛代りに同行せよ」

「御意」


 織田信長が京、即ち御所へと向かう理由は幾つかある。 まずは、新年の挨拶である。 次に元号の改元の奏上と、最後に二条城の扱いについてであった。

 新年の挨拶については、特に論じるところは無い。 そのままの意味でしかないからだ。

 次に元号の改元についてだが、これは今まで使われていた元亀がつい先頃追放した足利義昭の上奏による物だからである。 そもそも元亀の改元自体、織田信長は了承していなかったのである。 しかし織田信長が朝倉征伐へ兵を向けた際、その隙を突く様に朝廷へ上奏して改元を行ったので不承不承了承した経緯がある。 そんな元亀と言う年号に、織田信長が未練などある筈がなかった。

 しかも、上奏を行った足利義昭は京より追放されて居ない。 そこで織田信長は、此処ここで元号を変える打診を行うつもりであったのだ。

 最も元号の改元については、既に朝廷からのお墨付きを得ている事柄ではある。 しかし今までは、将軍の足利義昭が賛成しなかった為に、改元を行えず保留とするしかなかったのだ。 しかし、前述した様にもう反対する者はいない。 織田信長は、憂いなく晴れて堂々と改元の上奏を行うのだ。

 最後に二条城についてだが、実は織田信長もこの扱いについて未だに迷っている。 その迷いの内容とは城を打ち壊すか、それとも残すかについてであった。 二条城は、足利義昭の為に建築した城である。 その足利義昭が居ない以上、残しておく必要もあまり感じられない。 かと言って、壊すのもいささかもったいない。 そこで織田信長は、「参考になるか?」程度の気持ちで、義頼へ問い掛けてみる。 すると問われた義頼は、暫く考えた後で返答をした。

 その答えとは、城の献上である。 二条城は、御所に直ぐ近くに建築している。 その立地条件故に彼の城を別邸、若しくは最悪京で何らかの騒動が起きた時の防衛拠点としてしまえばいいと言う考えからの意見であった。

 確かに義頼の言った通り、二条城と御所は隣接するかの様に建築されている。 つまり彼の城を別邸や防衛の拠点のどちらに用いても、問題は出ないのだ。


「ふむ……悪い話では無いな。 良かろう、二条城は朝廷に献上するとしよう」


 義頼の言を受けて、織田信長は二条城を朝廷に献上する事に決める。 そこで用も終わったとして彼を下げさせようとしたのだが、その前に義頼が信長へ一つ頼み事をして来た。 その頼みとは、義頼預かりとなっている北畠具教きたばたけとものりに関する事であった。

 いきなりの言葉に、織田信長も目をしばたかせる。 何せ義頼預かりとなって以来、北畠具教は勿論息子の北畠具房きたばたけともふさ長野具藤ながのともふじらと言った者達が何か不穏な行動をしたと言う様な話など全くなかったからである。 現在置かれた己の立場を理解して大人しくしている物だと思っていただけに、少々意外だったのだ。

 そこで織田信長は、義頼へ北畠具教が何かしたのかと尋ねてみる。 だがその答えは、想像したものとは違っていた。 今になって話に挙げた理由が、北畠具教の存在は大和国内でかなりの力を持つ興福寺を抑える一助となり得るからだと言うのである。 どういう事かと更に尋ねると、現在興福寺東門院院主の地位にあるのが北畠具教の弟となるからであるとの返答だった。

 その言葉に、織田信長も納得する。 興福寺にて院主を務めている者が北畠具教の弟と言うのならば、大和国人に対しても少なからず影響を与えられると言う物だからだ。 また、そればかりではない。 実は興福寺に、宝蔵院と言う院がある。 その宝蔵院の院主を務めているのが胤栄いんえいと言う者なのだが、彼は僧でありながらも宝蔵院流と言う槍術の創始者でもあった。

 その胤栄と北畠具教が馴染みの者であり、嘗ては胤栄に上泉信綱かみいずみのぶつなを紹介するなど親交もある間柄なのだ。


「ほう? 興福寺にか。 確かに、あの寺に伝手があるのならば使えるのう」

「して、如何いかがでしょうか」

「ふむ……元々、その方に預けたのだ。 そちの責任においてならば、俺から言う事は無い。 好きにせよ」

「はっ」


 こうして、織田信長から黙認を得た事に義頼は頭を下げながら小さく笑みを浮かべた。

 伊勢国に侵攻した際に降伏した北畠家に対する処置を決めた織田信長からの言質げんちが確約できた以上、後から何か言われる事は無い。

 そもそもからして本来であれば織田信長が言った通り義頼へ預けられたという形なので、別段許可を求める必要はない。 それであるにも拘らず織田信長へ断りを入れたのは、彼からの言質を得て後から何か言われる事が無い様にする為であった。



 それから三日ほど後、織田信長は義頼を供として宮中に参内を行う。 そこで新年の挨拶と元号の改元を奏上を行い、更に二条城を朝廷へ献上する旨を伝えた。

 元号に関しては、先に述べた通り元々決まっていた事柄である。 その上、反対していた足利義昭も既に京からいなくなっているので何の憂いもない。 そこで、すぐに元号の改元を行う事が通達されていた。

 また献上された二条城だが、こちらは誠仁親王さねひとしんのうの御殿とする事が後に通達されている。 これは、織田信長と誠仁親王との間に親交があった故であった。

 こうして首尾よく目的を果たすと、御所を辞した一行は妙覚寺へと向かう。 これは二条城を朝廷に献上する事に決めた為に、宿泊所を二条城から妙覚寺へと移した為であった。

 

「全て上首尾に働き、何よりにございます」

「元号の改元は、元々決まっておった。 二条城は朝廷が得をするだけでしかなく、失敗する理由など無いのだから当然だな。 それはそうと義頼。 信玄坊主の容体だが、まだはっきりせぬのか」

「申し訳ございません。 ことの他守りが堅く、確実な情報は手に入れておりません」


 武田家の忍び衆となる三つ者は無論だが、外にも真田家の忍び衆となる戸隠衆も武田家の陣を固めており、幾ら甲賀衆や伊賀衆が優秀と言えどもそう易々と情報を入手する事は難しかった。 無論、だからと言って手を抜いているなどという事はない。 それこそ情報収集に力を入れてはいるのだが、義頼が報告した通り未だに決定的な証拠となる様な物は入手できずにいたのであった。


「そう言えば、三方ヶ原より引いた武田勢は、二つに分かれて城に入ったのであったな。 それで、どちらが中軸なのかぐらいは判明しているのか?」

「それは、問題ありません。 二俣城でまず間違いは無いかと」


 これは命令系統などを辿れば、凡そ判別できてしまう事柄ではある。 しかしながら、その辿れる命令系統を見付出すのは難しい。 だがそれでも突き止めた事には、織田信長も内心で感心する。 しかし、次の瞬間には嘆息を漏らしている。 その理由は、武田家の主軸が入ったと思われる二俣城にあった。

 二俣城は、信濃国側から見ると遠江国の入口に建つ城である。 また、城の近くには姫街道も走る交通の要所でもあった。

 そんな二俣城であるが、重要拠点にある城と言う意味合いからとても守りが堅い城なのである。 彼の城は、天竜川と二俣川を天然の堀としている。 しかも城のある小山を削岩して、幾つかの曲輪が作られた堅固な城であったのだ。


「彼の城は、侵攻してきた武田勢に攻められながらも二月もの間持たせています。 しかも落城などではなく、水の手を切られた事で仕方無く開城した結果、武田の手に落ちた城にございます。 恐らく武田家も、彼の城は「力攻めでは落とせぬ」と判断したからではないでしょうか」

「で、あろうな。 まぁ、いい。 信玄が死んでいた場合、恐らく息子が家督を継ぐのだろう。 それならば、大した問題にもなるまい」

「……殿。 必ずしも、そうとは言い切れないかもしれません」

「何? どういう事だ」

武田信玄たけだしんげん公が亡くなっていた場合、継ぐのは武田勝頼たけだかつよりとなりましょう。 彼の者の当主としての器はまだ計りかねますが、将としては中々に手強いかも知れません」


 武田勢と織田・徳川の連合軍が戦った【欠下城外の戦い】や【三方ヶ原の戦い】において、武田勝頼は大きな働きをしている。 【欠下城外の戦い】では決め手として吶喊とっかんしており、また【三方ヶ原の戦い】では山県昌景やまがたまさかげ馬場信春ばばのぶはるの救援として戦場を駆け抜けているのだ。

 それに義頼自身も三方ヶ原で武田勝頼から奇襲を掛けられて、山県昌景と馬場信春の救援を成功させられてしまっている。 それだけの働きを行っている武将であり、それゆえに義頼は警戒したのだった。


「そう言えばその方も、勝頼にはしてやられていたな」

「……はっ……ですので、敵とするよりは味方とした方が宜しいかと。 但し、一度は織田家と武田家の間で決着を付けておく必要はあると思いますが」

「ふむ、味方のう。 面白いと言えば面白いが……まぁ、選択肢の一つとしておこうか。 いずれにせよ、先ずは信玄の容体次第だ。 兎にも角にも確認、それが先決だ」

鋭意努力えいいどりょく致します」

「うむ」


 織田信長の元を辞した義頼は、甲賀衆や伊賀衆から武田家の情報について追加の報告がないかを確認する。 しかしながらその様な物はなく、残念であるとも取れるかの様な雰囲気を思わずかもし出してしまった。

 だが直ぐに、慌ててその様な雰囲気を雲散霧消させる。 何処どこで誰が見ているか分からず、もし甲賀衆や伊賀衆に見られてしまうと無茶や無理をしかねない。 彼ら忍び衆が、情報集めにそれこそ必死になっているのは十分に理解している。 何より、彼らへこれ以上の負担をこうむらせるなど問題外であったからだ。

 その後、義頼は、何でもない風を装って普通に報告書を片づける。 それから、静かにその場を後にしたのであった。


ご一読いただき、ありがとうございました。

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