第七話~還俗~
第七話~還俗~
近江国甲賀郡にある和田惟政の居城和田城は、周囲に存在する小高い丘に七つに分かれて点在していた。 和田の集落を守るように配置されたそれら城館群のうちの一つを、和田惟政は覚慶に提供している。 その館は、通称公方屋敷と呼ばれていた。
「……おこなった方がいいと、そういうのですか」
覚慶が己に進言して来た者に、尋ねる様に確認している。 その問いに答えたのは、進言した仁木義政であった。
「はい、覚慶様。 家督相続の儀は、絶対に行うべきであると拙者は愚考致します」
なおこの進言は、仁木義政だけの考えでは無い。 覚慶を興福寺より逃した者達全員の総意でもあった。
三好勢によって討たれた兄である足利義輝の後継としての決意をしている以上、足利将軍家の家督相続の儀は避けて通れない。 覚慶が三好家の擁立している足利義親に対抗する為にも、どうしても行っておかなければならない儀式なのだ。
なお足利義親だが、彼は覚慶から見ると従兄弟にあたるので、間違いなく足利将軍家の血を引く存在である。 血筋からすれば足利義輝の兄弟である覚慶の方が宗家に近いが、足利義親に足利家の家督を継ぐ資格がないわけではない。 だからこそ三好家が、次期将軍候補としているのだ。
「……義親が居ましたか。 対抗する為にも、家督相続の儀は行った方がいいと」
「はい。 天下に足利将軍家の正統は覚慶様であると宣言する為にも、ぜひとも」
「分かりました。 そなたたちに任せる」
『御意』
こうして仁木義政達は、家督相続の儀を推し進めていった。
とは言え、三好家を気にしない訳にはいかない。 幾ら覚慶の兄である足利義輝を討った家とは言え、畿内一円に力を持っているのは事実なのだ。 仇敵とはいえそんな三好家を、下手に刺激するのは得策ではない。 そこで仁木義政たちは、庇護者である六角家や北近江の実力者浅井家と言った三好家に関係を持たない大名や国人達に報せるだけに留めることにした。
さてその知らせだが、覚慶と六角家を繋ぐ役目を担っている義頼にも当然だが届けられる。 仁木義政より届いたその書状を見た義頼は、一読した後で蒲生定秀へと渡した。
「定秀。 この家督相続は阿波に居られる義親様に対抗する為と俺は考えるが、相違ないか?」
渡した書状を読み終えた頃、義頼が蒲生定秀に尋ねる。 すると彼は一つ頷いてから、口を開いた。
「ええ。 まず間違いなく、対抗する為でしょう。 足利将軍家の正統は己にあると、知らしめる為と思われます」
「そうか。 ならば御屋形様にも、報せておくべきだな」
「はい。 御屋形様の元にも書状は届いているとは思いますが、我らからも知らせるべきでしょう」
「分かった」
蒲生定秀の進言を了承した義頼は、六角高定宛ての書状を認めると鵜飼孫六を呼び出す。 そして己が認めた書状を手渡すと、観音寺城へ届ける様に命じた。
やがて書状を受け取った鵜飼孫六が義頼の前から辞すると、彼は立ち上がった。
「さて、と。 では建築現場へ向かうとするか」
義頼の言う建築現場とは、矢島の地に新築している覚慶の御所である。 彼は頻繁とはいかないまでも、矢島に足を伸ばしていたのだ。
だがそんな義頼に対して、蒲生定秀は言葉を掛ける。 その内容に、義頼の表情が厳しくなった。
「兵を集めろだと!? 何故だ」
「可能性としては決して高くは無いのですが、此度の家督相続を三好家が知った場合、それを契機として彼の家が動くかもしれないからです」
「三好が? どうしてだ」
眉を寄せ、訝しげな表情をしつつ義頼は蒲生定秀に尋ねる。 その理由は、蒲生定秀の三好が動くと言う言葉の意味が良くからないからであった。
「公方様を討った三好家は、先程殿が申された通り義親様を擁立しております。 しかし此処で覚慶様に家督相続を行われますと、足利将軍家の正統が彼の御方には無いと言われているに等しくなってしまいます」
「だが、無視をすればいいだろう」
「ええ。 恐らくは無視をすると思います。 ですが、兵を出す理由にはなり得ます。 そちらにも対処をしておきませんと」
「あー、なるほど……分かった、兵は集める。 その方は、正信と力を合わせて三好の情報を集めてくれ」
「御意」
義頼は矢島行きを取りやめると、馬淵建綱などの与力国人衆を招集する。 彼らを集める理由は、覚慶の護衛としていた。
また、山岡景之へ使者を派遣して国境の守りを固めさせている。 同時に義頼は、公方屋敷に居る覚慶や観音寺城の高定に対しても使者を派遣する。 これは義頼が兵を集めているのは対三好家の為であることを報せる為である事を伝えるためであり、覚慶や六角高定に謀反など誤解を生じさせない為の処置であるのは言うまでもなかった。
「藤孝。 この知らせは、間違いないのか?」
「……覚慶様。 恐らくは、嘘ではないでしょう。 使者が言ったように、三好が動くおそれがないというわけではないのです。 侍従殿は、その辺りを懸念しているのでしょう」
そういいながらも細川藤孝は、まだ二十にも満たない義頼が三好家を警戒したことに内心で驚いている。 それは義頼の行動が、若いわりに老獪と言うか非常に堅実と見えるからだ。
自分もかつては経験したのだが、義頼の動きは若さゆえの無謀さみたいなものをあまり感じさせ無いのである。 これは近くに、余程の者が傍にいると細川藤孝は考えていた。
「そうか。 それならばそれでいい。 どの道、六角家の力しか今は宛てに出来ないのだから」
「ですな」
多少の紆余曲折はあったが、こうして準備を整えた仁木義政達たちは足利将軍家の家督相続の儀を行う。 それは覚慶自らが正統の足利将軍家の血を引く者としての宣言であり、同時に足利義輝の悲願でもあった幕府の再興を願う物でもあった。
「せっそ……拙者は兄である足利義輝の弟として、そして足利家嫡流として家督を相続するものとする! また、足利幕府も必ず再興を誓うであろう!」
さて当然だがその場には、儀式の用意を整えた覚慶と行動を共にしてきた者達が居る。 彼らは覚慶の宣言を聞き、目に涙すら浮かべていたという。
なお、この家督相続の儀に彼ら以外で顔を出したのは、義頼と彼の与力である馬淵建綱だけである。 義頼は六角高定の代理としての参列であり、馬淵建綱は義頼の与力衆筆頭の為である。 ある意味で義頼と馬淵建綱は、貧乏くじを引いたとも言えた。
何はともあれ、覚慶による足利将軍家の家督相続と幕府再興を誓う宣言は誰からの横やりが入ることもなく無事に終了する。 その後、義頼は、覚慶との面会を求めた。
庇護者である六角家当主六角高定の名代を勤める義頼の願いである為、大した時間を掛けることもなく了承される。 そこで義頼は、六角家からの祝いの進物の目録と、己と馬淵建綱両者個人からの祝いの進物の目録を覚慶に差し出したのである。
義頼から差し出された目録を見て覚慶は、嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「……さて、中務大輔(六角高定)に伝えな……よ。 「祝いの品、この覚慶嬉しく思う」と」
「御意」
「それと、侍従(六角義頼)。 役目、大義である」
「ははっ」
その後、公方屋敷を辞した義頼は、馬淵建綱と分かれて観音寺城へと向かう。 やがて六角館に到着すると、六角高定との面会に臨む。 そこで、覚慶からの言葉を甥に伝えたのであった。
「嬉しく思う……か。 一応は、面目を果たした訳だな」
「ああ。 もっとも六角家に世話になっている手前だから、かも知れないけどな」
「そうか。 それならばそれでもいい。 対外的に面目が果たせたかどうかの方が問題だからな」
下手に対応を間違えると六角家以外の家は無論、味方である筈の近江国人からいらぬ誹りを受けるかもしれないのだ。
それでなくても近江国内では、【観音寺騒動】の影響が完全には消えていない。 これ以上、家中の不安定化は避けたいところである。 その意味で言えば、覚慶からの言葉は有り難いものであった。
「まぁ、そうだな。 三好家は兎も角として、態々嘲りを受ける必要もないだろう」
「それはそうと義頼。 矢島に作らせている覚慶様の新たな館はどうなのだ? 順調なのか?」
「大丈夫だ。 順調だと言っておこう」
これは気休めでも、ましてや嘘でもない。 厳然たる事実であった。
極端に館の完成が速まっていると言った事がある訳ではないが、さりとて遅れていると言う訳でもない。 ほぼ予定通りに進んでいるという進捗状況であったのだ。 そしてその様な状況であるのならば、六角高定としても特に言う事がある訳ではない。 彼は義頼へ期日通りの完成を、改めて通達するに留めるのであった。
それから暫く後、漸く矢島に建設していた御所が完成を見る。 新たに完成した御所を、棟梁の一人に案内されつつ義頼は定秀や矢島越中守と共に確認していた。
因みに矢島越中守だが、彼は同地を本貫とする国人である。 矢島越中守は義頼の与力衆では無かったが、御所が完成するまでの間に幾度となく矢島の地に足を運んでいた為に親しくなっていたのだ。
義頼は彼の人柄を知ると、御所完成後の護衛の任を与える様に六角高定に頼んでいる。 依頼された六角高定もそして六角承禎もその意見には同意を示し、矢島越中守は御所完成後に覚慶の護衛の役を与えられる事になっていた。
それはそれとして完成した御所であるが、敷地面積は約二町(約二百二十メートル)四方ある中々に広い館である。 そしてその周囲は二重の水堀に囲まれており、館と言うより城に近い構造をした屋敷であった。
そんな覚慶の御所が完成した日の夜、義頼は御所の建築に参加した全ての作業者を集める。 彼らが集められたのは完成した御所の外であるが、そこには宴席が設けられていた。
「あ、あの殿さま。 これは?」
御所建築に携わった頭領の一人が、恐縮した様な雰囲気で義頼に尋ねる。 すると、笑みを浮かべつつ頭領へ言葉を返した。
因みにこの宴席は、義頼が自腹を切って用意させた物である。
「見ての通り宴席だ。 今宵は御所の落成を記念して、酒と肴を用意した。 存分に飲んで喰らってくれ」
「よ、宜しいのですか?」
「無論だ。 精々騒げ、今宵は無礼講よ!」
『おおー』
程なく始まった宴会では、身分の貴賎を問わず義頼が手ずから酒を注いだという。
その翌日、義頼は自ら馬に跨り覚慶の元に出向く。 公方屋敷で面会すると、御所の完成を報告した。 義頼の言葉を聞いて、覚慶は笑みを浮かべる。 いや彼だけでは無く、覚慶の家臣を務める者達も同様であった。
すると覚慶は、せかす様に義頼を急ぎ出立させている。 しかしその日は、流石に長光寺城の麓にある義頼の屋敷に宿泊している。 そこで義頼は、覚慶に矢島越中守を紹介する。 彼は形の上では義頼の下となるが、実質的には彼が覚慶の護衛を担当する事になるので当然の仕儀であった。
明けて次の日、覚慶たちは義頼や矢島越中守に護衛されながら矢島に向かう。 そこには、彼らが想像した以上の御所が建てられていた。
その出来は、仮の御所であるのが惜しいと思われるほどである。 そんな矢島御所を嬉しそうに眺めた覚慶であったが、程なく御所内に入るとじっくりと見聞した。
一頻り見終えると、覚慶は褒めの言葉を与える。 その言葉を義頼は、畏まって聞いたと言う。
その後、御所の守りを矢島越中守に改めて託した義頼は、長光寺城まで戻る。 そこで本多正信を呼び出すと、御所造営の為に疎かになりがちだった領内の様子を訪ねていた。
「殿。 御心配の儀には及びません、全く持って大丈夫にございます」
「真か、正信」
「はい。 確かに、収穫等は若干落ちました。 しかし殿が今年限りの措置として年貢の減免を行ったお陰で、民の暮らしはほぼ例年通りと言えます……ですが、まさか年貢の減免を言い出されるとは思いませんでした」
「仕方が無いだろう。 御所を造営する時期が、収穫時期と重なっているのだ。 年貢を納める民に逃げられでもしたら、元も子も無い。 とは言え正信、よく今までのことなどが分かったな。 お前が俺の家臣となったのは、今年の夏だろう」
「過去の台帳や、御家来衆の方々に尋ねればおおよそは分かりますので」
「なるほど。 やはり、お前を見込んだことに間違いは無かったな」
さて三好家を警戒して行った兵の動員だが、覚慶が矢島御所に移って暫くすると解除されていた。 もっとも、警戒だけは続けられている。 やはり、最低限の警戒は必要だからだ。
「しかし……まさか警戒した相手に結果として助けられるとはな」
三好家の動向について探ることを命じていた義頼が、届いた報告を見た後で漏らした言葉がそれであった。
覚慶が足利将軍家の家督相続の儀を行った事で義頼は三好家を警戒していたのだが、他でもない三好家内で権力闘争によって三好家は覚慶を無視するどころか構っていられない状況に陥ってしまったのである。
さてこの権力闘争の最初のきっかけだが、これは丹波国における三好家の影響力が喪失したことに端を発していた。
今は亡き三好長慶によって、丹波国での事は松永久秀の弟である松永長頼に任せられていた。 これは三好長慶没後も変わっていなかったのだが、その松永長頼が三好家と対立していた丹波国人と戦い敗死してしまったのである。 これを契機として、三好宗家内に権力闘争が勃発してしまったのだ。
それまでは三好三人衆と松永久秀が三好家当主である三好義継を支える形で纏まっていたのだが、丹波国の喪失とそれによる松永家の影響力低下を好機とみた三好三人衆が義継を抱き込んだのである。
更にこの権力闘争は、三好家の本貫地を押さえる分家の阿波三好家や阿波国に居た足利義親すらも巻き込んでしまう。 此処に、義継と三好三人衆対松永久秀と言う対立構造が構築されてしまったのだ。
「いいではありませんか。 こちらが力を落とす事無く、敵が好き好んで自らの力を落としているのです」
「まあ、確かに定秀の言う通りか……となるとこちらは、力を蓄える事が肝要か」
「ええ。 それで宜しいかと存じます」
「分かった。 頼むぞ」
「御意」
こうして義頼は、警戒だけは怠らずに三好家の動向を探り続ける事にした。
その一方で三好家だが、変わらずに権力闘争を続け、しまいには内訌にまで発展してしまう。 こうなってしまえば、覚慶などに構っている暇など三好家にはない。 その結果、覚慶の身柄は安全となりそのまま年を越えたのであった。
三好家の内訌により無事に年を越えると言う正に皮肉と言える新年を迎えた義頼の館には、六角高定を筆頭に六角一族と六角家有力家臣、及び有力国人達が勢揃いした。
彼らが館に揃っている理由は、矢島御所に移った覚慶に対する年初の挨拶を行う為である。 彼らは義頼の館で衣装などを整えてから、挨拶に赴くのだ。
「新年明けましておめでとうございます」
『おめでとうございます』
六角家当主である六角高定の挨拶の後、六角承禎以下六角家の者と近江国の有力国人が異口同音に挨拶を行う。 そんな面々を満足気に見やっていた覚慶は、ゆっくりと口を開いた。
「うむ。 さて中務大輔(六角高定)。 六角家の力、頼りにしているぞ」
「はっ」
「皆も大義であった」
『ははぁ!』
年初の挨拶も終わると、そのまま宴席となる。 そこでは皆、陽気に酒を酌み交わしていた。
そして義頼であるが、彼は異常と言ってもいいぐらいに酒が強い。 己の家臣や六角家の家臣、それから国人達とも酒を酌み交わしたが、飲んだ酒量の割にはあまり変化が見られなかった。
さて義頼が酒に強いなど、兄の六角承禎も甥の二人も当然知っている。 六角家家臣や国人衆も知っているので、義頼に必要以上に酒は勧めない。 その結果、義頼が杯を重ねる相手は、細川藤孝や畠山尚誠といった覚慶と同行して来た者たちであった。
「いや、お強いですな侍従殿」
「お恥ずかしい限りです、兵部大輔(細川藤孝)殿」
「謙遜なされまするな。 彼らが証明しておりますぞ」
細川藤孝が視線を向けると、そこには酔いつぶれている者達が居る。 彼らは、義頼へ酒を進めた者たちであった。 その面子は一色藤長に畠山尚誠、そして米田求政である。 彼らはまるで水でも飲む様に杯を空ける義頼を酔い潰そうとして、逆に潰された者たちであった。
因みに細川藤孝が潰れていないのは、節制したこともあるが当初から義頼と杯を重ねていなかった為である。
「ささ。 兵部大輔(細川藤孝)殿も一杯」
「これは忝い」
先程までと違い、ゆったりとした間隔で杯を空けていく。 この様な飲み方もあったのだなと、義頼は細川藤孝の間隔に合わせて杯を重ねて行くのであった。
その翌日、元々酒に強い義頼は二日酔いに掛かることも無く観音寺城に戻る六角高定に従って同行する。 酒に強い義頼と違い彼は少し深酒となってしまったらしく、やや調子が悪そうではあった。
やがて観音寺城に到着した六角高定は、城の広間に六角家家臣を集める。 するとそこで、新年の挨拶を執り行った。
そしてその日も、やはり宴席となる。 すると義頼は、未だ【観音寺騒動】のしこりが残る六角家内の融和を実現するべく奔走する。 と言うのも、他に動ける六角一族の者が居ないからであった。
当然だが六角家当主の高定が軽々に動ける筈も無く、騒動の原因を作った六角義治も六角家家臣からの受けはあまり良くは無い。 兄である六角承禎に至っては、あの騒動以降どちらかと言うと我関せずに近い立場をとっている。 その為、いわば消去法で義頼にお鉢が回って来たのだ。
もっとも、義頼としても否は無い。 何より蒲生定秀などから六角家内の融和については諭されていたこともあり、むしろ積極的に家臣の間を動いて酌をして回った。
この年賀の宴会は翌日も行われていたが、流石に二日目は割と早くお開きとなっていた。
「ふー」
「すまぬな、義頼」
「ははは。 仕方がないさ」
義頼は、少し苦笑いを浮かべながら六角高定に答える。 するとそんな義頼の返事を聞いた六角義治は、面白く無いといった表情を浮かべていた。
「義頼、なにゆえそこまで媚びる。 君臣の間は、確りとしておいた方がよいと思うが?」
「俺も普通であれば、そこまではしないだろう。 だが、六角家内はまだ普通とは言えん」
「義治、義頼の言う通りだ」
「ふんっ!」
年下の叔父である義頼と父親である六角承禎から諭された六角義治は、苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべながら鼻を鳴らす。 そんな兄の態度に、六角高定は苦笑を浮かべていたと言う。
そして次の日になると、義頼は居城の長光寺城へ戻っている。 そこで義頼は、自分の家臣や与力達と共に新年を祝う宴席をやはり設けていた。
「新年明けまして、おめでとうございます」
筆頭家臣の定秀に続いて家臣、与力一同が挨拶をした。
『おめでとうございます』
「ああ。 こちらこそだ。 今年もその方らの力、存分に借り受けるぞ」
『御意』
その後は御所や観音寺城と同じく、宴となった。
但し、その宴席に義頼の小姓を務める鶴千代は参加していない。 流石に、元服前の子供を参加させるのははばかられたのだ。
そんな新年を祝う宴の最中、ここでも義頼は自ら動き家臣や与力衆に対して酌をして回っている。 その目的はやはり観音寺城で行った事と同じく、家中の融和にあった。
義頼の家臣と彼に付けられた与力衆は、六角家宗家ほどぎくしゃくとした関係にはない。 しかしいかなる時であっても、家中の融和は大事である。 だからこそ義頼は、酌をして回ったのであった。
一通り回ると、義頼は自らの席へと戻る。 そんな義頼へ、蒲生定秀は近づくと酒を注いだ。
「ふう。 慣れんと大変だな」
「ですがこの苦労は、必ず報われるでしょう」
「そうであって欲しいぞ俺は」
それから十日ほど経ったある日、義頼は細川藤孝に呼び出された。
何かあったのかと考えつつも矢島御所を訪れた義頼は、細川藤孝と面会する旨を伝える。 暫くは待たされるかと思ったが、思いの外早く呼び出されていた。
「して兵部大輔殿、某に何用でしょうか」
「うむ。 呼び出して申し訳ない。 実は覚慶様だが、近々還俗なされるおつもりである。 そこで覚慶様には、次期将軍としての名目を保つ為に左馬頭に任官していただかねばならん」
何と言うことは無い、猟官に伴う金の無心である。 だが、別にこれは理不尽でも何でもない。 義頼や六角承禎、六角義治や六角高定の官位を賜った際には朝廷や公家などに献金を行っているのだ。
そして現在、六角家は覚慶の後ろ盾となっている。 それであれば左馬頭の官職を得るのに尽力するのは、当然だ。 それに左馬頭は、次期将軍となる者が就任する官職と見なされている。 その意味でも覚慶が左馬頭に就任するのは、必須事項とも言えた。
「承知しました。 左馬頭の官職、得て御覧に入れます」
義頼は細川藤孝に一つ頭を下げると、その部屋から辞する。 控えの間に居た鶴千代と和田信維と共に矢島御所を出ると、彼は長光寺城には戻らずに観音寺城へ向かった。 やがて六角館に到着した義頼は、すぐに六角高定と面会する。 それから、御所での話をした。
「覚慶様の還俗と、叙位任官か」
「ああ」
報告を受けた六角高定は、腕組みしながら目を瞑ると少しの間だけ思案にふける。 やがて目を開くと、義頼へ視線を向けた。
「まぁ、金に関してはこちらが用意する。 義頼には、手筈を整えて貰う」
「承知した」
この後、長光寺城に戻った義頼は、経験豊富な蒲生定秀を正使に任じて副使には和田信維を任命して京へと派遣した。
やがて京に入った二人は、覚慶を一乗院より脱出させる手助けをした大覚寺門跡の義俊と三条宗家(転法輪三条家とも言う)と分家の正親町三条家と三条西家を伝手とした。
なぜ三条家がつてとなるかと言うと、本願寺第十一世顕如の妻である如春尼が三条宗家の三女なのである。 そして如春尼は、義頼の義理の姉に当たる女性であった。
そもそもなにゆえに三条宗家と六角家に繋がりがあるのか、それは公家の財政事情に原因を求められる。 三条宗家は信仰心が篤く質素倹約を旨とした家であったが、御多分漏れず他の公家同様に財政は火の車であった。 その事を憂いた当時の三条家当主の三条公頼は、長女を幕府三管領の一家細川吉兆家当主の細川晴元に嫁がせている。 そして次女を当時甲斐武田家次期当主であったの武田晴信の継室として嫁がせると、残った三女を細川晴元の養女としたのだ。
しかしそれでも三条家の家計は上向かず、ついに三条公頼は祖父の代から何かと縁のあった西国の雄である大内家を頼って中国へ下向する。 しかし彼は、当地で陶晴賢の起こした謀反に巻き込まれて命を落としてしまっていたのであった。
その上、三条公頼には息子がいない。 その為、三条宗家は一時断絶してしまう。 しかしのちに、分家筋より代わりの当主を宛がう事で三条宗家は再興したのだ。
さて問題は、この細川晴元の養女となった三女である。 三女の養父である細川晴元が三好長慶との戦で敗れると、六角家を頼り時の将軍である足利義藤(後の足利義輝)と先代将軍の足利義晴を伴って近江坂本に落ち延びて来る。 この一行に、三条公頼の三女も同行していたのだ。
すると細川晴元は、匿ってくれた礼なのかそれとも先を憚ってかわからないが、三条公頼の三女を義頼の父である六角定頼の猶子としてくれる様に頼んだのである。 頼まれた六角定頼は少し考えた後で、この申し出を了承した。
その頃、義頼はまだ幼く既に母も病気で他界していた事もあって新たに現れた義姉をとても慕ったのであった。
当然その事は、義頼の傅役だった蒲生定秀は知っている。 それ故、彼は三条家への伝手として如春尼を尋ねたのだ。
「お久しぶりにございます、如春尼様」
「そうですね、藤十郎(蒲生定秀)殿。 鶴松丸は息災ですか?」
「六角侍従義頼様は長光寺城主として、また六角一族の者として存分に力を発揮しております」
如春尼が顕如の妻になった頃、義頼は元服前である。 その為、つい幼名で呼んでしまった如春尼に蒲生定秀は敢えて官位と名前で呼ぶ事で注意を促した。
「ああ、ごめんなさい。 あの小さかった義弟は、もう元服したのでしたね」
「はい」
「さて藤十郎殿。 昔話はこれまでにしましょう。 して、今日は何用でしょうか」
「実は如春尼様に力を貸していただきたいのです」
「私にですか?」
「三条家への繋ぎをお頼みしたい」
現三条宗家当主は、三条家分家筋の三条西家より養子縁組をした三条実綱が家督を継承していた。
従って、今の当主と如春尼は義理の兄弟に当たる。 例え義理とはいえ兄妹であれば、つてとして申し分なかった。
「一応伺いますが、その件は今近江国におられる御方と関係ある話でしょうか」
「はい」
如春尼の問いに、定秀が即座に答える。 すると如春尼は暫く考えた後、返答した。
「……暫く待っていて下さい。 顕如様にお伺いしてみましょう」
「はっ」
内容が内容だけに、自分では判断しない方がいいと考えた如春尼は夫である顕如に話を振った。
その後、蒲生定秀と和田信維と顕如による話し合いが持たれる。 その結果、あくまで如春尼が個人的に動いたという形で収めることとした。
また、顕如としても、三好家を刺激する様な行為はあまり行いたくないのである。 だが身内を思っての個人的な動きであれば、あまり刺激しないと踏んでのことであった。
こうして何とかつてを確保した蒲生定秀と和田信維であったが、その後、彼らは慎重の上に慎重を重ねて動いている。 京のある山城国は三好家の領地である以上、致し方なかった。 しかしその為に、思いの外官職を得る為に時間が掛かってしまう。 するとこのことに、覚慶が痺れを切らしてしまった。
彼は官職を得ないまま、還俗したのである。 その際、名前も変え覚慶から足利義秋と改名したのであった。
「正当なる血筋による足利将軍家を再興する為、予は卿らの働きに期待する」
『御意!』
この還俗の式典には六角高定以下、義頼に六角承禎、それから六角義治も参加している。 最も六角義治は、叔父と父親と弟に説得されて渋々の参加であったが。
「還俗の儀に間に合わず、誠に申し訳ありません」
この式典ののち、義頼は細川藤孝達へ左馬頭の官職が間にあわなかった事態に対する詫びを入れていた。
「いえ。 義俊様からも、京の様子は聞き及んでおります。 むしろ我らの急な依頼に誠心誠意答えようと努力していただき、頭が下がる思いです」
「兵部大輔殿からそう言っていただけるとは、実にありがたい。 必ずや吉報をお届けいたします故、もう暫くお待ちください」
「義秋様も期待しておられます」
「はっ」
この還俗の二ヶ月後、ついに蒲生定秀と和田信維の京での活動が実を結び官職を得ることに成功する。 ここに足利義秋は、漸く無位無官の状態から従五位下左馬頭に叙位任官されたのであった。
「藤孝。 此度の尽力に対して、義頼に褒美を与えようと思うがどうだ?」
「左馬頭(足利義秋)様。お待ちください。 侍従殿は、幕臣ではございません。 左馬頭様が直接与えるなど、筋が通りませぬ」
「何? ならばよき考えはないか?」
「そうですな……拙者より中務大輔殿に連絡し、褒美を与える様に致します。 それならば、筋は通りましょう。 して、褒美はなにを?」
「そうよのう……義頼には昇殿が叶う様に取り計らえ」
「は? し、昇殿ですか?」
官位的には十分昇殿出来る地位を得ている義頼であったが、実はそれだけでは昇殿を行う事は出来ない。 昇殿宣旨と呼ばれる宣旨を受けなければ、昇殿は許されないのだ。
つまり足利義秋は、その宣旨を得ることで褒美としたのである。
「そうだ。 分かったな」
「ぎ、御意」
こうして義頼は、本人の全く与り知らぬところで昇殿の許しを得たのであった。
ご一読いただき、ありがとうございました。




