海に恋した歌唄い
あの人はどこに居るのでしょうか
探しても探しても、どこにもいない
丘の上のエリカに聞いては知らぬ顔
セコイアの大木は耳が遠くて
若きオリーブはただただ風に実を揺らしてる
『前夜』
イザイアが生まれたのは大きな港町であった。
大きな船が毎日やってきては積み荷を下ろす。そしてまた旅立っていく。そんな場所で生まれた。彼の父親ときたら大声が出せることでは右に出るものがいない人物で、イザイアが生まれた日はとなり町まで聞こえるような声で喜んだと言う。もちろんイザイアの先に生まれている姉と兄の時も、イザイアの後に生まれた妹の時もやはり同じように喜びの声を上げたという。
四人兄弟の上から三番目として彼は奔放に、愛情豊かに育てられたのだった。
***
『第一夜』
イザイアが初めてその歌に接したのは12の時だった。
その頃のイザイアと言えば下っ端も下っ端な水夫として船に乗っていた。陽気な兄貴分達は頼もしく、食うものにも困らない。長い航海の時は陸が恋しくなったりしたが、陸にいれば三日と持たずに海に出たくなる。要はイザイアは海が好きだったのだ。
そんな彼にとって歌は甲板を掃除しながら口ずさむものであった。後はせいぜい夕食の席で騒ぐように歌うくらいで、それだって本格的に歌うわけではない。歌っているのか叫んでいるのかよく分からないものだ。
「もっと酒はないのか! エールだ、エールをこっちによこしてくれ!
「おい、積んである酒を全部飲んじまう気かい? 自分がどれだけ飲んだのかちゃーんと見てみるんだな」
「うるせえ! おい、イザイアいるか?」
酒焼けでガラガラ声の男が叫んだ。
「ここにいるよ」
イザイアは声だけで返事をした。
「言われたらこっちへ来い!」
「いるかどうか聞かれただけで、来いなんて言われないからね。やーなこった」
「ええい、揚げ足なんて取りやがって、いいから来い。――いや、来なくていいお前、そのまま酒取りに行ってこい」
「へーへー」
そう言うと一人の少年が立ちあがった。赤毛にヘーゼルの瞳を持った少年だ。
喧騒の食堂を出るとまるで別世界のように静かであった。窓から外を見ると月は無いが、代わりに星が多く輝いてるた。また下を見れば、星の光が海面に映しだされ揺れていた。
しばしその光景に見とれているとその音は聞こえてきた。
最初は意識してなかった。
だが、ただの音ではなく誰かの声らしいと気づくと次は宴会の声が流れてきているのかと思った。それが女のようだと思った時……イザイアは空耳だと思おうとした。ここは海の真ん中である。周りには陸地もない。船には女は乗っていたなかったから女の声が聞こえるわけがないのである。
精霊か妖かしの類いか。
どちらにしろ良いものとは思えなかった。
イザイアは外を見るのをやめ、営倉へと急いだ。どこから聞こえてくるのか全く分からなかったが少なくとも船の中ではない。外さえ見なければその存在を目にすることはないだろうと思ったのだ。
だが、その目論見は半分外れた。
確かに姿を見ることはなかった。だが声を振り払うことは出来なかった。耳を塞いでも波の音が消えるばかりで歌声は止まなかった。
いつの間にかその歩みは早くなりもはや走ってるとしか言えない状況になっていた。
営倉につくとエールの瓶を両手で持てるだけ持って元来た道を走り抜けた。
その夜のことはイザイアは誰にも言えなかった。
どんな風に話してみてもうまく伝えられる気がしなかったからだ。誰にも言わなかったその夜のことはいつまでも彼の心にくすぶり続けたのだった。
***
『第二夜』
イザイアが歌を歌って生きる事になったのはその男のせいだった。
「少年よ、歌はいいぞ」
ヒゲを生やした男はそう言った。
彼は歌唄いだった。街から街へわたって酒場で歌を披露していた。
イザイアと言えば相変わらず水夫だった。色々な船を乗りわたって暮らす流れの水夫だった。今日もまた、乗客と香辛料を乗せた船の上で掃除をしたり、見張りをしたりしていた。
「……知ってるよ」
「おお!それは良いことだ。して次のリクエストはあるかい」
「なあ、おっさん。リクエストって曲名知らなくても出来るか?」
「ほうほう、それは難題だな」
「歌詞は、少しだけ知ってるんだ」
「なるほど、約束はできないが教えて見ろ」
「……ああ」
あの人はどこに居るのでしょうか
探しても探しても、どこにもいない
丘の上のエリカに聞いては知らぬ顔
セコイアの大木は耳が遠くて
若きオリーブはただただ風に実を揺らしてる
男は最初竪琴をいじりながら聞いていたが、歌詞が進むとその腕を所在なさ気にヒゲなどいじりだした。
そして、最後まで聞くと難しい顔をして
「わからんなあ」
と呟いた。
「そうか、おっさんみたいに長生きした詩人でも知らないのか」
「儂など歌の歴史に比べればひよっこもいいところだ。人の生は短いそれに――」
「それに?」
「儂はまだ長生きしたなんて言われるほど年寄りではない」
皺だらけの顔に更に皺を寄せて男は大きく笑った。
つられてイザイアも笑った。
「その髪、どう見ても爺さんだぜ」
「少年にはまだわからぬのだよ、男の色気と言うものが」
「言ってろ」
男は自分のウードを手にした。
ポロンポロンと弦を弾く。
「それはそうと少年、ずいぶんといい声してるじゃないか。歌詞って言うから単語が三つ四つ出てきておしまいかと思ったんだが、コレが吃驚、歌い出すじゃねえか」
「この曲はよく歌ってるんだ」
「お前さんが作った曲ってことはなんだよな?」
「自分で作った曲なら曲名くらいは付けるよ」
「それもそうだなあ」
しばらく間を置いて、男はこういった。
「しかしお前さん、透明な良い声をしとるなあ。どうだ? 儂について歌唄いになるつもりはないか?」
***
『第三夜』
イザイアは師と一緒に旅を始めてからしていることがあった。
「とりあえず師匠、そろそろ休めよ」
「おい、歌唄いを酒場に置いて『休め』とは何事だ」
「では、お体に差し障りがないようにしてください」
わざとらしく大げさに例を取りながらイザイアは丁寧に師に述べた。
「年寄り扱いとは何事だ、全く最近の若いもんは……年寄りを敬うことがなっとらん」
師は壮大な矛盾を吐いた。
「……自分で年寄り扱いしてるだろ」
呆れ顔でイザイアは師を椅子に座らせた。全く口が減らない人だ。
しかし、最近は病を得てすっかり体が衰えた。
「……お願いだよ」
「ああ、ああわかってるよわかっとる。お前のことはちゃーんとわかっとるからなあ。だから安心するといい
ゴツゴツの手でイザイアの頭を撫でる。「幼子ではない」と反論しようとしたがやめた。その手はいくつになっても心地よかったからだ。
「ほら、海に行くんだろう? こっちはいいからさっさと行って来い。そして終わったらまた歌うの交換だ」
「ああ」
真夜中、それはイザイアが初めて歌を聞いた時間だ。海辺の街にいる間、イザイアは必ず夜に海に出かけた。仕事の時間や師の体調によって夕暮れの時もあったし、空が白んできた時間の時もあった。けれども行かなかったことはない。
「このへんの土地でも、日が落ちたらだいぶ涼しいな」
日中の事を思いながらつぶやく。ここはイザイアの故郷よりだいぶ南だ。
だから期待していた。暖かい海のほうが過ごしやすいのではないかと。
時間が経つにつれイザイアの記憶は薄れるどころか鮮明に鳴っていた。歌の主が存在することを疑うことがなかった。
砂浜を過ぎて更に道をゆくとだんだん茶色い岩が多くなっていく。こちらは船も停泊できないし、夜になると誰もいない。
大きな岩を見つけては手をついて裏を覗く。少し歩いてはまた覗く。 そこにあるのは水たまりと枯れかけた草ばかりだったがイザイアは何度も繰り返した。
「こんな所、貝と小さな蟹くらいしか住んでないよな」
岩は波にさらされてゴツゴツと尖っていた。
歌の主がどのような存在か、海のど真ん中で歌ってたから人ではない。鳥の可能性だって、いっそ蟹の可能性すらあった。だが、同時に人の声で歌ってたから人に親しい姿形なのではないかとも思っていた。鳥なら、鳥の声で歌えばいいのだ。わざわざ、人の声で歌うこともないだろう。人の声で歌うというなら人に聞かせたい、人を想っているのだろう。
そうしてイザイアは歌に思いを馳せながら知らず知らずのうちに口ずさんでいた。
歌うのはもちろん海の上で聞いた名も知らぬ曲。
あの人はどこに居るのでしょうか
探しても探しても、どこにもいない
何度か繰り返して歌っているとふと、自分ではない声が聞こえた気がした。あまりに恋い焦がれてしまったが故にとうとう幻聴でも聞こえ出したかと思う。
だが、歌うのをやめてもそれは流れ続けた。
――これは頭の中で流れてるわけじゃない!!
そのことに気づくと目を見開き、急ぎ声の元を探った。
来た道の方ではない。岩の陰でもない。町の方でもない。
それはやはり海の方だった。
目を凝らしてよく見てみると、水面が大きく揺れているのが見えた。そして海の中に星明かりとも見紛う、金色の2つの星が見えた。
「待てよ!!!」
イザイアは服が濡れるのも構わず走っていった。
「!!!」
「数年前もあんたは歌を歌っていた。もっと北の、冷たい海の中で! あるいはあんたではなくあんたの仲間なのかもしれない。けれどもその歌だ。! その歌は何なんだ? それと……うわあああ!」
矢継ぎ早に質問を続けていたせいで足元が疎かになったようだった。イザイアは足を砂に取られ派手に転んだ。いや、海の中であったから溺れていた。
海が目に染みて、鼻にツンとした痛みが走った。
「うぐああ…い…」
服のまま入ったのがいけなかったのだろうか? 立ち上がろうとしても足が地に付かず、浮かそうとすれば体が重くてままならない。
「う……う……」
「う……? 苦しいの? 人は海では息できないのよね」
近くで、あるいは遠くで、距離感の分からぬ声が聞こえた。優しい女の声に聞こえた。
「うた」
それだけ言うとイザイアは海に沈んでいったのだった。
***
『明朝』
イザイアは生きていた。
朝日が眩しかった。
静かに右手に力を込めた。閉じて開いて動くのを確認する。次は腕に力を入れて、上体を起こす。
「……生きてる」
頭がとても痛かったが、どうやら自分は生きているらしい。
ぼんやりとした頭で記憶をたどる。
そして、歌の事を思い出した。
「!! あいつは、女の声が、歌は」
慌てて周囲を見回そうとしたが駄目だった。
「いってええ」
頭を左右に動かそうとすると割れるように痛かった。
その痛みに耐え切れずに再びイザイアは倒れこむ。砂がその勢いを受け止めた。ズボッと言う良い音が朝日に溶けていく。
「おい!!!いねーのかあああ!」
起き上がれない代わりに、痛みの分の恨みも込めて叫んだ。その声は何処までも、となり町まで聞こえるような声であった。
しかし、その大きな叫びも積極は海に消えていった。
「くそっ……いねーのかよ……」
目から涙がこぼれた。それは海の味と混じってとても塩辛かった。
半刻も立った頃だろうか、相変わらず砂浜で横になっているイザイアに声がかけられた。
「こんな所で寝るとはお前、とうとう海の生きものになってしまったか」
と、同時に棒で突かれる。
「おいこれ、聞いてるかイザイア。……まさか死んでしまったか?」
「……………………生きてる」
「それは何より。荷物も違いなくなったらどうしようかと思った」
「本当かよ。っつーか痛えから、突くのやめてくれよ」
「おお、こりゃすまんな。つい生きてるか心配になってな。まあ、人の睡眠の邪魔を出来るだけの声が出せれば生きてるとは思ってたが」
「寝てたのかよ」
「おお、よく寝たさ。睡眠は美声の大敵だからなあ。交代してくれるはずの愛弟子がいつまでたっても来んからすっかり喉が痛くなってしまったし」
その言葉を聞いて師との「帰って歌うのを交換する」という約束を破ったことに気づいた。
「すみません」
「今晩からしっかり働け、それとだな」
「はい」
「これは何だ? 死の間際に遺言でも残こそうとしたのか?」
「!!!!!」
頭の痛さも体の怠さも一気に吹き飛ばす言葉だった。
師が杖でさした所に、確かに文字が書いてあった。
――陸の歌
「りくの……うた?」
「最後の言葉も『歌』とは本当に歌唄いになるために生まれてきたような男だな、お前は」
「おれじゃない……」
彼女だ、と思った。
「ふむ、まあ、その話はあとでじっくり聞くとして、一度宿に帰ろうではないか。お前ぐしゃぐしゃだぞ? 落ち着いて一度寝ようじゃないか」
「……そうする」
――とりあえず、自分が追っていたものは夢幻ではなく存在したものだったのだ、と確信した所でよしとしよう。