犬目線、ときどき毒舌。柴犬たちの人間観察エッセイ、開幕
キャリーバッグのファスナーが開いた瞬間、ボクは覚悟を決めていた。
また、新しいガラスケースがそこにあるはずだ、と。もしかしたら前のより少し広いかもしれない。贅沢を言えば、ケースの隅に置いてあるトイレシートが、もう少しふかふかだったら嬉しいな。その程度の期待値である。
生まれてこのかた知っている「住居」というのは、まるで展示品を入れるガラス張りの狭い空間しか知らなかったのだ。
ところが。
出された先にあったのは、床。ただの、区切りのない床だった。
「え」
視界に収まりきらないほどの空間が広がっていた。
リビングと呼ばれるその場所は、ボクが今まで過ごしてきたガラスケースの、体感で言えば40倍はある。
ソファがあり、テーブルがあり、テレビがあり、なぜか床には無数のクッションが散乱し、そして、大きめの出入り自由のゲージがあり、そこにはボクの大きさを包んでくれるクッションと、餌入れ、水入れが容易してあった。
「タンタン、どうぞ〜! ここが今日からタンタンのおうちだよ!」
女の子、後で「ふみちゃん」という名前だと知ることになる子が満面の笑みでそう言った。
ボクは、思わず入れられていたキャリーバックに入り直して、うずくまった。
これまでの経験で、「好きにしていいよ」ほど恐ろしい言葉はない。
人間で例えるなら、生まれて一度も出たことのない狭いアパートの一室から、いきなり見知らぬ国の、しかも広大な邸宅にポンと放り出されるようなものだ。
「自由にくつろいでください」と言われて、素直にくつろげる人間がどれだけいるだろうか。
それでも、ボクは周りの空間を十分観察した後、ソロソロとキャリーバックを出てみた。
床は、ひんやりとしていて、つるつるしていた。フローリングというやつらしい。爪がカチャカチャと音を立てて滑る。滑る、という感覚も初めてだった。ガラスケースの床はもっと滑り止めが効いていた気がする。一歩踏み出すごとに、後ろ足が勝手にどこかへ行ってしまいそうになる。これは由々しき事態だ。
「あら、緊張してるのかしら。無理もないわね」
母親の声が、遠くから聞こえた。遠く、というのは物理的な距離のことだ。今までのボクの世界には「遠く」という概念自体が存在しなかった。
声がする方角と自分がいる場所の間に、こんなに空間があること自体が、もはや事件だった。
しばらくすると、ふみちゃんが床にぺたりと座り込んだ。
ボクと同じ目線の高さまで下がってきて、じっとこちらを見つめている。急かすでもなく、ただ待っている。
恐る恐る、ボクはもう一度片方の前足をバッグの外に出してみる。フローリングの冷たさが、肉球にじんわりと伝わってくる。悪くない。もう片方の前足も出してみる。
その時、部屋の奥のほうから、聞き覚えのない、しかし妙に耳に残る物音がした。コツ、コツ、コツという、フローリングを歩く足音。
ボクの毛が、思わずぶわっと逆立った。
な、なんだ、あの音は。この家には、ボク以外の何かが、もう住んでいるのか?
この時のボクはまだ知らなかった。
その正体が、後にボクの人生を大きく振り回すことになる、もう一匹の同居犬、白柴の「ポンポン」であるということを。
つづく




