溺れてほしい~婚約破棄された堅物令嬢、『辺境の鬼神』に嫁ぐ~
――――政略で結ばれた同じ家格同士の婚約を、こんな形で反故にされるとは思わなかった。
「アウレリア! 君との婚約は破棄させてもらう!」
王家主催の新年を祝う夜会の真っ只中。
煌びやかな王城のホールで、いきなり鋭い声を投げつけてきたのは婚約者のマリヌス・ケレブレム公爵令息である。
きれいに撫でつけられた琥珀色の髪とエメラルドの瞳は相変わらず人目を引くなあ、とは思うものの、突然の出来事に二の句が継げない。
だって私たち、婚約者だというのに会うのは半年ぶりなのよ?
久しぶりに顔を見せたと思ったら、いきなりそれ? ってなるじゃない。
そしてマリヌスが隣にはべらせているのは、このところやけにご執心のテレサ・パウルス伯爵令嬢。なぜか必要以上にうるうると目元を潤ませ、上目遣いでマリヌスを見つめている。
「私はとうとう、真実の愛を見つけたのだ! このテレサこそ、私の運命! 私の最愛! 君のような陰気で可愛げのない相手との政略的な結婚など、私は望んでいない!」
好き勝手にオーバーリアクションで叫びまくるマリヌスを、一発ぶん殴りたい衝動に駆られる。
私だって、あんたとの結婚なんか、はじめっっっから望んでないんですけど……!!
でも淑女たるもの、ここで理路整然と反論するわけにはいかないから、ぐっと我慢である。
私が何も言い返さないのをいいことに、マリヌスはうっとりとテレサ様を見返して、なおも一方的に言い募る。
「私は当初から、この政略的な婚約には納得がいかなかった! 君は確かに見た目は美しいが、真面目すぎて面白みがない! 婚約者として、実につまらない相手だ! 男を喜ばせることができないなんて、女性として致命的ではないか!?」
……ずいぶんと、勝手なことを言ってくれるじゃないの。
マリヌスが私のことをどう思ってるかなんて知ったこっちゃないけど、面と向かってここまで言われたら、さすがに黙ってはいられない。
そう思った私が、口を開きかけたときだった。
「騒がしいな。どうしたんだ?」
突然後ろから、高貴な声が飛んでくる。
慌てて振り返ると、臣下の礼をとる貴族たちの中を悠然と歩いてくる王太子エヴェラルド殿下が視界に入った。
「何があった?」
殿下は気遣わしげな目で私を一瞥してから、尖った視線をマリヌスに向ける。
マリヌスは一瞬面倒くさそうな顔をしながらも、「殿下、私は真実の愛を手に入れたのですよ!」と高らかに宣言した。
「愛のない相手と政略的な婚姻をするよりも、唯一無二の存在とともに生きていくほうが余程価値があるというもの。私は愛するテレサとともに生きるため、このアウレリア・シレンス公爵令嬢に婚約破棄を言い渡してやったのです!」
得意げにあっはっはー! などと高笑いするマリヌスに、殿下も二の句が継げないらしい。「は?」と言ったきり、目が点になっている。
「お前……」
開いた口が塞がらない、とはこのことを言うのだろう。
貴族たるもの、家門の存続や政治的・経済的な利益のためには、たとえ相手が好きでもなんでもないポンコツクソ野郎だとしても、私情を挟まず婚約・婚姻を受け入れなければならない。
だというのに、目の前の公爵家嫡男はそれらを全部否定して、「真実の愛」などという曖昧で不確かなものを優先するという。え、マジで正気か? とでも言いたげな殿下の表情には、共感しかない。
居合わせた貴族の面々も、マリヌスとテレサ様をこれ以上ないというほど冷ややかな目で眺めている。
「……なるほどな。マリヌスの言い分は、理解した」
冷静さを取り戻したらしいエヴェラルド殿下は、すこぶる事務的な口調でそう言った。
言葉とは裏腹に、その眉間には何本もの深いしわが刻まれている。心中お察しします。
「しかし君たちの婚約は、我が国でも五本の指に入る公爵家同士の政略に基づくものだ。今ここで、性急に答えを出すべきではないと思うのだが」
「いや、殿下――」
「どうだろう? この件は、一旦私に預けてくれないか?」
唐突な提案に、マリヌスはわかりやすく渋い顔になる。
でも王太子殿下の尊い言葉に否やを唱えることなど、できるわけもない。
思い通りの結果にはならず、それどころか予想外の展開になってしまったとちょっと不服そうなマリヌスは、仕方なく「わかりました」と頷いた。
隣のテレサ様も、相変わらずの上目遣いで「承知いたしました」と言ってから、しおらしく目を伏せる。
「アウレリア嬢も、それでいいか?」
「もちろんでございます、殿下」
王家主催の夜会で、一応とはいえ自分の婚約者が、こんな茶番を繰り広げたことに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
公爵家の人間として、不甲斐なさ過ぎて殿下の顔を見返すこともできない。
でも、ここから私の運命は、思いもよらない想定外の方向へと動き出すことになる――――。
◇・◇・◇
私とマリヌスの婚約が決まったのは、私が十五歳、マリヌスが十七歳のときである。私が王立学園に入学して、すぐの頃だった。
同じ公爵家同士で、事業提携の話なんかもあって、もう完全に政略的な意味合いしかない婚約だった。
夜会で叫んでいた通り、マリヌスははじめからこの婚約に納得していなかったらしい。初めての顔合わせのあと学園で時々見かけるようになっても、マリヌスに声をかけられることはまったくなかった。というか、むしろ笑っちゃうほど完璧に無視されていた。
そして、まるで当てつけるかのように、マリヌスはほかの令嬢たちと派手に遊び歩くようになったのだ。
見目麗しいと評判のマリヌスは、学園の令嬢たちにとって憧れの存在だったらしい。何人の令嬢が、彼の毒牙にかかったことか。
もちろん、我がシレンス公爵家は、マリヌスの行動に断固抗議の意を示した。そりゃそうだ。婚約者がいるというのに、貴様は何やってんだ、と詰め寄りたいところである。
マリヌスの父親、ケレブレム公爵も何度となくマリヌスを呼びつけ、説教してくれたらしい。この婚約はケレブレム公爵家側からのたっての希望で結ばれたものでもあり、破談だけはどうしても避けたかったのだろう。
それでも、マリヌスは数多の女性と浮名を流し続けた。もういっそ、清々しいほど女癖が悪かった。
そんな相手に、親愛の情だの信頼の念だの、抱けるはずもない。
私たちの関係は、ずっと冷え切っていた。うまくいっていないのは、みんな知っていたのだ。
学園を卒業してもその状態はほとんど変わらず、かといってそう簡単に婚約をなかったことにもできない。すでに高位貴族の令息たちは婚約が決まっている者が多く、マリヌスとの婚約を解消したとしても新たな婚約者選びが難航するのは目に見えていたからだ。
不本意すぎる膠着状態が続く中、マリヌスはあれこれ理由をつけては結婚を先送りにした。
そうして、婚約から六年。学園を卒業して、すでに二年半以上。
そろそろ本気で決着をつけないと、という思いで、私はあの夜会に出席したのだ。マリヌスが、テレサ様を伴って出席すると聞いていたから。
それがまさか、あんな目に遭うなんて……!!
だいたい、話し合いをしようにも、マリヌスは頑として応じなかったじゃないの。婚約を破棄したいのなら、もっと早くそう言ってくれればよかったものを。
私だって、あんなやつと結婚したいとは一ミリも思ってないし、できれば御免被りたい。マリヌスと結婚するくらいなら、どこぞの心優しいナイスミドルの後妻とか、他国の大手商会のご隠居の後妻とか、この際やばい趣味とか性癖さえなければもう誰でもいいわ、くらいには思っていたのに。
夜会の翌日、早速お父様が王城に呼び出された。
マリヌスの父、ケレブレム公爵も一緒らしい。
夕方近くになってようやく帰ってきたお父様は、当然のように疲れ切った表情をしていた。
「マリヌスとの婚約は、無事破棄になったよ。言うまでもなく、向こうの有責でだ」
「そうですか」
でしょうね、という感想しかない。
「ケレブレム公爵は、最後まで抵抗していたがな。しかしこうなった以上、婚約の続行は難しいだろうと殿下も仰ってくださった。同席された陛下もな」
「私たちの婚約がなくなれば事業提携も解消になるでしょうし、向こうの有責となれば困るのはあちらですからね」
「……ただな」
お父様はなぜか突然言い淀み、妙に浮かない顔つきになる。
「……お前には、ラグヒルド辺境伯に嫁ぐよう王命が下ったのだ」
…………はい?
思考が停止した。
多分、たっぷり二十秒くらい。
「そ、それは、どういう……?」
やっとのことで、それだけ尋ねる。
お父様はますます難しい顔になって、ぼそぼそと話し出す。
「マリヌスとの婚約がなくなった以上、お前の嫁ぎ先を改めて探す必要があるだろう? そうした事情を察した殿下が、現状婚約者のいない、辺境伯に嫁ぐのがよかろうと、仰せになってな……」
しどろもどろのお父様は、私と目を合わせない。
後ろめたいのか後ろ暗いのかわからないけど、お父様もこの王命には戸惑いしかないのだろう。
――ラグヒルド辺境伯とは。
王国北側の国境地帯を預かる辺境伯領の当主であり、「勝ったやつが偉い」「勝てば何でもあり」が信条の粗野で野蛮な辺境伯騎士団を束ねる勇猛無比で知られる御仁。
実は、ラグヒルド辺境伯領は得体の知れない魔獣の棲む『フラムの森』に隣接している。
建国当初から、代々魔獣討伐の責務を担う辺境伯家の人間は気性が荒く乱暴で、いかつい風貌の者が多いらしい。
若干十八歳で辺境伯を継いだ現当主は身長二メートル以上の巨漢と噂され、魔獣との戦いに明け暮れているため年がら年中傷だらけ、極めつけは背中に大きな十字傷さえあると聞く。
群れをなして襲いかかる魔獣を片っ端から薙ぎ倒し、緑色の返り血を浴びてなお悪鬼羅刹のごとく突き進むその様は、『辺境の鬼神』と称され恐れられているのだ。
「な、なぜ、ですか……?」
声が、掠れてしまう。
そりゃ、私だってマリヌスとの結婚は嫌だったし、こうなったら代わりは誰でもいい、くらいの気持ちではあった。
でも、だからって、なぜよりによって、狂暴凶悪と噂の辺境伯なわけ?
どうしていきなり、王都から遠く離れた、粗暴な荒くれ者のもとへ輿入れせよ、なんて話になるのよ?
にわかには到底承服できない一方的な王命に抗議しようとしたら、お父様が渋々といった様子で言葉を続ける。
「アウレリア、これは王命だ。拒否することはできぬのだ」
「で、でも……!」
「大丈夫だ。殿下は『悪いようにはしないから』と言ってくださった。『騙されたと思って、ちょっと行ってみてよ』とも……」
「……な、なんですかそのふざけたセリフは……!」
人の一生を決める大事な縁談だというのに、おつかいを頼むくらいの軽いノリで簡単に決めないでいただきたい……!!
かくして、私は早々に、まるで追い立てられるかのように、ラグヒルド辺境伯領へと旅発つことになったのだ。
◇・◇・◇
暗澹たる思いで、馬車に揺られていた。
あの夜会のとき、私を気遣ってくれた殿下だからこそすべてを委ねたというのに、まんまと騙された気分である。
しかも、お父様だけでなくお母様やお兄様までもが、「多分大丈夫だから」「多分なんとかなるから」などという謎のなぐさめを繰り返す始末。多分、ってなによ。無責任すぎるでしょ。
平和な王都で堅物と揶揄され婚約破棄された公爵令嬢が、常に魔獣との死闘を続ける粗暴な辺境伯家に輿入れなんて、冷遇される未来しか見えないんですけど……!
そんな恨み節を心の中で延々と炸裂させながら、馬車に揺られて一週間。
辺境伯領の入り口、南の砦と言われる場所が見えてきたときだった。
何やら急に、地鳴りのような地響きのような重量感のある音が近づいてきたと思うと、あっという間に大人数の騎馬隊に囲まれてしまったのだ。
焦ってあわあわしていたら、一人の騎士が颯爽と馬から降り立つ。
「アウレリア嬢、ようこそ辺境伯領へ。私はラグヒルド辺境伯領当主、ゼノ・ラグヒルドと申します」
それは長身痩躯の、漆黒の髪に端正な顔立ちの、かなり眉目秀麗な部類に入るレベルの、ラグヒルド辺境伯その人だった。
「え……?」
突然の出来事にいろいろと理解が追いつかず、私は言葉を失ってしまう。
だって、いったい誰よ。いかつい風貌の巨漢なんて言ったのは。粗野で野蛮な乱暴者なんて言っていたのは。全然違うじゃないの。
そんな私の耳に、思いもよらない言葉が突然降ってきた。
「か、可愛すぎる……」
「……はい?」
咄嗟に聞き返すと、なぜかとろけるように微笑んで、私を見返す辺境伯。
「あなたをこの地に迎えることができるとは、まさに僥倖の極み。これからは私が全身全霊をかけて、あなたを一生お守りいたしますゆえ」
声色までもがやけに甘美で情熱的で、なんだか妙にそわそわしてしまう。
え、ちょ、ちょっと、待って。
まさか、いや、もしかして。
私って、そこそこ歓迎されちゃってる……?
「屋敷」というよりは「城」といったほうが相応しいような堅牢な造りのラグヒルド辺境伯邸に到着した途端、事態はすぐに判明した。
「私たち辺境伯領の人間は全員、奥様がいらっしゃるのを心待ちにしていたのです!」
専属侍女として紹介された、同じ年頃と思しきリーンがやや興奮気味に話し出す。
「王太子殿下から奥様の輿入れが決まったという早馬が来たとき、旦那様はその場で半刻ほど固まってしまったんですよ!」
「か、固まって……?」
「うれしすぎて、気を失っていたそうで」
「……はい?」
「旦那様が仰るには、ずっと恋い焦がれていた人だからとにかく総力を結集し全力でお迎えせよ、絶対に粗相があってはならない、というお話だったのです。若くして当主の座に就くことになってしまい、いろいろと苦労がおありだったでしょうに、旦那様はこれまでどんな縁談も突っぱねて独り身を貫いてきましたからね。そんな旦那様のはしゃぎように、私たちも微笑ましいやらホッとするやら、涙ぐむ使用人も続出で」
「は、はあ……」
「ですから奥様、何も心配はいりません。辺境伯領は王都とは何もかもが違うでしょうけど、私たちがついておりますから!」
……謎にテンションが高い。
そして私はまだ、「奥様」じゃないのよ。
と思っていたのに、気づいたらあれよあれよという間に湯浴みをさせられ、侍女たちに磨き上げられ、見たこともないセクシーな透け透けの薄い夜着を着せられ、そのまま夫婦の寝室とかいう部屋に放り込まれた。
展開が早すぎる!!
「アウレリア嬢」
寝室に入ってきたのは、湯浴みを終えたと思しき若き当主、ゼノ・ラグヒルド辺境伯だった。
もともと端正な顔立ちだというのに、濡れた髪がやけに艶っぽい。色気だだ漏れである。困る。
「隣に座っても?」
「ど、どうぞ」
声が裏返ってしまったのも、仕方がない。
だって、ここに着いた瞬間から、顔を合わせた使用人たち全員に「旦那様がいかに奥様を待ち焦がれていたか」を切々と、滔々と、説明されまくっていたのよ?
自分の恋心を隠さず余さず堂々と使用人たちに披露するだけでなく、私がいかに魅力的で素晴らしい人間なのかを朝から晩まで言葉を尽くしてしつこいくらいに布教し続けたというその人を、意識するなと言われたって無理である。
「『リア』って呼んでもいい?」
おっと。いきなり結構な直球が飛んできた。受けるほうの身にもなってほしい。すでに瀕死である。
ねだるような蠱惑的な視線を向ける旦那様に対して、私は辛うじて「……どうぞ」とだけ答えた。
旦那様は無邪気な笑顔を見せながら、ずずっと距離を詰める。
触れそうで触れないその距離に、心臓が跳ねた。
「リアはいろいろと驚いただろうし信じられないかもしれないけど、実は俺、ずっと君に片想いしていたんだよ」
「あの、どこかでお会いしたことがあったのでしょうか?」
「うん、学園でね。リアが入学してきて、すぐの頃」
言われて、はたと気づく。
確かに私は、この人に会ったことがある――――。
「初めて君を見たのは、入学式のときだよ。なんてきれいな子だろうと思った。目が離せなくて、いつも気になって、姿を見かけたときにはずっと目で追いかけていたよ。でもすぐに、マリヌスとの婚約が決まったと聞いて、俺も親父が魔獣にやられたって知らせがきたから帰らなきゃいけなくなってさ。そのまま学園は退学しちゃったから、君は覚えてないだろうけど」
話を聞きながら、私は思い出していた。
元婚約者のマリヌスは私の二つ年上だけど、実は王太子殿下と同い年である。
そして、ラグヒルド辺境伯も確か同じ学年にいたのだ。
うろ覚えなのは、いま彼が話した通り、私が学園に入学してすぐに前当主が倒れたとかで辺境伯領に帰ってしまったからだ。結局学園に戻ってくることはなく、そのまま退学して当主の座を継いだから、彼が学園にいたという記憶はすっかり抜け落ちてしまっていた。
「我ながら重いとは思うんだけど、ずっとリアのことが忘れられなくてさ。話したこともほぼないし、君は俺のことを知らないとわかってはいても、諦めることができなかったんだ。だから縁談は全部断って、このまま一生独り身でもいいと思ってた。跡継ぎは、縁戚から養子をもらえばいいかなって」
「ど、どうしてそこまで……?」
「どうしてかな。わかんないけど、リアをひと目見た瞬間から、リア以外には考えられなくなったんだよ。辺境伯家の人間は愛が重くて、ひとたび相手を決めたら絶対に手放すことはないと言われているからね。そういう血なんじゃないかな」
ふっと小さく笑う旦那様に、またしても心臓が勢いよく跳ねる。
「エヴェラルド殿下は、俺の密かな想いを実は知っていてね。君がマリヌスに疎んじられていると話しては、奪いにこいっていつもけしかけてきて」
「え……?」
「俺だってできればそうしたかったけど、君たちの婚約は政略的なものだと聞いていたし、俺も当主の座を継いだばかりで余裕がなくてさ。年々魔獣の凶暴性が増していて強い毒性を持つものも増えていたから、被害の拡大を防ぎながら領民の生活を守ることが最優先だったんだ」
その真っすぐな言葉に、若くして当主となった旦那様の苦難と苦悩を思い知る。
と同時に、旦那様の秘めたる想いを知っていたエヴェラルド殿下がマリヌスの婚約破棄宣言を皮切りに、これ幸いと少々強引な「王命」という手を使ったのだろうということも容易に察しがついた。
そして恐らく、お父様もお母様もお兄様も、旦那様の一途な想いを予め聞かされていたに違いない。あの無責任な励ましには、しっかりとした根拠があったのだ。
だったら、先にそう言ってほしかった。ほんとにもう。
「とにかく、俺はマリヌスの馬鹿のおかげで、これ以上ない幸運を手に入れたわけだけど」
不意に旦那様の視線が、妖しい色香を纏った。
一瞬で確かな熱を孕んだその目を、私は直視できない。
「リアは着いたばかりで、疲れただろう?」
「え?」
思わず顔を上げると、柔らかな光を宿す瞳が私を見下ろしていた。
「俺はずっとリアが好きだったから、リアが辺境伯領に来てくれるなんて信じられないし、もううれしくてうれしくて仕方がない。でもリアのほうは、いきなりこんなことになってまだ混乱してるだろう? リアが嫌がるようなことは、したくないからさ」
そう言って、旦那様は甘く微笑む。
「俺はリアが好きで好きで、リア以外は何もいらないと思うくらい大好きだけど、これからもずっと一緒にいてくれるだけで十分幸せなんだけど、それでもやっぱり、できれば俺のことも好きになってほしいんだ。俺と同じくらい、リアにも俺に溺れてほしい」
「お、おぼれて……!?」
「そうだよ。俺はとっくに、リアに溺れているから」
そのまま優しく、ちゅ、と軽くキスされる。
「えっ……!?」
「今日は、これでやめとくね」
にこやかに立ち上がった旦那様は「おやすみ」と言ってから、何事もなかったかのようにすたすたと部屋を出て行った。
な、な、なんだこれ……。
は、は、破壊力が、ありすぎなんですけど……!!
◇・◇・◇
辺境伯領での生活は、思った以上に穏やかで快適で、そして甘々だった。いや、激甘だった。
誰だよ、冷遇される未来しか見えない、なんて言ってたのは……!(自分です)
旦那様は早々に「ゼノって呼んでほしいんだけど」とおねだりしてくるし、食事は常に一緒、執務の間のティータイムも一緒、辺境伯騎士団の訓練を見学しにいけば真っ先に駆け寄ってきて「来てくれたんだね」と抱きしめられるし、夕食後に夫婦の寝室で過ごすときも有り体に言えば抱き寄せられて、「幸せ過ぎる」とか耳元でささやかれたりする。なんなら、膝の上に乗せられることもある。
そうして毎日、「リア、好きだよ」「リアはそばにいてくれるだけでいい」「世界一大好き」「絶対に放さないから」なんて甘いセリフを繰り返し繰り返し言われ続けて、はや数か月。
「そろそろ建国記念祭だけど、行きたい?」
ゼノ様の手には、王室から届いたと思われる上質な封書があった。
「俺は夜会の類いなんてほとんど顔を出さないけど、リアは行きたいんじゃない?」
「正直、パーティーに関しては出席してもしなくてもどちらでもいいのですが、家族には会いたいですね」
「あー、そうか。こっちに来てから、一度も帰ってないもんね」
ゼノ様は「ごめんね」と言って、私のこめかみにキスをする。くすぐったい。
辺境伯領に来てからも、家族とは定期的に手紙のやり取りができていた。一度も帰らなかったのは、単に距離が遠すぎるということと、「リアと離れたくない」と駄々をこねる辺境伯がいたからだ。
だから家族は、私が存外元気だということも、いやむしろ、ゼノ様にこれ以上ないほど愛され、甘やかされ、ちょっと引くくらい執着されているということも当然知っている。そして、半ば呆れている。
「行ったら行ったで面倒くさい輩の相手もしなきゃなんないだろうけど、殿下には一言礼を言うべきだよなあ」
私をその腕に閉じ込めながら、ひと房取った髪の毛をくるくると弄ぶゼノ様。
確かに、エヴェラルド殿下があそこでうまいこと動いてくれなければ、こんな幸せはあり得なかったわけで。殿下に足を向けて寝られない私たちではある。
「エヴェラルド殿下にご挨拶するのも大事ですけど、ゼノ様に関する誤った噂を正すほうが大事なような……」
私が何の気なしにそう言うと、ゼノ様は面白いほどパッと目を輝かせた。
「え、もしかして、リアは俺を想ってそんなことを言ってくれるの?」
「当たり前です。妙な噂を信じていた私も相当愚かでしたけど、王都ではあなたに関する間違った情報が横行しているのですよ? 辺境伯家の名誉にかけても、誤りは正すべきです」
ふんすと鼻息も荒く答える私に、ゼノ様は「もう、リアは可愛いなあ」なんてのんきに笑っている。自分が悪く言われているというのにまったく気にはならないらしく、「リアと王都に行けるなんて、楽しみすぎる」とか言いながらはしゃいでいる。
そんなこんなで、建国記念のパーティー当日。
久しぶりに会えた家族に結婚を祝福され、王太子殿下にお礼も兼ねて恭しく挨拶をし、一人で化粧室に行こうと廊下に出たところでぐい、といきなり腕をつかまれる。
「え!?」
強引に柱の陰まで私を引き込んだのは、なんとあのマリヌスだった。
「ちょ、ちょっ――」
「アウレリア、私が悪かった! 謝るから、もう一度私と婚約してくれないか!?」
「……はあ?」
マリヌスは切羽詰まった顔をして、またもや一方的にしゃべり出す。
「お前との婚約がなくなったら、父上が家督を弟に譲ると言い出したんだ! そうなったら私は終わりだ! だからもう一度、お前との婚約を結び直して――」
「何を言っているの? 『真実の愛』を見つけただのなんだのと大騒ぎして、派手に婚約破棄を宣言したのはあなたでしょう?」
「テレサとはとっくに別れた! あいつは公爵夫人という立場を狙っていただけで、ほかにもつきあってる男がいたんだよ! 私は騙されたんだ!」
「騙されたって、あなたね……」
呆れてものも言えない、とはこのことである。
この期に及んで、こいつは馬鹿なのか。いや、馬鹿なのね。
私は盛大なため息をついてから、背筋を伸ばしてじっとマリヌスを見据えた。
「……そんなことより、私はあなたにお聞きしたいことがあるのだけれど」
すーっと温度を下げた冷たい声色に、マリヌスはわかりやすく狼狽える。
「ゼノ様に関する根も葉もない噂を流していたのは、あなたでしょう? ケレブレム公爵令息」
わざと突き放したような口調でそう言うと、マリヌスは途端に怪訝な顔をした。
「は? 何言って――」
「ケレブレム公爵家とラグヒルド辺境伯家は建国当初から続く由緒正しい家門でありながら、実は犬猿の仲であるということは知る人ぞ知る話。そして学園在学当時、あなたはゼノ様に言いがかりをつけては、彼を貶めようと躍起になっていたそうね?」
「な、なんでそれを……?」
「領地からの知らせを受けてゼノ様が帰ったあと、そのまま戻ってこないことを知ったあなたは、ここぞとばかりに根も葉もない悪意ある噂を流し始めたのでしょう? 辺境伯領の現当主はいかつい風貌の巨漢だとか、気性の荒い乱暴者だとか、年がら年中傷だらけの粗野で野蛮な荒くれ者だとかね。当主を継いだばかりのゼノ様は王都に出てこれる状況ではなかったから、そんな噂が流れていると知ってはいても身をもって否定することができなかった。それをいいことに、あなたは長い間我が夫を侮辱し、中傷し続けたのよね?」
「……わ、我が夫……?」
「あら、ご存じない? 私、ラグヒルドに嫁いだのよ」
ふふん、とわざとらしく口角を上げてみせる。
マリヌスは息もつけないほど驚いたらしく、目を見開いたまま私を見返している。
「そ、その話、本当だったのか……?」
「王命ですもの。嘘だと思っていたの?」
「だって、まさか、そんな……」
「リア!」
唐突に聞き慣れた声がしたかと思うと、後ろから伸びてきた腕にしっかりと抱き寄せられた。
「大丈夫!? 何かされた!?」
「何もされてないわよ。腕を引っ張られただけ」
「お前、俺の妻に勝手に触れたのかこの顔だけ能無しクズ野郎が。その腕、切り落としてやろうか?」
現れた瞬間、流れるように強烈な暴言を吐くゼノ様。辺境伯家の気性の荒さは、あながち間違いではないらしい。
それにしても、「顔だけ能無しクズ野郎」とは言い得て妙である。
「ゼ、ゼノ……」
「久しぶりだな、マリヌス。まあ、大して会いたくもなかったが」
「お、お前、本当にアウレリアと……」
「俺の愛する妻を勝手に呼び捨てにするな。その口も削ぎ落とすよ?」
容赦のない物言いをするゼノ様は、実はすべてを知っていた。
自分を忌み嫌うマリヌスが悪意ある噂を流していたことも、私との婚約がなくなったあと廃嫡目前で窮地に陥っていることも、再婚約を目論んで私に接触しようとしていることも。
私は「まさかー!」と笑い飛ばしていたのだけど、本当にのこのこと出てきたマリヌスを見ると、どの面下げて、と言いたくなる。
「ケレブレム公爵令息」
もう一度名を呼ぶと、マリヌスはびくっと肩を震わせた。
「我が夫に関する謂れなき誹謗中傷に対し、ラグヒルド辺境伯家はケレブレム公爵家を正式に抗議いたします。覚悟してね?」
「いや、ちょっと待て――」
「ああ、でもね。あなたが流したゼノ様の噂の中で、『魔獣との戦いに明け暮れているから年がら年中傷だらけ』の部分だけは事実です。狂暴な魔獣の襲撃から辺境伯領を守るため、夫も辺境伯騎士団も体を張っているのだもの。体中にある傷は、名誉の勲章なのよ。馬鹿にしないで」
ぴしゃりと言い放つと、マリヌスはがっくりと膝から崩れ落ちてしまう。
その様を見て、ゼノ様はあっけらかんと言った。
「やだなあ。体中に傷があるなんてバラしたら、俺たちが毎晩いちゃいちゃしてるのもバレちゃうじゃん」
「はい!?」
火が噴いたかと思うくらい顔が真っ赤になっている私を見下ろして、ゼノ様は「リアってば可愛い~」と楽しげに揶揄う。
…………私だってとっくの昔に、愛の重すぎる旦那様にどっぷりと溺れているのです。




