夜に開く店
その奇妙な店は深夜一時になると開店する。そしていつも人知れずにひっそりと閉店してしまっているので明確な営業時間などはよく分からない。
所謂、閉店時間は店の都合というか、店主の気紛れによるというか、そんな感じの曖昧な店なのだ。そんな経営なのに不思議と客の出入りは少なくはなかった。そして今夜もまた、その時間が近づいてきたのである。
いつからか、僕の日課のようになった週末のこの夜。いつものように二階のベランダに出てはぼんやりと道向かいのその店を眺めていた。
手作りの小物でも売ってるかのような見栄えの店は決して派手とは言えず、それでいて小さくはないが決して大きくもないという、一言で言えば 知らない人は店の前を素通りしてしまうような、そんな感じのおとなしい外観の店であった。
出入口は引き戸になってるのだが、中には仕切りがあって外からでは店内の様子は分からない。昼間、店の前を通る時に何度もガラス窓に額をくっつけてみたが、仕切りの奥が覗けるような隙間は全くなかった。
そのような理由で何をやってる店なのか未だに分からないのだが、引き戸の上の看板には「都合の良い店」と書いてあるので、何かの店であることだけは間違いないのである。
もっと詳しく知りたいと思い学校の友達に聞いてみようと思ったこともあったが、今まで一度たりとも話題に上がらなかったことを考えると、どうやら自分だけが知ってるようで、そう思うとこの店のことを他人に教えるのが勿体ないような気持ちになって、何となく今日まで至っているのである。
そんな店がいよいよ開く時間になった。木製の板で作られた「都合の良い店」の看板に灯が入る。ぼんやりとした白色の蛍光灯に照らされた黒い文字が闇に静かに浮かび上がると引き戸の磨りガラスの向こうに人影が動いた。どうやら出入口のカギも開いたようだ。
最初の客は開店から20分ほど経ったところでやってきた。遠目なのではっきりとは分からないが、大人の男性と小学生くらいの女の子に見えた。こんな時間だが子供が来るのは珍しくはない。それどころか大抵は子供連れなので最近では馴れてしまって驚くこともしなくなった。
またぼんやりと次の客を待つ。深夜に人の動きを見るのは意外と面白いもので、同じ人間なのだが昼間と深夜では別の生き物に見えるからなかなか飽きないものだ。
「何か用なの?」
「今から向かいの店に行こうよ」
「はあ?」
「どうせ、もう寝るだけなんでしょ?行こうよ」
「何処だよ、向かいの店って?」
「・・・・あんたがいつもここから覗いてるあの店だよ」
母は薄い笑みを浮かべながらそう答えた。
僕は絶句した。
別に悪いことをしている訳でもないのに何故か後ろめたい気がして内心強く動揺している。どうして知っているのか聞けばいいのに、そうすれば心を見透かされているような答えが返ってきそうで、それが怖くて躊躇した。いったい何の店なのか。行って何を買うのか。聞きたいことはいくつかあったが、「いつも覗いて知ってるくせに」と言われることを想像してしまうと、それも言えずに無言で母の顔を凝視してしまっていた。
母は「そぐそこなんだからそのままでいいよ」と、僕の心の
タイミングを見計らったように言い、僕は僕で、「う、うん。分かった」と流されるように返事をして、この瞬間に出掛けることが確定した。
玄関から出て横断歩道とは逆に少しだけ歩き車の往来を確かめてからゆっくりと横断した。ここがちょうどあの店の真正面である。
時間が時間だから半分夢のような感覚の中に居たのだが、ここに来てしまうと流石に脳が覚醒してくる。振り向いてうちのベランダを見てみると、向こうから見るよりも遥かに近く感じて凄く悪いことをしていたような気持ちになった。
もしも、店の人が気づいていたとするととんでもなく恥ずかしいことだ。
母は僕の顔を見ると、「行くよ」と言った。僕はそれにつられて「うん」と頷くと、それを確認して母は引き戸をゆっくりと開けた。引き戸は少しだけキイッと音をたてたが、それは気になるほどの大きさでもなかった。
敷居を跨ぐと母は僕に引き戸を閉めるように小声で言った。僕は左手で引き戸の取手に指を入れて閉めたが、やっぱり同じところでキイーっと音がした。僕は引き戸を閉め終わると母を見た。母の表情は固かった。
「こんばんは・・・・」
母は奥のほうに向かって言った。細いがよく通る声だった。
「はーい」
少し間が空いて遠くから返事が聞こえた。女の人の声だった。
「いらっしゃいませ」と言いながら姿を現した人は母を見ると「あら、お久しぶりですね」と言った。見る限り、至って普通のおばさんであった。
どこか勝手に想像していたものとはかなり違った。真逆に等しかった。
此処に来る間にもくもくと膨らんだ期待は一瞬にして萎んで、それと引き換えるように興味もたちまちの間に見失うように消えてなくなった。
「ご無沙汰してました。お元気でしたか」
「ええ、何事もなく元気に過ごしてますよ。そちらもお元気そうで何よりです」
え、知り合い?なんで?
僕は二人の顔を交互に見た。何度も見た。だけど、普通だった。何が普通かと言えば、特に不思議な雰囲気も無く一般的普段の会話の表情みたいだったからである。
一応、母に知り合いだったのかと聞こうと思ったが、口を挟んでもいいのかとか考えていたら言葉が喉の奥のどこら辺りかにつっかえて、そのうちに消えていった。
ならばと思い、向こうから見えないように母の赤色チェックシャツの背中を摘まんで軽く引っ張ったが、「こちらへどうぞ」というタイミングを欠いた言葉に置き去りにされて、仕方なく母の背中に重なるようにしながら奥へとついていった。 気になっていた仕切りがすぐそこにある。
緊張などする間などない。もう目の前なのだ。あと二歩も足を前に出せば、あの裏側の全てが解ることになる。誰にも聞けなかったものがついに僕の手の中に落ちるのだ。 仕切りの横を通る。僕の後ろには誰もいない。思い切って顔を左に向けた。
僕の興味と期待がぐらぐらと沸騰してゆく。間違いなく、顔は真っ赤になっているはずだ。それほどの興奮が今、僕の中を駆け巡っている。
だが、現実はそうではなかった。何もないのだ。大袈裟に言っているわけでとなく、本当に何一つ物が置かれていないのだ。ただの空間がそこにあって、当たり前のような顔をしている。僕は振り返って仕切りを見た。絵もなければ飾りもない無地の平面がわざわざこの空間を作っている。
僕は意味が解らなかった。
母が自分の肩越しにチラッと僕の様子を見た。何か感じたりでもしたのであろうか。目は合わさないが余計なことはするなと横顔が命令している。僕がコクりと頷くと母は無表情で顔を戻した。
「中へどうぞ」
そう言われて僕らは店の人が開けたドアの中に入っていった。奥の角に小さなテーブルと椅子が二脚置いてある。この部屋も何とも殺風景で、母と僕はテーブルを挟んで椅子に腰を下ろした。
「お母様、ちょっとこちらへよろしいですか?」
母は返事もせずに座ったばかりの腰をあげて足早に部屋を出ていった。ドアが閉まるとカチャッと金属的な音がして、それがなんの音なのかすぐに察しがついた。
しかし、何故か慌てることはなかった。理由などないが、自分がここに座っていることが何か現実とかけ離れている気がしている。頭がポワーンとしていて赤い風船が風に乗ってぷかりぷかりと浮かんでいるような感覚だ。
「今回はどのようなご用件で?」
店の女が聞いた。
私は言いにくそうな感じを浮かばせながらモジモジとしてみせた。
「あの、ご用件はどんな?」
相変わらず店の女は単刀直入であった。私は少しモジモジとしてみせながらも声を圧し殺すようにして答えた。
「交換で」
そう言ったあと息子がいる部屋のドアのほうを振り返った。ドアは静かに閉まったままである。私はもう一度、「交換でお願いします」と言った。もちろん小声である。
それを聞いて女は「分かりました。では、交換条件を」と言って僅かに微笑んだ。
私はその気になれば即答できる。前回が前回だけに、今度は失敗しないようにと兼がね考えを纏めてきたからである。
「年齢は同じくらいで人並みの常識を持ってて普通と同等もしくはそれ以上の頭脳がある女の子をお願いします」
女は暫し考えると、
「そうなると、相応な追い金が発生しますが」
と、申し訳なさそうに言った。
「ええ、それは承知してますから気になさらないで」
私がそう言うと、女はあからさまに安堵したような顔に変わり、「では、メニューを用意いたしますので暫くお待ちくださいませ」と言って、息子がいる部屋の横の人一人が通れる程の通路に入っていった。
私もそれに続いて入ろうかとしたが、片手で静止するような格好をされて一人で待つことになった。三分くらい経っただろうか。女は小さめのノートパソコンを抱えて戻ってくると、仕切りと出入口の引き戸の間を通った。女は、今度は「こちらへどうぞ」と言った。
仕切りを通りすぎると、狭いスペースに小さなテーブルと椅子があった。女は「どうぞ」と言ってパソコンをテーブルに置いた。パソコンの画面を既に立ち上げられていた。
これで私のつまらなかった人生が楽しくなるだろう。
これから毎日娘と関わりあえるし、買い物なんかにも一緒に出掛けることができる。
お互いの必要な物は三日以内に送ることになる。
さあ、明日から忙しくなる。私は新しい娘を連れて自宅へと帰った。
勿論、息子には何も言わずに・・・・