我に秘策アリ
粕照には湾を囲うように要塞群が存在したのだが、時代遅れとなった戦闘機では防空の役に立たず、配備されていた対空砲もその方位盤は自国の機体を基準としていた為、全くアレマニア軍機を捉える事が出来なかった。
その為、擬装が間に合っていなかった要塞群は空から丸見えとなり、空襲によって指揮中枢や主要な要塞砲が破壊され、湾前にアレマニア艦隊が現れた頃にはその機能の大半が失われてしまっており、如何なる艦隊も寄せ付けないと言われたその威容は、瓦礫と統制のない散発的な砲撃という惨状を晒すことになっていた。
そのような要塞群は発砲すれば位置を暴露し、ただの的に成り下がり、ただアレマニア軍によって各個撃破されるだけでマトモな抵抗が出来ずに終わってしまう。
粕照は西方への玄関口として整備された巨大なふ頭、道路網を持っており、リーベン軍による破壊工作がなされる前にアレマニア海軍空挺部隊が迅速に要所を制圧するという事態が引き起こされ、その後も後手に回るリーベン軍の行動の結果、ほぼ無傷でアレマニア軍の手に渡る事になった。
そもそも、リーベンでは暮田島へ侵攻があるとすれば、防備がなされた粕照ではなく、長大な海岸線が広がる埴輪海岸であろうと考えていた。
埴輪は広い海岸線を有し、非常に上陸に適していた事も、上陸点としての可能性を押し上げ、ここが粕照の背後である事も上陸点であるとの考えを補強していた。
そうした考えから、リーベン軍は主に埴輪海岸、および粕照へ至る街道沿いを重点に防御を固めようとしていた。
その事もリーベンの対応が後手に回った理由だった。
ただ、アレマニアにも誤算はあった。
アレマニアは暮田島に配されたリーベン軍を騎兵と歩兵を中心とした旧態依然の軍隊だと考え、輸送を重視して軽装甲の車両を送り込んだのだが、実際には既に旧式の部類とは言え、戦車や対戦車砲、トラックが多く配備された機械化部隊であったことで、当初予定した1カ月以内での電撃占領という計画が大幅に狂う事になった。
アレマニアの予想では、まさにリーベンが策定した通りに、約1か月後に大規模な増援を擁する船団や艦隊が現れるとしていた。
実際にその通りになったのだが、計画では島を完全に占領下に置き、アレマニア艦隊を補足されることなく、一方的にリーベン艦隊を攻撃、撃破するとされていた。
しかし、現実には島の西半分しか占領できておらず、東部の有力な港湾をリーベンが保持したままであり、性能が劣るとはいえ、零戦は無視できるほど劣悪な性能ではなく、パイロットの技量次第で脅威となり、時間を経るごとにその数も、技量も増していった。
そうした中で行われた海戦は互角の状態で始まり、東方随一と称するその戦力と技量は本物だった。
アレマニア東方派遣艦隊だけでは圧倒できず、暮田島の戦いが長期化する事を暗示ような引き分けという結果となって終わった。
アレマニアは聖海においてゴール海軍とも対峙しているのであまりリーベンにばかり戦力を差し向ける訳にも行かず、なにより、リーベンの持つ33cm砲の威力を低く見積もりすぎていた。
自国こそ世界一という驕りが、自身に追随するだけの技術力を戦前に示していたリーベンを評価する目を曇らせていたのだろう。
そして、戦艦というモノは建造に2年ほどを要する。いくら戦時に戦力を増強したとしても、平時から整備された艦艇をわずか2年で一新する事は不可能であり、飛行機と違って戦艦や巡洋艦の性能に大きな開きは存在していなかった事が、引き分けという結果を生んだ理由であった事は間違いない。
アレマニアの計画ではリーベンが戦争体制を整える前に暮田島、そして伊豆見の眼前に浮かぶ気風路島を制圧し、陸の孤島である伊豆見を占領する事になっていた。
しかし、暮田島海戦で引き分けた事でその目論見は崩れ、更にはその事実を知ったルテニアがオルぺニアへと肩入れすることで、親ルテニアのオルぺニアが対岸である伊豆見へと介入すれば、アレマニアにとってはスヴェーアの二の舞になる事は明白となるので、より一層、暮田島から足抜け出来なくなっていくことになった。
しかし、後の歴史を知っていれば、それは単なる杞憂と笑い飛ばせるのだが、この時は誰もその事には気付いていなかった。いや、前兆を掴んだとしても、だからと言って目前の懸念を差し置いてまで足抜け出来たかと問われると、無理であった事は間違いない。
結果として、8月を迎えてもなお、暮田島での戦いは果てしなく続いていた。
アレマニアが海軍の優秀なパイロットを集めれば、当時のリーベン空軍ではまるで太刀打ちできなかったとはよく言われるが、アレマニア海軍の主敵は聖海においてはゴールであり、ゴール本国と南方領土の遮断こそ主たる任務であった。
その激戦地から優秀なパイロットを多数引き抜くなど、主要作戦に穴をあけるに等しく、出来る話では無かったし、必要とも考えられていなかった。
この状況の中、リーベンにおける次期戦闘機計画は、零戦の後継を神聖歴1920年/皇歴2005年までに就役させるというものであり、戦争に巻き込まれたことで前倒しをしてもあと2年は余裕がある。そう、アレマニアは考えていた。
しかし、リーベンにおいて零戦の後継機が就役したのは暮田島海戦から僅か1か月後、8月15日の事だった。
なぜここまで早かったのか。
それはリーベンの次期戦闘機計画に秘密があった。
リーベンにおいては、1916年時点において西方諸国では既に1500馬力級エンジンが出現しており、次期戦闘機就役時点では2000馬力近いだろうという事を見越し、零戦の3倍近い2100馬力を要求し、速度も650kmを下限とする野心的な要求を各社に提示していた。
当然だが、平時のリーベンにいきなりそんな機体を作り出す予算や技術などどこの社にもなく、零戦を送り出した菱形重工では紡錘形の機体と自社製の大型空冷星形エンジンを組み合わせた戦闘機を設計している処であり、いまだ実機など出来上がってすらいなかった。
ならば、どうやって後継機が出来上がったか?
零戦の後継機は菱形ではなく、エンジンを供給している仲治飛行機が開発していた。
仲治はこの時、零戦に積まれた空冷H型16気筒では出力限界が近い事を見越し、液令化へと舵を切り、試作液令エンジンによって1915年には1000馬力を達成し、更にエンジン自体を一から見直し、高回転化させた新型エンジンによって1916年には1250馬力を達成していた。
空軍の要求する2100馬力が現状では無理難題であり、失敗した時の保険として1450馬力エンジンを載せた機体を独自に開発し、ストップギャップとして提案していたのだが、アレマニアの暮田島侵攻でにわかに注目を集め、即座に採用が決まったのであった。
仲治では量産性を最優先にした設計を行い、菱形が精緻な技巧を駆使して製造している零戦の様な複雑な造形や手間のかかる工程などを一切排し、とにかく簡便な構造と強靭な主翼というコンセプトで機体開発が行われ、三式戦闘機として、10月には早くも暮田島に現れる様になる。
いきなり液冷エンジンを持ち込んでも整備が困難だと思われるが、実は零式大艇には既に液冷エンジンが採用されていた。
仲治はH型空冷エンジンとして中、小型機用16気筒と大型機用24気筒エンジンを開発していたのだが、川北航空の試作飛行艇(零式)へ空冷24気筒を供給したものの、1913年の飛行試験以前の段階でオーバーヒートが頻発し、1914年には採用自体が危ぶまれる状況であった。
しかし、仲治は急遽液冷エンジンを試作してオーバーヒート問題を無理やり解決し、エンジン選定を勝ち取っている。この時菱形の空冷星形エンジンが950馬力であったのに対し、仲治は液令化で一挙に1100馬力を獲得していた。16気筒の液令化も24気筒の成功によってはじめられたものであったと言って良い。