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キッカケは些細なモノ

 神聖歴1914年6月28日、エステリカ帝国西方、スルプラエにおいて皇太子夫妻がスルピヤ青年に暗殺されるという事件が勃発した。後に大戦争の発端として有名なスルプラエ事件である。


 スルプラエ市はさかのぼること10年前、エステリカとスルピヤとの戦争により、エステリカに併合された都市であり、当時は依然としてスルピヤ人による抵抗が多くみられる状態であった。


 しかし、皇太子夫妻はそんな街であるにもかかわらず、地方視察の一環としてスルプラエを訪れていた。


 当日、馬車で市内を視察して回っている最中、銃撃を受けたが、銃弾は馬車を外れて見物人に命中し、3人の負傷者を出す事件となった。


 夫妻は昼、病院へと見舞いに立ち寄り、その後、午後からの行事のため、再び馬車に乗り組んだのだが、本来警備が厳重である議会通りではなく、御者が道を誤り、市場街を抜ける道へと出てしまった。


 そこはたまたま暗殺に失敗した抵抗グループの逃避コースとなっており、馬車を見つけた暗殺チームの一人、ダニロ・タンコビッチは爆薬を抱えたまま馬車へと駆けだし、馬車に轢かれる形で自爆、馬車もろとも爆死して暗殺を達成することになった。


 後の裁判では爆薬を投げつけるつもりが勢いあまって轢かれたと行動を共にしていたメンバーらが証言しており、自爆であったか事故であったかは今も論争がある。


 いずれにしても必要以上の爆薬が爆発した事で馬車もダニロの遺体も原形をとどめないほどに破壊され、御者と皇太子夫妻も半ば四散してしまっていた。


 エステリカは事件直後、スルピヤに対し最後通牒を発し、暗殺グループや命令者の引き渡しなど10項目の要求を行ったが、スルピヤ側の回答は宣戦布告であった。


 それだけであれば長年の遺恨から引き起こされた地域紛争に過ぎなかったのだが、スルピヤやオルぺニアは聖海への出口であり、東方との結節点であることから、伸張著しいルテニア帝国が影響力を持とうとしている地域でもあった。


 その為、7月15日にルテニア帝国はスルピヤへの支援を表明するとともにエステリカ国境へと軍を動員し始める。


 その動きに対してエステリカと同盟関係にあったアレマニア連邦はルテニアと国境を接する北方地域、北洋において動員を開始してスルピヤ支援を止めるように警告を行った。


 その間、エステリカとスルピヤの戦争は一進一退を繰り返しており、簡単に勝敗が付くようなものではなく、エステリカは周辺国への影響も考慮して大規模動員を行っていなかった。


 しかし、ルテニアの行動に対してエステリカは17日に部分動員を開始、それを知ったルテニアもエステリカ国境のある西方に動員令を発し、国境へと続々と軍の配置を行っていく。


 この事態にアレマニアはゴール共和国やアルピオス連合と言った他の西方列強も交えた事態打開を模索し始めるのだが、アレマニアの聖海権益や東方交易路独占を快く思わないゴール、アルピオスはルテニアの主張する「平和維持」に賛同し、アレマニアの調停案とルテニアの動員解除要求を拒否する姿勢をとる。


 俗に7月危機ともいわれたこの外交交渉は8月1日には瓦解し、アレマニア連邦は軍をゴール共和国へと向かわせることになった。


 アレマニアは西方列強の中でも特に重工業の盛んな国であり、東方から得た知識や技術も取り込み、西方最強と謳われた軍事力を有していた。


 俗に一月戦争とも呼ばれるゴール侵攻作戦は航空機と自動車、鉄道を用いて迅速に行われ、後に電撃作戦と呼ばれることになった。


 侵攻を受けたゴールは防衛体制が整う前にアレマニア軍が国境を越え、すべての対応が後手に回る中で各個撃破されていくことになる。

 アレマニアによるゴールへの宣戦布告を受けて艦隊の準備を始めたアルピオス海軍が出港した頃には、ゴール共和国北洋沿岸をアレマニア軍が駆け抜けた後だった。


 アレマニア軍はアルピオス海峡へは向かわず、海峡手前で大回頭するとゴール共和国の首都、リュテスへと一路南下して行った。


 9月10日にはアレマニア軍先鋒はリュテスに達し、未だ防衛線すら構築できていなかったリュテス市街の包囲が12日にはおおむね完了してしまう。


 その間も情報が錯綜してゴール政府首脳陣はリュテスを脱出する時間を失い、無防備都市宣言と降伏を同時に宣言するしか方策が存在していなかった。


 アレマニアはゴールの降伏を受けて軍を東へと回頭させ、10月2日には小競り合いが始まっていたルテニア国境を超えることになった。


 この当時、アルピオスは戦争の名分をほぼ喪失しており、これと言った交戦もせずにただ北洋で艦隊を遊弋させるだけであった。


 11月に入るとアルピオスはアレマニアと単独で停戦交渉をはじめ、ルテニアから抗議を受ける様になる。

 この頃、アレマニア外相は戦争は聖再誕祭(12月22日)までに終わると有名なコメントを記者に語っていた。


 しかし、11月12日、聖海を渡り、ゴール南方領土へと逃れていたシャー・ド・シールがゴール南部へと再上陸を果たし、ゴール再建宣言を発した事で事態は一変する。


 アルピオスは停戦交渉を破棄し、アレマニアはルテニア戦線から多くの兵力を再びゴールへと差し向けることになった。


 本来であれば、10月24日にスルピヤを蹂躙し終えたエステリカがルテニアへの総侵攻を11月初旬に開始したのだが、彼らは20kmほど国境を越えたスルプチ川で停止して動くことは無かった。


 ここより東方には穀倉地帯が広がっているのだが、当時のルテニアでは主食の黒パンの原料である黒麦の疫病が蔓延し、すでに3年近い不作に見舞われていた。

 黒麦を主要穀物とするエステリカは病気の拡散を恐れて穀倉地帯に足を踏み入れることを躊躇った。


 そして、青田刈りよろしく種まきが終った畑へと砲爆撃を繰り返し、穀物倉庫と思しき建物を焼夷弾攻撃して回るという作戦を展開している。

 当然だが、ルテニア人が自軍方面へ逃避してくることを拒み、射殺するか東方や北方へと誘導していた。

 こうしてルテニアの穀倉地帯サルマからは人が消え、麦を育てる者もおらず、戦線が維持された翌年も種を播くことなく終わってしまう。


 しかし、それが黒麦病には好結果をもたらし、1917年に久々に種蒔きが行われた黒麦は翌年初夏には大豊作となり、黒麦には輪作と休耕が必要という知見が得られる契機となっている。閑話休題


 結局、聖再誕祭に戦争が終わることは無く、ルテニア帝国の国内、ゴール共和国中部での戦闘が続けられることとなった。


 その戦いは1916年も変わらず続けられていたが、ルテニアは突如としてアレマニアの鉄鉱供給地であるスヴェーア王国へと侵攻し、鉱山地帯を占領してしまう。

 スヴェーアは中立国であり、あくまで中立条約の範囲内での貿易を行っていたに過ぎなかったが、ルテニア海軍北洋艦隊が壊滅する海戦が生起した事をきっかけとして、アレマニアの継戦能力を削ぐ手段に打って出たと言える。


 確かにスヴェーアは鉄鉱供給地ではあったが、エステリカ帝国にも資源地帯が存在し、品質さえ気にしなければ全く問題とはならなかった。


 しかし、アレマニアはルテニア海軍こそ下したもものの、自身はアルピオスによって艦隊の半分を沈められるという事態に陥り、スヴェーアに替わる良質な鉄鉱供給地を求めることになった。


 スヴェーア鉱並の品位を求めたアレマニアは、東方と西方に結節点であり、資源の宝庫と言われるリーベン皇国西部、伊豆見鉄山の占領をもくろみ、オルべニアとリーベンの間にあるリーベン海へと艦隊を進めた。


 リーベン海はアルマニア南方から聖海を西進すれば良いので、何の苦労も無かった。


 アレマニアは聖海とリーベン海を隔てる暮田諸島攻略を始める。時に神聖歴1917年6月25日。荒れることの多いリーベン海が唯一静まる初夏にその戦いは始められることになった。

 

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