何者か。
「やるなぁ、嬢ちゃん。容赦がねぇ」
イグニスは楽しそうに笑う。本当に戦うのが好きなようだ。それだけ強ければ楽しくもなるか。
「俺達も負けていられない」
辺りを飛び回るワイバーンの首を落とし、アーサーの方を向く。そこには苦しそうに口元を押さえる彼の姿があった。
「アーサー!」
「……大丈夫です」
こちらに来る必要はない、と手の平を見せたアーサー。大丈夫そうには見えない。
彼がやけにピリピリしていたのはこれが原因か。火が……特に大きな火が、アーサーはとにかく嫌いだ。戦闘において必要なことなら耐えられる、と本人は言っていたが、それでも思い出す何かがあるのだろう。
明かりを確保するときも、火魔法ではなく雷魔法を使っていた。これは騎士だった頃から、アーサーと共に行動するときはずっとそうだった。万が一にも火災に繋がっては精神をまともに保てない、とか……。
「今は戦闘中です。どうか私に構わないでください」
ふらふらと立ち上がり、ぞんざいに大剣を振るう。しっかりワイバーンを倒していく様子は大丈夫そうにも見えるが、やはり顔色は悪い。
「だが──いや、そうだな」
いいと言うなら構うまい。戦いの最中に余所見をしていては俺の方が命を落としてしまう。集中だ。集中しなければ。
「人間如きが私に刃を向けるなど……驕るのも程々にしろ!」
ヴィーヴルは大きな尾を振るった。遠慮も容赦もなく薙ぎ払われた冒険者は、言葉にならない叫び声をあげながら宙に投げ出され、地面に叩きつけられてしまう。積もっている雪が衝撃を緩和したものの、簡単に立てる様子はない。
開かれたヴィーヴルの口からは強烈な冷気が吐き出された。辺りを一瞬で凍らせる極寒。息をするだけで鼻が、口が、喉が痛くなる。指先から全てが凍結するかのようで、わずかに体を動かしただけで軋むような嫌な音がした。
「体が、動かない……!」
ダメ押しだと言わんばかりに、強靭な爪を持つ腕は、短いながらも冒険者に伸ばされる。あの巨体であるにもかかわらず、とても反応できる速度ではない。
事実、標的となった冒険者には叫ぶことしかできなかった。
炎など、とっくに消えていた。
「うわぁあああっ!」
「落ち着けよ──“背を向けろ、タラスク”!」
半狂乱の冒険者の前に防御壁が張られる。ヴィーヴルの爪は壁に弾かれ届くことは無かった。
ならばと伸ばされた先にも壁、ならばこちらへ、ならば、ならば──。だがどれも、爪は届かない。いや、俺の目視で確認できるのは、爪が防御壁に当たったときの、嫌な音と光だけだった。しかし何が起きているのかは想像に難くない。
イグニスの防御壁は、ことごとくヴィーヴルの爪の先回りをしている。
「竜を使役して高位の存在にでもなったつもりか、人間」
「使役だなんてとんでもねぇ。ただ力を借りるだけさ」
ヴィーヴルに睨まれても、イグニスは当然のように立ち続けた。しっかりと、牙や寒さなどに怯えずに、その足で立ち続けていた。
「本当に……誇り高き竜も落ちぶれたものだ」
女王は、つまらなそうに呟く。また体が動いて、別の誰かを標的にした。
一瞬のことだ。逃げる間もなく術士の体は引き裂かれた。真っ赤に花開き、真っ白な雪を染めた。イグニスの盾はわずかに間に合わず、ひとつふたつと花は増えていく。幻覚を見ているようなやけに浮いて見える光景だった。
ヴィーヴルはイグニスを見やった。
見ただけだ。しかしその視線には、確かに軽蔑が含まれていた。
「クソったれ……!」
何度も尾を暴れさせる。
何度も冷気を吐き出す。
何度も人間を引き裂く。
盾を掲げるのが早いか、爪が早いか。勝負は五分……いや、イグニスが確実に勝っている。しかし無事に守られることもあれば、呆気なく血に染まることも確かにあった。
それをややしばらく繰り返して爪はいよいよ俺を向く。鋭い爪は禍々しく光った。
まずい、動きたくても動けない。ヴィーヴルはこちらを真っ直ぐに見ている。恐ろしい赤銅色の瞳と、無機質なガーネットをこちらに向けている。
「“タラスク”ッ!」
俺とヴィーヴルの間に、強固な盾が築かれる。半透明、六角形の“タラスク”による防御壁はどんな盾より盾らしい。
しかし、その爪が振り下ろされることはなかった。ヴィーヴルはこちらを見たまま、訝しげに口を開く。
「──貴様は何者だ」
それは……俺に、言っているのか?
「早く答えよ。貴様は何者だ」
“タラスク”の盾に一本の爪を立て、確かに俺を指す。
呆気にとられた。巨大な手が目の前にあることよりも、何者かと問われたことに対して、だ。
何と答えるべきか逡巡した。元騎士、旅人、冒険者……答えようはいくらでもある。それなのにどれもが違う気がした。きっと、今この場で答えるのはそういうことじゃない。だが、何と答えたらいいのだ。何者でもないのに。俺は、今は、
「ギルバート。ただの、人間だ」
「……人間?」
ヴィーヴルは興味をなくしたように「知らぬ名だ」と呟く。そして触れていた盾をこともなげに砕いた。
「なっ……」
「我が領域に踏み入ったからには始末する。生かしておくと面倒だ」
伸ばされる手。俺の体を簡単に包み込めるこの手なら、握り潰すことなど造作もない。人生、こんな簡単に終わるもんか?
「──“竜神術・シュッツガイスト三式”」
ふわりと風を感じた。目の前では真紅のマントが大きくはためいていた。わずかに光る盾を携え、かの要塞は凛として詠唱を響かせる。
「──“黄金の果実が盗られるぞ、ラードーン”」
竜人の盾が火を噴いて、いくつもの束となりゆらゆらと揺れる。蛇の大軍のようなそれは、牙を剥きながらやけに警戒するように頭を動かす。
やがて全ての視線がヴィーヴルに注がれた。敵意を露わにし、無数の頭部は広がりを見せ、伸ばされるヴィーヴルの腕をぱくりと包み込んだ。鱗と肉の焼ける嫌な音がする。
「邪魔をするな!」
女王は腕を引き抜こうとした。次の攻撃を仕掛けるつもりなのだろう。
しかしびくともしない。固く縛られているように、全く動かない。ただの火に包まれているだけなのに──いや、ドラグーンの術をただの火と称するのは、あまりに軽視している。
「無駄だ。ラードーンはアンタを逃がしはしない」
イグニスは盾をかざしたまま、首だけで少し振り返った。
「早く戦え。これからがいいところだぜ」
あぁ、という短い返事もせずに、俺は弾かれたように刀を振りかぶった。あれほど固まっていた体がすっかり温かくなっている。
辺りはまだ寒い。冷気が頬に貼り付いて、手足に絡みついて離れない。それでも動ける。
「──動ける奴は火を放て! 槍を刺して剣で斬れ! これ以上は死なせるかよ。俺が! 護りきってやるッ!」
気魄、鬼気迫る形相。彼にはそんな言葉が似合う。黎明だとか要塞だとか、大袈裟な称号は伊達じゃない。
しかし、その後にぽつりと呟かれた小さな言葉も、俺は聞いた。聞いてしまった。
「情けねぇ……」
盾の炎は姿を消し、焼け焦げたヴィーヴルの腕が残った。凶悪な爪も強固な鱗も無残な黒い炭となってしまっている。腕だけとは言え、ダメージは小さくない。とてもじゃないが動かすことはできないだろう。
イグニスはまた盾をかざし銃を持ち上げては、腹の底から吼える。まるでそこに巨大な竜がいるかのような威圧感があった。たった一人の人間なのに、だ。
それを見た冒険者は、立ち上がる。
「立て!」
「死んでたまるか!」
「あぁ、やるしかない!」
半ば戦意喪失していた彼らは、一転して火柱をあげた。ヴィーヴルより先にこちらの体力がなくなりそうなこの状況で、それでも気力をもたせているのは、他でもないイグニスだ。
かの要塞が吼えたのなら、やってやると叫んだなら、こっちは竜の盾を信じるしかない。会って間もない人物とは言え、信用に足る冒険者であることは……あぁ、きっと、間違いないのだから。
そして俺達が矛となるのだ。ヴィーヴルの首を獲るために。生きて帰るために。仲間の死に報いるために。
「何者かに、なるために……」




