お礼をさせてください。
俺は小さく溜め息をついて、頬を拭った。痛みは全くない。いつ何番目の奴にやられたんだか。
横を見ると、女性はまだ座り込んでいた。シリウスが彼女の前に立っていて、心做しか胸を張っているように見える。守っていたつもりなんだろうな。大きさは子犬だから、大した壁にはなっていないが。
近づくと、女性が体を強ばらせるのが分かった。しかしあまり気にしないようにして、目線を下げながら手を差し出した。
「怪我はありませんか?」
「ない、です」
おずおずと手を取り、立ち上がった女性。並んでみると俺よりもずいぶん背が小さい。ちょうど俺の肩くらいか……。
女性というよりは、子供? いや、俺はアーサーに比べて少しばかり小さいってだけで、身長自体は高い方だ。それを含めると、彼女も別に小柄というほどではないな。だいたい平均的な体格だろう。
「あ、ありがとうございます……」
「礼を言うなら、こいつに。俺達は、こいつを追いかけてここに辿りついただけですから」
「アゥ」
俺に抱き上げられたシリウスは、とても小さく吠えた。女性はシリウスの頭を軽く撫でる。
この狼は、アネモネの件もあるから警戒心は強い方かと思っていたが、わりと誰にでも撫でさせるし尻尾は振るし、あまり吠えることもなく人懐っこい。誰彼構わず噛み付くよりよっぽどいいが、いつか連れ去られないかと心配だ。
「では、俺達はこれで」
「待って!」
呼び止められ、わずかに振り返った。フードの中の、宝石のような紫の瞳と視線が交わり、時が止まったように誰も喋らない。引き止めた彼女でさえ。不思議に思って首を傾げると、彼女はあからさまに目を泳がせた。
「あっ……え、っと、お、お礼を! お礼をさせてください!」
「お礼……」
俺達は宿探しもある。全く空きがないこともないのだろうし、好条件な宿を求めているわけでもないが、やはりそれなりの場所でないとな……。少しでも早く見つけたいところだ。
そもそも、礼をされるほどのことでもない。
「いえ、当然のことをしたまでです。ありがたいですが、俺達は宿を見つけなればいけません」
「宿ならあります! 私が泊まっているところ、まだ空き部屋がたくさんあるみたいです!」
「そう、なんですか」
「はい!」
おどおどしていた様子が一変し、やけに力んだ様子でぐいぐい迫ってくる。あまりの押しの強さに断りきれず、俺達は彼女へとついていった。
路地裏から歩いて十分ほどだろうか。辿りついたのはこじんまりとした佇まいの、小さな宿だった。
一般的な宿は少なくとも三階まではあり、部屋も手狭ながら十室近くあったりする。大規模な高級宿だと豪邸のような建物になって、廊下の端から端までがとんでもない長さになったりもする。貴族の娯楽施設に過ぎないので、貧乏な俺は一度も泊まったことはない。
この宿は二階建て。一見するとただの民家に見えるほどの小ささである。しかし中は綺麗で、ところどころに花が生けてあった。……悪いところでは、なさそうだな。宿の主人はどこだ?
「エルさん、帰ったの?」
「はい。お客さん連れてきました!」
「あらあらまぁ! ハンサムなお兄さん方に、可愛いわんちゃんだこと!」
現れたのは、杖をついた白髪頭のご婦人だった。端的に言えばお婆さんだ。どうやら彼女がこの宿の主人らしい。ご婦人は杖をつくわりには、しっかりとした足取りでこちらに歩み寄った。その手には宿帳が握られている。
ここまで来た以上は泊まるしかない。それに、何だかとてもいい宿に思える。アーサーも構わないらしく、ご婦人の手から宿帳を受け取った。俺達をここまで連れてきた女性……エルは、いつの間にか居なくなっていた。
「お兄さん、エルさんとはどういう知り合い?」
「今日が初対面です」
「そう……あのね……うーん……」
ご婦人は少し言い淀んだが、内緒話をするように小さく囁いた。
「あの子は、悩み事が多いみたいなの。ここには一人で泊まってるし、良かったら仲良くしてあげてくださいね」
「……はい、できる限りは」
主人の意図は分からなかった。しかし、どちらにせよ彼女に害を為すつもりはない。だからといって特別親しくなろうとも思ってはいないのだが。
「書けました。これでよろしいでしょうか」
「ばっちりよ。じゃあ部屋は二階の一番奥。これ鍵ね」
「お世話になります」
「アォンッ」
軽く礼をして部屋に向かう。指定された部屋の扉に手をかけると軋んで音が鳴った。大丈夫か。
中にはベッドが二つ、その間にサイドテーブルが一つ。小さな棚には本が何冊か置いてある。どうやら小説のようだ。決して広くはないが、この部屋にも花が飾ってあってわずかに香りが漂う。ずいぶんと丁寧に扱われている宿だ。寝泊まりするだけの場所だが、ここにして良かったかもしれない。
「さて、どうする? 街でも見てくるか?」
「そうですね。時間はありますし、何か道具を買うのも良いかと」
アーサーは棚の本を手に取りベッドに座った。部屋の番をしてくれるそうだ。荷物には盗られても特に支障はないものばかりだし部屋の鍵もかけられるのだから、別に見張りなんか必要ない。
しかし、これも体に染み付いた癖。野外で寝る時や荷物を置いている場所では必ず見張りを立て、油断はしない。今でこそ屋内で寝る時は見張り番はしないけれど。
すぐ戻る、と声をかけ部屋を出た。シリウスは俺のベッドに堂々と横たわっていた。
部屋の外には先程のエルという女性が立っている。相変わらずフードを深く被っていたが、姿を見るなりぱっと笑顔になったのが分かった。
「あっ! お待ちしてました!」
「わざわざ? そんなことしなくても……」
「アゥッ!」
シリウスが部屋から飛び出し、女性の胸元に飛び込んだ。……尻尾振りやがって。
「わっ……ちゃんとお礼をしたいんです。ねっ」
「アォン」
「シリウス、こっち来い」
「クゥン……」
俺が抱き上げると、四肢をだらりとさせてされるがままになっていた。お前、本当は強いし大きいんだから、いたいけな子犬のフリをするな。
直後、部屋からアーサーが出てきた。シリウスを追いかけてきたようだ。いくら何でもシリウスを一匹で歩かせるのは危ないから。恐らく読書に集中していて、気付くのが遅くなったのだろう。
「申し訳ありません、シリウスは……」
「ここで大人しくしてるから大丈夫だ」
アーサーも来たし、話の続きでもしよう。メンツは全員揃っていた方がいいだろうからな。
「礼は、宿を紹介してくれただけで十分です。俺達は二日後にギルドの依頼で山岳地帯に向かうんです。その準備もありますので」
「依頼? 二日後? それって、ドラゴンの群れのレイドですか?」
「……はい、そうですが」
何で知っているんだろうか。依頼人なのか? いや、多額の報酬を支払える依頼人が、わざわざ宿に泊まったりはしないだろう。じゃあ……とても戦える力があるようには見えないが……まさか。
「私も、そのレイドに参加するんです。──こう見えて、魔法がとっても得意なので」
「あー……人は見かけによらないんですね」
「ギルバートさん、それは……」
か弱い少女にしか見えないが、冒険者として活動できるほどの力を持つとは意外だ。ローズル・ラノスが少年の姿をしていても強いように、見た目だけで判断するのは良くないと分かってはいるつもりだが、思わず本音が漏れてしまった。
彼女は何も答えず、目を伏せた。
「い、いや! 悪い! 悪かった、忘れてくれ!」
うつむいた様子を見て、とても失礼なことを言ったと思いすぐに謝った。アーサーからは女性を泣かせた、なんて奴だと言わんばかりの冷たい視線。しかし顔をあげた彼女が浮かべる表情は怒りや悲しみなどではなく、どちらかというと──
「……そんなこと言われるの、初めてです」
──喜び、だった。
「そう、ですか」
……まぁ、そうだろうな。
「じゃあ、じゃあ、お礼はまたの機会にして、お食事はどうですか? 同じレイドに参加するなら、親交を深めるのもいいですよね?」
「私は構いませんよ。ギルバートさんはいかがです?」
「それくらいなら」
俺が頷くのを見た少女は、「オススメのお店があります!」と意気揚々と歩き出した。




