日常。
始まりはきっと、勇者召喚の日だ。毎年行われていた勇者召喚の儀式があの日やっと成功した。召喚された勇者はたった十八歳の青年で、その顔つきから平和な世界で暮らしていたんだろうということが伺えた。
俺はあの時まだ王国騎士団のしがない騎士だった。どんな役職に就いていたわけではないが、腕には自信があったし実際に貢献もできていたと思う。周りからも「お前ほど活躍する騎士がどうして出世しないのか不思議だよ」なんて言われるほどには。
父は俺が騎士団に入るずっと前に亡くなっていたが、生前の父もその王国騎士団で活躍していたから、余計に責任感は備わっていたんだろう。おかげで街の人々からも信頼されるような、立派な騎士として誇りを持てていた。
……あぁ、痛い。腹からたっぷりと血が出ているのが分かる。腕も足もズタズタに斬られ全く力が入らず、動かすことなんて少しもできない。かろうじて動く首を横に向けると、見知った顔がこちらを向いていた。暗く濁った目、赤く染まった服、投げ出された四肢。それら全てが一つの事実を物語っていた。
──俺達は負けたんだ。
意識が遠のく。人間は、どれほどの血を流せば死に至るのだったか。もうとっくにそれだけの量を出し切っているんじゃないのか。もう息をするだけで苦しい。視界がぼやける。きっと俺はこのまま眠るように死んでいくのだ。
……いや、それは、この男が許してはくれないだろうか。
「無様だなぁ」
目の前の男は剣を振りかぶって嗤う。……楽しそうだな。そうやって、俺の仲間も、殺したんだな。
許さない。許さない。この苦しみを無駄にはしない。例えここで情けなく殺されたとしても、お前だけは絶対に許さない!
「いまに、みてろ……おれ、が、おまえを……こ、ろす」
「息も絶え絶えの奴が何言ってるんだ?」
哀れだ、と男は首を振った。
「お前が勇者なんて、最初から無理だったんだよ」
ぐさり、と深く刺された剣に目を見開いて、声にならない声をあげる。ぐちゃぐちゃの体の底から血が込み上げて、口からごぽごぽと溢れた。
最後に目にしたのは、黒い髪を掻きあげて紅い目をギラギラ輝かせた、忌々しい嘲笑だった。
◇
「っあああぁっ!」
何度目か分からない夢を見た。吐き気がするような生々しさ。夢の中での俺はいつも同じことを考えていて、いつも同じ状況に陥っていて、いつも同じ人間に同じことを言われる。
その度に飛び起きて自分の腹を確認するが……大丈夫、怪我はない。
──ギルバート・シュヴァリエ。オルディネ王国騎士団に所属する誇り高い騎士。十六で騎士団に入ってもう八年になるか。その間、死地に向かったことは数えきれないほどある。これまで生きてこられたのは幸運であるとしか言いようがない。
それなのに俺は、悪夢なんかにうなされて勝てない嫌悪感と戦っていた。こればっかりは慣れないのだ。モンスターは倒せば終わる。だがこの悪夢は……どうしようもない。
汗を拭って制服に着替えた。二、三年前からだったろうか、この惨い夢を見るようになった。それも制服に着替えれば自然と気持ちが切り替わり、多少は気にならなくなる。騎士は死と隣合わせ……それ故に制服一つで死ぬ覚悟ができるんだというなら単純というか、我ながら仕事人間にも程があるだろう。
軽く身なりを整え最後にマントを羽織る。悪夢にうなされることもない。ここではただの忠誠を誓う騎士となる。まぁ王国騎士は、特段誰かに忠誠を誓っているわけではないのだが。
部屋を出たところで隣室から人が出てきた。その人物は俺の顔を見るなり眉を下げる。
「また、ですか」
「……あぁ、だが問題ない。もう慣れた」
「慣れた人間が叫びながら飛び起きるものですか」
そう言って苦笑いをしたのはアーサー・ウォルフ、俺の後輩だ。俺より三歳ほど年下だが、目覚ましい成長により既に俺の一つ下の階級になっている。普通はそこまで上がるのに六年はかかる。それを彼は半分以下の時間で上り詰めた。彼の努力は並大抵ではないがそれ以前に天性の才能があるとも思う。
夢のことを知っているのは一応アーサー卿だけだ。本当ならいい歳した男が悪夢にうなされているなんてこと知られたくはないが、初めて夢を見たのが彼と二人きりでの任務の最中だった。そのときは今以上に思い切り叫んでしまったものだから、「何を見たのか」と食い下がるアーサー卿に、夢のことを話さざるを得なくなってしまったのだ。
何故そんなにも知りたがったのかは分からない。しかし後にも先にも俺の夢のことを知るのは彼だけだろう。同僚達は度々叫ぶ俺に訝しげな視線を送るだけで「何故叫ぶのか」と理由を問いただすことはなかった。一年も経った頃には慣れたようで、この時期は防音の魔法を部屋にかけるようになったらしい。
申し訳ないとは思っているんだが、どうしても叫ぶことは耐えられなくて……。
「一段とうるさい叫び声でしたよ」
皮肉のように言うアーサー卿に対し、俺は少しイラつきながら返した。
「当たり前だろう。今年もまたこの日が来たんだからな」
暖かくなり雪解けを終え、花々が咲き誇る頃。俺はこの季節が大嫌いだ。原因はたった一つの明白なこと。
「勇者召喚の儀式……」
口に出すだけで吐き気がする。あまりのつらさに俺はしかめっ面を抑えることができなかった。
今日は年に一度の儀式の日。毎年決まった日に行われるそれを、俺はとにかく嫌っていた。
儀式自体は構わない。勇者召喚も大切なことだ。だがこの日が近付くにつれ夢の頻度が上がるのが嫌で仕方ない。死ぬのが怖いなんて言わないにしろ、夢は見たくなかった。死の経験は一回でいいだろう。
「外が賑やかですね」
「そうだな。今年もまた祭りを開くらしい」
廊下の窓から外を覗くと、遠くに見える大通りにはたくさんの出店が並び、人々が慌ただしく駆けているのが見える。室内に居ても聞こえるほどの笑い声や、準備中の店主の怒鳴り声が飛び交っていた。
いつもの朝ならこんなに騒がしくはない。しかし今日は特別な日だ。街がこうも様変わりするのは仕方ない。
「呑気で羨ましいな」
「その呑気を維持するのが我々の仕事です」
「言うじゃないか」
確かにそう考えると悪い気分じゃない。
俺はアーサー卿を置いて歩き出した。彼は何も言わず同行してくる。別に不快だとも何とも思わない。懐かれているのかは分からないが、少なくとも俺は彼とは気兼ねなく話せる。あまり人付き合いは得意じゃないのに不思議だ。仕事で顔を合わせることが多いから、ってのはあるかもな。
宿舎の出入り口を見張る騎士に挨拶をし、宿舎を出て大通りに進む。祭りは始まっていないのに、ほんのりいい香りがした。まだ朝食を摂っていない人間にはとても魅力的な匂いだ。
「ギルバート! 来てくれたのかい?」
「見回りです。いつもしていることですから」
嬉しそうに話しかけてきた顔馴染みのご婦人は、俺の返答に、「ただの散歩だろう?」と笑う。確かに散歩とも言える。幼い頃からの癖で毎朝早く起きてしまうから、暇を持て余すのだ。悪いことじゃないだろう。
ご婦人は小さく唸る俺に大きなトマトを差し出した。彼女が育てた自慢の野菜だそうだ。今貰っても困るとは思ったが、せっかくの厚意を無駄にはできない。それに彼女が育てる野菜はだいたい美味い。だからありがたく受け取っておくことにした。アーサー卿にも渡すつもりだったようだが、彼はトマトが苦手だとかで、丁重にお断りしていた。
「それにしても今年も盛り上がりそうですね」
「そりゃそうさ! 今日は年に一回のお祭りの日でしょ。みんなこのために準備してきたからね。全力出すわよ!」
勇者召喚祭、なんて名前をつけられたこの祭りは、その名の通り儀式の日に行われている。厳かな雰囲気なのは神殿の中だけ。街はお祭り騒ぎで呑んで食って酔いつぶれ、真面目な俺達が馬鹿らしくなってしまうくらいだ。ちょっと羨ましいよ。
「魔王だか何だか知らないけど、こんだけ楽しい祭りができるのも勇者のおかげさね」
勇者様サマだよ! と笑うご婦人。確かに大々的な祭りは勇者召喚祭くらいだ。たった一日しかないが。
──魔王が復活すると予言されたのはおよそ百年前。記録によればその当時から欠かさず召喚の儀式を行なっている。しかしこれまで一度だって勇者の影すら目にしたことなどなく、街の住人だけでなく儀式に関わる俺達にも、勇者の存在は現実味がない。こんな平和な祭りが恒例となるのも頷ける。
そもそも、そもそも。どういう理屈で勇者が召喚されるのかは知らないが、どこのどんな人間が勇者なのか名前も姿も分からないのに、むしろ何故召喚が成功するというのか。甚だ疑問である。いつの勇者召喚もそうやって、どこの誰だか一切の情報がない勇者を召喚したのだろうか。
「俺は祭りに参加できないですが、今年も盛り上がることを祈っています」
「ありがとうね。ギルバートも無事に帰ってくるんだよ」
穏やかな笑顔で手を振る彼女に、似ても似つかない母の存在を思い出す。村を出てから一度も会っていないし、多忙な毎日で母のことを思い出すのも極わずか。遠い昔の記憶しかないものの、こうやって見送ってくれたことは覚えている。なんとなく懐かしくなって、柄にもなく寂しさを感じた。
俺は怪我するようなことはしないですよ、と返し軽く礼をして、宿舎への道に戻った。儀式の護衛はオルディネ王国騎士団が務める。時間に遅れることは許されないし、失敗は死に繋がる。全てを成功させるには……まずは腹ごしらえだ。