最後の仕事
苦し気な彼女の咳が止まらない。
「大丈夫?」
訊いた私に「うん。大丈夫」と答えた彼女の唇は紫色で、顔は土気色だった。化粧をする力はもう彼女にはない。紅をさす力さえも。
そして私は、彼女を心配するふりをして、彼女が死ぬのをただ待っている。
私がここに来たのは3ヶ月前のことだ。
「あなたはどこから来たの?」
インターホンを鳴らした私に、インターホン越しに彼女はそう尋ねた。コホコホッと咳をする音が聞こえた。
「事情があって言えないんだ」
嘘をつけない私はそう答えた。彼女がひとりなのを私は知っている。流石に入れてもらうのは無理かと思ったが、意外なことに小さな笑い声が聞こえ、ドアのロックが外される音が響いた。
「どうして入れてくれたの?」
「あなたの答えが気に入ったから」
さりげなくごみ箱を片付けながら彼女が答える。
「ねぇ。どこから来たかは言わなくてもいいけど、名前ぐらいは教えてもらえる?」
「悪いけど、それも教えられないんだ」
「ふーん」
僅かに首を傾げ、彼女が私を見上げる。金色の短い髪が肩の上で揺れ、秋の空に似た青い瞳が私の心の奥まで覗き込んでくる。
「でも、悪い人には見えないわね」
「それは」
と私は優しく言った。
「保証するよ」
「いいわ」
彼女が身体を起こす。足元が僅かにふらつき、彼女の頬に苦笑を浮かぶ。ここに至っても尚、弱った自分を笑う心の余裕が、彼女にはあった。
「ちょうどあたしひとりになったところだったし、食料は十分にあるわ。あなたが居たいだけここに居てもいいわよ」
短く彼女が考える。
そして、
「よろしくね。名無しさん」
とまっすぐ私を見つめて彼女は笑った。
「ひとりになったところって、他の人たちはどこへ行ったの?」
「家族のところよ」
何でもないことのように彼女が答える。
去っていった他の人たちのうち、一番の年配者である初老の男は、「夕食は必ず一緒にというのが妻との結婚当初からの約束でね」と言ってビルを後にした。彼の妻がすでに亡くなっていることを誰もが知っていたが、誰もが「奥さまにによろしくね」と笑って男を送り出した。
「わたしがここに残ります」
と言った彼女に、「それじゃあ悪いけどお願いするわ」と言って出て行った同僚も彼女も、もう再会することはないだろうと知ってはいたが、誰もが「またね」と笑顔で別れた。
出て行った誰もが、薬を持っていた。
苦しむことなく死ねる薬を。
私が部屋に入った時にさりげなく彼女が片付けたゴミ箱。そのゴミ箱にも同じ薬が捨てられている。
ひとりになるとすぐに彼女は薬を捨てた。
それは必ず最後まで仕事をやり遂げるという彼女の強い意思表示だと、私は、私たちは、全員が知っていた。
核攻撃にも耐えられるように設計されたというのは都市伝説だとしても、分散型ネットワークとして設計されたインターネットは今も稼働している。
彼女の仕事は毎日、パソコンを立ち上げ、メールをチェックすることだ。
ツイッターやブログを覗くことはしない。そこにあるのは、救われることのない絶望だけだからだ。
メールをチェックした後、彼女は世界中の研究所にメールを送る。
次にビルの裏口の扉を映すモニターを確認する。
誰かがそこに倒れていないか。大事な知らせが、そこで待っていないか。そして虚しいため息だけを落とす。
それが彼女のルーティーンだった。
けれどいまはもう、彼女はため息すら落とせない。
「ねぇ、名無しさん」
ある日、私は彼女に呼ばれた。自力ではベッドから起き上がることさえできなくなった彼女に。
「外を見てみたいの。悪いけれど、屋上に連れて行ってもらえないかしら」
「喜んで」
もはや羽毛のように軽い彼女を抱き上げ、私はエレベーターに乗った。屋上に続く扉の前で、彼女に指示されるまま暗証番号を押し、機械式の鍵を回す。
夕刻。絵具でもぶちまけたかのように、街は赤く、荒々しく染まっていた。動くものは何もない。何も。
冷たい風以外には。
「誰か奏でてくれるかな」
不意に細くかすれた声で彼女が言った。
「何を?」
「レクイエム。あたしたちの。人類の」
「奏でてくれるよ。必ず」
「本当に?」
「私は嘘は言わない」
私の腕の中で彼女が微笑む。
「そうね」
と呟いた彼女はとても穏やかで、少しだけ幸せそうに見えた。
誰が想像しただろうか。
こんなふうに人類が滅んでしまうと。
1年前。
某独裁国家の、隔離施設とは名ばかりの研究所で生物兵器が作られ、流出した。しかも彼らは生物兵器なら最低限必要なワクチンさえ開発していなかった。
6か月前。
某国の独裁者が死んだ。
彼自身が開発させた生物兵器で。
人類はその時になってようやく自分たちが死の瀬戸際にいるのだと気づいたが、すでに手遅れだった。
私たちがいるのは某独裁国家からは遠く離れた小さな国の地方都市にあるビルの3階だ。ソーラーパネルと蓄電池を備えた自家発電装置があり、ありふれた外観のために略奪の恐れもないからと彼女はここにひとりで残った。
ただ死を待つためではなく。
彼女が成すべきことを成すために。
***
室内にいてもはっきりと聞こえる激しい雨の音に、私は彼女が死んだのだと知った。
最後に水を飲もうとしたのだろうか。彼女はベッドの上で、枕元にある水差しに手を伸ばした姿で息絶えていた。
苦しんだ様子はない。
それがせめてもの救いだった。
まだ温もりの残る彼女を、私は、彼女がいつもメールをチェックしていたデスクの椅子に座らせてやった。彼女の背よりも高い背もたれに小さな頭をそっと置くと、まるで彼女はただ眠っているだけのように見えた。
彼女のパソコンを立ち上げる。
地上界では地上界のルールに従う定めだ。
『彼女が死んだ』仲間たちにメールを打つ。『彼女が最後か?』
返事はすぐに来た。
『最後だ』
サーバーにアクセスする。
映し出されたのは、人間がレッドリストと名付けたデータ。絶滅の恐れがある野生生物を人間がまとめたリストだ。
リストの中には人類の項もある。
レッドリストの人類の分類は、”低危険種”だった。
3ヶ月前。
彼女と同僚はそれを、正式な手続きを経ることなく、”絶滅危惧”に変えた。
いつか必ず、”低危険種”に戻す日が来ると信じて。願うよりも祈るよりも、ずっと強く信じて。
だが、彼女が待ち続けた知らせが届くことはもうない。
最後の仕事をする者はもういない。
誰も。
私以外は。
”絶滅危惧”だった人類の項を”絶滅”へと変えて、パソコンの電源を落とし、私は隠していた背中の翼を広げた。
地上を後にするために、しばらくは止むことのない、主が世界中に響かせる、レクイエムを聞きながら。